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2014年7月1日火曜日

ラカンの三つの身体

主体が囚われているのは意識ではない、身体である。(ラカン「哲学科の学生への返答」(1966 私訳)

"Ce n'est pas à sa conscience que le sujet est condamné, c'est à son corps."(Réponses à des étudiants en philosophie sur l'objet de la psychanalyse Jacques Lacan, 1966)

…………

ラカンには、身体と主体をめぐり次のような三つの段階の思考がある。

 象徴的身体と想像的身体を対比させ、象徴界が身体を構成するとする。たとえば身体とはたんなる言語の“効果”に過ぎない、あるいは“身体的表面”に過ぎないなどとされる。

 次に、象徴界と想像界の原因としての現実界に焦点が当たられる(セミネールⅩⅠ前後)。身体の「リアル」とは、器官として、あるいは欲動として捉えられる。

 セミネールⅩⅩ(アンコール)以降、「象徴界と想像界」/「現実界」の対比が、「ファルスの享楽」/「〈大他者〉の享楽」として語られる。

この三つはジジェクの映画「エイリアン」をめぐる言葉を変奏させれば次の如し。

①外部にエイリアンがいてそれがわれわれに侵入する。
②われわれのなかにはエイリアンがいて、それがわれわれを決定する。
③あるがままのエイリアンがいる。

以上は、ポール・ヴェルハーゲの論文「主体と身体――ラカンによる現実界との葛藤」Subject and Body Lacan's Struggle with the Real.Paul Verhaegheの冒頭をほとんど意訳したものに過ぎない。そしてラカン派内にてコンセンサスがあるのかどうかは知るところではない。

ところで、ラカンは「同一化identification」のことを「疎外」と呼んだことに注意しておこう。疎外、すなわちalienationだが、同一化とはエイリアン化としてもよいだろう。同一化=エイリアン化は①の段階の思考にかかわる。

(同一化とはアイデンティティとは異なる。後者は「疎外」だけでなく「分離separation」概念が肝要だが、いまはそれに触れない(参照ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)。)

①における想像界と象徴界との対比というのは、経験論と観念論の対比ともいうことができるのではないか。あるいは素朴な身体感覚と認識論的な身体の対比。観念論とは、すなわち身体とは社会的構成物に過ぎないとしたかつてのバトラーのジェンダー概念をめぐる思考と同様であり、これはアイデンティティについても同じことが言える。経験論的には、〈私〉独自の肉体があるように思えると同じように、独自のアイデンティティがあるように見える。わたくしの内部に、生得の、遺伝的ななにものかが〈私〉のアイデンティティを決定している、と。

だがこのアイデンティティの旧来の捉え方は、たとえば養子になった幼児のことをすこしでも想起したら、間違っていることはすぐさま分かる。たとえばベトナムの幼児を米国の夫妻と日本の夫妻が養子にすれば、その子どもはまったく異なったアイデンティティを持つようになる。家族が、文化が、社会が、アイデンティティを構成するとはそういうことだ。

ところで、柄谷行人は『トランスクリティーク』第二部第一章の注にて、バトラーを引用して次のように書いている。

ここで、カントにいささかも言及しないでなされた「カント的転回」……の近年におけるめざましい例として、ジュディス・バトラーの『身体こそが問題だ』1993をあげておきたい。彼女は前著『ジェンダー・トラブル』において、セックス/ジェンダーの区別に関して、文化的社会的なカテゴリーとしてのジェンダーを重視した。これは生物学的に見られた性別を疑うために不可欠な過程である。しかし、それは逆に観念論に導かれる。

《もしジェンダーが性の社会的な構築物であるなら、そして、その構築によってしかこの「性」に近づけないとしたら、性はジェンダーに吸収されてしまうだけでなく、「性」は、それに関して直接的に接近できないような前言語的な場においてレトロアクティブに設定される、何か虚構のようなもの、おそらくファンタジーのようなものになってしまうように見える》(Bodies That Matter)。

