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2014年8月9日土曜日

アタシとボクの「おちんちん」

なんだい、きみ? オレにきいてくんなよ、オレはラカン初心者なんだからさ、せいぜいこの五年ほど断片的にラカン、というかラカンまわりだな、それらを粗雑に読んだだけだよ。しかも幸か不幸か、日本ラカン学者の論というのは、ウェブ上にある文献しか読んだことがないんだよ

…………

ラカンは、‘master signifiers’(主人のシニフィアン)を‘points de capiton’(クッションの綴じ目)と呼んだが、解釈者によって、ボタンの結び目、ネクタイピンなどども言われることがある。すなわちひとびとの語り、シニフィアンのネットワークをピンで留めるシニフィアンであり、それは個々の主体だけではなくより広く社会においてもそうである(Stavrakakis 1999)。それがあるために社会は整合化(秩序化)される(ジジェク)。

どの「主人のシニフィアン」も瘤のようなものであり、知識、信念、実践などを縫い合わせて、それらが横にずれることを止め、それらの意味を固定する(ジジェク)。”anchoring point”(船が碇を下ろすポイント:ジジェク)とか“suture”(縫合する:ミレール)などの言い方がされるときもある。なにが主人のシニフィアンを構成するのかといえば、《語りの残りの部分、一連の知識やコード、信念から孤立化されることによってである》(Fink 1995)。この“empty”(空の)シニフィアン(主人のシニフィアン)が、正確な意味を持たないことによって、《雑多な観点、相相剋する意味作用のチェーン、ある特定な状況に付随する独特の解釈を、ひとつの共通なラベルの下に、固定し保証してくれる》(Stavrakakis 1999)――たとえば、certainty, the good, risk, growth, globalisation, multiculturalism, sustainability, responsibility, rationality等々が”master signifiers“である。


――という具合にいまでは政治的文脈で語られることの多いmaster signifiers(主人のシニフィアン)だが、ラカンはこのシニフィアンをS1としたり、後期ラカンの使用法では、種々のS2の連鎖を通した「弁証法化されたdialectized」タームであり、「父の名」と相互に関連しているように“見える”。

In the late 1960s and 1970s, S1, is assigned the role of the "master signifier," the nonsensical signifier devoid of meaning, which is only brought into the movement of language—in other words, "dialectized," a term I shall explain below—through the action of the various S2s. In accordance with Lacan's later usage, the Name-of-the-Father thus seems to be correlated with S1, the master signifier. If S1, is not in place, every S2 is somehow unbound.(Bruce Fink 『THE LACANIAN SUBJECT BETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE 』「Ⅵ Metaphor and the Precipitation of Subjectivity」)

※“dialectized”の説明は最近邦訳も出たことだし、この第六章に書かれているのでここでは割愛する。

 ところでわが邦国の聡明なる若きラカン派研究者はこんなツイートをしている。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、“Phallus et fonction phallique”(Pierre Bruno)の説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。

さてフィンクの《the Name-of-the-Father thus seems to be correlated with S1, the master signifier.》という文は’ seems’とあるので許すべきだろうか? どんな考え方だい、「きみ」のセンセイらしい松本卓也くんは? オレはこの三、四年ほどのあいだに種々のツイッターアカウントを、彼になぜか三度か四度ブロックされてんだよな。

彼のツイートを読むと、ついついこのたぐいのイヤミをいってしまうんだな、だからオレが悪いのであって、彼が悪いのではないがね。

「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.

分析への導入が困難なケースはいろいろありますが,最も困難なもののひとつは,「わたしは,全く正常で,症状も何も無いのですが,分析家になりたいので,教育分析をお願いします」と言ってやってくる比較的若い男性精神科医でしょう.

