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2014年8月11日月曜日

ヒステリーの言説(ヒステリー者の疎外と主人の去勢)

まずラカンの「四つのディスクール」すべてのもととなる形式的構造を掲げる。


話し手 → 受け手(他者)

 ↑       ↓

真実  // 生産物


すなわち、次の如し。










やや詳しくは、私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」を参照のこと。

ここでは「FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES」(Paul Verhaeghe)から私意訳するが、そこでの主にヒステリーのディスクールをめぐって書かれている箇所である。

だがヒステリー者のディスクールは、時と場合によって、主人の言説、大学人の言説に変貌することが書かれているので、あわせて四つのディスクールの図をさきにしめしておく。




S1:主人、マスター、主人のシニフィアンなど
S2:教育者、知の体現者、知識など
$ :斜線を引かれた主体、欲望など
a :分析家、対象a、剰余享楽、愛など


また分析家のディスクールをめぐっては、ヴェルハーゲには、最近になって水際立った論がある(『Teaching and Psychoanalysis: A Necessary Impossibility』)。しかもそこには、「分析家」の言説のみではなく、「分析主体」の言説の構造を明かす内容が説かれており、数多あるだろうラカンの四つのディスクールを解説論のなかで、この分析主体のディスクールを明晰に説明する論に、わたくしは初めて出会ったのだが、ここではそれに触れることはしない。もちろんこれらも一ラカン派の臨床医よりの観点であり、ほかのより理論的なラカン派の論者には、種々の別の視点があることは言うもまたない。

…………

今日の主要な話題はヒステリーなので、ヒステリーの主体を吟味してみましょう。もちろん彼もしくは彼女はコンサルティングルームにやって来ます、典型的なヒステリーの言説でね($→S1)。その言説だと他者はマスターのポジションととることを余儀なくされます。そして知識を垂れ流して去勢されることに終わります(後述:引用者)。他方、同じヒステリーの主体がマスター(主人)の言説をもってその場面に現われることもあります。それは格別異例のことではありません。この場合、患者は自身を彼、もしくは彼女の主人、すなわち主人のシニフィアンの症状と同一化しています。他者はそのシニフィアンについての引受人として機能することになります、すなわち主人のシニフィアンについての知識を持っているものと想定されるわけです。「わたしは産後うつ病になっています。わたしは産後うつ病なんですの。先生はそれについて知っている(S2)専門家ですわね。さあどうぞ! わたしを治してください。先生のお好きなように。ただしわたしは主体としてのゲームに入り込む気はありませんからその限りで。」(S1→S2)

Since the main topic today is hysteria, let's examine the hysterical subject. Of course he or she can come to the consulting room with a typical hysterical discourse, in which the other is forced to take the position of the master, with the obligation to secrete knowledge and end up castrated. On the other hand, this same hysterical subject herself can appear on the scene with the discourse of the master – and that is not such an unusual situation. In that case, the patient identifies him or herself with his or her symptom as master-signifier S1 about which the other functions as a guarantee because he is supposed to possess the knowledge about it: “I have a postnatal depression, I am my postnatal depression, you are the specialist who knows ( S2) about such things, so just go ahead and cure me, do anything you want, as long as I don't have to enter the game as a subject”.
三番目に、同じヒステリーの主体は大学人の言説でやってくることがあります。彼もしくは彼女はすくなからぬ知識を持ってわたしたちを印象づけます。その知識をもって彼もしくは彼女は他者を強制的に沈黙した対象に陥れます(S2→a)。そのことによって彼もしくは彼女は、真実のポジションにおかれた隠された主人を見つめることを避けようとします(s2/s1)。このようにヒステリー者をヒステリーの言説にのみ転化させるのは間違っています。これはすべての言説に言えます。真実は半分しかいえない“le mi-dire de la vérité”のですから、車輪は回り続けています。セミネールアンコールの第二章で、ラカンはわたしたちに教えてくれます、ひとは毎度ひとつの言説から他の言説に移ることを。そのときなのです、分析家の言説が現われるのは。対象a から$ への決意を掴み取る可能性としての分析家の言説です。アンコールの同じパラグラフで、ラカンはこう教えています、言説のどの横断もまた愛の徴だ、と。その考え方とともに、あとはよろしく!

Third, the same hysterical subject can come to us with a university discourse. He or she can impress us with a considerable sum of knowledge by which he or she reduces the other to a mandatory silent object, and by which he or she avoids looking at the hidden master at the position of the truth. Just as the reduction of hysteria to the hysterical discourse is wrong, the same goes for every discourse. As the truth can only be half said – “le mi-dire de la vérité” – the wheel keeps on turning. In the second chapter of his seminar Encore, Lacan tells us that, each time one changes one discourse for another, there is at that moment an emergence of the analytic discourse, as a possibility for grasping the determination from object a to $. In the same paragraph he tells us that every crossing of discourse is also a sign of love. I want to leave you with that idea!

