私は既に、無意識の核は「分析」にフィットしないことを論証した。無意識のうちの表象された部分のみが分析されうるのである。フロイト以後、症状symptomは防衛をベースに説明されてきたのだが、そこでは抑圧が特権的な位置を占める。忘れられてしまっているのは、抑圧自体は病因のダイナミズムの二次的重要性しかもたないということだ。実際は、抑圧は欲動の表象されたシニフィアンを処理しようとするメカニズム以外のなにものでもない。フロイト自身、症状の二重の構造を認めていた。一方は欲動であり、他方は象徴的なものである。同じ論法が夢にも当てはまる。ことさら驚くことはない。夢は症状なのだから。
My previous arguments have already demonstrated that the core of the unconscious is not fit for analysis, it is only the repressed part of the unconscious that can be analysed. The same reasoning can be applied on the level of the symptom. After Freud, symptoms were explained on the basis of defence, in which repression takes the prominent place. It was forgotten that repression in itself is already a second moment within the dynamics of the pathogenesis. Indeed, repression is nothing but a coping mechanism directed to the representational signifiers of the drive. Freud himself recognised a twofold structure within the symptom, on the one hand the drive, and on the other hand the symbolic.26 The same reasoning goes for the dream as well, which is not a matter of surprise, as the dream is a symptom.
この二重の構造の光の下では、すべての症状は二つの方法で研究され取り扱われなければならない。ラカンによれば、夢、恐怖症、転換された症状でさえ、結局、症状の形式的な覆いなのである。それらは欲動のリアルの代理表象としての表現なのだ。このように考えると、症状とは、享楽(ジュイサンス)のリアルな核のまわりに作り上げられた象徴的な構築物なのである。享楽のリアル(現実界)は症状の土台もしくは根であり、他方、象徴界はファリックな上部構造にかかわる。
In the light of this two hold structure, every symptom has to be studied and treated in a double way. Following Lacan, dreams, phobic symptoms, even conversion symptoms come down to the formal envelope of the symptom,i.e. they are the representational expression of the real of the drive. Thus considered, the symptom is a symbolic construction built around a real kernel of jouissance. The real of the jouissance is the ground or the root of the symptom, whilst the symbolic concerns the phallic upper structure.
フロイトとラカンのふたりとも見出していた、まさに、この現実界における症状の根には治療効果を妨害するものがあることを。分析は、無意識の抑圧された部分、すなわち表象されたファリックシステムにねらいをつける。しかし〈他者の享楽〉に直面したとき無力である。現在のまさに事実とは、われわれは、抑圧などほとんど現れない患者に直面することだ。これは、精神分析にとってまったく新しいチャレンジを意味する。
Both Freud and Lacan discovered that it is precisely this root of the symptom in the real that obstructs the therapeutic effectivity.28 Analysis aims at the repressed part of the unconscious, meaning the representational phallic system, but is powerless when confronted with the other jouissance. The very fact that today, we are confronted with patients in whom repression is barely present, implies a totally new challenge for psychoanalysis.
重要なことは、これらのふたつのレベルはーー二項システムという意味でのーー分離したものではないことを理解することである。フロイトは、この身体のsomatic部分の影響について美しい隠喩で表現している、《あたかも牡蠣貝がその周囲に真珠を造りだす砂粒のようなもの》(『症例ドラ』)と。ラカンは、ジャー(壺)の隠喩を使う。それは、なぜ分析が避けられないのかの理由を説明している。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の側面を作り上げることにあるのではなく、これらの側面によって作り上げられる空虚な空間を作ることにある。壺は象徴界の内部に現実界の場所を突き止めるのだ。(……)これをラカン用語では、対象aが現われるという。
It is important to understand that these two levels are not separate ones, in the sense of a binary system. On the contrary even, we are facing a kind or fusion here, which obliged Lacan to develop a whole new topology. Freud expressed this beautifully in his metaphor on the impact of the somatic part: "it is like the grain of sand around which an oyster forms its pearl". Lacan uses the metaphor of the jar, which illustrates the reasons why one can't save oneself the trouble of an analysis. According to Lacan, the essence of pottery making does not reside in the raising of the sides of the jar, but in the hollow space that is created by these sides. The jar localises the real within the symbolic, (……)to put it in Lacanian algebra: that the object a appears.
