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2014年8月19日火曜日

トラウマに導いた音楽と飼い馴らす音楽

◆LOUIS ARMSTRONG what wonderful world



『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 (Paul Verhaeghe)より、私意訳。

エウリピデスの悲劇は、サドマゾヒスティックの世界の究極の地点、逸脱のぎりぎりの限界を描いている。そこでのセクシュアリティは、もはや性器-ファリックな局面の範囲には留まらず、まさに最初の口唇的な関係、文字通り貪り食う愛の回帰へと引き継がれている。結果として、不安と攻撃との関係は、さらにいっそう明らかになる。この関係は、精神分析の歴史の最初期に構想されたものである。性的トラウマから生じる精神病理学的障害disorderは戦争によるトラウマとまさに同じものである。どちらも、ほとんど完璧な規範の不在によって、拘束を解かれた暴力の作用として解釈されうる。ジュディス・ハーマンによる最近の研究では、ふたつの集団、セックスと戦争にトラウマ化された患者たちが、平行関係にあるのではという多くの問いを呈さないままに、並列的に研究されている。“暴力の狂宴(オルギア)”という表現は二つを結びつける。ここでもまた、集団の特徴が本質的なままにある。

戦争神経症の研究は、ひどく興味深い。その非-自発的な(やむえずの)特徴は、数多くのことがらをはっきりさせるための身の毛もよだつ集団実験をもたらす。ヴェトナム戦争の研究は、この文脈において格別に得るところが大きい。暴力に身をゆだねることは、集団の一員になることのよって容易化される。集団の連携がとても強いままであるかぎり、そこにはトラウマ的な影響はわずかだ。集団性としての戦闘単位が、どんな想像形式をも超えてはるかな先にまで行ける形で、まさに逸脱を可能にする。実際、行動を容易にするのは、まさに想像力の欠如なのだ。‘行け、行け、行け!’もし集団が分解するときは、トラウマが湧き起こりうる。そしてヴェトナム戦争の兵士の場合、それがしばしば起こったのは、彼らの義務のツアーからの帰還、つねに個人で、それゆえ孤立しての帰還の後である。集団と集団の規律から離れて、彼らは遡及的にトラウマ化をもたらす何かに遭遇した。公衆に受けのよい表現なら、彼らは、‘イメージと記憶に付き纏われた’。けれどもこの表現は正しくない。ヴェテランたちは実際には、‘それ’を言葉とイメージで表現する不可能性に付き纏われたのである。想像できないこと、それがリアルな仕方で彼らを苦しめつづけたのである。トラウマにとらわれた人物はトラウマを憶い出せない、しかしそれを何度も何度も経験するのだ。

後に何が起こるのかは、いずれにしても、さらに興味深い。公式的な留意や気配りの不在のなか、ヴェトナム戦争は全世代にとって議論され得なかった。そしてヴェテランたちは自助グループとして一体化した。これらのグループは、アフリカ-アメリカンとしてふつうは構成され、能動的に共同してトラウマ的過去と取り組み始めた。ここから彼ら独自の文化、彼ら独自の象徴的代表象が生れた。彼らはトラウマの経験を象徴化し表現することを通してトラウマを処理する試みに導かれていった。

◆1979 title: rappers delight(ヴェトナム戦争後の最初期のいわゆる「ラップ」)



結果はいま広くラップミュージックとして知られている。欲動は身体と心のあいだの境界に横たわる。それは当面の無言とその代表象の間にあり、その要素は表現ができないか、もしくは殆どできない。そして翳の領域で活動する。ラップとは、その起源は、象徴化への最初の一歩を通して、なにかを統御しようとする原始的な根源の試みである。原始的な要素はリズムの選択にある。それは、享楽の未加工の断片を、集団のなかで、その集団のために、かつまた、その集団によって、リズミカルな叫びに従わせようとするのだ。このようにして能動的にエクスタシーの熱狂を創りだす。さらに、それは自我の回帰を許容することになる。というのは、まさに能動的なリズムは、享楽の、無時間的、無媒介的な側面を踏み破り、自己の回帰を感知させるからだ。それはひどく効果的なものである。

