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2014年8月10日日曜日

鰐なる母=女の口、あるいは象徴的ファルスと想像的ファルス

ラカンの「責めに得る」ⅩⅦの有名な母なる鰐の口の話を原文で拾ったが、仏文がたいして読めるわけではない。


"Je vais commencer par la fin, en vous donnant tout de suite ma visée, parce que je ne vois pas pourquoi je n’abattrais pas mes cartes. Ce n’est pas ainsi que je comptais tout à fait vous en parler, mais au moins, ce sera clair. Je ne suis pas du tout en train de dire que l’OEdipe ne sert à rien, ni que cela n’a aucun rapport avec ce que nous faisons. Cela ne sert à rien aux psychanalystes, ça c’est vrai, mais comme les psychanalystes ne sont pas sûrement des psychanalystes, cela ne prouve rien. De plus en plus, les psychanalystes s’engagent dans quelque chose qui est, en effet, excessivement important, à savoir le rôle de la mère. Ces choses, mon Dieu, j’ai déjà commencé de les aborder. Le rôle de la mère, c’est le désir de la mère. C’est capital. Le désir de la mère n’est pas quelque chose qu’on peut supporter comme ça, que cela vous soit indifférent. Ça entraîne toujours des dégâts. Un grand crocodile dans la bouche duquel vous êtes — c’est ça, la mère. On ne sait pas ce qui peut lui prendre tout d’un coup, de refermer son clapet. C’est ça, le désir de la mère. Alors, j’ai essayé d’expliquer qu’il y avait quelque chose qui était rassurant. Je vous dis des choses simples, j’improvise, je dois le dire. Il y a un rouleau, en pierre bien sûr, qui est là en puissance au niveau du clapet, et ça retient, ça coince. C’est ce qu’on appelle le phallus. C’est le rouleau! qui vous met à l’abri, si, tout d’un coup, ça se referme." (Le Séminaire Livre XVII, L’envers de la psychanalyse, 1960-1970, Seuil, p. 129)

というわけで向井雅明氏の説明を掲げておこう。


◆向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋。

子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。

だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。



だが、そんな父親はいるのだろうか、と向井氏は問い、フロイトのエディプス・コンプレックス論の説明をしているがここでは割愛。

ここにある《父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である》という表現が、いわゆる象徴的ファルスがなんであるかの説明として、最も分かりやすい例のひとつであろうと思う。ただあまりにもイメージ豊かであり、欠如のシニフィアンであるにすぎない象徴的ファルスが父の実際のペニスであるような誤解を生みやすい表現ともいい得るが、しかしながら、逆に、あまりにも理解されていないーーラカンを読んでいるつもりになっている人たちにさえーー誤解の多い象徴的ファルスについての標準的な公衆の理解をすこしでも促すには、まずは、これでいいのではないか。肝要なのは、母の欲望に呑み込まれてしまうことを救う「支え」であるという点である、それは父のペニスであるはずがない。

たとえばジジェクのような「象徴的ファルス」の仕方が正統的なのだとは思う。だがこれは、ある程度の哲学的な素養がないとお手上げである。

What makes the phallic signifier such a complex notion is not only that, in it, the symbolic, imaginary, and Real dimensions are intertwined, but also that, in a double self‐reflexive step which uncannily imitates the process of the “negation of the negation,” it condenses three levels: (1) position: the signifier of the lost part, of what the subject loses and lacks with its entry into (or submission to) the signifying order; (2) negation: the signifier of (this) lack; and (3) negation of the negation: the lacking/missing signifier itself.The phallus is the part which is lost (“sacrificed”) with the entry into the symbolic order and, simultaneously, the signifier of this loss. (Therein is grounded the link between the phallic signifier and the Name‐of‐the‐Father, the paternal Law; here also, Lacan accomplishes the same self‐relating reversal, for the paternal prohibition is itself prohibited.) Why is this the case? Why should the prohibition itself be prohibited? The answer is: because there is no meta‐language.(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)

向井雅明氏の説明に戻れば、さらに、《人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる》

ーーこれも「想像的ファルス(小さなファルス(φ))を理解するためにとてもよい。イマジネールファルス(φ)になるとは、母の欲望の対象になるということである。もっとも小さなファルス(φ)は、母に欠如したファルスという側面があり、通例は(ーφ)と書かれる。


◆小笠原晋也氏ツイート

ギリシャ語大文字の Φ については,Lacan は 1960 年の「主体のくつがえし」のなかでこう定義しています : « Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素].ここで impossible à négativer と言っているのは,小文字の φ が ( − φ ) : phallus négatif であるのとは異なって,ということです.

