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2014年8月6日水曜日

「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」

あなたは語る、だが誰に向けて?
何処かに受け手はいる、
それは究極的には己自身かもしれなくても

話し手 → 受け手

受け手はあなたの話を聴いて
なにやらかやらを思いつく

話し手 → 受け手
         ↓
        生産物


ここまでは古典的なコミュニケーションの形にすぎない

だがフロイトが示したのは
われわれがなにかを語るとき、
われわれ自身の知らない「真実=無意識」に
衝き動かされて(driveされて)話していること


話し手 → 受け手
 ↑       ↓
 真実    生産物


これをラカンは次のように書いた





これは四つのディスクールのベースとなる形式的構造である
agent(審級)、other(他者)、product(生産物)、truth(真実)の
四つの空箱のなかに、
S1(主人)、S2(教育者)が、
a(分析家、あるいは対象a)、$(分裂した主体、欲望)が入る




主人のディスクールをベースに
右回りしたり左回りしたりする
ラカンのセミネールⅩⅩ(「アンコール」)での表現
regressionとprogress(フィンク英訳)に注目しておこう



※参照
As we consider this theory to be a condensation of Lacan’s evolution, every bibliographic reference to his work is too limited; that is why we will avoid giving concrete references in this paper. The theory itself was coined during the seminar of 1969-70, L’Envers de la psychanalyse (Paris, Seuil, 1991, pp.1 – 246), Radiophonie (Scilicet, 1970, nr.2/3, pp. 55-99) and the next seminar: D’un discours qui ne serait pas du semblant. A further elaboration can be found in Encore, the seminar of 1972-73. (FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES Paul Verhaeghe)

ーーおそらくラカンの四つのディスクールの解説としては、ヴェルハーゲの『FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY』と、より最近の『Teaching and Psychoanalysis: A Necessary Impossibility』が水際立っている。彼は、四つのディスクールとアンコールの性別化の図式をラカン理論の華と呼んでいる。

From Impossibility to Inability--I had expected a literal translation of Lacan’s blunt “impotence”--on the theory of the four discourses, is one of the best available presentations of this aspect of Lacanian endeavor.(Roberto P. Neuburger

もっともヴェルハーゲはラカンの五つ目のディスクールと言われる「資本家のディスクール」には触れていない。

…………

ところでラカンがフロイトの遺書と呼んだ
1937年の論文でフロイトはすでにこう書いている

分析analysieren治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能の職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育edukierenすることと支配するregierenことである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

ただしフロイトは一番肝心な「欲望desire」を書き落としている

こうして四つの「不可能な職業」が出揃った
regierenはS1(主人)
edukierenはS2(教育者)
そして$(欲望)、a(分析家analysieren)

ラカンの四つのディスクールの要点は、
話し手の「内容」ではない、「形式」なのだ
空箱のなかになにが入ろうとも
生産物と真実は一致しない
それがインポテンツなのは
「真理は半分しか言えない」(ラカン)
 “le mi-dire de la vérité”
すなわちインポシブルだからだ(逆も真なり)

真実と生産物のあいだに”//”とあるのはこのゆえである
話し手は、みせかけ(semblant)に過ぎない
とはこのことを意味する

フロイトなら
「自我は自分自身の家の主人ではない」
“dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”
ラカンヴァージョンなら
「シニフィアンは、主体を他のシニフィアンに対して代表象する」
 “Le signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”