だが、sex(body)には、社会的カテゴリーを変えるだけではどうにもならないものがある。彼女はそうした言語論的観念論から「唯物論」に転回する。いいかえれば、sex(body)をgender(category)が吸収することができない「外部」として再導入する。むろん、このとき、彼女はたんに生物的な身体(感覚)に戻ったのではなく、それもまた身体(感性形式)による構成であることーーしかし、それは社会的カテゴリーにとっては所与性としてあらわれるーーを見出したのである。いいかえれば、彼女はこれまでの観念論的思考と経験論的思考のいずれをも批判する立場を提起したのであって、それを「唯物論」と呼んでいる。


この叙述を援用するならば、ラカンの身体をめぐる②あるいは③は、唯物論的であるということが言えるのではないか。

ラカンにとっての「身体」はセミネールⅩⅠ以降、どんな形をとっていくのか。まず既にしばしば指摘されているように、欲望理論から欲動理論への転回なのだが(参照:欲望と欲動 ミレールのセミネールより)、これは象徴界から現実界への転回とも言い換えられる。あるいはまたファルスから対象a(あるいはトラウマ)への転回。ヴェルハーゲは、《any interpretation of the subject in terms of the phallus is a defensive elaboration》、すなわちファルス用語での解釈は、防衛的な再構成(でっち上げ?)に過ぎないとしており、すなわち、それは象徴界、あるいは快原則の此岸での解釈なのであり、快原則の彼岸には、原トラウマや対象a、あるいはリビドーがある。また部分欲動さえもそれはファリック欲動なのであり、その彼岸にはエロスとタナトスの欲動があるとしている。《we are talking about the drive, prior to any form of "genderisation and the accompanying conversion into partial drives, meaning: phallic drives.

…………

たとえば、斎藤環は、茂木健一郎との往復書簡で次のように書いている。

私が言語の機能を重視するのは、人間の心的装置をつくり上げているものが、徹底して言語的な成分であるというラカン派の公準にもとづいています。正確にはシニフィアンということになりますが、読者の便宜を考えて、ここはあえて近似的表現をもちいます。
フロイト=ラカンによる精神分析は、「イメージは言語を越える」という「常識」をくつがえした点に大きな意義があった、と私は考えています。そう、逆に考えるのです。「言語は、表象や意識を越えている」と考えるのです。
フロイト=ラカンが発見したのは、こうした言語システムの自律的作動が、人間に「欲望」や「症状」をもたらす、という「真理」ですね。じつはここにこそ、精神分析の真骨頂があるのです

だが、これらはすべてラカンの三つの身体の①の段階(前期ラカン、すなわちセミネールⅩⅠ以前の段階の思考)にかかわるものでありラカンの中期以降の思考法が決定的に欠けているように見える(わたくしの誤解でなければ)。もちろん素朴な経験論(ナイーヴな身体感覚からの認識)を諌め、ラカン前期の観念論(認識論的な身体によるもの)の観点を公衆に啓蒙する効用はあるにしろ。

いやラカンどころか、『快原則の彼岸』以降のフロイトの視点さえ欠けているようにさえみえる。

this part of Lacanian theory( ②③) can very well be understood from a Freudian point of view. In Freud's theory, the pleasure principle functions "within the signifier", that is, with representations (Vorstellungen) to which a "bound" energy is associated within the so-called secondary process. What lies beyond the pleasure principle, cannot be expressed by representations and operates with a "free" energy within the primary process. The latter has a traumatic impact on the ego (Beyond the Pleasure Principle, S.E. XVIII, p. 67ff). The Lacanian Real is Freud's nucleus of the unconscious, the primal repressed which stays behind because of a kind of fixation. “Staying behind" means: not transferred into signifiers, into language (Freud, letters to Fliess, dd. 30th May 96, 2nd Nov.96).(Paul Verhaeghe   Beyond Gender)

1896年のフィリスの手紙さえ引用されて、フロイトの無意識は言語表象(シニフィアン化)されないものがあるとされている。これはふたつの無意識にかかわる(フロイト概念「言語表象 Wortvorstellung」と「事物表象 Sachvorstellung」は、ラカン語彙でいえば、前者がシニフィアン、後者がイマーゴ(あるいはイメージ)に当たる)。


症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)

