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2014年8月30日土曜日

男の「ペニス羨望」と女の「(去勢)不安」

Against the standard feminist critiques of Freud’s “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan’s radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001)

 このジジェクのLESS THAN NOTHING (2012)からの孫引きだがRichard Boothbyペニス羨望、女性ではなく男性に大いに感じられるものだとしている。

Richard Boothbyは精神分析医でもあり、フロイトの悪評高い「男根至上主義」の華のひとつともいえる「ベニス羨望」(もうひとつは「去勢不安」)を根底から再解釈して、フロイトを救おうとする試みだとも言える。

以下の1995年に書かれたベルギーの精神分析医Paul Verhaegheの論も、同じような「ペニス羨望」の再解釈を提示している。

フロイトのエディプスコンプレックスの最初のヴァージョン(『モーゼと一神教』のヴァージョンに対して:引用者)では、最も重要な人物は父、原父の後継者である。二種類の性はこの原父と関係する仕方が異なる。(……)女児にとって、原父は〈女〉The Womanになるために彼女が必要とするものを、彼女に与えることができる男である。逆に、少年にとっては、原父とは、男a manになるために少年がすでにもっているものを取り上げることができる人物である。

In Freuds' first version of the oedipal complex, the all-important figure is the father, heir to the primal father. The two sexes differ in the way they relate to this primal father, (……). For the female child, the primal father will be the man who could give her what she needs in order to be The Woman. On the contrary, for the boy, the primal father is the one who could take away what he already has in order to be a man.
これらの関係性の二つの方法は、それ以来、古典的な命名を授けられてきた。女にとってのペニス羨望、男にとっての去勢不安。これはフロイト理論のなかで疑いもなく最も物議をかもす箇所である。そして私の見解では、最も理解されていない箇所である。精神分析家集団自身の内部でも1930年に大規模な論争が生れた。それは "gefundenes Fressen"(見つけられた食い物、ここぞとばかりの議論の種)となった。そして1960年代の女性解放運動等へのとびぬけた侮蔑ともなった。誤解の主な理由のひとつは、フロイトが、性心理の相違を、実際の男性の性的器官、ペニスに還元してしまった事実にある。そしてペニスがシニフィアンであること、すなわちファルスであるという考え方への一歩をけっして踏み出さなかったことにある。

These two ways of relating have received their classical denominations ever since: penis envy for the woman, castration anxiety for the man. They form without any doubt the most controversial part of Freudian theory, and, to my opinion, the least understood. It gave birth to an epic discussion in the 1930 within the analytic group itself, and it became "gefundenes Fressen" and the insult par excellence for the women's liberation movement in the 1960's, etc. One of the major reasons for the misunderstanding lies in the fact that Freud reduced the psychosexual difference to the real masculine genital organ, the penis, and that he never made the step to the idea of the penis as a signifier, that is, the phallus.
ラカンはこのギャップに橋渡しをした、ファルスは自然によってあたえられたシニフィアン、 "c'est un signifiant donné par la nature"と言うことによって、である。象徴界の審級にあるシニフィアンとしてのファルスは完全に空のものである。それは、意味――つねに想像的なものである意味――に還元されてはじめて一貫性を得ることができる。そして、あれらの論争のあいだのみではなく、フロイト理論自体においてさえもそれが起こったのである。これはおそらく、フロイトとラカンのあいだの最も重要な相違である。というのは、精神分析的治療の目標と終結について異なった理論を決定づけるからである。

Lacan bridged this gap by stating that the phallus is a signifier given by nature, "c'est un signifiant donné par la nature". As a signifier in the register of the Symbolic, the phallus is perfectly empty. It only gets consistency when it is reduced to a meaning which is always imaginary, and that is precisely what happened, not only during those discussions, but even in Freudian theory itself. This is probably the most important difference between Freud and Lacan, because it determined a different theory about the aims and ends of the psychoanalytic treatment.
実に、フロイト用語における、去勢不安と女性のペニス羨望は、生物学的な岩盤である。その上で、すべての分析は堂々巡りを余儀なくされる。われわれは後にラカンがいかにこれを変化させたかを見るだろう。まず何よりも先に、われわれは、女性のペニス羨望と男性の去勢不安の典型的なジェンダーの特異的分布に注意を払ってみよう。私の見解では、それはまったく逆なのだ。ペニス羨望は、典型的な男性の心配事であり、他方、不安は女性の側に見出される。

