もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。
それ、言葉だけが、失われていないものとして残りました。そうです、すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。言葉はこれらをくぐり抜けて来て、しかも、起こったことに対しては一言も発することができないのでした、──しかし言葉はこれらの出来事の中を抜けて来たのです。抜けて来て、ふたたび明るい所に出ることができました──すべての出来事に「豊かにされて」。(「ハンザ自由都市ブレーメン文学賞受賞の際の挨拶」『パウル・ツェラン詩文集』より)
「若きパルク」は「誰が泣くのか、過ぎ行く一筋の風ならで/いやはての星々とともにひとりあるこのひとときに」で始まる。『ドゥイノの悲歌』は「誰が、たとえ私が叫ぼうとも、天使たちの序列の中から私の声を聞いてくれようか」で始まる。いずれも鋭い、答えのない「誰が?」で始まる。
そうして「若きパルク」では個人の意識の中に、『ドゥイノの悲歌』では人間の現存在世界とでもいうべきものの中に、ずんずん下って行く。『荒地』だけは問いかけではなく、「四月は残酷な月だ」で始まるが、中途に「誰が?」「誰だ?」という問いかけをいく度も放ちながら、現代社会の荒廃と索莫の地獄めぐりを行う。いずれの詩も最後近くににわかに上昇に転じ、肯定で終わるが、肯定は唐突であり、どこかに弱さがある。読み終えた者の耳に残るものは不安で鋭い問いかけの方である。
これらの詩を二十世紀後半の詩と隔てるものは何であろうか。
私たちは三歳から五歳以後今まで連続した記憶を持っている。むろん忘却や脱落はあるが、にもかかわらず、自我は一つで三歳以後連続している確実感がある。それ以前の記憶は断片的である。また成人型の記憶は映画やビデオのように、いやもっとダイナミックに動いているが、ある時期の記憶は前後関係を欠き、孤立したスティール写真のような静止画像である。成人型の記憶と違って、言葉に表しにくい。
「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。
これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。
たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(中井久夫「私の三冊」『アリアドネからの糸』所収)
外傷性フラッシュバックと幼児型記憶との類似性は明白である。双方共に、主として鮮明な静止的視覚映像である。文脈を持たない。時間がたっても、その内容も、意味や重要性も変動しない。鮮明であるにもかかわらず、言語で表現しにくく、絵にも描きにくい。夢の中にもそのまま出てくる。要するに、時間による変化も、夢作業による加工もない。したがって、語りとしての自己史に統合されない「異物」である。相違点は、そのインパクトである。外傷性記憶のインパクトは強烈である、幼児型記憶はほどんどすべてがささやかないことである。その相違を説明するのにどういう仮説が適当であろうか。
幼児型記憶は内容こそ消去されたが、幼児型記憶のシステム自体は残存し、外傷的体験の際に顕在化して働くという仮説は、両者の明白な類似性からして、確度が高いと私は考える。(中井久夫「発達的記憶論」『徴候・記憶・外傷』所収 53頁)
他方ラカンの「サントーム」セミネールに、”un corps qui nous est étranger”とあるが、これは「異物としての身体Fremdkörper」のことだろう。
シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。
l'inconscient n'a rien à faire avec le fait qu'on ignore des tas de choses quan qu'on sait est d'une toute autre nature. On sait des choses qui relèvent du signifiant. (...) Mais l'inconscient de Freud (...) c'est le rapport qu'il y a entre un corps qui nous est étranger et quelque chose qui fait cercle, voire droite infinie - qui de toutes façons sont l'un à l'autre équivalents - quelque chose qui est l'inconscient." (Seminar XXIII, Joyce - le sinthome, lesson of 11th May 1976
シニフィアンによって分節化された象徴界の内部にあって、しかもその内部の異物としてあるものが、現実界としてのFremdkörperのことである。
Fremdkörper, a foreign body present in the inside but foreign to this inside. The Real ex-sists within the articulated Symbolic.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")
※参照:ラカンの三つの身体
中井久夫は、ツェランを語りつつ、ラカンの“il y a”やハイデガーの “es gibt”の次元をめぐって語っているのではないだろうか、--とするには、わたくしはハイデガーについてまったく無知である。
…… 境界例や外傷性神経症の多くが自由連想に馴染まないのは、自由連想は物語をつむぐ成人型の記憶に適した方法だからだと私は考えている。いや、つむがせる方法である。この点から考えると、フロイトが自由連想法を採用したことと幼児期外傷の信憑性に疑問を持ったこととは関係があるかもしれない。語りにならば、それはウソくさくなったかもしれないのである。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 p85)
以下、ハイデガーについてまったく知らないものがメモする。
〈存在する〉とは...