自分が全く正常だと思い込んでいる人間ほど狂った者はいません.このような ケースは,まさに大学の言説にひたりきっており,場合によって,かなりの揺さぶりをかけないと,夢すら語ろうとしません.Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません.(小笠原晋也氏ツイート)

《Lacan だったらけとばすくらいのことはしたかもしれません》とあるけどさ、ラカンのまねして松本君をけとばしちゃたんだよな、シツレイした。その症状は、ジュパンチッチ読んでたらモロにこれなんだよ。



◆アレンカ・ジュパンチッチの四つのディスクール論より(http://ideiaeideologia.com/wp-content/uploads/2013/07/Zupancic-When-Surplus-Enjoyment-Meets-Surplus-Value.pdf)

the hysteric likes to point out that the emperor is naked. The master, this respected S1 admired and obeyed by everyone, is in reality a poor, rather impotent chap, who in no way lives up to his symbolic function. He is weak, he often doesn't even know what is going on around him, and he indulges in "disgusting" secret enjoyment; he (as a person) is unable to control himself or anybody else.

In popular jargon, this attitude of attacking and undermining the masters, pointing at their weaknesses, is usually said to be castrating. Yet, although it does indeed have to do with the question of castration, it is much more ambiguous than this popular wisdom implies. The hysteric's indignation about the master really being just this miserable human being, full of faults and flaws, does not aim at displaying how castrated he is; on the contrary, it is a complaint about the fact that the master is precisely not castrated enough—il he were, he would utterly coincide with his symbolic function, but as it is, he nevertheless also enjoys, and it is this enjoyment that weakens his symbolic power and irritates the hysteric. In this sense, the hysteric is much more revolted by the weakness of power than by power itself, and the truth of her or his basic complaint about the master is usually that the master is not master enough. In the person of a master, the hysteric thus attacks precisely those rights she is otherwise so eager to protect, namely what remains or exists of the master besides the master signifier. In other words, the target of the attack on the master is his surplus enjoyment, a. This is what is superfluous, what should not be there, and what, on the obverse side of the same coin, represents the point where the master is accused of enjoying at the subject's expense.


さて小笠原晋也氏のツイートを拾ったところで(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))、重ねて次のような文を抜き出してみよう、《S1 としての父の名のことを考えてみましょう〉というこの丁寧な説明はやっぱり許すべきだろ? だいたいS1はつねにΦなんだろうか、とさえ未熟なオレは疑いだしてきたが。まあこの際、いつものごとくテキトウに書いておく。

父の名について少し考えてみましょう.昨日,父の名の概念は単一ではないと指摘しました.まず,S1 としての父の名のことを考えてみましょう.

S1 が能動者の座に位置する支配者の言説の構造は,オィディプス複合を形式化していると解釈することができます.いわゆる前オィディプス期,前性器期において部分客体 a が位置していた座を,父の名 S1 が占領し,a は閉出の座である生産の座へ排斥されます.

a が再び能動者の座へ回帰すると,排斥されたものの回帰として,症状の言説としての分析家の言説が成立します.

支配者の言説がオィディプス複合の構造であるとすると,そこから大学の言説へ移ることが男の性別を決定し,hysterica の言説へ写ることが女の性別を決定する,と考えることができます.

いずれにせよ、次のような小笠原ツイートはいいねえ、勉強になる。やっぱり三十年以上ラカンやフロイトを原語で読みこなしている人はわけがちがう。

S1 の概念についてですが,重要なことを言うのを忘れていました.それは,Lacan 自身が S1 という用語を必ずしも一義的には使っていない,ということです.四つの言説において S1 は signifiant maître 支配者徴示素と定義され,四つの座のいずれかに位置する項として提示されています.ところが,Lacan 自身が,左上の agent [能動者]の座のことを S1 と呼ぶこともあるのです.ですから文脈を良く読まねばなりません

要するに四つのディスクールのどれをとっても能動者agentだったら、究極的にはS1と捉えうるということだろ、これ?

 まあそれはこの際どうでもよろしい。ラカン専門家にまかせよう。

フィンクは次のようなことも書いている。

Each isolated S1 is, when it appears, nonsensical. S1, unlike S(A), is not unpronounceable. It is not some mysterious, hidden signifier that finally wells up from the depths one day; it may very well be a word or name the analysand has used every day of his or her life. It insists, however, in the realm of non-meaning when it comes up in a context that seems to involve the analysand, though the analysand does not know how or why. Nonsense may, of course, take other forms as well: it may appear in an incomprehensible slurring of words to which no meaning whatever can be attributed, as the resulting sounds suggest nothing in the way of a play on words.

it may very well be a word or name the analysand has used every day of his or her life.》――主人のシニフィアンは分析主体が日常の生活で使う言葉だよ、と。

というわけで、われわれはどんな主人のシニフィアンを使ってんだろ? 無意味の、ボタンの結び目というヤツ。わかんねえなあ、ラカン初心者のオレには。

いま、「オレ」と書いたが、これはひょっとして主人のシニフィアンではないかい?