フロイトによる無意識の発見以来、病理上の過程は「防衛」を基にして説明されるようになる。すなわち「抑圧」概念が特権的な場所を占めるようになる。だがフロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまったのは、「抑圧」そのものが病因のダイナミズムにおける二次的な重要性しかないということだ。実際、抑圧は欲動に対する防衛的過程の苦心作elaborationでしかない。フロイトはその理論のそもそもの最初から、症状には二重の構造があることを見分けていた。一方には欲動、他方にはプシケ(個人を動かす原動力としての心理的機構:引用者)である。ラカン派のタームでは、現実界と象徴界ということになる。これは、フロイトの最初のケーススタディであるドラの症例においてはっきりと現れている。この研究では、防衛理論についてはなにも言い添えていない。というのはすでに精神神経症psychoneurosisにかかわる以前の二つの論文で詳論されているからだ。このケーススタディの核心は、二重の構造にあると言うことができ、フロイトが焦点を当てるのは、現実界、すなわち欲動にかかわる要素、――フロイトが“Somatisches Entgegenkommen”と呼んだものーーだ。のちに『性欲論三篇』にて、「欲動の固着」と呼ばれるようになったものだ。この観点からは、ドラの転換性の症状は、ふたつの視点から研究することができる。象徴的なもの、すなわちシニフィアンあるいは心因性の代表象representation――抑圧されたものーー、そしてもうひとつは、現実界的なもの、すなわち欲動にかかわり、ドラのケースでは、口唇欲動ということになる。

《フロイト以後、多かれ少なかれ忘れられてしまった》とあるが、上に引用した斎藤環は、言葉にならないトラウマや快感原則のかなたの享楽の領域を、まさか忘れているはずはないだろうが、忘れたふりをしているような発言にもみえるのだ。

たとえばラカンなどといわず、斎藤環がしきりに敬愛するとする中井久夫の次の文でもよい。

……成人言語性の成立のためには、どこかで”黒板を拭き清める”必要があるのだと私は思う。そのために、私たちのそれ以前の記憶は大幅に失われる。ラカンが晦渋な言葉で語っているが、これ以後に成立する彼の「象徴界」は言語に依拠する一種の虚偽意識たということになる。いかにもヘーゲリアンらしい言い草ではある。

しかし、拭き清めるというのはただしくなかろう。昆虫の成虫はサナギの時代を経過した後に幼虫の記憶をどれだけ持っているか知らないが、われわれの場合、建物が完成すると足場が取り払われて蔵われるように、サナギ以前の記憶はどこかにある「メタ私」とでもいうべきものの中にしまわれる。幼児的な言語体験も感覚体験(古型の記憶として再出現するもの)も、そういう場所にしまわれて、時にある形で噴出してくる、休火山の時ならぬ噴火のように。(中井久夫「詩を訳すまで」『アリアドネからの糸』P233-234)

この文は《幼児型記憶と外傷性記憶が相似している》(「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』46頁)という見解の文脈のなかの文である。また、ここに出てくる「メタ私」は、フロイトやラカンの「無意識」よりも広範な中井久夫独自の「無意識」のことである。

ここで私の「メタ私」「メタ世界」概念に少し言及しておきたい。「メタ私」は無意識に近い。しかし、フロイトのコンプレックスやユングのアーキタイプが支配するところではない。ベルクソンは「心臓をはじめとする内臓器官の無意識活動があって、もしこれらを意識的に動かしていたら意識に余力はないだろう」と考えていた。この「ベルクソンの無意識」をも含むものであり、内分泌系や自律神経系の活動をも含み、さらにたとえばテニス中に起こる小脳と前頭前野との間の神経信号の猛烈な往復をも含むものである(これは京大の生理学者・佐々木和夫教授の名をいただいて「佐々木の無意識」というべきであろうか)。さらに運動のみならず大脳の記憶や思考の活動をも沈黙のうちにモニターしている小脳の活動をも知るべきであろう。外界の刺激を直接受けない小脳は脳/マインドのジャイロスコープというべく、刺激に翻弄される大脳活動を安定化し、エネルギーを経済的にし、能率を向上させる。小脳の役割について大きな進歩と転換を示した理化学研究所所長の名をいただいて「伊藤正男の無意識」というのがよかろう。(中井久夫「「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」」『日時計の影』所収)

