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2013年11月2日土曜日

「行間にはなにも書かれていません」(蓮實重彦)

◆「あるがままに観る」ということ

 『AERA』の連載「小林麻耶のワクワク対談」(周防正行 『AERA』2011.1.25号より

麻耶 周防さんは小さいときから映画監督になりたかったんですか。

周防 いえいえ、とんでもないです。僕は映画監督というのは、優れた人がなるものだと思っていたから、でも大学1年生のときに蓮見重彦さんの映画評言論という授業を受けたら、考えが変わった。

麻耶 どんな授業だったんですか。

周防 例えば、国語の授業で僕らは子どものころから「行間を読め」って言われるでしょ。

麻耶 はい。

周防 蓮實さんの仏文の授業では、「行間には何も書かれていません」と言われました。で、映画の授業では「何が映ってましたか」って聞かれるんですけど、例えば映画「未知との遭遇」だったら、「特撮がすばらしかった」と言うと「特撮だとどうしてわかるんですか? 本物の円盤ではないのですか」と切り返され、「パンフレットに書いてあります」なんて言ったら、そこでもうアウトなんです。「あなたは映画を見てるんじゃなくて、パンフレットを読んでます」と

麻耶 ああ、確かに。

周防 そうやって僕らは、「映ってないものを見てるんだ」っていうことを思い知らされる。そうしたら僕、映画が難しいなと思わなくなったんです。だって、映っているものを見るだけだから。——

周防 ——「本当の自分」って何なんでしょうね? 実は、存在するということは、他人から見たその他人の数だけの僕がいるだけで、この「あるがまま」が人にどうとられるかだけだと思うんです。そう考えると、しょうがないんです。開き直るしかないんです。

いかにも蓮實重彦らしい挑発的反語だ、としておこう。
ーー「行間にはなにも書かれていません」

ところで、
作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切り離して作品を論ずる気にはなれない。ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。——柄谷行人

という文をツイッター上から拾ったが、柄谷行人がどこでいっているのかは窺いしれない。

柄谷行人には『隠喩としての建築』(1979)にヴァレリー論があり、すくなくともそこでは上のようなことは言っていない。あるいは『マルクスその可能性の中心』(1978)では、マルクスの価値形態論にむすびつけて(ヴァレリーは仏国においてマルクスの最初期の熱心な読者だったらしい)ヴァレリーの『芸術についての考察』を長々と引用している。

要するに、芸術作品とは一個の対象物(オブジェ)であり、ある個人たちにある種の働きかけを行おうとしてつくられた、人間による制作物であります。個々の作品とは、あるい言葉の物質的な意味における物体(オブジェ)であり、あるいは、舞踊や演劇のように行為の連鎖であり、あるいは―――音楽がそうなのですが―――同じく行為によって産出される継起的印象の合計であります。こうした対象物を起点とする分析によって、私たちは、私たちの芸術概念を明確にしようと試みることができます。こうした対象物こそ、私たちの探求の確実な要素にほかならぬと見なしうるものなのです。こうした対象物を考察することによって、そしてまた、一方ではそれらの作者へと遡行し、他方ではそれらが感動作用を及ぼす人間へと遡行することによって、私たちは、<芸術>という現象がふたつのそれぞれ完全に区別されて変形されうるということを見出すのです(それは経済学において生産と消費のあいだに存在する関係と同じ関係であります)。

きわめて重要なのは、これらふたつの変形作用―――作者からはじまって製造された物体における変形作用と、その物体つまり作品が消費者に変化をもたらすという意味での変形作用―――が、相互に完全に独立しているということです。その結果として、このふたつの変形作用は、それぞれべつべつに考えられるべきである、ということになります。

みなさま方は、作者、作品、観客あるいは聴き手という三つの項を登場させて命題をお立てになる。しかし、この三つの項を統合するような観察の機会は、けっしてみなさま方のまえにあらわれないだろうという意味で、そういう命題はすべて無意味な命題なのです。(……)

……私の辿りつく点というのはこうです。―――芸術という価値は(この言葉を使うのは、結局のところ私たちが価値の問題を研究しつつあるからですが)この価値は本質的に、いま申したふたつの領域(作者と作品、作品と観察者)の同一視不能、生産者と消費者のあいだに介在項を置かねばならぬというあの必然性に従属しているということです。重要なのは、生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ、そして作品というこの介在体は、作者の人柄や思想についてのある概念に還元できるようななにごとも、その作品に感動する人間にもたらさぬということなのです。(……)