古くは、〈存在する〉の意味は一つだった
ギリシア以降、〈存在する〉には〈本質存在〉と〈事実存在〉に分かれた
ギリシア人は、制作(創作)を好み、多くの制作を行っていたことが理由か?
〈事実存在〉は(日本語では)「~〈ガアル〉」と表現できる。ものがある、自然現象として観察できるなど。
〈本質存在〉は(日本語では)「~〈デアル〉」と表現できる。ものを作る前の頭の中にある設計図のようなもの。概念的なものも含まれる。
英語では、be動詞は本来〈本質存在〉を表すときに使う。〈本質存在〉は「A is B」と表す。〈事実存在〉は「There is A」と表す。
ドイツ語やフランス語では、〈本質存在〉では〈sein〉や〈etre〉を使い、〈事実存在〉は〈es gibt---〉や〈il y a---〉と〈geben(与える)〉や〈avoir(持つ)〉を使う。
形而上学(あるいは哲学)は、〈本質存在〉と〈事実存在〉を明らかに区別する。
ジジェクは、jouissance féminine(女性の享楽)、あるいは〈他者〉の享楽について、女性の享楽は存在しない。が、”il y a de jouissance féminine”としている。そして、引き続き、ハイデガーのes gibtが言及されている。
もっとも、こう書かれつつ、同じ書の後半には次のように文も見られるのだが、ハイデガーに無知の身として、それには触れ得ない。
もっとも、こう書かれつつ、同じ書の後半には次のように文も見られるのだが、ハイデガーに無知の身として、それには触れ得ない。
what is totally missing in Heidegger is not only the dimension of the Real of jouissance, but, above all, the dimension of the “between‐two‐deaths” (the symbolic and the Real) which designates Antigone's subjective position after she is excommunicated from the polis by Creon
◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』からのメモ。
when Lacan talks about jouissance féminine, he always qualifies it—“if a thing like that were to exist (but it does not)”—thereby confirming its incommensurability with the order of (symbolic) existence.68 Jouissance féminine does not exist, but il y a de jouissance féminine, “there is” feminine enjoyment. This il y a, like the German es gibt which plays such a key role in late Heidegger, is clearly opposed to existence (in English, the distinction gets blurred, since one cannot avoid the verb “to be” in translation). Jouissance is thus not a positive substance caught in the symbolic network, it is something that shines through only in the cracks and openings of the symbolic order—not because we, who dwell within that order, cannot regain it directly, but, more radically, because it is generated by the cracks and inconsistencies of the symbolic order itself.
We should be attentive here to the difference between the inexistence of jouissance féminine and the inexistence of a father who would fit its symbolic function. (“If there is no such father, it still remains true that the father is God, it is simply that this formula is confirmed only by the empty sector of the square.”)69 In the case of the father, we have a discrepancy between the symbolic function (of the Father) and the reality of individuals who never fit this function, while in the case of jouissance féminine, we have the Real of jouissance which eludes symbolization. In other words, in the first case, the gap is between reality and the symbolic, while in the second case, the gap is between the symbolic and the Real: miserable individuals called fathers exist, they just do not fit their symbolic function, which remains an “empty sector of the square”; but jouissance féminine, precisely, does not exist.
One standard definition of the Lacanian Real describes it as that which always returns to the same place, that which remains the same in all possible symbolic universes. This notion of the Real as a “hard core” that resists symbolization must be supplemented by its opposite: the Real is also a “pure appearance,” that which exists only when we look upon reality from a certain perspective—the moment we shift our point of view, the object disappears. What both extremes exclude in the standard notion of reality as something which resists in its In‐itself, but changes with regard to its properties: when we shift perspective, it appears different. However, these two opposed notions of reality can be thought together—if one bears in mind the crucial shift that takes place in Lacan’s teaching with regard to the Real. From the 1960s onwards, the Real is no longer that which remains the same in all symbolic universes; with regard to the common notion of reality, the Real is not the underlying sameness which persists through the multitude of different points of view on an object. The Real is, on the contrary, that which generates these differences, the elusive “hard core” that the multiple points of view try (and fail) to recapture. This is why the Real “at its purest” is the “pure appearance”: a difference which cannot be grounded in any real features of the object; a “pure” difference.
reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