私にとって、ラップは、子供が頭をバンバン叩くことのレミニッセンス(想起記憶)である。子供は寝入ることができず、暗闇のと窓の広く開いた穴の怖れに打ち勝とうとして頭を叩く。それはまた呪文の儀式のレミニッセンスでもある。これらは、歴史的な人類学によって叙述されたもので、祈祷と詠唱により、シャーマンは、身体の不可解な側面を理解しようとつとめて、それを捉えコントロールしようとする。レヴィ=ストロースは、この遠くまで及ぶ効能を著作にて示した、「L'efficacite symbolique」(象徴的効果)として。シェイクスピアもまたこの現象には通じている。マクベスの魔女たちは実際ラップアーティストである。そして彼女たちが大釜のまわりを踊るのは偶然ではない(「苦労も苦悩も二倍にするぞ、火を焚きつけろ、釜をぐらぐら煮立たせろ」)。日本の鼓童和太鼓集団のパフォーマンスを見たものは誰でもまたリズムの身体的なパワーを経験する。



これらの経験の意味はのちになって初めて現われる。リズムは根源的に重要である。軍楽、太鼓の連打、行進曲、トムトム、戦士を駆り立てる耳をつんざくようなムスリムの金切り声。エクスタシーに先立つ恐怖を取り扱う方法である。それは苦痛への無感覚として特徴づけられる。――そこには痛みを感じる自我は残されていない。

同じリズムの軌道が、回帰、自我の再生ために使われ得る。ラップとともに、ヴェトナム集団、――同輩集団、すなわち、父なき集団――は本能的に彼らのトラウマを徹底操作(working through:フロイト概念、ラカンの幻想の横断:引用者)する方法を見出したのだ。以前の音楽の流行との比較は、過去から現在の変化を顕している。ラップは享楽のためになされる。ブルースは欲望のためだった。欲望は個人にかかわる。強められた自己の感覚、それが不能を歌い出す、それゆえ自己の欠陥を、長く引き延ばされたトーンにて、歌い吐き出す。

ジャズは欲動を刺激し、よりいっそうの変転を求める。ラップは、過剰を取り扱おうとする試みである。この集団的な変遷の付随的部分において、メンバーは集団のアイデンティティを展開する。彼らが'the brother'として公衆に知られているのに驚くことはない。結果として、どのメンバーも、この集団から彼自身のアイデンティティ、彼自身の自我を蒸留させるのだ。集団アイデンティティとは本質的に規律を意味する、そしてそれゆえに安全保障感を。どの集団も享楽を統制することに関心がある。






…………

※附録:鬱病に対抗するための音楽


古義人は五十代の後半になっても続けているプール行きの電車で、古いタイプのカセットレコーダーを聴いている男が自分ひとりであるのに気がつくことがあった。たまに見つける中年男は、聴きながら唇を動かしている様子から、英会話テープを聞いているのだと見てとれた。この前までは、音楽を聴いている若い連中で充ちみちていた車内で、かれらはいま誰もが携帯電話に話しかけ、あるいはその表示板を見つめてこまやかな指の操作をしていた。ヘッドフォーンから洩れてうるわかったジンジンという音すら、古義人は懐かしく感じたのだ。ところがその現在になって、古義人は「ウォークマン」以前のカセットレコーダーを、水泳用具を入れたリュックサックにしのばせ、半白の頭にヘッドフォーンを載せているのである。そのような自分を、時代遅れの孤独な旧世代と感じるほかなかった。

旧式なモデルのカセットレコーダーは、吾良がまだ映画俳優だった頃、電機メーカーのコマーシャルフィルムに出演して、スポンサーからもらった製品だった。機械の本体こそありふれた長方形で、デザインの凡庸さも目立たなかったものの、ヘッドフォーンのかたちは、古義人が森のなかの子供であった時分、谷川で獲った田亀のようだった。使ってみて、あの何の役にもたたなかった田亀を、今になって頭の両側にしがみつかせているようだ、と古義人は感想をのべた。