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構造的には、ヒステリーの言説はヒステリーの主体にとっては疎外をもたらし、主人には去勢をもたらします。主人による答えは、いつも的を外しています。というのは真の答えというのは対象a にかかわるのですから。その対象aは失われた対象であり、言葉で言い表わせないものです。この不首尾の古典的な反応は、いっそうもっとシニフィアンを生み出すことです。(S1/S2)それはますます真実のポジションにある失われた対象から遠ざかることです。

Structurally, the hysterical discourse results in alienation for the hysterical subject and in castration for the master. The answer, given by the master, will always be beside the point, because the true answer concerns object a, the forever-lost object, which cannot be put into words. The classical reaction to this failure is to produce even more signifiers, which creates of course an ever-increasing distance from the lost object at the position of the truth.
これは次々に、一方では主人と、他方ではシニフィアンの連鎖における根本的な欠如、このふたつのあいだの衝突という結果をまねきます。根本的な欠如とは、シニフィアンの連鎖が最終的な真実を言葉で言い表わすことの不可能性です。この不可能性は主人の不首尾を露わにします。それが彼の象徴的去勢ということです。そのあいだに、S1として他者のポジションにある主人はしきりにS2、すなわち知識を吐き出しています。この知識なのです、それが繰り返し決定づけるのは、ヒステリーの主体の根本的な疎外です。彼女のある特定な問いへの応答として、ヒステリーの主体は一般的な理論や信条等々を受け取ります。その応答に従うかそうでないかにかかわらず、あるいはまたその応答と同一化するか否かにかかわらず、それらは的を外しています。どの場合でも、応答は疎外をうながす答えです。生産物としての知識は、真理の場にある対象a についてはなにも重要なことを言い得ないのです。(a / / S2)

This in turn results in a confrontation between the master on the one hand and the fundamental lack in the signifying chain on the other, that is the impossibility of the signifying chain to verbalise the final truth. This impossibility causes the failure of the master, and so his symbolic castration. In the meantime, the master at the position of the other as S1 has produced an ever-increasing S2 and thus a knowledge. It is this knowledge which determines time and again the fundamental alienation for the hysterical subject: as an answer to her particular question, she receives a general theory, a religion, a… Whether or not she complies to it, i.e. whether or not she identifies herself with it, is beside the point: in every case, the answer will be an alienating one. The knowledge as a product is unable to say anything important about the object a at the place of the truth. (a / / S2)

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症例ドラのケースの時代は、すくなくともフロイトは主人のポジションを取っていたという指摘は多い。いやそれだけではなく女性ラカン派分析家の第一人者 として名高いColette Solerコレット・ソレールは、フロイトはけっきょく終生「父=主人」だったのではないかとしていたはずだ。


◆“Is Psychoanalysis Teachable?” Annual conference of The College of Psychoanalysts. London, 12th February 2011

「Teaching and Psychoanalysis: A necessary impossibility.」 Paul Verhaeghe

At that time, Freud became a real Master in discerning the resistances of his pupils/patients, even before they knew them themselves. Time and again, he formulates the critique of his pupils/patients himself – much better than they ever could have done – and each time he takes the edge off the argument. Such a strategy can only result in two possible reactions: either one is transformed from a patient into a pupil who says yes and absorbs everything, or one reacts as Dora did, by slamming the door and leaving.

ーーすなわちフロイトはドラ嬢に去勢されたということになるのだろう。


アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論「When Surplus Enjoyment Meets Surplus Value」より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)

ヒステリー者は、権力自身よりも権力の弱さにいっそう多く憤る。そして彼女もしくは彼の基本的な不満の種は、ふつうは、マスターが十分にマスターでないことである。 
the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough.

と引用すれば、現在、ひとびとが、以前にも増してヒステリックにならざるをえないのは、総理大臣が十分に総理大臣でないことであるだろう。ーーというのは余談であり、ジュパンチッチの次の文が、ヴェルハーゲとはまた視点が異なった、ヒステリー者の特徴の豊かな指摘であるだろう。

ヒステリー者は、否定の守護神である。同じ標準で図れなさの、不可能性の守護神である。 このスタンスのよく知られた問題は、この放棄と自己犠牲そのものが、たちまちに剰余享楽あるいは満足の源となることである。ヒステリー者は“無”に満足する、この表現のふたつの可能な意味で。無が彼もしくは彼女を満足させるだけではない。それだけでなく無自身が満足の重要な源なのである。これは、ラカンのディスクールの図式において、剰余享楽(a)が真実の場所にある理由だ。

The hysteric is the guardian of the negative, of the incommensurable and the impossible. The well-known problem of this stance is that it fails to see that this renunciation and sacrifice themselves very quickly become a source of surplus enjoyment or satisfaction. The hysteric is satisfied with nothing, in both possible meanings of this expression. It is not only that nothing can satisfy him or her, but that the nothing itself can be an important source of satisfaction. This is why, in Lacan's schema of the discourse, surplus enjoyment (a) is in the place of truth.

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ーーと書いてきたが、現在、ヒステリーの症状が稀になってきた、という同じヴェルハーゲの指摘がある。もちろんこれは主人の、エディプスの斜陽(象徴的権威の失墜)にかかわるのは、たとえばミレール、ジジェクなどによってさんざん語られてきていることだが。


◆Lecture in Dublin, 2008 (EISTEACH) 
A combination that has to fail: new patients, old therapists Paul Verhaeghe 

現在、フロイトから百年経て、われわれはまったく異なった症状に直面している。恐怖症の構築のかわりに、パニック障害に出会う。転換症状のかわりに、身体化と摂食障害に出会う。アクティングアウトのかわりに、攻撃的な性的エンアクトメント(上演)に出会う、それはしばしば自傷行為と薬物乱用を伴っている。そのうえ、ヒストリゼーション(歴史化)等々はどこかに行ってしまった。個人のライフヒストリーのエラボレーション、そこにこれらの症状の場所や理由、意味を見出すようなものは、見つからないのだ。最後に、治療上の有効な協同関係はやってこない。その代りに、われわれは上の空の、無関心な態度に出会う。それは疑いの目と、通常は陰性転移を伴う。実際、そのような患者を、フロイトは拒絶しただろう。いささか誇張をもって言うなら、好ましく振舞う(行儀のよい)かつての精神神経症の患者はほとんどいなくなってしまった。これが、あなたがたが臨床診療の到るところで見出す現代の確信である。すなわち、われわれは新しい種類の症状、ことに、新しく取扱いが難しい患者に出会うのだ。(フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」より