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2014年8月2日土曜日

レイプファンタジーの統計調査

米国ではレイプファンタジーの統計調査があるらしい。どのくらいの規模のもので信憑性はどうなのかは窺い知れないが。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。

From 1973 through 2008, nine surveys of women's rape fantasies have been published. They show that about four in 10 women admit having them (31 to 57 percent) with a median frequency of about once a month.(Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean?

ところでジジェクによれば《最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。》(Conversations with Zizek)とのことだが、レイプファンタジーはこれには当てはまらない。いや当てはまる場合もある。

◆ミレール 愛について(私意訳)より

Jacques-Alain Miller: On Love:We Love the One Who Responds to Our Question: “Who Am I?”

――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、不在だと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。

――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。

――まるで操り人形みたいですね!

いや、男と女のあいだには、前もっては何も書かれていません。どんな方向を示すコンパスもないですし、前もって設定された関係などないのです。彼らの出逢いは精子と卵子のあいだのようにはプログラムされていません。われわれの遺伝子はなすすべがないのです。

幻想における欲望とは他者の欲望なのだから、女性がレイプファンタジーを抱くのは、男性の強姦欲望の反映という言い方もできるのだろう。

では幻想とは何なのか? 幻想において“実現されている”(上演されている)欲望とは主体自身の欲望ではなく、他者の欲望である。すなわち、幻想、幻想的な構成とは、“Che vuoi?” (あなたはなにを欲しているの?)という謎への答であり、それは主体の原初の本質的な(構成的な)立場を表わす。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。ジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012)私訳ーー三種類の幻想、あるいは幻想と妄想

もっとも上もミレールの説明にも見られるように、男と女ではファンタジーの具合が異なる。

女は男の症候であり、男は女の幻想であるという見解もあるくらいだから(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)、ファンタジー(幻想)は女のほうが得意なのではあろう。

《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)ーー精神分析的な視点でなくても、このニーチェの言葉自体が、すでに女性のファンタジーへの傾きを説いているとさえいえる。

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(Zizek『Less Than Nothing』私訳ーー女たちによる「猥談」

さていささかセンシティブな話だが、冒頭にその一部を掲げた記事を全訳しておく。私意訳(いいかげん訳)なので、原文を十分参照のこと。

Women's Rape Fantasies: How Common? What Do They Mean? by Michael Castleman

る種の女たちは、セックスを強制されるファンタジーを抱く。一見したところ、レイプファンタジーなんてのは、まったく筋が通らない。どうしてそんなことを幻想(ファンタジー)しなくちゃいけないわけだい? 実生活ではトラウマ的な、不快で命にかかわるとさえいえることを。

でもちょっと念入りに調べてみると、こういったファンタジーは稀なわけじゃないのだな。男たちの多くは若い女を危険な状況から救い出すことを夢想するんだ、武装した悪党に直面したり高層ビルの二十三階で火災の罠に嵌るなんて毛筋ほども考えないでね。

ファンタジーというのは私たちの想像力のぎりぎりの限界を安全に“経験”させてくれるんだな、なんの危険もなしにね、ある種の人たちにとっての、無理やりのセックスのファンタジーも含めてね。ファンタジーなら全ては許され、なにも悪いことはないのさ。

とはいえレイプファンタジーは悩ましい問題にはちがいない。そんなファンタジーを抱く多くの女たちは異常だとか倒錯しているとかの思いを振り払えないだろうからね。

1973年から2008年まで、女たちのレイプファンタジーの九つの調査が出版されている。それによれば、女たち10人につきほぼ4人はレイプファンタジーを抱くそうだ(31%~57%)。中位の頻度は、ひと月に一回ほど。実際の割合いはたぶんもっと高いんじゃないか。というのは女たちはそのファンタジーを気楽には認める気にはならないだろうからね。

直近のレポート(Bivona, J. and J. Critelli. "The Nature of Women's Rape Fantasies: An Analysis of Prevalence, Frequency, and Contents," Journal of Sex Research (2009) 46:33)では、ノーステキサス大学の心理学者が355人の女学生に訊いているんだが、どのくらいの頻度で、男もしくは女に、制圧され/余儀なくされ/レイプされるーーあなたの意志に反してオーラル/ヴァギナ/アナルセックスということだが、――そういったファンタジーを抱くのかという問いだ。

62パーセントの女学生が、少なくとも一度は、そういったファンタジーを抱いたことがあると言っている。だけれど返答はまちまちなんだな、その問いで使われた用語によってね。「男に制圧されるoverpowered」と問えば、52パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。その状況というのは、女たちの読むロマンスフィクションに最も典型的に表現されているものだ。けれどもし用語を“レイプ”としたら、わずか32パーセントがそのファンタジーを抱いたことがあると言う。これは以前のレポートと似たり寄ったりだね。

レイプファンタジーの頻度はまちまちだね。回答者の38パーセントは一度もない、と。25パーセントは一年に一度以下。13パーセントは一年に数度抱く、と。11パーセントは月一、8パーセントは週一。5パーセントは週に数度(21パーセントは実際に性的暴行を受けていると答えている)。

レイプファンタジーはエロティックであったり嫌悪感を抱いたりするものがある。エロティックファンタジーなら、「私は強制されて、そしてそれを楽しむ」と考える。嫌悪感のファンタジーなら、「私は強制されて、それを憎悪する」と考える。最近の調査では、45パーセントがエロティックファンタジーで、9パーセントが完全に嫌悪感を抱く。そして46パーセントがふたつのファンタジーのミックスだ。