※フロイトの二種類の症状の発見については、「症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)」の後半箇所を参照のこと。
途中、《享楽のリアル(現実界)は症状の土台もしくは根であり、他方、象徴界はファリックな上部構造にかかわる》という文が出てくる。
ここで藤田博史氏による図を付記しておく(欲動と原トラウマ)。
上の図の「地上」にあるものが欲望の領域、あるいは旧来の象徴界の症状の領域であり、地下にあるものが欲動(享楽)の領域、あるいは現実界の症状(サントーム)の領域ということになるのだろう。
このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。
幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。(欲望と欲動(ミレールのセミネールより))
以上の説明から、たとえば斎藤環氏の《記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた》などという見解がーーそれを額面通りに受けとめればーー、いかに「間違っている」かが分かるだろう(かなり前の論なので、それを割引きしなければならないとしても、より最近の茂木往復書簡でも似たような発話がある)。
人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)ーー「ラカンの三つの身体」より)
これでは、ーーここで敢えて斎藤氏の表現を使うならーー、アゲノリ(ヤンキー的なアゲアゲのノリ)のラカンであり、すなわちアゲノリ・ラカン派でしかない。
…………
さて、「サントーム sinthome」とは、ラカンによる「症状symptom」の新しいヴァージョンなのであり、結局、「現実界の症状symptom」のことであるだろう。
◆「Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way」.(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq )より
……the Lacanian conclusion of the treatment – the identification with the Real of the symptom, the choice of jouissance, and the creation of a neosubject – is a particular process that is situated entirely in the line of femininity.
ラカン派の議論には、「症状(症候)に同一化する」、とか「サントームに同一化する」とかの表現が混在するが、前者の症状に同一化するとは、二種類の症状のうちの現実界の症状(サントーム)に同一化する、と捉えるべきである。
◆ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。
……外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。
「ジョイスの精神病への言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症候ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようとする試みであった。自分の症候と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。」(ジャック=アラン・ミレール“Preface” in Joyce avec Lacan 1988)
たとえば、「女は男の症候(症状)である」とされるが、この言葉は後期ラカン(たしかセミネールⅩⅩⅢ)で語られたものであり、「女は男のサントーム」であるとしてもよいのだろう。だが一般には二種類の症状のうちの象徴界の症状としてのみ解釈されることが多すぎるのではないか。
「女は男の症候である」というのは、後期ラカンの最も悪名高い「反フェミニズム的」テーゼのひとつだろう。しかし、われわれがこのテーゼをいかに読むべきかについては根本的な両義性がある。この両義性はラカン理論内部における症候の概念の変化を反映している。もし症候を、ラカンが一九五〇年代に定義したようなもの──暗号化されたメッセージ──として捉えるならば、もちろん女=症候は記号として、男の敗北の具体化としてあらわれ、男が「自分の欲望に負けた」という事実を証明する。フロイトにいわせれば症候は妥協の産物である。主体は症候において、自分の欲望についての真理(彼が直視できなかった真理、彼が裏切った心理)を、暗号化された判読不能なメッセージとして受け取る。(ジジェク『汝の症候を楽しめ』)
ところで、男は女のなんだろう。ジジェクの最近の書(『LESS THAN NOTHING』)には、「男は女の幻想(ファンタジー)である」、という言葉がみられるが、いま詳細には触れ得ない。
ここではただ、ジジェクの師であるラカンの娘婿ジャック=アラン・ミレールは次のように言っていることだけを附記しておこう。
Sinthome = Symptom + fantasme (Jacques-Alain Miller)
「サントーム=症候+ファンタジー」だって?
もっとも次のように捕捉はしている。
This is an approximation of the equation, but I had situated there the idea that the clinical opposition of the symptom and fantasme, as well-founded as it might be, does not prevent us from taking another perspective. Under this angle, the difference between the two psychoanalyses is inessential.
しかし、これはジジェクも既に1989年に上梓された『イデオロギーの崇高な対象』にて同様のことを書いているようだ。
Lacan tried to answer this challenge with the concept of the sinthome the concept of sinthome, a neologism containing a set of associations (synthetic-artificial man, synthesis between symptom and fantasy, Saint Thomas, the saint . . . ).(『THE SUBLIME OBJECT OF IDEOLOGY』)
ここでは当面、ジジェクを引用するのはやめて(最近ではFANTASY1とFANTASY2などと書いていて、ややこしい)、ヴェルハーゲの簡潔な定義のひとつはこうである。
the fantasy is an attempt to give meaning to a part of the Real that resists to the Symbolic. (『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN』Paul Verhaeghe)
《ファンタジーとは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与えようとする試みである》とされている。
このあたりは書き出すと長くなってしまうのだが、もうひとつだけつけ加えよう。
A symptom (e.g., a slip of the tongue) causes discomfort and displeasure when it occurs, but we embrace its interpretation with pleasure. We gladly explain to others the meaning of our slips; their "intersubjective recognition" is usually a source of intellectual satisfaction. When we give ourselves to fantasy (e.g., in daydreaming), we feel immense pleasure, but, on the contrary, it causes us great discomfort and shame to confess our fantasies to others.(ZIZEK From the symptom to the sinthome)
症状(象徴界における)は、不快であるが解釈を誘発し、その解釈は満足を与える。ファンタジーはわれわれをうっとりさせてくれるが、それを他人に告白することは不快であり恥である、とある。
「女は男の症候である」ならば、男は解釈して満足する。
「男は女の幻想である」ならば、女は告白して恥ずかしい。
男の猥談好きはこのせいであり、女から猥談は滅多に聞かれないのは幻想のひとたちだからである(最近はシラナイがね)。ーーなどと書けば、やはりアゲノリ・ラカン派の気味合いがあるが、わたくしはラカン派のつもりはないので、なんというかアゲノリ・ジジェクエピゴーネンか。
畏れのなさからくるはしたなさは、あるときそれが一人歩きして、見なくとも語れるという安易さをあられもなく肯定してしまう。ジジェクも陥っているその無惨さについては、加藤幹郎が『「ブレードランナー」論序説』で厳しく批判していますが、ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙され る連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが・・・・・(蓮實重彦『「ブレードランナー」論序説 映画学特別講議』はどのように読まれたか )
以下、ごく一般的な夢分析のあり方を附記しておこう。
フロイトには、「事物表象 Sachvorstellung」と「言語表象 Wortvorstellung」という語彙がある。「物表象」と「語表象」とも訳されたりする。
Freud as thing and word representations, by Lacan as imagos and signifiers, in attachment theory as representations.
