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2014年8月26日火曜日

「無限の翻訳の連鎖」と「原 =翻訳」(蓮實重彦)


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これは批評一般についていえることですが、映画批評とは本質的に言い換えの試みです。ある意味では、翻訳といってもいい。しかし、その翻訳は、映像記号=音声記号からなるフィルムの言語記号への読み替えといった単純なものではありません。フィルムに触れることで、批評する主体は、まず、眠っている記号を覚醒させる、つまり潜在的なものを現行化させるという体験をくぐりぬけるのであり、そのことによって自分も変化せざるをえず、主体がいつまでも維持される静態的な記号の解読ではありません。しかし、それがそのつど覚醒化というできごとと同時的な言い換えの試みである限り、どこまでいっても翻訳には終わりはなく、決定的な言い換えというものは成立しようがない。だから、あるとき、自分にこの翻訳をうながしているものはなにか、また、その言い換えが可能であるかにみえるのはいかなる理由によるのかと自問せざるをえません。そのとき、批評家は、いわば「原 =翻訳」ともいうべきものと直面し、言葉を失います。そんなものが現実にあるかどうかは問題ではありません。しかし、どこかで言い換えの連鎖を断ちきるような高次の力に触れるしかありません。ひとまず「 réel」としか呼びえないものとひとが出会うのは、そうした場合にかぎられている。

だから、「 réel」と口にするひとは、そう口にしてしまった自分にその資格があるかどうかという疑いを持たねばなりません。ところが、「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった。この制度は、なんらかのかたちでもう一度わさわさと揺り動かさなければならない。無限の翻訳の連鎖に組み入れられた体験を持たないひとが、「原 =翻訳」なんていっちゃいけないわけですよね、本来は。にもかかわらず、現代では、自分に果たしてその権利があるのかどうかを誰も反省しなくなっているという怖さがあります。それは、思考の頽廃でしかありません。自分がそれを語るにふさわしい人間か、また、そのかたちで語っていいのかということに対する反省が、いたるところで失われてゆきます。そのとき、職業ではなく、体験としての批評が改めて意味を持ち始めるのですが、言い換えの無限の連鎖に取り込まれるより、ひとこと「 réel」といっているほうが、疲れなくていいのかもしれません。(蓮實重彦インタビュー ──リアルタイム批評のすすめ vol.2

ここにある無限の翻訳の連鎖」と「原 =翻訳」とは、「シニフィアンの主体」と「享楽の主体」と――蓮實重彦はラカン派につねに批判的ではあるのだけれどーーほとんど同じことを言っているのではないか。






要するに、無限の翻訳の連鎖も経ずに、享楽(上の図の赤い穴)について安易に語るな、ということなんだろう。

《「 réel」について語ることは、その資格もないひとたちがもっとも楽天的に戯れうる制度になってしまった》とあるが、トラウマについても同じ。

脱構築はすぐれてモダニズム的手法である。それはおそらく「暴露(仮面を剝ぐ)」という論理の最も根源的な形である。この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視しているかぎりにおいて可能である。ラカンにおいてはじめて「ポストモダニズム的」断絶が生じる。というのも彼は、きわめて曖昧な地位を維持しているある種の現実界的で外傷的な核を論理化したからである。〈現実界〉は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある。この意味で、われわれは次のようにすら言うことができるーー脱構築主義者たちは根本的には依然として「構造主義者」であり、享楽こそが「真の〈物自体〉」であり、この中心の不可能性のまわりに、すべての意味作用のネットワークは構造化されている、と断言したラカンこそ唯一の「ポスト構造主義者」である、と。(ジジェク『斜めから見る』P267)

《この論理においては、意味の経験の統一性そのものが、意味作用のメカニズムの効果としてとらえられる。そしてその効果は、それを生んだテクストの運動を無視しているかぎりにおいて可能である》とあるが、これは「行間にはなにも書かれていません」という蓮實重彦への批判としても読めないことはない。

だが、蓮實重彦の「行間に何も書かれてしません」は、次のように読むべきなのだろう、ーー行間に何かが書かれているのは当たり前だ、だがそれに囚われてしまうと、《そのとき読者が無意識に身を譲りわたすものが、「生」と現在とをことが終れば廃棄しうる二義的な媒介に還元してしまう嘆かわしい頽廃にほかならぬという事実だけは、そうたやすく忘れられてはなるまい》(「健康という名の幻想」『表層批評宣言』所収)

蓮實重彦にはジジェク批判もある。

ジジェク派というかその無邪気なエピゴーネンは、できればものなど見ずにやりすごしたい人類の思惑と矛盾なく共鳴しあってしまう。ジジェクに騙される連中は馬鹿として放っといていいと思っているんですが……(蓮實重彦

だが、《〈現実界〉は象徴化に抵抗するが、同時にそれ自身の遡及的産物でもある》とジジェクが書くとき、「遡及的産物」が肝要なのであり、これは象徴界における無限の翻訳の連鎖」を通してのみ、現実界における「原 =翻訳」に遭遇するということでもある(両者をともに顕揚するにはいささか無理があるかね?)。

※参照:〈私〉という主人のシニフィアンの遡及性


もっとも、ジジェクの書き物には、安易に「現実界( réel)」と安易に言ってしまう感を抱かざるを得ないときもあるのだが、とくにその映画、文学、音楽、絵画をめぐる叙述には。

