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2014年8月4日月曜日

男なんざ光線とかいふもんだ

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)



…………

◆カーミル・パーリア「性のペルソナ」より。
女に対する(西欧の)歴史的嫌悪感には正当な根拠がある。(女性に対する男性の)嫌悪は生殖力ある自然の図太さに対する理性の正しい反応なのだ。理性とか論理といったものは、天空の最高神であるアポロンの領域であり、不安(に抗する為に)から生まれたのだ。………





西欧文明が達してきたものはおおかれすくなかれアポロン的である。アポロンの強敵たるディオニュソスは冥界なるものの支配者であり、その掟は生殖力ある女性である。その典型的なイメージはファンム・ファタール、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。宿命の女(ファンム・ファタール)は自然の精神的両義性であり、希望に満ちた感情の霧の中にたえず射し込む、悪意ある月の光である。………






宿命の女は虚構ではなく、変わることなき女の生物学的現実の延長線上にある。ヴァギナ・デンタータ(歯の生えたヴァギナ)という北米の神話は、女のもつ力とそれに対する男性の恐怖を、ぞっとするほど直観的に表現している。比喩的にいえば、全てのヴァギナは秘密の歯をもっている。というのは男性自身(ペニス)は、(ヴァギナに)入っていった時よりも必ず小さくなって出てくる。………







社会的交渉ではなく自然な営みとして(セックスを)見れば、セックスとはいわば、女が男のエネルギーを吸い取る行為であり、どんな男も、女と交わる時、肉体的、精神的去勢の危険に晒されている。恋愛とは、男が性的恐怖を麻痺させる為の呪文に他ならない。女は潜在的に吸血鬼である。………





自然は呆れるばかりの完璧さを女に授けた。男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。………






エロティシズムは社会の一番柔らかい部分であり、そこから冥界的自然が侵入する。………

(性的な意味合いでの)自然とは、食うもの(食物連鎖の上、女を指す)と食われるもの(食物連鎖の下、男を指す)が繰り広げるダーウィン的な見世物である。生殖(性交)はどの側面を見ても食欲に支配されている。性交は接吻から挿入にいたるまでほとんど制御できない残酷さと消耗からなる。人間は妊娠期間が長く、子供時代もまた長く、子供は七年以上も自立することができない。この為に男たちは死ぬまで、(女性への)心理的依存という重荷を背負い続けなければならない。男が女に呑み込まれるのを恐れるのは当然だ。女は(自然を忘れた男を罰して食ってしまう)自然の代行人なのだから。(カーミル・パーリア「性のペルソナ」)



女は腹の魔力(ベリー・マジック)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するのだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女は、かつて人間を吐き出し、今度はまた呑み込もうとする暗い胃袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へと移すことは、腹の魔力を頭の魔力(ヘッド・マジック)に変えることであるからだ。そしてこの防御的な頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。(同上)

ーーカミール・パーリアは第二世代のフェミニスト、あるいは揶揄的にアンチフェミニズムのフェミニストとも言われる。

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より





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あだしごとはさておきつ。

閑話休題(あだしごとはさておきつ)。妾宅の台所にてはお妾が心づくしの手料理白魚の雲丹焼うにやきが出来上り、それからお取り膳ぜんの差しつ押えつ、まことにお浦山吹うらやまぶきの一場いちじょうは、次の巻まきの出づるを待ち給えといいたいところであるが、故あってこの後あとは書かず。読者諒りょうせよ。ーー(永井荷風『妾宅』)

《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)






さて吾良を評価した映画批評家、五十女のエミーは、じつは吾良がプロモーションの旅行に加わっている間、吾良に同行していたのだった。それも吾良の暇を見つけてはホテル近辺の小さなレストランに招いてくれ、もっと長い記事を書きたい、と詳細なインタヴューを続けたのである。 そして吾良があらためてサンフランシスコに戻り、日本へ発とうという前日、中華街に誘ってくれての、しめくくりのインタヴューがあった。その後、ホテルへの狭い坂道を辿る途中で抱きしめあることにもなった。吾良は勃起を感じとらせぬよう腰を引く配慮をするどころか、この夜はむしろ相手の下腹やら腿やらをそいつで押しまくってやった。インタヴュー使用言語の英語によって抑圧されていると感じてきた反動の、攻撃性も自覚していた。なにより十日間のアメリカ旅行に、性的なエネルギーが蓄積されていたのである。その結果、エミーは自宅へ向かう替りに吾良の部屋へ上がって来ることになった。 





――それまでは、健康なことはよくわかるけれども、肥って陽気なインテリ女性というだけだったんだよ。ところがいったんヤルとなると、もの凄い熱中ぶりなんだ。穴という穴、前後を選ばない人でさ。朝までこれの身体のどこかにいつも手をふれていて、ヤッてない間はひたすらペニスを奮い立たせる手だてを講じている。そのほかに何もないよ。さすがにタフな吾良さんもエジャキュレイトが難しいとなると、自分の口のへりにペニスを引き据えてね、おれには指を使わせて、舌で盛んに協力する。なんとか放出できたとなると、カメレオンのようにそいつを舌でとらえるからね。空港への迎えの車が来れば彼女も乗り込んで、ずっとペニスにさわっているんだ! それが今度、三週間のスペイン・ロケが定まってみると、おれと同じホテルに部屋をとったといって来たのさ。恐怖の二十日間のことを思うと、ペニスともどもげんなりしてね!(大江健三郎『取り替え子』p75-76






写真はすべて荒木経惟作品である。


女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒っているわけだよ。(荒木経惟)





《荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。》ーーと語ったのは、荒木経惟の長年のモデルのひとりであるKAORIちゃんであるかどうかは知るところではない。

荒木の写真は、自分がいなくても自分が写りこむ「私写真」と本人が称するように、写真家の"存在"を痛烈に感じさせるものだ。直接姿を見せずとも、自分を写真の中に色濃く写し出す。(……)

こうした写真家の意図が、「自然に、ありのままに裸体が存在しているはず」という見るものの思惑を、そして見るものの視線を中断させるのだ。できるだけ写真家の痕跡を消そうとしていたグラビア写真とは正反対の行動である。荒木の写真は、扱う題材が一般的なポルノグラフィーとほとんど変わらない、もしくはそれ以上に過激であるにもかかわらず、「役に立たない」写真であるとされている。伊藤俊治の言葉を借りれば、「孤独な満足」を得られないのである。ポルノグラフィーでは可能だった鑑賞者と被写体との個人的な関除に、第三者として荒木が割って入っているからだ。(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