人類は時の流れのなかで、科学のために二度その素朴な自惚れに大きな侮辱を受けねばなりませんでした。最初は、宇宙の中心が地球ではなく、地球はほとんど想像することのできないほど大きな宇宙系のほんの一小部分であることを人類が知ったときです。・・・二度目は、生物学の研究が人類の自称する想像における特権を無に帰し、人類は動物界から進化したものであり、その動物的本性は消しがたいことを教えたときです。この価値の逆転は、現代においてダーウィンやウォレスやその先人たちの影響のものと、同時代の人々のきわめて激しい抵抗を受けながら成就されたものです。ところが、人間の誇大癖は、三度目の、そしてもっとも手痛い侮辱を、今日の心理学的研究によってあたえられることになります。自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない、ということを、この心理学的研究は証明してみせようとしているのです。人間の反省をうながすこの警告もまた、私ども精神分析家が最初に、しかも唯一の警告者として提起したものではありません。しかし、この警告をもっとも強力に主張し、一人一人の胸に身近にひびくような経験材料によって裏書きすることは、私どもにあたえられた使命であるように思われます。このためにこそ、私どもの学問に対して総反撃が起こり、いっさいのアカデミックな丁重さはかなぐり捨てられ、公平な論理からはまったくはずれた反対論が起こったのです。( フロイト『精神分析学入門』)


言表行為と言表内容といわれるものも
四つのディスクールの形式的構造のヴァリエーションにすぎない
すなわち人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう
言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差
(発話者の「言表内容」と無意識の「真理=言表行為」との間のギャップ)

誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)

人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。(ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』)

《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)ーーただし「行間にはなにも書かれていません」、あるいは次の蓮實重彦の諌めをつねに忘れてはならないだろう。

「小説には、面白いことがいっぱい書いてある。私は人間に興味がある。それは、『目に見える運動』であって、見えない彼らの考えではない。見えないところに逃げてはならない。目に見えるものだけで判断せよ。映画もそうですね」(構想45年!蓮實重彦さん「ボヴァリー夫人」論

そもそもまがいの「深読み」などという振舞いは
いまここにあるものを見ずにすましてしまう傾きをもってしまう

いまここにあるはずの「作品」をいったん虚構化してなかったことにして、逆にいまここにはない不在の作者の思想を問題化し、隠された意味をさぐるべく距離の彼方へ視線をなげかけるという仕草をともなうが故に、すぐれて抽象的な運動だということになろう。(蓮實重彦の「大江健三郎殺し」

さて話をもとに戻そう
いやわたくしはこうやって思いもよらぬ方向へ運ばれていくのを
楽しんでいるところがある
(ーーと書く言表内容ではなく、言表行為はなにを示しているのだろう?
と問うてもよい)

これら錯綜して引用される文は場合によっては
インターテクスチャリテでありときには反撥しあう
ああ「不確実性の知恵」(クンデラ『小説の精神』)、
「神の笑いのこだま」であったらよいのだが!
すくなくとも「非論理的・非合理的なものの介入」ではある

ウィトゲンシュタインは、「動物は考えないから、話さないのではない、たんに話さないのだ」といった、逆にいえば、人間は考えがあるから話すのではなく、たんに話すのである。ロラン・バルトは、「書く」という動詞は他動詞ではなく、自動詞だといったが、「話す」という動詞も同様である。つまり、ひとは何か考えを話すのではなく、たんに話すのだ(たとえば、幼児は“意味もなく”たんにしゃべる)。だが、それをわれわれ自身が聞くとき、その言葉が何かを意味していると思うのみならず、まるで前もってそのような「意味」が内的にあったかのように思いこむ。

デリダが、明証性を「自分が話すのを聞く」ことにあり、そこで“差延”が隠蔽されるのだというのは、いわばこのことである。結局「話す」立場に立つというとき、われわれは実際は「聞く」立場に立ってしまっている。(……)

ところで、このことは、「書く=読む」立場についてもそのまま妥当する。デリダの「音声中心主義」への批判は、まるで書くことや読むことの優位性を意味するかのように受けとられている。しかし、「書く」ことや「読む」ことが、純粋に存在することなどありはしない。

たとえば、われわれは一語あるいは一行書いたそのつど、それを読んでいる。書き手こそ読み手なのだ。そして、書き手の“意識”においては、この“遅延”は消されてしまっている。実際はこうだ。われわれは、一語または一行書くとき、それが思いもよらぬ方向にわれわれを運ぶのを感じ、事実運ばれながら、たえずそれをわれわれ自身の「意図」として回収するのである。書き終わったあとで、書き手は、自分はまさにこういうことを書いたのだと考える。

