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2014年8月1日金曜日

知識欲の源泉としての女性器リサーチ

前投稿「スフィンクスの謎」の補遺。

まず前回の最後に付け加えるようにした文(Paul Verhaeghe TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』私意訳)を再掲する。

要約しよう。このトラウマに関するラカン理論は次の如くである。欲動とはトラウマ的な現実界の審級にあるものであり、主体はその衝動を扱うための十分なシニフィアンを配置できない。構造的な視点からいえば、これはすべての主体に当てはまる。というのは象徴秩序、それはファリックシニフィアンを基礎としたシステムであり、現実界の三つの諸相のシニフィアンが欠けているのだから。

この三つの諸相というのは女性性、父性、性関係にかかわる。Das ewig Weibliche 永遠に女性的なるもの、Pater semper incertuus est 父性は決して確かでない、Post coftum omne animal tristum est 性交した後どの動物でも憂鬱になる。これらの問題について、象徴秩序は十分な答を与えてくれない。ということはどの主体もイマジナリーな秩序においてこれらを無器用にいじくり回さざるをえないのだ。これらのイマジネールな答は、主体が性的アイデンティティと性関係に関するいつまでも不確かな問いを処理する方法を決定するだろう。別の言い方をすれば、主体のファンタジーが――それらのイマジネールな答がーーひとが間主観的世界入りこむ方法、いやさらにその間主観的世界を構築する方法を決定するのだ。

この構造的なラカンの理論は、分析家の世界を、いくつかのスローガンで征服した。象徴秩序が十分な答を出してくれない現実界の三つの諸相は、キャッチワードやキャッチフレーズによって助長された。La Femme n'existe pas, 〈女〉は存在しない、L'Autre de l'Autre n'existe pas, 〈他者〉の〈他者〉は存在しない、Il n'y a pas de rapport sexuel,性関係はない。

結果として起こったセンセーショナルな反応、あるいはヒステリアは、たとえば、イタリアの新聞はラカンにとって女たちは存在しないんだとさと公表した、構造的な文脈やフロイト理論で同じ論拠が研究されている事実をかき消してしまうようにして。たとえば、フロイトは書いている、どの子供も、自身の性的発達によって促されるのは、三つの避け難い問いに直面することだと。すなわち母のジェンダー、一般的にいえば女のジェンダー、父の役割、両親の間の性的関係。

ヴェルハーゲは最近のレクチャーでも似たようなことを、より一般に分かり易い言葉で語っている。

◆“Is Psychoanalysis Teachable?  Annual conference of The College of Psychoanalysts.  London, 12th February 2011 in the Library at 21 Maresfield Gardens.  Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility.

子供は三つの互いに関連する問いに答を知りたいのである。第一は、少年と少女の相違にかかわる。二番目は赤子の起源。最後のものは、父と母について。彼らはどんな関係があるのだろう?と。フロイト曰く、子供は、科学者のように追及する。そして純粋に解釈的な理論をでっち上げていく。それがすなわちフロイトが呼んだ幼児の性的リサーチであり幼児の性理論である。そこに生み出される知識の繰り返し出てくる問題は、それらが決して最終的なものではないということである。正しい知識の代わりに、子供は原幻想に甘んじなければならない。真の、偽の、知識の欠如はイマジネールな構造物に結集する。

the child wants to know the answer to three related questions. The first concerns the difference between boys and girls; the second question concerns the origin of babies; the last one is about the father and the mother: what is their relationship? The child, says Freud, proceeds like a scientist and will forge genuinely explanatory theories, that is why Freud calls them infantile sexual researches and infantile sexual theories. The recurring problem with the knowledge produced is that the answers are never final. Instead of a correct knowledge, the child must content itself with the primary fantasies, combining true, false and lack of knowledge into imaginary constructions.

これらの三つの謎が、人間の誰にでもある「内的トラウマ」の源であるとするヴェルハーゲの捉え方は、その「トラウマ」という言葉遣いに違和がある向きもあるだろうが、このスフィンクスの謎が、われわれの知識欲の源泉のひとつであるには相違ない。この知識欲を親の禁止で早期に抑圧された子供は、生涯、探究心が欠ける傾向にあるとさえ言える。ーーとするのはいささかマズイのだが。すなわち抑圧されればよりいっそう欲望するようになるというのが古来からの論理であるから。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350

もっとも代表的な謎は、《子供たちはどこからやってくるのか、という謎》であり、それが女の性器にかかわるとすれば、知識欲の発展において少女は少年より「不利」な肉体的特徴をもっている。子供たちがやってくる出口を自ら手鏡で覗くことができるのだから、――などどバカにされるかもしれないことは言わないでおこうぜ、と前回書くのは思い留まったのだが、やはりこうやって書いておこう。料理でさえ味覚を追求するのさえ女性ではなく男性コックではないか。もっとも少女たちもすこぶるソーセージに関心はあるのだろうが、やはりより始原の関心はがま口ではないか。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910  フロイト著作集3 P116)


とすれば最近、インターネットで容易に女性器のぐあいの画像や映像を眺めることができる少年たちは探求欲の衰えがあるのではないだろうか。わたしのような旧世代は、十代前半には、ボカシやモザイクの向こうの神秘に眩暈がしたものである。


 ミレールは、《科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです》という。これはすなわち象徴界(言語の世界)には、女は表象不可能なものとしてあるということであり、その表象不可能なものを追求する始原の問いが、《子供たちはどこからやってくるのか、という謎》への問いであるだろう。

無意識には女についての男の無知そして男についての女の無知の点があります。それをまず次のように言うことができます。二つの性は互いに異邦人であり、異国に流されたものである、と。

しかし、このような対称的表現はあまり正しいものではありません。というのも、この無知は特に女性に関係するからです。他の性について何も知らないからなのです。ここから大文字の他の性Autre sexsというエクリチュールが出て来ますが、それはこの性が絶対的に他であるということを表わすのです。実際、男性のシニフィアンはあります。そしてそれしかないのです。(……)

科学があるのは女性というものla femmeが存在しないからです。知はそれ自体他の性についての知の場にやってくるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

で、やっぱりすぐれた科学者も哲学者にも、女はすくないよな

ーーーというわけで、なにかバカげたことを、わたくしは書いていないだろうか? 

いささか気が弱いタチなので、最後に中島義道氏に応援してもらっておこう。

男のズボンの中を盗撮する女性がほとんどいないように、男が排泄するシーンに興奮を覚える女性がほとんどいないように、哲学する女性はほとんどいない。逆に言えば、女性たちはこういうワイセツ行為に欲求を覚えないように、哲学に欲求を覚えないのだ。(『生きにくい…』 中島義道)

応援はもうすこし格調高い老子にもたのんでおくことにする。

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)

…………

※附記


子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910 フロイト著作集3 p116)