小笠原氏は彼独自の訳語を使う。« Φ (grand phi), le phallus symbolique impossible à négativer, signifiant de la jouissance » [大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な徴象的ファロス,悦の徴示素]とあるが、日本での通例の訳語に直すならば、《大文字の Φ, 負の記号を付することの不可能な象徴的ファルス,享楽のシニフィアン》ということになる。

もっとも彼のツイートは、この二つのファルスだけではなく、一般には耳慣れない現実界的ファルスという「学素」φbarréを提示している文脈での語りである。

ギリシャ語大文字の Φ はオィディプス複合と男女の性別にかかわります.小文字の φ は,それに対して,より源初的なものにかかわります.φbarréは,本当の源初そのもの,失われた源初そのものです.
三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.

※参照:ラカンの S(Ⱥ)をめぐって


さて話を元に戻そう。母なる鰐の口の話である。


◆NEUROSIS AND PERVERSION: IL N'Y A PAS DE RAPPORT SEXUEL(Paul Verhaeghe)より(私意訳)。

構造的な理由により、女の原型は、危険な、貪り食う〈大他者〉と同一化する。それはもともとの原初の母であり、元来彼女のものであったものを奪い返す存在である。このようにして純粋な享楽の元来の状態を回復させようとする。これが、セクシュアリティがつねにfascinans et tremendum(魅惑と戦慄)の混淆である理由だ。すなわちエロスと死の欲動(タナトス)の混淆である。このことが説明するのは、セクシュアリティ自身の内部での本質的な葛藤である。どの主体も彼が恐れるものを恋焦がれる。熱望するものは、享楽の原初の状態と名づけられよう。

Due to structural reasons, the archetype of a woman will be identified with a dangerous and devouring big Other, the original primal mother who can recapture what was originally hers, thereby recreating the original state of pure jouissance. That's the reason why sexuality is always a mixture of fascinans et tremendum, that is, a mixture of Eros and death drive. This is the explanation for the essential conflict within sexuality itself: every subject longs for what he fears, namely the return to that original condition of jouissance.
この畏怖に対する一次的な防衛は、このおどろおどろしい存在に去勢をするという考えの導入である。無名の、それゆえ完全な欲望の代りに、彼女が、特定の対象に満足できるように、と。この対象の元来の所持者であるスーパーファザー(享楽の父)の考え方をもたらすのも同じ防衛的な身ぶりである。ラカンは、これをよく知られたメタファーで表現している。《母はあなたの前で口を開けた大きな鰐である。ひとは、彼女はどうしたいのか、究極的にはあんぐり開けた口を閉じたいのかどうか、分からない。これが母の欲望なのだ(……)。だが顎のあいだには石がある。それが顎が閉じてしまうのを支えている。これが、ファルスと名づけられるものである。それがあなたを安全に保つのだ、もし顎が突然閉じてしまっても。》