You need at least two signifiers in order to have a minimal linguistic structure, so we have already two terms: the S1 and S2 . The S1 , being the first signifier, the Freudian border signifier, primary symbol, even primary symptom has a special status. It is the master-signifier, trying to fill up the lack, posing as the guarantee for the process of covering up that lack. The best and shortest example is the signifier I which gives us the illusion of an identity of our own. The S2 is the denominator for the rest of the signifiers, the chain or network of signifiers. In that sense, it is also the denominator of le savoir, the knowledge which is contained in that chain. Paul VerhaegheFROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN'S THEORY ON THE FOUR DISCOURSES』)

The best and shortest example is the signifier I which gives us the illusion of an identity of our own.》とあるな

「私」ってのが、「主人のシニフィアン」なんだよ、まずはな。アイデンティティのイリュージョンを抱かせる無意味の空虚のシニフィアンさ。主人のシニフィアン=象徴的ファルスなら、キミやらボクの「おちんちん」さ。

the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing.》(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

おい、一人称単数代名詞を平気で使ったら、バカにされるぜ。フィクションのなかだけだよ、恥ずかしくないのは。――などとはオレは言わない。ラカンだって一人称単数使ってるからな。

しかしながら「私はこう思います」、「僕はこう言ったことがあります」、「オレの考えでは」……、――ああ、ボクは、ボクは、ボクは……!、アタシが、アタシが、アタシが……!

まさかヒステリー女の「私」じゃないだろうな。

「ヒステリー女が欲するものは何か?……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。(ソレルス『女たち』) 
語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が 語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。(……)さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。純粋な思考、それは私だ。絶対への暗示、それは私だ。超越性、それは私、またしても私だ。(同上)

いずれにせよ、生徒が主人を作るんだよ。張りぼての主人をな。

The pupils make the master or, in the Hegelian sense: it is the slave who confirms by his knowledge the position of the master(Paul Verhaeghe)

《まことに、わたしは君たちに勧める。わたしを離れて去れ。そしてツァラトゥストラを拒め。いっそうよいことは、ツァラトゥストラを恥じることだ。かれは君たちを欺いたかもしれぬ。》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


形式的構造の話だからな、ツイッター小笠原レクチャアの。内容の話じゃない。〈私〉がどう思っていようと(内容)、形式的構造は主人と奴隷の関係だぜ。またヒステリー者だけがヒステリーのディスクールを語るだけでもない。マスターに問いかけるというポジションに置かれれば、ヒステリーのディスクールさ(ヒステリーのディスクールと「人間関係」)。

個人は、主観的にはどれほど諸関係を超越していようと、社会的にはやはり諸関係の所産なのである。(マルクス『資本論』「まえがき」)

オレかい? オレのいまのディスクールはヒステリーのディスクールに決ってんだろ、たまには気分転換しなくちゃな

ーーいや実にすばらしい。知を産み出すのはヒステリーのディスクールしかないってラカンも言ってるしな。



ーーLevi R. Bryant「Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist」より


aとs2がインポテンツなのが玉に瑕なだけさ。



…………

エリック・ローランの「疎外と分離」には、数字の3でさえ主人のシニフィアンになるらしい。「かわいそうなフィリップ」とかな。とすれば、たとえば「メンヘラのゴキブリ」とか「斜線を引かれたラカン派のボク」ってのはやっぱり主人のシニフィアンということになるのかな……。