レイプやほとんどレイプに近いファンタジーは、ロマンス小説の主流で、フィクションの永続的なベストセラーのカテゴリーのひとつだ。これらの本はしばしば"bodice-rippers"(主人公が性的に暴行される恋愛小説)と呼ばれているんだな、タイトルは“Love's Sweet Savage Fury” (『爱的甜美狂野之怒』という題らしね、中国語では:引用者)とかね。すくなくとも力による制圧を意味するタイトルが多いな。そこでは、ハンサム野郎がヒロインの魅力に参ってしまって理性を全く失い、女を是非ものにしなくちゃならなくなる、ヒロインが拒絶してさえね、――女は最初はそうするのさ、でもそれから結局は降伏、欲望にとろけ込み、めでたしめでたしという結末になるんだな。

ロマンス小説はよく「女たちのためのポルノ」と呼ばれてる。ポルノとは結局のところセックスファンタジーということさ。男たちのポルノでは、ファンタジーはありあまるほどのセックス――飽くことを知らないやる気まんまんの女で、関係性なんかに見向きもしないタイプだ。ロマンス小説に描かれている女たちのポルノなら、その女性のファンタジーは、男が理性をまったく失う限界にまで達して、欲望されることだね。もっとも男は実際のところは女を傷つけることは決してなく、最後は、結婚するというわけさ。

レイプファンタジーって何なのだろう? 私の意見を言わせてもらえば、ほかのファンタジーとの違いは何にもないね。悪いものでもないし倒錯的でもないさ。メンタルな健康にかかわるものでもないし、実生活での性的性向にも関係ない。ただひたすら、おおよそ女たちの半分ほどに起こるだけのものさ。あなたがそのようなファンタジーを抱き気分を悪くしているとしても、どうすべきかは分からないな。でもあなたは独りだけじゃないのだけは受け合っておくよ。レイプやほとんどレイプのようなファンタジーは驚くほどふつうのものなんだ。あなたはどう思う?

ーーどう思う? と訊かれても、残念ながら女ではないのでよくわからない。蛇の呪いで七年のあいだ女性に変じられたティレシアスのような経験もない。

だが、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね》(中井久夫)と嘯くには、こうやって引用しているのだから嘘八百であることがバレてしまっている。

もっとも現役であるなら、こんなことは書きはしない。

ほしいままにエロスの中に浸りえ、その世界の光源氏であった男はそもそも詩を書かないのではないか。彼のエロス詩には対象との距離意識、ほとんどニーチェが「距離のパトス」と呼んだものがあって、それが彼のエロス詩の硬質な魅力を作っているのではないだろうか。(中井久夫「カヴァフィス論」)

ここに書かれている文は性戯引退間近男の「距離のパトス」というわけだが、遺憾ながらとっくの昔に、あるいはいつものごとく硬質さの魅力は欠けている。また海苔を捲く必要など毛頭ありはしない。

やおら卓袱台にかけ上がり 見上げる奥さんの顔を38文で蹴り上げ いやがり柱にしがみつく奥さんの御御足をばらつかせ NHK体操風に馬乗り崩れてくんずほぐれつする奥さんを 御小水に畳が散るまで舐めあげ 奥さんの泡吹く口元に蠅が止まるまで殴り倒し ずるずると卓袱台にのせ さあ奥さんいただきまあす 満点くすぐる奥さんりコマネチ風太股をひらいて奥さんの性器を箸先でさかごにほじり 食べごろに粘ってきたところで ぼくの立ち魔羅に海苔を巻いて・・・・・(「ヤマサ醤油」ねじめ正一ーーあだしごとはさておき

というわけで、ここでは当面、ジジェクの文を貼り付けておくだけにする。

この幻想の逆説的な地位は、われわれを、精神分析とフェミニズムがどうしても合意できない究極の一点へと導く。それは強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)である。

少なくとも標準的フェミニズムにとっては、強姦が外部からの暴力であることは自明だ。たとえ女性が、強姦されたり乱暴に扱われたりするという幻想を抱いていたとしても、それは男性の幻想であるか、もしくは、その女性の父権的なリビドー経済を「内面化」しているために自らすすんで犠牲になったのだということになる。裏を返せば、強姦の白昼夢という事実を認めた瞬間、われわれは男性優位主義的な決まり文句への扉を開けることになる。その決まり文句とは―――女性は強姦されることによって自分が密かに望んでいたものを手に入れるだけのことであり、彼女のショックや恐怖、彼女が自分の欲望を認めるほど正直ではないという事実を示しているにすぎない……。

このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされていることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的な立場(性的に虐待されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかしフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。

このことから得られる現実的な結論はこうだ―――(一部の)女性は実際に強姦されることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。

ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会現実において実現するからである。

主体の存在の幻想的中核と、彼あるいは彼女の象徴的あるいは想像的同一化のより表層的な諸様相との間には、両者を永遠に分離する落差がある。私は私の存在の幻想的な核を全面的に(象徴的統合という意味で)わが身に引き受けるとこは絶対できない。私があえて接近しようとすると、ラカンの主体の消滅(自己抹消)と読んだものが起きる。主体はその象徴的整合性を失い、崩壊する。そしておそらく私の存在の幻想的な核を現実世界の中で無理やり現実化することは、最悪の、最も屈辱的な暴力、すなわち私のアイデンティティ(私の自己イメージ)の土台そのものを突き崩す暴力である。

(ジジェク注:これはまた、実際に強姦をする男は女性を強姦する幻想を抱かないことの理由である。それどころか、彼らは自分が優しくて、愛するパートナーを見つけるという幻想を抱いている。強姦は、現実の生活ではそうしたパートナーを見つけれないことから生じる暴力的な「行為への通り道」なのである。)

結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「(主体が)幻想の中で最も切実に求めるものが現実的にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれわれにとって耐えがたいものだからである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)