The primary defense against this fear is the grafting of the idea of castration onto this threatening figure: instead of a nameless and therefore complete desire, she can be satisfied with a particular object. It is the same defensive movement that gives rise to the idea of a superfather as original holder of this object. Lacan expresses this in a well known metaphor: "The mother is a big crocodile in whose mouth you are; one doesn't know what she's going to do, eventually to close her jaws. That is the desire of the mother. (...) But there is a stone between the jaws, keeping them apart. That is what has been named the phallus.It is that what keeps you safe, if suddenly the jaws were to close."
このことは、われわれに想い起こさせる、スフィンクスとその謎に直面した状況を。スフィンクスはあなたを貪り食うだろう、もしあなたが正しい答え、すなわち、正しいシニフィアンを齎さなかったら。実のところ、われわれは実在の女について話しているわけではもはやない。逆に、すべての女は、二重の仕方でこの姿形の餌食になるのだ。主体として、彼女はこのおどろおどろしい形象に直面する(すなわち、男と同じように、生れたときは、母の欲望に直面する:引用者)。さらに、女として、彼女はこの畏怖すべき形象の姿を纏わせられる。あなたがこのおどろおどろしい女性の姿形の説明を知りたいのなら、カミール・パーリアの書物、『性のペルソナ』をにおける性と暴力をめぐる最初の章を読んでみるだけでよい。彼女は正しく、この姿形と自然自身とを同一化している。もしこの姿形に直面した男性の不安の臨床的な説明を読みたいなら、オットー・ヴァイニンガーの『性と性格』Geschlecht und Charakterを読んでみよう、ジジェクのコメントとともに。この二つとも意図されずに、臨床的的な事実の説明となっている。すなわち、防衛的な機能とともに、おどろおどろしい女性の姿形のアポステリオリな(後天的な)構築物であるという事実の。もし意図された臨床的な説明がほしいなら、Klaus Theweleitによる美しい『Männer Phantasien』を手に入れ、繙いてみればよい。

This reminds us of the situation where one is confronted with the sphinx and her riddle, the sphinx that will devour you if you don't produce the right answer, that is, the right signifier. Indeed, we are no longer talking about a concrete woman, on the contrary, every woman falls victim to this figure in a twofold way: as a subject, she is confronted with this threatening figure; moreover, as a woman, she is invested with the fear for this figure. If you want to have a description of this threatening female figure, just read the introduction chapter on sex and violence in Camilla Paglia's book on Sexual Personae, where she correctly identifies this figure with nature itself. If you want to read a clinical description of male anxiety in confrontation with this figure, just read Otto Weiningers' Geschlecht und Charakter, in combination with Zizek's comments on it. Both of them are unintentional clinical illustrations of the fact that this threatening female figure is a construction a posteriori with a clearly defensive function. If you want to read an intentional clinical illustration, just try to get hold of the beautiful Männer Phantasien by Klaus Theweleit.

 さて、ここで三人の著者の名前が挙げられている。カミール・バーリアとオットー・ヴァイニンガー、それにKlaus Theweleit.。最後の著者の名はわたくしには耳に新しい。ここでは前二者の文をいくらか引用しておこう。


◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より

自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。
エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。……

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(参照:「男なんざ光線とかいふもんだ」)

オットー・ヴァイニンガーについてはジジェクが、彼だけではなく、カフカ、そして猥褻な法に関連して語った次の文がよいだろう。実際、「法」とは貪り食う原初の母のようなものなのだから。そもそもわれわれは日夜次のようは猥褻な法の顕れに直面している、《公的な法はなんらかの隠された超自我的猥褻さによる支えを必要とする事実が、今日ほど現実的になったことはかつてない》(参照:「コード・レッド」)。

……Kは審問室に入り、判事席の前で熱弁をふるうが、それは猥褻な闖入によって邪魔される。そのとき、Kは洗濯女が法に対して重要な立場にいることを知る。

そのとき、Kの熱弁はホールの向こう端から聞こえた金切り声によって中断される。何が起きたのかを見ようとして、彼は眼の上に手をかざした。部屋の湿気と鈍い日光のせいで、白い霧のようなものがたちこめていたのだ。騒ぎを起こしたのはあの洗濯女だった。Kは、彼女が部屋に入ってきたときから、なにか騒ぎを引き起こすかもしれないと予感していた。悪いのが彼女かどうかは、わからなかった。Kに見えたのは、ひとりの男が彼女を扉の近くの隅まで引きずっていき、抱きしめていることだけだった。ただし声をあげたのは彼女ではなく男のほうだった。彼は口を大きくあげて、天井を見上げていた。(カフカ『審判』)