「疎外の結果,解釈は,意味内容を我われに与えてくれるという点にはもはやその最終的なよりどころを持ちえなくなります.解釈は,我われが目の前にしている精神的現象が辿ってゆく道のりに,意味を与えます.しかし,このような見通しは単なる序奏以上のものではありません.解釈は,意味を目指すというよりも,シニフィアンを,その無意味へと還元することを目指し,その結果我われは主体の行動の規定因を再発見できるようになるでしょう」 (ラカン「セミネールⅩⅠ」邦 p.283 
ラカンがここで行っている区別は非常に重要です.解釈は,シニフィアンの性的な意味作用のすべてを列挙することだと考えられています.ここで,3という数字に強迫観念を持っている患者の例をとりあげましょう.この患者は数字に固着しています.このことが彼に問題を生じさせますが,とりわけ経理の仕事をする際には問題となります. 数字の行を追っていく際に, 3のところを忘れてしまうのです.そのため彼は何度も3のところを確認しなければならなくなりますが,これに非常に時間がかかってしまいます.分析家は3という数字のあらゆる性的な意味作用を探索し位置づけることから始めることができます.例えば,彼が 3 歳のときに何が起こったのか? 彼のエディプスの三角形に何が起こったのか? 彼は三角関係にまきこまれているのか? などです.意味作用の全体の集まりがあることでしょう.
これは最初の段階にすぎませんが,必要な段階です.分析家はすべての意味作用を位置づけ,3が主人のシニフィアンとして機能し,彼の人生においてその意味作用を引き出した状況のなかで詳細に調べなければなりません.しかし,ひとたび位置づけが終わったなら,分析家は主体を別のところに導かなければなりません.すべてのシニフィアンが主体にとってこの機能($→a)を持っているところです.結局, S1→S2 は主体に場所を与えることの出来る真の性的な参照物を与えないままに主体を置き去りにしているのです.

数字についての強迫によって決定されているすべての症状に行き当たったなら,分析家は主体のもう一つの次元を探求しなければなりません.症状とは独立して,主体はファンタスムと照らし合わせて自らを定義しなければならないのです.この定義は,主人のシニフィアンの無意味な連鎖を通してなされます.このシニフィアン連鎖は性行動や自己同一性を決定するファンタスムが定義されるある特定の方法で結び付けられています.
この議論の流れのなかで, ラカンは 1960 年にボンヌヴァルにおいて開催されたコロックに言及します.このコロックではラカンの弟子と精神科医と他学派の分析家のあいだで対決がありました.この会議はフランス精神医学の重要人物であるアンリ・エーによって組織されましたが,ラカンはこの会議で「無意識の位置」 と題された講演を行っており, これは 『エクリ』 に収録されています. このコロックでは,ラプランシュとルクレールが発表を行い,ルクレールはラカン派の分析がどのように徹底操作をなしうるかを示した有名な論文を発表しています.

ルクレールはフィリップ(Philippe)と名づけられた一連の強迫症状を持った患者のことを議論しています. この患者はとりわけ一角獣(licorne)の強迫観念を持っています. 問題は, なぜ私たちは一角獣の強迫観念を持つたくさんの理由があるにもかかわらず,一角獣の強迫観念を持たずにすんでいるのかということです.フィリップは,彼が問題児ではなく「かわいそうなフィリップ(pauvre Philippe) 」として定義されるという事実にまで辿ることのできる強迫観念を持っています.彼の母親は,彼のことをいつも「かわいそうなフィリップ」と言っていました. 「pauvre」の「au」の音と「licorne」の「o」の音の繋がりをルクレールは重視し, 「かわいそうなフィリップ(pauvre Philippe) 」はフィリップをベッドに寝かそうと聞こえることを示しています.彼の見た夢(母親の声を持つ一角獣が彼を寝かし「かわいそうなフィリップ」と言う)とこのことが結び付けられます.ルクレールは一角獣は母親のファルスを表象し,フィリップに母親の去勢を受け入れることに対する拒絶があることを記載しています.夢の中で彼は,ファルス的観点からみて母親がかわいそうでないことを帰結しているのです.意味の観点からは,強迫と夢(フィリップの人生における中心的な夢)の繋がりは,フィリップが言葉の連鎖のなかで次のように定義できることをルクレールは指摘しています.Poôr(d)J'e-Li(Poordjeli)――これは「かわいそうなフィリップ(poor Philippe) 」 ,主体の「私(je) 」 , 「フィリップ(Philippe) 」「一角獣(licorne) 」 「ベッド(lit) 」の「li」を含みます.これらすべてが一連の連鎖のなかに取り込まれ,並列させた状態では不条理ではあります.しかし,これがフィリップの人生における主人のシニフィアンなのです.
ラカンは次のように言います.