芸術家と他者(読者)このふたりの内部にそれぞれなにが起こったか、それを厳密に比較するための方法など、絶対にいつになっても存在しないでありましょう。そればかりではありません。もし、一方の内部で起こったことが他方に直接的に伝達されるのだとすれば、芸術全体が崩壊するでありましょう。芸術のもつ力のすべてが消失するでありましょう。他者の存在に働きかける新しい不浸透性の要素の介在がせひとも必要なのです。(ヴァレリー『芸術についての考察』 清水徹訳)

この文は、読者ー作者という読み方を諌める文として、「テクスト」批評の起源のひとつとしてよいだろうし(《生産者と消費者とのあいだに精神に還元できぬなにものかがあって、直接的交渉が存在しないということ》)、柄谷行人の先に掲げた文は、いやそれにもかかわらず、「作家の精神の動き」が重要であると主張しており、ことによったらテクスト批評や蓮實重彦への批判としても捉えられるかもしれない。

実際、80年代から90年代前半の蓮實重彦と柄谷行人の蜜月期をへて、90年代後半のどこかでふたりは離反した印象を受ける。


次の文は柄谷行人が鮮明に蓮實重彦を批判している対談録からである。

柄谷 台湾の侯考賢の「非情城市」を見たときに、この人ははっきり主題を持っていて、この映画で台湾の運命を描いている。天皇が敗戦の演説をしているときにオギャーと産まれる私生児が台湾です。監督自身は本土から来た外省人だけど、ネーションとしての台湾の形成を描こうとしたわけです。例えば、台湾の左翼らが蒋介石によって弾圧されるんですけれども、彼らは台北の帝国大学を出た左翼であって、たとえ毛沢東が来たって弾圧されたでしょう。左翼そのものが「日本文化」なんですね。とにかく、彼の主題は明白です。僕がその映画を見に行ったときに、パンフレットみたいなのを見たら、蓮實重彦が、ここのアングルは小津の引用だとか、そういうことしか書いてないんですよ。

村上 本当ですか。

柄谷 監督は明らかに、そのような主題なしにこの映画を作らなかっただろう。技術的な問題は映画監督なら当たり前のことですよ。しかし、蓮實重彦は主題など見るのは素人だ、おれはそんなバカではないという感じで書いていた。しかし、アングルがどうのこうのなんて、そんなもの映画をつくっている人間から見たらカスみたいな話ですよ。素人が映画を見まくって覚えた技術論なんか関係ない。みんな苦労しているから、それぞれ技術をもっていますよ。批評家がそんなことを得意そうにいう筋合いはない。小説でも同じことですが。日本の映画がなぜだめかというと、主題がないからだ、あんなカスみたいな趣味的評価は全部否定しろ、主題をもつ以外に日本の映画は復活できない、と僕はいいました。小説も同じですよ。(……)

村上 主題を否定することで、何かそこに価値があるという倒錯は至るところにありますね。(「時代閉塞の突破口」柄谷行人ー村上龍対談2000.10『NAM生成』所収)


他方、ふたりの蜜月時代、蓮實重彦は柄谷行人の対談集(1988)で、《僕が表層批評ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは……》と語っている。

……かりに自分が自分の批評家であったとすれば、蓮實重彦のこれまでの仕事は、一貫して、魂の唯物論的な擁護であるということになるでしょう。魂の唯物論的な擁護ということが、僕自身にとっての批評の意味でもあるわけです。魂というのは、きわめて具体的な言葉なら言葉の魂ということです。記号でも作品でもいい。文章でもかまわない、それを、ものとして、物質として、それが語られているその場で、みずから輝かせることが批評ではないか。そして、自分自身の言葉が、他人によって輝いたという経験も記憶もないのです。それは、蓮實重彦を語る人の多くが、イメージを介してしか論じていないもどかしさを与えるのですが、もっと困るのは、そのイメージが、僕と適当に似ていることです。そしてその相似によって、魂の唯物論的擁護がいたるところで流産されていると感じる。ということは、批評の魂がものとして輝いていないという意味でもあるわけですが、僕のもどかしさは、むしろ、ひどよい類似にたどりつくしなないイメージの貧弱さです、そしてそのことは、ほとんどの批評について言える弱点となっている。

魂の唯物論的な露呈をさまたげているもの、それはイメージです。観念といってもよい。つまり、表象可能なものによってしか批評が支えられていない。ここで魂というのは、いささかも宗教的な意味はないし、また、プラトニズム的な色彩も含んではいないものです。むしろ、ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)に触れて具体的に他となる部分が魂であって、唯物論的というのは、たんなる物質というのではなく、肉体的な運動、つまりアクションを必然化するものなのです。宗教やプラトニズムの残滓が、魂の唯物論的な露呈をさまたげているというべきなのです。その意味で、現代の批評は。宗教的でプラトニズム的だとさえ言えると思う。