Indeed, masculine castration anxiety and feminine penis envy are, in Freudian terms, the biological bedrock on which every analysis must necessarily run aground. We will see later on how Lacan changed this. First of all, we'll pay attention to the typical gender-specific distribution of feminine penis envy and masculine castration anxiety. In my opinion, it is exactly the opposite. Penis envy is a typical male preoccupation, while anxiety is to be found on the side of the woman.
そのうえ、これらのふたつの特性は愛とセックスの組み合わせを決定づける基本の幻想の核心を作りだすので、ジェんダー固有の倒錯を決定するだろう。この転倒を理解するために、われわれはファルスとの関係のそれぞれの性の立場を、ある動詞によって代表させることができる。男性側においては、妥当な動詞は、持つto haveであり、女性側はなるto beという動詞である。

Moreover, as these two characteristics form the core of the basic fantasies that determine the combination of love and sex, they will determine the gender-specific perversions. In order to understand this reversal, we can typify each sexual position in relation to the phallus by one verb. On the masculine side, the appropriate verb is to have, on the feminine side the verb to be.
「持つことと持たないこと」とはヘミングウェイの反響としてもある。他者の欲望に応答として、男は実にファルスを持っている、それについては疑いはない。唯一のトラブルは、彼はけっして十分にそれを持っていないことであり、彼の密かな恐れは、それについての説得力がないことであり、他の男たちは彼よりもよりよく備えているのではないかということである。すなわち彼は彼らと競争しなければならない。

"To have and to have not", with its echo of Hemingway. As an answer to the desire of the other, the man indeed has his phallus, no doubt about that. The only trouble is: he never has it enough, his secret fear is that it won't be convincing, that other men will be better endowed than he is, that he will have to compete with them.
この状況から生れるこ絶え間なく現存する羨望は、典型的な男性の競争を生む。小さな少年の放尿コンテストから始まり、スターウォーズに終る。私は以前の論文で、これを男たちの「ギネスブック記録ヒステリー」と名づけた。女性の側には、シェイクスピアの問い「あるべきかあらざるべきか」にかかわる。ファルスを持つかわりに、彼女は自身をファルスの化身として顕す。実に、他者の欲望への応答として、彼女は自身を顕現させるのだ。オットー・フェニケルが最初にそのファルスとしての少女に関する古典的論文にて、この化身を見出した。

The ever present envy resulting from this situation gives rise to the typical masculine competition, starting with the micturition contest in little boys and ending with star wars. I have termed this in a previous paper the "Guiness Book of Records hysteria" in men. On the feminine side, the appropriate Shakespearean question is about to be or not to be. Instead of having the phallus, she will present herself as an incarnation of the phallus. Indeed, as an answer to the desire of the other, woman presents herself. Otto Fenichel was the first to discover this incarnation with his classical paper on the girl as phallus.
彼女は男が必要とするファルスなのだ。この状況の結果は、女は男の判定にひどく依存するようになる。男の承認を通してのみ、彼女は、効果的に欲望の対象となる。すなわち想像的ファルスになる。こうやって、典型的な女性の仮装性とそそのかしが生じる。この依存性に含まれる意味は、この点における典型的な女性の情動が、この承認の喪失への不安であるということだ。不安、すなわち、もう欲望されないことの不安である。このエディプスの発展から、男と女はじつに異なるようになる。フロイトは彼の生涯の最後に、次のように書き留めた、「ひとは男と女の合いは心理学的に別々の様相があるという印象をうける」。ラカンはもっと無遠慮に言明する、「性関係はないil n'y a pas de rapport sexuel」と。

She is the phallus man needs. The consequence of this situation is that a woman becomes extremely dependent on the judgment of man, it is only through his recognition that she can effectively be the object of his desire, that is, the imaginary phallus. Hence, the typical feminine mascerade and seduction.The implication of this dependence is that the typical feminine affect in this respect is the anxiety for the loss of this recognition, the anxiety not to be desired any more. From this oedipal development on, man and woman are indeed different. At the end of his career, Freud will note that "One gets the impression that a man's love and a woman's are a phase apart psychologically".12 Lacan states it more bluntly: il n'y a pas de rapport sexuel.
男にとって、すべての重要性はファルスのパフォーマンスに置かれる。彼はパートナーも同じ先入観を持っていると予期し、彼女を満足させようとして、ファルスの骨へと己れを駆り立てる。この状況は、安っぽく陳腐なハードコアポルノ映画に描かれている。十分に満足していない女たちと、そして繰り返し繰り返しくたくたになるまで続ける男たち。

