宮台 この 2 年間、僕は性愛系のワークショップをしています。彼女・彼氏のステディがい る割合が今世紀に入る頃からどんどん下がっているからです。こうした傾向が目立つよう になってから、すでに 15 年ほど経ちます。 いろんなリサーチが示すところによれば、昨今の 20 歳代独身男性は 7 割が「将来結婚 できない」「将来結婚したくない」と答えます。独身女性もこの傾向を追いかけています。 対人関係が構造的に変動しているんです。 特に女子の場合、この 5 年ほど、つまり 2010 年代に入って顕著になったのは、「ビッチ」 というキーワードです。友だち関係よりも性愛関係を重視する女性を、同性間でビッチ呼 ばわりし、それが性愛からの退却を増幅しています。
神保 ビッチって言葉が日本でも普通に出回っているんだ。
宮台 そう。昔は恋人ができれば同性の友だちとは疎遠になるのが普通で、そのことに友 だちも寛容でしたが、今世紀に入る頃から違ってきました。友だち間のポジションを失いた くないし、この 5 年ほどはビッチ呼ばわりを恐れます。 かくして性愛から退却気味になるだけじゃありません。同性の友だちから、「いいね」と言 ってもらえない相手(男)を彼氏に選べないんです。自分としてどう思うのか、という感情の 発露が閉ざされた状態です。
ーーと読んで、以下はアドラーとは関係ないが、世界的な晩婚傾向をめぐってをラカン派の立場から説明するポール・ヴェルハーゲの1998年に出版された書から私意訳を抜き出しておく。
完全な相互の愛というこの神話に対して、ラカンによる二つの印象的な言明がある、「男の症状(症候)は彼の女である」、そして「女にとっては、男は常に廃墟(墓場)を意味する」と。この言明は日常生活の精神病理において容易に証拠立てることができる。ともにイマジナリーな二者関係(鏡像関係)の結果なのだ。誰でも少しの間、ある男を念入りに追ってみれば分かることだが、この男はつねに同じタイプの女を選ぶ。この意味は、女とのある試行期間を経たあとは、男は自分のパートナーを同じ鋳型に嵌め込むよう強いるようになるということだ。こういうわけで、この女たちは以前の女の完璧なコピーとなる。これがラカンの二番目の言明を意味する、「女にとって、男は常に廃墟である」。どうして廃墟なのかと言えば、女は、ある特定のコルセットを装着するよう余儀なくさせられるからだ。そこでは女は損なわれたり、偶像化されたりする。どちらの場合も、女は、独自の個人としては破壊されてしまう。偶然の一致ではないのだ、解放運動の目覚めとともに、すべての新しい社会階層は教養ある孤独な女を作り出したことは。彼女は孤独なのである。というのは彼女の先任者たちとは違って、この廃墟に服従することを拒絶するのだから。
……Against this myth of perfect reciprocated love, there are two striking statements made by Lacan: 'The man's symptom is his woman' and 'For the woman, the man always means ruin'. These statements can easily be verified in the psychopathology of everyday life. Both are an effect of the imaginary dual relationship. Anyone who closely follows a man for a while will see that he always chooses the same type of woman. This means that after a certain trial period he succeeds in forcing his partners into the same mould, so that they become perfect copies of the previous woman. This explains the second statement: For the woman, the man always means ruin'. It is ruin because she is forced into a particular corset, where she is either abused or idolised. In both cases she is destroyed as a separate individual. It is no coincidence that in the wake of the emancipation movement a whole new social class has developed—the educated lonely woman. She is lonely because, unlike her predecessors, she refuses to submit to this ruin.
現在、ラカンの二つの言明は男女間で交換できるかもしれない。女にとって、彼女のパートナーはまた症状である、そして多くの男にとって、彼の妻は荒廃者である、と。こういったわけで、孤独な男たちもまた増え続けている。この反転はまったく容易に起こるのだ、というのはイマジナリーな二者関係の基礎となる形は、男と女の間ではなく、母と子供の間なのだから。それは子供の性別とはまったく関係ないのだ。
Today, these two statements might just as well be interchangeable. For a woman, her partner is also a symptom, and for many a man, his wife is a ravager. Thus the group of lonely men is also continuing to grow. This reversal is fairly simple to achieve, because the underlying form of the imaginary dual relationship is not that between a man and a woman, but that between mother and child, quite apart from the specific sex of the child.
※参照: 教育ある孤独な女たちの時代
《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである。》(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)をめぐっては、「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」にいくらかのメモがある。
…………
※附記:男女の相違をめぐるフロイトラカン派の見解は、同じヴェルハーゲの書から、次の叙述が分かりやすいだろう。一部ヴェルハーゲ独自の見解(たとえばペニス羨望)についても含まれているが、これはこの1998年当時は独自ーーわたくしの知る限りでだがーーであり、いまではフロイトの悪評高いペニス羨望を救うために、同様な見解をとる論者も出てきている。
【男の子と女の子の愛の対象】
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。
反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。
【変換対象の相違による帰結】
この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面(部分対象へのフェティッシュ、あるいは対象支配ともしておこう:引用者)に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への少女の強調は、後年男との関係を求める必要がない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。
【男性のペニス羨望】
この解釈の光のもとでは、フロイトが女性にとって重要だと信じたペニス羨望――つまり自身のファルスを持ちたいと推定された欲望――は、フロイト自身の男性的、あるいはその結果としての男根主義的な想像力の産物によるところが多いように見える。今までの経験で私が出会った有名なペニス羨望は男性のなかにしかない。その拠って来たるところは、己れのペニスの不十分さへのたえまない怖れと他の男のペニスに比してのたえまない想像的比較による。男の男根主義に対応する女性の主眼は、関係性にある。
【法への態度の相違】
それ以外の帰結は、女性たちの法に対する根本的に異なった態度である。法、すなわち、父の最初の権威に対する態度。少年たちは父をライヴァルとして怖れる理由がそこかしこにある。しかしこれは少女にはほとんどあてはまらない。反対に、父は少女へ愛を与える存在でもあり、少女が愛する存在でもある。それゆえ女たちは法と権威にたいして男たちに比べ、リラックスした関係をもつようになるのは当然であろう。これは、ポストフロイト世代の精神分析医に次のような疑問を生ませた。すなわち女にはほんとうに超自我があるのだろうか、と。それは中世の理論家たちが女たちはほんとうのところ魂をもっているのかどうかを疑わせたのと同じような問いである。
【男たちの徒党を組む傾向】
もっと実際の生活上の相違としては、家父長制の歴史のなか、男たちは階級の影響をひどく受けやすく、中央集権的な組織を作りたがるということがある。教会や軍隊は男たちの集団だ。反対に、女たちは階級を好む性向はわずかしかなく、横へのつながりを望み集団を作ることは少ない。