僕が表層批評ということを、あえて誤解を覚悟でいったのは、そうした現状にいらだってのことです(……)。(『闘争のエチカ』)

ここで語られているのは、作品を鑑賞するときに、ひとびとはイメージ(作家の、あるいは周防正行の対談の発話でいえば、パンフレット)を介して、それに接してしまい、作品の「魂」に触れることが流産してしまう、ということだ。

以下の文も同じことが語られている。


ギュスターヴ・フローベールと口にするがはやいか、(……)誰もが意味なくすべてを納得した気分になってしまう(……)。この寛大な容認だけは何としても避けなければならなかった。(……)誰もがフローベールを知っている。そして、知っているという事実をたがいに確認しまうために、人は、フローベールをめぐって誰もが知っている物語を語りあう。(……)誰にでも妥当性を持つことで、誰もがそれを口にするのが自然だと思われる物語。それが知の広汎な共有を保証し、その保証が同じ物語を反復させる。かくして知は、説話論的な装置の内部に閉じこもる。(蓮實重彦『物語批判序説』p18-19)

この文章の「物語」という語彙を「イメージ」に置き換えても、そのまま読めることに注目しておこう。


さて、では蓮實重彦は70年代の仕事『表層批判宣言』でなにを書いたのか。たとえばそこに収められている「健康という名の幻想」には次のような文がある。

現在=「生」=「作品」

現在の反義語は過去でもなく未来でもない。問題の一語がそれなのだ。また、「生」の反義語も「死」ではない。やはり問題の一語がそれなのである。つまり問題の一語は、現在=「生」の反義語にほかならない。では、現在=「生」の同義語としては何があるか。それが最後の問題である。しかし、これもまた問題の名に値しないであろうことは、誰もが具体的な体験として生きつつあるはずだ。

いうまでもなく、現在=「生」の同義語として特権的なものは「作品」の一語である。そしてその一語は、文学をあらゆる体験のうちで最も貴重なものに仕立てあげるだろう。もちろん、われわれが文学の一語で想像する体験は、どこかいかがわしくひとりよがりなところがあるし、ある種の頽廃や衰退の概念をいつも引きずっているように思う。そして、文学がそのようなものとして想像されがちであるというには、それなりの理由がそなわっていないでもない。文学にたずさわるものの多くが、書きそして読むという体験を世界の頽廃した湿地に咲き乱れる無償の美しさとしてあることをむしろ誇りい思い、欠落を埋め間隙を充たし距離を越える試みをかえって実践的な行動として軽蔑してきたふしがあるからである。しかし、いまとなってはそんな理由はさして重大なものとはいえなくなってきている。というのも、文学と呼ばれる領域に、世界の残りの部分に起っていたこととはまったく異質の体験が生きられていたとはとうてい思えないからである。そして、実際、文学的体験とこれまで見てきた思考一般の体験の同質性に気づくのに、人はさほどの努力を必要とはしないだろう。というのも、ほとんどの場合、「作品」は現在として生きられることなく問題として抽象化され、意味といういまここにはない隠されたものをいささかの困難を伴いつつさぐりあてる試みが読むことだとされているからである。それは、思考の善意が煽りたてるかりそめの葛藤劇の構造とあらかた同じものが、文学的体験を支えているという何よりの証拠である。いったい小説家の大江健三郎は、どうして『ピンチランナー調書』という「作品」を書いたのか。作家たる大江氏はどんな思想をそこにこめようとしたのか。いかなる意味をそこに読みとればいいのか。われわれ読者をどこへ引きずって行こうとしているのか。「作品」と向かいあった思考がだどるのは、おおむねそうした謎解きの運動だ。つまり「作品」とは、読むことによって埋められる空白、あるいは越えられる距離としてそこに姿をみせているのだ。この運動は奇妙なことに、いまここにあるはずの「作品」をいったん虚構化してなかったことにして、逆にいまここにはない不在の作者の思想を問題化し、隠された意味をさぐるべく距離の彼方へ視線をなげかけるという仕草をともなうが故に、すぐれて抽象的な運動だということになろう。つまり、読むことは、「作品」に接することによって作者の思想と「作品」の意味とが自分の内部に欠落していると実感することで始まる、局部的で過渡的な不均衡を解消せんとする試みなのだ。「作品」の意味ではなくそこにこめられた個人的体験の切実さに触れんとする運動も、それと同じ身振りを演ずることになるだろう。いずれにせよ、意味にしても切実な体験にしても、それが「作品」の表層にあからさまに露出していたのでは、読むことの善意を保証するあの程よい困難が失われてしまうと気遣ってか、人はきまって背後に隠されたもの、距離をへだてて隠されたもの、つまりはあからさまな現存ではなくもっともらしい不在と戯れることを好んでうけいれてしまう。いずれにせよ読むことは、思考がそうであったように喪失の体験からはじまり、自分は感知しえないところで起こっているその喪失を回復したところで動きをとめる健康への歩みなのだ。作者の思想がわかった、「作品」の意味が読めたという時点で完成させる過渡的な運動としての読むことと想像される文学的体験が、何ら特殊なものでない点はそれで明らかであろう。そうした視点からすれば、「作品」を読むとは、思考の退屈な日常にほかなるまい。思考がそうであったように、読むこともまた決って勝利するのだ。もちろん、どうしても理解できないという無力感に苛立つこともないではないが、それは過渡的な不快さであるにすぎず、そのことに執着して遂に完璧な頽廃に行きついてしまったものなど誰ひとりいはしない。要するに、「作品」の現存ぶりに心底から脅えるものはないということだ。それは、「作品」を数ある問題の一つにすぎないとして高を括る抽象的な安心が広く行きわたっていて、その現在をたやすく抽象化する仕草が具体性だととり違えられてしまうからである。