しかし吾良は動ぜず、
――それはきみが、鰻や鮎をつかまえるだけの才覚のない子供だったということしかつたえない、といった。遅すぎる贈り物ではあるが、その気の毒な子供にこれをあげよう。田亀とでも名づけて、少年時のきみ自身を慰めるさ。

しかし吾良も、それだけでは古い友達で義弟でもある古義人への贈り物として趣向に欠ける、と思ったようなのだ。それが吾良のライフスタイルのひとつで、映画作りの力にもなった小物集めの才能を発揮すると、魅力あるジュラルミン製の小型トランクをつけてくれた。それには五十巻のカセットテープが収められてもいたのである。吾良の映画の試写会場で受けとり、持って帰る電車のなかで、白い紙ラベルにナンバーだけスタンプで押したカセットを田亀に入れてーー実際、そのように機械を呼ぶことになったーー。ヘッドフォーンのジャックを挿し入れる穴を探していると、つい指がふれてしまったか、テープを入れると再生が自動的に始まる仕組みなのか、野太い女の声の、ウワッ! 子宮ガ抜ケル! イクゥ! ウワッ! イッタ! と絶叫する声がスピーカーから響き、ぎゅう詰めの乗客たちを驚かせた。その種の盗聴テープ五十巻を、吾良は撮影所のスタッフから売りつけられて、始末に困っていたらしいのだ。

かつて古義人はそうしたものに興味を持つことがなかったのに、この時ばかりは、百日ほども田亀に熱中した。たまたま古義人が厄介な鬱状態にあった時で、かれの窮境を千樫から聞いた吾良が、そういうことならば、その原因相応に低劣な「人間らしさS」で対抗するのがいい、といった。そして田亀を贈ってくれたついでに、確かに「人間らしさ」の一表現には違いないテープをつけてくれたのだ、と後に古義人は千樫から聞いた。千樫自身は、それがどういうテープであるかを知らないままだったが……

古義人の鬱状態は、大新聞の花形記者から十年以上受けた個人攻撃のーーもちろん社会正義は背負った上でのーー引き起こしたものだった。本を読んだり文章を書いたりしている間はなんでもなかったが、夜更けに目ざめてしまったり、用事で外出して街を歩いていたりすると、確かに才能はある記者独特の、悪罵の文体が頭に浮かんで来る。こまかな気もつく性格の大記者は、どうにも汚らしい新聞用原稿紙の書き損じや、ファクスで送信されたゲラ刷りを小さく切って、その裏に「挨拶」を書きいれては、著者や雑誌記事を送って来る。つい覚えてしまうその片言隻語が浮んで来そうになれば、ベッドの中でも街頭でも、「人間らしさ」の表出において拮抗する正直な声を聴けばいい。不思議に気持がまぎれるよ、と吾良は古義人にもいったのだった。(大江健三郎『取り替え子 チェンジリング』P10-13   黒字強調原文)

ここに出てくる朝日新聞の才能ある大記者は、本多勝一氏が「モデル」であることはよく知られている。吾良はもちろん伊丹十三がモデル。


※附録2

ツイッターで紹介を受けたのだが、Taylor McFerrin - Degrees Of Light




いいねえ、子宮の海に溺れるような感覚を受けるな。Taylor McFerrinはぜんぜん知らなかったのだが、調べてみると、Bobby McFerrinの息子らしい。ほかのものをいくらか聴いてみると、甘美さが過剰な曲もおおいが、これはいい。






子宮の海とするのはジジェク=ミシェル・シオンのパクリだ。

ジジェクがミシェル・シオンの描出されたもの rendu をめぐって叙述する箇所(『斜めから見る』)。《シニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島》。これは神経症の時代から精神病の時代へ、の優れた隠喩としても読める部分だ。