それでは、この女と法廷との間にはどんな関係があるのだろうか。カフカの小説では、「心理学的類型」としての女はオットー・ヴァイニンガーの反フェミニズム的イデオロギーとぴったり一致している。すなわち、女は本来の自己をもたぬ存在であり、倫理的な態度をとることができないし(倫理的な根拠にもとづいて行為をしているように見えるときですら、彼女は自分の行為から引き出す享楽を計算している)、真実の次元にけっして近づくことのない存在である(彼女の言うことが文字通り真実だとしても、その主観的立場の帰結として彼女は嘘をついていることになる)。そのような存在に関しては、彼女は男を誘惑するために愛しているふりをする、と言うだけでは不十分である。なぜなら、この見せかけの仮面の裏には何もないということが問題なのだから。仮面の裏には、彼女の実体そのものである、ねばねばした不潔な享楽しかないのである。そうした女性のイメージに直面したカフカは、ありふれた批判的・フェミニスト的誘惑(つまり、このイメージが特殊な社会的条件のイデオロギー的産物であることを明らかにしたい、あるいは別のタイプの女性のイメージと比較した、という誘惑)には屈しない。それよりもはるかに価値転倒的な身振りで、カフカは「心理学的類型」としてのヴァイニンガー的な女性像を全面的に受け入れ、それを、前代未聞の、前例のない場所に立たせる。その場所とは、法の場所である。スタッハがすでに指摘しているように、おそらくこれが、カフカの基本的戦略である。すなわち、女性的「実体」(「心理学的類型」)と法の場所を短絡させることである。でんとうてきには純粋で中立的な普遍性であった法が、猥雑な生命力に彩られ、享楽に貫かれた、さまざまな異物からなる、一貫性の欠如したプリコラージュの特徴を帯びるのである。(ジジェク『斜めから見る』P277-278)

 もちろん、これらの精神分析的捉え方は、次のような側面はある。

悪く考えることは、悪くすることを意味する。 ――情熱は、悪く陰険に考察されると、悪い陰険なものになる。 (ニーチェ『曙光』76番)

女が貪り食う鰐の口、あるいはヴァギナ・デンタータだって?
もう一度、穏やかな紳士であるヴェルハーゲの「内気な」説明を聞こう。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに転倒してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

ーー「ヤリたい男」などと、やや下品なのは翻訳のせいだけである。


究極のエロスとは、母なる大地に貪り食われるものであることは否定しがたい。《熱望するものは、享楽の原初の状態》なのだ。だがそのとき主体は消滅する。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

この一見、われわれの「常識」を揺らめかせる表現は次のことを意味する。

すなわち、エロスが死をめざす、という意味は、〈母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。(参照:エロスとゆらめく閃光

だから、われわれは愛することを憎み、憎むことを愛する。

たとえば、小笠原晋也氏が現実界的ファルスを、φ barré としているのはそのことであろう。母との究極との融合がφであるならば、それは斜線を引かれているのだ。

女、あるいは母なるものとは、論理的・究極的には、貪り食う鰐の口となる。女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかない。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976ーーフロイトの『Why War?』における愛と憎悪

フロイトは三人の女について語った。ドゥルーズもマゾッホ論で同じフロイトの三人の女に言及しつつ語った。

……三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。(フロイト『小箱選びのモティーフ』)
マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あるいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養をさずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)


生涯、鰐の口に遭遇しない「幸福な」男たちも、ひょっとしているのかもしれない? すなわち彼らは死をもたらす真の「女」に出逢っていないのだ! いずれにせよ、中井久夫のように実は分かっていながら、表向きは「ジ・アザー・セックスは謎のままにして置きたい」とする態度もありうる。


男たちの勝手な思い込みよ、ーーなどと言うなかれ。

「反フェにスト」と揶揄される「真の」フェミニストのカーミル・パーリアの考え方が受け入れがたくても、女の真の敵は女であることを、あなたがた女性はひそかに感じとっているのではないだろうか。《ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない》。


◆ソレルス『女たち』(鈴木創士訳)より

世界は女たちのものだ、いるのは女たちだけ、しかも彼女たちはずっと前からそれを知っていて、それを知らないとも言える、彼女たちにはほんとうにそれを知ることなどできはしない、彼女たちはそれを感じ、それを予感する、こいつはそんな風に組織されるのだ。男たちは? あぶく、偽の指導者たち、偽の僧侶たち、似たり寄ったりの思想家たち、虫けらども …一杯食わされた管理者たち …筋骨たくましいのは見かけ倒しで、エネルギーは代用され、委任される …
問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる!
女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのなりこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ!