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2014年8月18日月曜日

Faure OP.121 アンダンテ

わたくしの葬式用の音楽。

ーーバッハじゃ凡庸だからな。最近すこし心変わりして、大河の波の音でもいいさ、というふうに心持は傾いては来ているが。

葬式用ったて、死んでから聴くわけにはいかないしな。


◆四重奏団名不明




ーーどのカルテットなんだろう。この曲はそんなに多くの演奏録音があるわけではない。

参照 → フォーレ:弦楽四重奏曲ホ短調 Op.121

たぶん、あのカルテットだろうとは思うが、ここには敢えて書かないでおこう。


◆クレットリ弦楽四重奏団(Krettly String Quartet)




◆イザイ四重奏団(Quatuor Ysaye)




◆Loewenguth Quartet




◆Amati Quartet




順不同だからな。どれが一番の好みかなんて書かないでおくよ
数少なくフォレのop.121を演奏してくれる人たちだからな
カザルス、チボーでさえ、op121には不感症だったのかもな

若きLe Quatuor Ebèneの二楽章がYouTubeに上がっていないのが残念だが、あの連中は生きのいい演奏するよ。これからのカルテットの華じゃないかね。彼らがいたら、イザイ四重奏団解散する気になるのも分かるな。

Le 24 janvier 2014, le Quatuor Ysaÿe a donné son dernier concert à la Cité de la Musique de Paris. Une soirée plein d'émotion qui clôturait un parcours musical de 30 ans.( Quatuor Ysaÿe WEB SITE)

ーーというか、仲間割れの気味合いがあるのかもしれないが。カルテットを長年キープするのは困難なんだろうな。


◆エベーヌ四重奏団op.121 三楽章




◆エベーヌ四重奏紹介映像のひとつ




…………

誰も彼を嫌う人はいない、さればといって、本気で打ちこんで愛しているんのかと問いつめられると、また、即座にウィと答えられる人はごく少なく、むしろほかの音楽家たちのあとまわしにされてしまうのではないか。それだけに少数の熱愛者の熱は、ますます高くなるというのも事実だが。(吉田秀和 フォレ《ピアノと絃のための五重奏曲第二番》『私の好きな曲』)

ーーというわけで、少数の熱愛者らしい、オレは

私はまちがっているかも知れない。そうでないとすれば、私には何故フォレがこんなにたまにしか演奏会でとりあげられないか、よくわからないのである。

というのも、私の考えでは、フォレの音楽派ーーその全部ではないとしても、その中のあるものはーー近代ヨーロッパ音楽の最良のものに属するからである。

私は、彼の音楽を愛し、かつ、それを非常に、非常に高く評価する。

《非常に》、とあって読点があって、また《非常に高く》とされているな。いい書き方だ、一呼吸おくようで。

非常に、非常に正しい。

とにかく、彼がそれに値するだけ、充分に強く愛されておらず、充分に正しく評価されていないとしたら、それは、彼の良い点、彼の再考の美徳が、多くの人々の好みとどういう関係に立っているのかということを、考えてみる必要があるだろう。

みんなは、彼が嫌いではないのだから。

つまり、ここには、彼の一部とだけつきあっているかぎりでは、みんな、彼を好ましく思い、よろこんできくのだが、彼が本当の彼になり、より高いところに達した時は、みんなには何かが気に食わなくなる、あるいはみんなの耳に届きにくいメッセージを告げるようになったという事情があるかも知れないのだ。

みんな耳が繊細にできてないだけだろ?

以前、晩年のフォレの、好みの作品をツイッターに貼り付けていたら、「なんて渋い音楽ばかり聴いていて」、などと、ドイツに住む、たしかイタリアかどこかの著名な指揮者の前妻だった音楽家系の女性に言われたのだがーー揶揄にもきこえたよ、そんなしちめんどう臭い音楽ばかり! ってーー彼女でさえ、そんなことを言う。彼女は絶対音階の持主で、バッハ以前の作品にも詳しく、おおむね趣味があって仲良くなったのだが、これを言われてなんだかがっかりしてしまった。


ナウモフよ、きみはオレの稀なる友だちだよ





彼はバッハのコラールをたくさんピアノ用に編曲している。

※参照:エミール・ナウモフEmile Naoumoffとナディア・ブーランジュNadia Boulanger


吉田秀和の『私の好きな曲』のフォーレの項目は、その表題の通り、ピアノ五重奏曲第2番OP.115について主に書かれているのだが、そこにはこのop121(フォーレの最後の作品、死ぬ直前の作品で、彼は耳がきこえなくなり、演奏は聴くことができなかった)への言及もある。

ヴァイオリン・ソナタ第二番は一九一六年から翌年にかけて作曲され、二曲のチェロ・ソナタは、それぞれ、一九一七年と一九二一年に書き上げられたのに反し、それぞれたった一曲づつのピアノ三重奏曲(一九二二年から翌年)と弦楽四重奏曲(一九二三年から二十四年にかけて)の二作は最後の三年間に、はじめて完成されたのである。これは純然たる晩年の作品であり、そこには形而上学的と呼ぶのがふさわしい、高度に精神化された筆法がみられる。その中では、私は弦楽四重奏曲の緩徐楽章に最もひかれる。これは、ちょっと把えどころのないような夢幻的な超脱的な雰囲気の中で、そえとはさだかではないが、しかし通じるものには通じるといった感触で、苦悩の跡があり、息苦しさと、それを静かに耐え忍ぼうとしている精神の働きがある。

かつて、第一ピアノ四重奏曲で、私たちを魅惑した、あの愛撫するような歩みが、ここでは、まるでちがった表情で戻ってきているのも注目をひく。

それから、いみじくも『コーダは涙で曇った頬笑みのような、不思議な魅力的な不協和音をもつ』(H.Hallbreich)と呼ばれた、この楽章の結びの素晴らしさ!

《形而上学的と呼ぶのがふさわしい、高度に精神化された筆法》とか、《通じるものには通じる》ってのは、精神的でなかったり、通じないひとには厭味にきこえるんだろうな。少し前に引用した、《彼が本当の彼になり、より高いところに達した時は、みんなには何かが気に食わなくなる、あるいはみんなの耳に届きにくいメッセージを告げるようになった》というのと同様に。

まあいいさ。それぞれみなさんの趣味があるんだから。
たとえば、リストに精神性を聴く耳はオレはまったくもたないからその面ではニブイんだろ