もっとも、語られている内容は、映画における音響の役割の変化について、だが。

すなわち、描出されたものrenduは、現実を映画で表現するための第三の方法であり、(想像的)シミュラークルや(象徴的)コードと対立する。それは、想像的模倣でも、象徴的にコード化された表象でもなく、直接的「描出 rendering」である、というシオンの理論を援用して語る箇所。

現代の音響技術は、「本物の」「自然な」音を忠実に再現できるだけでなく、それを強化し、もしわれわれが映画によって記録された「現実」の中にいたとしたら聞き逃してしまうであろうような細かい音まで再現することができる。この種の音はわれわれの奥にまで入り込み、直接的・現実的次元でわれわれを捕らえる。たとえば、フィリップ・カウフマンがリメイクした『SF/ボディ・スナッチャー』で、人間がエイリアンのクローンに変わるときの、ぞっとするような、どろどろべたべたした、吐き気を催させるような音響は、セックスと分娩の間にある何か正体不明のものを連想させる。

シオンによれば、このようなサウンドトラックの地位の変化は、現代の映画において、ゆっくりした、だが広く深い「静かな革命」が進行していることを示している。音が映像の流れに「付随している」という言い方はもはや適切ではない。いまやサウンドトラックは、われわれが映像空間の中で方向を知るための「座標」の役割を演じている。サウンドトラックは、さまざまな方向から細部を雨のように降らせることによって(……)、ショットの地位を奪ってしまった。サウンドトラックはわれわれに基本的視点、すなわち状況の「地図」をあたえてくれ、その整合性を保証する。一方、映像は、音の水族館を満たしている媒体の中を浮遊するばらばらの断片になってしまった。精神病の隠喩としてこれ以上ふさわしいものは他にはあるまい。
「正常」な状態では<現実界>は欠如、すなわち(ロコスの絵の真ん中にある黒点のように)象徴的秩序の真ん中に開いた穴である。ところがここでは、<現実界>という水族館が<象徴界>の孤立した島々を包み込んでいる。

in contrast to the "normal" state of things in which the real is a lack, a hole in the midst of the symbolic order (like the central black spot in Rothko's paintings), we have here the "aquarium" of the real surrounding isolated islands of the symbolic.

言い換えれば、意味作用のネットワークが織り上げられる核となる中心の「ブラックホール」の役割を担うことによって、シニフィアンの増殖を「駆り立てる」ものは、もはや享楽ではなく、象徴的秩序そのものなのである。それはシニフィアンの浮遊する島、すなわち享楽のどろどろした海に浮かぶ島に成り下がってしまった。

In other words, it is no longer enjoyment that "drives" the proliferation of the signifiers by functioning as a central "black hole" around which the signifying network is interlaced; it is, on the contrary, the symbolic order itself that is reduced to the status of floating islands of the signifier, white ilesflottantes in a sea of yolky enjoyment.
このように「描出された」<現実界>は、フロイトのいう「心的現実」のことに他ならない。そのことをはっきり示しているのが、デイヴィッド・リンチの『エレファント・マン』における、エレファント・マンの主観的体験をいわば「内側」から表現している、神秘的な美しいシーンである。「外部の」「現実的な」音や騒音の発生源は保留され、少なくとも鎮められ、後景へ押しやられている。われわれの耳に入ってくるのは律動的な鼓動だけである。その鼓動の位置は定かではなく、心臓の鼓動」と機械の規則的な律動の間のどこかである。そこにあるのはもっとも純粋な形での描出されたものrenduである。その鼓動は、何物をも模倣あるいは象徴化しておらず、われわれを直接的に「掴み」、<物自体>を直接的に「描出render」している。だがその<物自体>とは何か。それにいちばん近くまで接近する言い方をしようと思えば、やはり「まるで生まれたばかりの生命のようにゆっくり脈打っている、形のない灰色の霧」と言う他ないだろう。目には見えないが質量をもった光線のようにわれわれを貫くその音響は、「心的現実」の<現実界>である。……『斜めから見る』(p83~)