このような錯誤は、語られ書かれることを、われわれ自身が聞き読んでしまうということに存する。ここでは、他者とはわれわれ自身であり、したがって《他者》ではない。そして、語られ書かれることが、他者にとってはたして「意味している」かどうかは、すこしも疑われない。だが、他者が、あなたは、語り書く以前あるいは過程で、内的にべつのことを意味していたはずだと主張するとき、われわれにはそうではないと証明するすべはない。

このことは、しかし、テクストを「読む」者の、優位性あるいは創造性を意味するわけではない。読む者は、自らの読解を示したければ「書く」ほかない。そうでなければ、彼の読解は「私的言語」にすぎないからだ。そして、彼が「書く」とき、先にのべた過程をたどるほかないのである。(柄谷行人『探求 Ⅱ』「第二章 話す主体」P27-28)


ーーーこれは冒頭に書いた、
語り手、あるいは書き手の真の宛先は
自分自身かもしれないことの説明となりうる

だが柄谷行人の「他者」を書き出したら終わりそうがない
ここでは素直にもとの文脈にーー繰り返すがーー戻らなくてはならない


コミュニケーションはつねに失敗する
失敗しなければならない
それゆえわれわれは話し続けることができる
もし互いに完全に理解し合ってしまったなら
残るのは沈黙だけだ
幸福にもわれわれは「真理は半分しか言えない」

ーーと書けば浅田彰がこう言っているのを憶い出す

(斉藤)コミュニケーション・チャンネルは複数が平行して使われて、会って話し、携帯で話し、メールを送り、手紙を渡してと、非常に密に使われている一方、内容には深まりがない。とくに個人的な葛藤がほとんど語られなくなっている。もちろん恋愛などの対人葛藤は出てくるのですが、個人の内面的葛藤は相手にまったく受け入れれないことが分かっているので、出てこない、出そうとしない。

(浅田)浅いコミュニケーションがものすごく広がった社会なんですね。しかし、その一方で、「充実したコミュニケーション」という理想がどこかにあって、それが実現されないのでコミュニケーションから撤退するという人たちもいる。ひきこもりもそういうケースがあるように思います。例えば、「親は、言葉を聞くだけで、自分の本当の気持ちを分かってくれない」などという子供がいる。本当の気持ちなんか分かるわけないんで、言葉を聞いてくれるだけでもありがたいと思え、と(笑)。むしろ、本当の気持ちを分かり合うなどという方が気持ち悪いでしょう。けれども、そういう上っ面だけのインチキなコミュニケーションには耐えがたい、だからコミュニケーションそのものを切断してひきこもる、という人がいるわけです。それはもともとの前提が間違っているのではないか。
(……)

人間は互いに分かり合えない、だからこそコンフリクトを重ねつつ共存していくんだ、という大前提が、ふと気がついてみたら、まったく共有されなくなっていた、そのことにはさすがに愕然としますね。(「批評空間」2001Ⅲ―1斉藤環、中井久夫、浅田彰共同討議「トラウマと解離」より)

さてなんの話だったか
エノンセとエノシアシオンの落差の話だ
ロラン・バルトは日記を書く動機を四つ並べている
四番目の動機は次の如し

第四の動機は「日記」を文の作業場にすることである。《美しい》文のではない。正確な文のである。つまり、絶えず言表行為〔エノンシアシオン〕の(言表〔エノンセ〕のではない)正確さを磨くことである。夢中になって、一生懸命、デッサンのように忠実に。もうまるで情熱としっていいほどに。《もしあなたのくちびるが正しい事を言うならば、わたしの心も喜ぶ》(『箴言』、第二十三章十六節)。これを愛の動機と名づけよう(多分、熱愛的とさえいってもいいだろう。私は「文」を熱愛する)。……(ロラン・バルト「省察」1979『テクストの出口』所収ーー痛みやすい果実