中井久夫には次のような文もある。

ラカンが、無意識は言語のように(あるいは「として」comme)組織されているという時、彼は言語をもっぱら「象徴界」に属するものとして理解していたのが惜しまれる。(「創造と癒し序説」同アリアドネ P209)

これは一般に流布している前期ラカンのみを批判したものだが、まさか斎藤環も前期ラカンのままにとどまっているはずはないだろう。

後期ラカンには次のような文がある。

l'inconscient, c'est le réel. (...) c'est le réel en tant qu'il est troué." (Seminar XXII, RSI, Ornicar?, 15th April 75

無意識はリアル(現実界)である……それが穴が開けられているtroué限りにおいて。(私訳)

この”troué”とは、われわれのなかには、エイリアン(異物としての身体Fremdkörper)がいるということ(“Fremdkörper”は、すでにフロイトの『ヒステリー研究』1895に頻出し、それはトラウマに関連して使用されている)。

たとえばラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるがこれは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。

l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976

シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。それは言葉で言いあらせないトラウマのことでもある。

Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")

…………


以前、「『快原則の彼岸』におけるBemächtigungstrieb」にて、次のジジェクの文を引用した。

Is not the ultimate cinematic expression of the ex-timate character of the objet petit a in me that of the “alien” in the film of the same name, which is quite literally what is “in me more than myself,”a foreign body at the very heart of myself, and can therefore be extracted from me only at the price of my destruction? (ZIZEK 『The Puppet and the Dwarf』)

この短い文には、"ex-timate","objet petit a","alien","a foreign body"(Fremdkörper)など、ラカン用語が見事に詰っている。

《要するに、私たちのもっとも近くにあるものが、私たちのまったくの外部にあるのです。ここで問題となっていることを示すために「外密extime」という語を使うべきでしょう。》(ラカンS16)

…………

Lacans goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way.Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq 私訳)

ラカン理論における現実界と象徴界のあいだの関係は、いっそう首尾一貫した観点を提示してくれる。彼のジャー(壺)の隠喩は、ひとが分析の手間を省くことができないことの、より鮮明な例証となる(Lacan, The Ethics of Psychoanalysis : Seminar Ⅶ)。ラカンによれば、陶器作りのエッセンスは壺の面を形作ることではない。これらの面がまさに創り出すのは空虚なのであり、うつろの空間なのだ。壺は現実界における穴を入念に作り上げ探り当てる。このエラボレーション(練り上げること)とローカリゼーション(探り当てること)が、正統的な創造に相当する。精神病理学の症状とのこの類似性は、象徴界の星座の練磨を通してのみ欲動の現実界は現れるということだ。これが精神分析学が新しい主体を創造するという理由である。《われわれの理論は、自我の中に自然発生的にはけっして存在しえない状態、すなわち分析という操作を受けた人間と受けない人間とのあいだの本質的な相違が明らかにされるような状態を、新しくつくり出そうとする要求を掲げているのではなかろうか。》(『終りある分析と終わりなき分析』)

このようにシニフィアンの隠喩的連鎖(壺の面を作ること)はとても重要であるにもかかわらず、最終的に重要なのは異物としての身体Fremdkörper(欲動の現実界)、シニフィアンの連鎖の穴を探り当てることなのである。子供の遊びのスライドパズルにおけるようにピーズを縦横に動かして(シニフィアンの連鎖させて)を空所を特定すること。


just think of a child's toy like those sliding puzzles. This mini symbolic system works on one condition: that there is a gap. One compartment has to be empty, thus permitting the necessary displacements in the system itself. (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )


すなわち、シニフィアンの隠喩的連鎖の発見によって「ラカン」は完成したわけではない。ラカン後期の「サントーム」概念(症候との同一化)はそれにかかわる。

人格、メディア、ともにラカンの精神分析においては単に「存在しない」、あるいはいずれも、想像的なものとして価値切り下げの憂き目にあうだろう。なぜならば、そう、「メタ言語は存在しない」からだ。記号ならぬシニフィアンの隠喩的連鎖をみずからの存在論の中核においたとき、「ラカン」はすでに完成していた。メタ記号はありえてもメタ・シニフィアンは不可能である。(斎藤環「解離とポストモダン、あるいは精神分析からの抵抗」『批評空間』 2001 Ⅲ―1所収)