すなわちフロイトの「事物表象」は、ラカンの「イマーゴ」、もしくは「イマージュ」、「言語表象」は、「シニフィアン」とされている。
ここでは、このことを念頭において、以下の文を読むことにしよう。
夢の思考は、聞けばすぐに理解できるようなものである。それにたいして夢の内容は、いわば象形文字で綴られており、その一つ一つの文字を夢思考の言語に置き換えなければならない。もしわれわれがそれらの文字を、それらの象徴的関係に従ってではなく、それらの視覚的価値に従って、読もうとすると、かならずや間違いをおかす。たとえば今ここに一枚の判じ絵があったとする。そこに描かれているのはまず一軒の家。その家の屋根にはボートが一艘のっかっている。それからアルファベットの中の文字が一つ。そして走っている人物の姿。その人物には頭がない、等々。さてこの判じ絵を表面そのままに受け取って、この絵全体やその個々の構成要素には全然意味がないと抗議することもできよう。ボートが屋根にのっているはずがないし、頭のない人間は走れないはずだ。しかも、人間のほうが家よりも大きく描かれているし、この絵全体がどこかの景色のつもりなら、アルファベットの文字は場違いだ。そんなのが自然界にあるわけがないから。いうまでもなく、この判じ絵を正しく解釈するためには、この絵全体およびその各部分にたいするそうした批判は脇にのけておき、その代わりに、個々の要素を、なんとかその要素によって表わすことができる一音節とか一単語に置き換えなければならない。そのようにして得られたいくつかの言葉はもはや無意味ではなく、この上なく美しい意味深い詩の一節を形づくることもできる。夢はこの種の判じ絵であり、夢解釈の分野における先輩たちは、判じ絵をまともな絵画作品と受け取るという過ちを犯してきたのであり、そのために彼らには夢が無意味で無価値なもののように思われたのである。(フロイト『夢判断』第四章「夢の仕事」)
フロイトがはっきり言っているように、われわれは夢を前にしたとき、その全体やその構成要素のいわゆる「象徴的意味」を探すことを断じて避けなければならない。「この家は何を意味しているのか。屋根の上のボートは何を意味しているのか。走っている人物は一体何を象徴しているのか」といった質問をしてはならないのである。しなければならないことは、物をふたたび翻訳する、つまり物をそれを指す言葉に置き換えることである。判じ絵においては、物は文字通りその名前を表わしている。すなわちそのシニフィアンを表わしている。言葉表象Wort-Vorstellungenから物表象Sach-Vorstellungenへの移行――夢の中で作用しているいわゆる「表象可能性への配慮」――を言語から前言語的表象への一種の「退行」と見なしてはいけない理由が、これで明らかになっただろう。夢の中では、「物」それ自体がすでに「言語のように構造化されて」おり、その配置は、それが表わしているシニフィアンの連鎖によって規定されている。「物」から「言葉」への再翻訳によって得られる、このシニフィアンの連鎖のシニフィエが「夢思考である」。意味のレベルでは、この「夢思考」は夢の中に描かれた物と、内容的にはなんの繋がりもない(同様に判じ絵の場合、その解読は判じ絵に描かれた個々の物の意味とはなんの繋がりもない)。夢の中にあらわれた形象の「より深い隠された意味」を探そうとすると、その中に表現された潜在的「夢思考」が見えなくなってしまう。直接的な「夢内容」と潜在的な「夢思考」とは、言葉遊び、すなわち意味のないシニフィアン的物質のレベルのみで繋がっているのである。(ジジェク『斜めから見る』p103)