フローベールは「黄色の印象を与えたい」がために『サランボー』を、「わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じを出したい」がために『ボヴァリー夫人』を書いたらしく、これを聞いただけでもフローベールに好感を抱かざるを得なくなるとブルトンは言っているが、成る程いい感じ。御意。(鈴木創士ツイート)

蓮實重彦は《わらじ虫がうようよする片隅のあのカビの色みたいな感じ》などとは、けっして(少なくとも安易には)、口に出さないのではないか。

「原=翻訳」とは、「表象の奈落」とも言い換えられる。


「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』「あとがき」より)


「技巧的な蓮實」と「熱い蓮實」との古谷利裕批評があるが、これも「シニフィアンの主体」と「享楽の主体」と似ているな、《「技巧的な蓮實」が、その原形質として「熱い蓮實」によって支えられている》とあるからな。

蓮實重彦の『映画狂人のあの人に会いたい』は、81年に行われたジョゼフ・ロージーとアレクサンドル・トローネへのインタビューで始まっている。2人のインタビューの末尾に添付された簡単な紹介文を読んで、この雰囲気こそが、当時、蓮實氏の批評を多くの人に伝染させたものなのだと感じた。この、人の感情を煽り立てるような独自の調子は、『物語批判序説』などというタイトルの本を出している人にしては、あまりに不用意に通俗的、扇情的、あるいはメロドラマ的なのだが、おそらく著者本人の、感激しやすいというか、興奮しやすい性質と分かち難く結びついているのだと思われる、人の情動を揺り動かす調子に触れたならば、いわゆる「技巧的な蓮實」が、その原形質として「熱い蓮實」によって支えられているのが読みとれると思う。「戦略としての迂回」などと称されもした初期の蓮實氏独特の妙に持って回ったような文体が多くの人に支持されたのは、勿論その論述の内容が圧倒的に鋭かったからであるのだが、それ以上に、あのうねうねとどこまでも続く文章の調子が、なによりも「熱さ」の表出として人々を共振させたからだと思う。

一方、この本に収められたものでもっとも新しいインタビューは、今年の春に行われた万田邦敏の『UNLOVED』に関するものだ。ここで、主演女優の選択について質問した蓮實氏に答えて、万田氏は、当初は、紺野美沙子、沢口靖子、細川ふみえ、などをイメージしていたと言う。「細川ふみえですか!?」と驚く蓮實氏に「薄幸な感じがいいなあ、とね」と万田氏。これに続けて蓮實氏は、「でも、北野武監督の『菊次郎の夏』のフーミンはとてもよかった」と。蓮實氏の口から思わず「フーミン」という音が漏れてしまうというのは、何とも感動的な瞬間であって、しかも今時(『スキスキスー』の時期ではないのだし)誰も細川ふみえのことを「フーミン」なんて呼ばない訳で、そこに微妙なズレが生じていることが、この感動にさらに何とも言えぬ趣を付け加えている。現在の蓮實氏は、どうしたってこのようなズレとともにあるしかない。しかし、このようなズレは、完璧に隙のない「技巧的な蓮實」よりはずっと良いのではないだろうかと思う。

《人間はひとつの構造、つまり言語の構造、-構造とは言語を意味するのですが-この構造が身体を分断することによって思考する》(ラカン『テレヴィジョン』)

あたりまえのことなんだけどさ、身体の「熱さ」が原形質となるのは。

研究者・学者であるならば、「熱い蓮實」やら、蓮實重彦の「享楽の主体」を見出して批判するのもわかるけどな。《明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって》(浅田彰)、批判していたらよろしい。連中には「表象の奈落」とは縁がなさそうだからな。いや、そんな才能はめったにあるもんじゃないが、それを恥じる心持さえ微塵もないようなのだから。

蓮實)みんな、文学は教えられないというけど、文学の教育は可能なんです。日本では、文学教育のプロフェッショナルがいなかったというだけのことです。文学部系のアカデミズムがあまありにも弱体だったので、教育が機能しなかったのであり、そのうち、みんががあきらめちゃった。これは、不幸なことですよね。これが有効に機能していたら、いまの批評家の半分は批評家にならずにすんだと思う。自分の趣味とは関係なく、文学の名において、おまえは才能がないと言う人がいなかったんです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』ーー「依怙贔屓」、あるいは「お前は才能がない」

いまではますます《おまえには才能がない》という人は少なくなっているのだろうから、「ほどよい聡明さ」に死ぬまで浸かって、いつまでも厚顔無恥を曝しておればよろしい(ここでオレのようにな! と書いておかないと、聡明なる「シニフィアンの主体」の輩がなんたら言ってくるかもしれないから、書いておくよ)。

ただし、ほどよい「聡明さ」に犯された「学者」たちの饒舌は、「思考」の環境汚染に役立つこと、その汚染された環境が「制度」のありかをさりげなく隠蔽すること。そして、そんな環境汚染を糾弾する「公害」学者が僅かしかいないこと。--などと書けば、誰のパクリなのは瞭然としているだろうが、いまは長くなるから、バクリ先を引用することはしないでおく。

代りに、ツイッターなどで「得意満面」たる夜郎自大のシニフィアンの批評家たちの饒舌、そのフニャチンぶりってのは、やっぱりこういうことなんだろう、という文を掲げておく。

言葉が尽きずに、改行もなしにとめどなく流れつづけてゆくことの恐怖というのが、いまの時代の姿なのかも知れません。しかしそれを崩れと観るという感受性それ自体が、こんなに萎えてしまっているのではねえ。(古井由吉+松浦寿輝対談