For the man, all the whole weight is put on phallic performance; as he expects his partner to have the same preoccupation, he works himself to the phallic bone in order to satisfy her. It is this situation that is commonly depicted in the banal hard-core porno movie: women who just don't get enough of it, and men who exhaust themselves time and again.
彼が、日常生活の現実いおいて、彼女の欲望は、それほどには崇められたファルスに向けられているわけではなく、なにがまったく別のものに向けられているのを思いがけず発見するならすばらしいことである。これをもとにして、彼の絶望的な"Was will das Weib"、女はなにを欲しているのか?という問いが生じる。他方で、女は継続する関係にその才覚を注ぎ込む。というのはそれが、彼女にとって唯一の方法だから。彼女がパートナーにとって最も重要な対象――すなわち、彼のファルスであるーーという承認を授けられるための、そして単なる性的な遊び友達、多くの可能なもののひとつではないということを認められるために。

Great is his surprise when he discovers that in everyday reality her desire is not so much directed to his revered phallus, but towards something completely different. Hence, his desperate "Was will das Weib", what does woman want? On the other hand, woman invests in the lasting relationship, because that is the only way for her to receive the recognition that she is the most important object of desire for her partner - that is, his phallus - and not a mere sexual playmate, one of the many possible ones.
こうやって、ファリックな男性のパフォーマーに直面しての彼女の失望、そして典型的な不平が生れる。「彼は私を愛していない、ただ私を使いたいだけなのよ」。性と愛の問いにおけるこの典型的な相違は、すでに引用した表現を確信させる、「セックスするために、女は理由が必要だが、男は場所さえあればよい」。

Hence, her disappointment faced with the phallic masculine performer and hence her typical complaint: "He doesn't love me, he just wants to use me". It is this typical difference in questions of sex and love that gave rise to the conviction expressed in the saying already quoted: "In order to have sex, woman needs a reason, man only a place"..(『 NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL』 Paul Verhaeghe)

ーーより親しみ易く、一般向けに書かれた『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 (Paul Verhaeghe)の「男性のペニス羨望」については、「孤独な時代の男女の愛」にいくらかその訳出がある。

…………

さて、「彼は私を愛していない、ただ私を使いたいだけなのよ」とあるが、これはすぐさま伊藤比呂美の有名な詩「きっと便器なんだろう」を想い起こさせる。

あたしは便器か
いつから
知りたくは、なかったんだが
疑ってしまった口に出して
聞いてしまったあきらかにして
しまわなければならなくなった

面と向かって直接でなくても、女性からこのうんざり感を察知したことがない男性はシアワセなタイプであろう、ーーとまでするわけにはいかないのかもしれない。これは旧世代の男女のみの話であるのかもしれない。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

…………

ポール・ヴェルハーゲの《われわれはファルスとの関係のそれぞれの性の立場を、ある動詞によって代表させることができる。男性側においては、妥当な動詞は、持つto haveであり、女性側はなるto beという動詞である》については、女性分析家の第一人者として名高いコレット・ソレールの次のような見解ーー最晩年のラカンを引用してのーーがある。



◆『What Lacan Said about Women』(Colette Soler) 仏原著2003 英訳2006より

On these questions, it is true, Lacan varied his formulations. In the place where he distinguished the sexes by "having or being the phallus," he came to say, "having or being a symptom." The two formulas are not equivalent; instead, they are the opposite of each other. The phallus is a negative function of lack; the symptom is a positive function of jouissance. Thus wanting "to be the phallus," by which Lacan stigmatized the hysteric at one time, means precisely not wanting to be the symptom. This is what he makes explicit in the second lecture on Joyce, in 1979, in which he accentuates again the difference between the hysteric's and the woman's position. A woman, he says, is specified by being a symptom. This is not the case with the hysteric, who is characterized by "being interested in the other's symptom," and who is therefore not the last symptom, but only the "next-to-last."


コレット・ソレールは、ラカンの性別化の式を変奏させ、次のような図式を提示している。この図式であるならば、ヒステリー女は男なのだ、男性の論理という意味でだが。




ここから読み取れるのは、ヴェルハーゲの見解と同様、ヒステリーの女性は、ファルスになることであるが、La femme、すなわち大文字の女性(しかも斜線を引かれた「女性」“La femme n'existe pas”における〈女〉)は、症状になることということだ。ここでのsymptomは、晩年のラカンの文脈であり、おそらくサントームになるとしてよいだろう。