作者にそれなりの思想があり、「作品」にそれなりの意味がそなわっているのは当然のはなしだ。だが、思想は作者ではないし、意味もまた「作品」ではない。それは、読者が作者の「生」と「作品」の現在とは、抽象化することではじめて視界に浮上する問題であるにすぎない。それを理解する試みは決して無駄ではあるまいが、そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい。抽象と具体性とをとり違えることの不幸は、不倫という罪を背負って行き続けることの不幸などとは比較にならぬ絶対的な頽廃へと人を導くものなのだ。そしてその絶対的な頽廃とは、「生」の現在をいともたやすく虚構化したように「作品」の現存に脅える資質をおしげもなく放棄させる。そのとき「作品」は、その意味や作家の思想に従属し、あきらかに一人に作家がある目的を持って書いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌として存在に迫ってくることをやめてしまう。読者は「作品」が作者に素直に従属すると思い、作者もまたその所属を当然と感じ、みずからの「作品」に脅える資質を放棄する。恐ろしいのは、この両者による脅える資質の均等なる放棄ぶりだ。というのも、作者=読者という対立が偽の葛藤にほかならなかった事実が、そこにあられもなく露呈されてしまうからである。何のことはない、彼らはともに「生」=現在が自分に所属し、思いのなりにそれを操作し統禦しうるものと錯覚しているのだ。恐ろしいことではないか。しかもそう錯覚することの恐ろしさがいとも簡単に忘れられ、真に恐れるにたるものが抽象化されうる環境を、思考の「制度」と呼ぶのである。そして、「制度」化された思考が脅える資質を放棄した対象として、「生」=現在と「作品」との同義語的な関係がひとまず明らかにされたと思う。


上の文は、《だが、その関係はより積極的に明らかにされねばならない。それにはどうするか。》と引き続く。そして《野火という「記号」》という小題が新たに立てられ、大岡昇平の『野火』をめぐって書き継がれてゆくが今は割愛せざるをえない。

この文には、《作者にそれなりの思想があり、「作品」にそれなりの意味がそなわっているのは当然のはなしだ》とある。だが、ひとびとの一般的な読み方、物語やイメージに従属した読み方、あるいは《「作品」は、その意味や作家の思想に従属》したものとする読み方は、《一人に作家がある目的を持って書いたものでありながらも、思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌として存在に迫ってくることをやめてしまう》と書かれている。

蓮實重彦の「行間に何も書かれてしません」は、このように読むべきなのだ、つまり行間に何かが書かれているのは当たり前だ、だがそれに囚われると、《そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい》。ーーこのように読まねばならない。


他方、柄谷行人の「作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働き」とは、ことによったら次のような読み方でもありうる。


◆《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』)

◆《誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?》(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

◆《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)


「行間にはなにも書かれていません」を真に受けてしまったら、精神分析的な読み方など全く否定されてしまう。いやなにも「精神分析的」でなくてもよい。たとえばテクスト生成研究は、草稿研究により、最終テクストの行間を読むことーー作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きを読む事ーーがその中心的な手法であるといってよいだろう。