※参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」

コレット・ソレールと同様の見解を向井雅明氏も示している。

ヒステリーは例外的な位置を占め、自らいかなるシニフィアンによっても決定されない不確定性に固執し、 それを強い自我となすのである。

ラカンの『主体の転覆』 のテクストにはこうある―― 「神経症者では (-Φ) はファンタスムの下に潜り込み、 自我に特有なイマジネーションを助長する。 なぜなら、神経症者はイマジネールな去勢を最初から被っており、それが彼の強い自我を支持しているのだ。この自我はあまりにも強いので、自分の固有名さえじゃまとなり、結局、神経症者とは名無しなのである」 。

ラカンのこのマテームは、そもそも男女の性別化を示す二つのマテームの内の男性を表わすものである。したがって、ヒステリーは女性であっても男性であっても、男性の論理のもとに行動するわけである。これはフロイトのエディプスの論理に相当するものであるから、結局、フロイトは男性の論理しか展開しなかったということになる。(向井雅明「ヒステリーの、ヒステリーのための、ヒステリーによる精神分析」――東京精神分析サークル


もっともこの見解にも異論がある。

たとえばジジェクは『LESS THAN NOTHING』にて、性別化の公式と四つの言説を統合させる案を、(疑問符つきだが)、提示している。

《四つの言説と性別化の式を統合させるために、性別化の式を90度(時計回り)に動かしてみよう。すなわち男性の論理と女性の論理のラインが水平になるように》(ジジェク『LESS THAN NOTHIG』 私意訳) 



そうすれば、〈ファルス関数に従わないxは存在しない〉=ヒステリーの言説、〈すべてのxがファルス関数に包摂されるわけではない〉=分析家の言説なる。


このジジェクの提示を額面通り受け取って、ヒステリーは男性の論理ではなく、女性の論理であるとすることはできないにしろ、ここでのヒステリーの例外のない(ファルス関数に従わないxは存在しない)という態度が、非-全体の論理(女性の論理)に突き抜けるあり方のひとつだと読めもするこの見解は、かねてからのジジェクの主張の流れのなかで読むことができる。


→ 象徴界(言語の世界)の住人としての女

単純化するために、最初に私のテーゼをプレゼンしよう。大衆的な紹介、ことさらフェミニストによるラカンの紹介では、ふううこの公式にのみ焦点があてられこう言うんだな、「そうだわ、女たちのすべてが、ファリックな秩序に統合されるわけじゃないわ。女のなかには何かがあるのよ、まるで片足はファリックな秩序に踏み込み、もう一方の足はミステリカルな女性の享楽に踏み込んでいるのよね、それが何だかわからないけれど」。私のテーゼは、とても単純化して言うなら、ラカンの全体の要点は、われわれは女を統合化できないから、例外がないということなんだ。だから、別の言い方をすれば、男性の論理の究極の例は、まさに、女性のエッセンス、永遠の女性は、象徴秩序の外に除外されている、彼岸にあるという考え方なんだな。これは究極的な男性の幻想だね。そして、ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、象徴秩序から除外された言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」こそが存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture(1995年のレクチャーから私意訳)
男たちはサイバースペースを自慰装置として使う傾向がずっとあるだろ、孤独な遊戯としてね。馬鹿げた反復的な快楽に耽るためにさ。他方、女たちというのはチャットルームに参加する傾向がずっとあるよな、サイバースペースを誘惑の会話交換として、な。

この例というのは決定的なんだよ、標準的なラカンの誤読を取り扱うのにね。その誤解というのは女の享楽というのは会話を超えた神秘的な至福、象徴秩序から逃れた領野にあるっていうヤツだ。まったく逆のさ、女たちは例外なしに会話の領域に浸かり込んでいるのさ。(ZIZEK『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』私意訳)
ファルスにどんな例外がないという欠如そのものが、女性のリビドー経済を非一貫的にしているので、この方法で、ファルス関数の領域を掘り崩すのだよ。これが私の中心的なポイントだな。ラカンがファルスの裏に何かがある、女性の享楽等々があると言うとき、これは次のことを意味するのじゃない、われわれは、ラカンが云うところの、――私はいまこうやって聞いている誰もが感情を害さないでほしいと希望するがねーーすなわちファルス関数に囚われた女とその外部の部分を理解したなんてね。こう言ったらいいかな、そうだな、これが今、私が何とかそのポイントを説こうとしている究極的なパラドックスなんだ。まさに例外がないからこそ、まさに女はファルス関数の内部に完全にいるからこそ、逆説的にファルス関数の規則が掘り崩されるのであり、すなわちそれゆえ非一貫性に囚われるのだよ。この意味がわかるだろうか?(同Zizek Connectionsof the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture

※補遺:コレット・ソレール=向井雅明:絶対的他者への神託の要請にたいする拒否としての「沈黙」