テクスト生成の研究者は、もちろん草稿なしには語らない。その点では私たちよりも歴史家に似ているだろう。しかい、厖大な草稿の中で次第にテクストが選ばれてゆく過程を読むと、私には近しさが感じられる。それはそもの書く時に、語る時に、私たちの中に起こっていることだ。患者の中にもおそらく起こっていよう。……(中井久夫「吉田城先生の『失われた時を求めて草稿研究』をめぐって」)

もちろん蓮實重彦だってフローベール研究で似たようなことをやっているに違いない。「行間にはなにも書かれていません」--それはイメージに囚われて作品を鑑賞してはならない、という意味に過ぎない。

いやそれではあまりに単簡すぎるというのなら、《肝腎なのは、生なましく触知しえない現在に苛立つ者たちが、思考すべき切実な課題とやらを文学に導入し、何とか欠如を埋めようと善意の努力を傾けようとする点だ。思考とは、この欠如を充塡すべく演じられる身振りにほかならない、そしてその身振りは、いくつもの解決すべき問題を捏造する。》(『凡庸な芸術家の肖像』p243)

「イメージ」や「物語」、「問題」を捏造して、この生なましい今=現在と触れるのを等閑にしてはならぬ。それが「行間を読むな」ということの意味合いであると、敢えて断言しておこう。


逆に、精神科医が、患者の発話の「行間を読む」だけではないことは瞭然としている。むしろ、上に蓮實重彦が書くように、《思想や意味をはるかに超えた豊かな混沌》や、《「生」=現在》に耳をすますのが、その肝腎な仕事だろう。

精神科医として、私は精神分裂病における言語危機、特に最初期の言語意識の危機に多少立ち会ってきた。それが詩を生み出す生理・心理的状態と同一であるというつもりはないが、多くの共通点がある。人間の脳がとりうる様態は多様ではあるが、ある幅の中に収まり、その幅は予想よりも狭いものであって、それが人間同士の相互理解を可能にしていると思われるが、中でも言語に関与し、言語を用いる意識は、比較的新しく登場しただけあって、自由度はそれほど大きいものではないと私は思う。

言語危機としての両者の共通点は、言語が単なる意味の担い手でなくなっているということである。語の意味ひとつを取り上げてみても、その辺縁的な意味、個人的記憶と結びついた意味、状況を離れては理解しにくい意味、語が喚起する表象の群れとさらにそれらが喚起する意味、ふだんは通用の意味の背後に収まり返っている、そおういったものが雲のように語を取り囲む。

この変化が、語を単なる意味の運搬体でなくする要因であろう。語の物質的側面が尖鋭に意識される。音調が無視できない要素となる。発語における口腔あるいは喉頭の感覚あるいはその記憶あるいはその表象が喚起される。舌が口蓋に触れる感覚、呼気が歯の間から洩れる感覚など主に触覚的な感覚もあれば、舌や喉頭の発声筋の運動感覚もある。

これらは、全体として医学が共通感覚と呼ぶ、星雲のような感覚に統合され、またそこから発散する。音やその組み合わせに結びついた色彩感覚もその中から出てくる。

さらにこのような状態は、意味による連想ばかりでなく、音による連想はもとより、口腔感覚による連想、色彩感覚による連想すら喚起する。その結果、通用の散文的意味だけではまったく理解できない語の連なりが生じうる。精神分裂病患者の発語は、このような観点を併せれば理解の度合いが大きく進むものであって、外国の教科書に「支離滅裂」の例として掲載されているものさえ、相当程度に翻訳が可能であった。しばしば、注釈を多量に必要とするけれども。

このような言語の例外状態は、語の「徴候」的あるいは「余韻」的な面を意識の前面に出し、ついに語は自らの徴候性あるいは余韻性によってほとんど覆われるに至る。実際には、意味の連想的喚起も、表象の連想的喚起も、感覚の連想的喚起も、空間的・同時的ではなく、現在に遅れあるいは先立つものとして現れる。それらの連想が語より遅れて出現することはもとより少なくないが、それだけとするのは余りに言語を図式化したものである。連想はしばしば言語に先行する。

当然、発語というものは、同時には一つの語しかできない。文字言語でも同じである。それは、感覚から意味が一体となった、さだかならぬ雲のようなものから競争に勝ち抜いて、明確な言語意識の座を当面獲得したものである。(中井久夫 「詩の基底にあるもの」『家族の深淵』)