「私の弟子のルクレールがボンヌヴァルの会議で行った報告をご覧ください.彼はここで一角獣のシークエンスを取り出しています.そして,発表の後の彼の発言をお読みになれば,彼がこのシークエンスを取り出したのは,討論の中でそう考えた人もありましたが,意味の相互依存性にしたがってではなくて,シニフィアンの連鎖の還元不可能で反意味的な性質に従ってであったことがお解りになるでしょう」(邦 p.283)

ルクレールの思考法は解釈の過程の終わりを徴しづけているとラカンは言っているのではありません.ルクレールはそれを分析の終わりとして提示していますが,ラカンはこれが序章に過ぎないことを強調しています.ひとたび患者の人生における主人のシニフィアンを単離したならば,もう一つの問題があらわれます.ファルスによってではなく,ファルス的な操作の残余によって,すなわち部分対象あるいは対象 a によって,いかにして「かわいそうなフィリップ」が患者を定義付けることができるのでしょうか?(ラカンは対象 a を論理学化された部分対象として導入しています. )
主体はもう一つの迷宮を通して駆動させられなければなりません.これは同一化の迷宮ではなく,主体が享楽を得る方法の迷宮です.すなわち,主体が彼の愛する他者を対象へと変形する方法の迷宮なのです.もし私たちが一つの連鎖(S1→S2)を単離させるだけならば,かわいそうなフィリップが女性を愛する独特のやり方を無視することになってしまいます.どうしてでしょうか? フィリップは情事の雰囲気をつくって女性を乳房のように扱うのでしょうか? しがみつき,求め,拒絶され,それを繰り返すのでしょうか? 女性という愛の存在がしがみつかれる乳房に変形される,これは口唇的様式の情事です.あるいは,恋に落ちた後に,ひとたび愛した対象が匂いを発する肛門的対象に還元されてしまったなら気が触れたようになってしまう,女性への肛門的アプローチを受け入れるのでしょうか? あるいは,愛する対象がどれだけ彼をあからさまに欺いていたとしてもそれを見ようとしない,視的(scopique)アプローチを受け入れるのでしょうか.つまり,彼は自分が常に陥ってしまう袋小路を見ようとせず,それでもつねに瞬間的に恋に落ちてしまうのです.恋焦がれてしまう瞬間に重大な重要性を与えるべきでしょうか? あるいは彼は愛する人を声に,彼に命令を与えてくれる声,もう一度声を聞くという強迫観念を残すような声に還元するのでしょうか?

これらすべての愛へのアプローチは,一つの同じ主人のシニフィアンの連鎖を起源とすることが可能です.また,人は,いかに同一化が欠如しているか,そして,主体の固有名が常に欠如していることと同様に(フィリップの症例においてすら)主人のシニフィアンが主体についての新しい名前ではないことを分析から学ぶ必要があります.つまり,人は愛によっては表象されないということを分かる必要があります――人は<他者>の場において自らの愛を完全に書き込むことはできません.人は別の欠如を見つける必要があります――すなわち,愛と同じ様に十全に,人は常に同じ残余と出会っているのです――残余という言葉の真の意味の残余です.すなわち,人は自らが表象されず,そこには限界があること,部分的な表象しかないことを自らに思い出させなければならないのです.この残余は主体がその口唇的要求や肛門的要求を通して経験してきた享楽,母親――母のまなざしや声――から得ようとしてきたものを思い出させます.これは欲求と直接関係しているわけではありません.もちろん食べなければいけませんし,排泄をしなければいけません.しかし,<他者>のまなざしや声は明らかに必要なものではありません.しかし,それでもなお人は皆さんが知っているよりもより多くそれを求めるのです.

…………


オレの普段のディスクールは何だってって?

きまってんじゃん、大学人のディスクールに。


まてよ、ミスター小笠原諸島は、次のようにツイートしてるな。

大学の言説は,強迫神経症者の言説と解釈し得るのではないかと思っています.
大学の言説における右下の座の $ はどう解釈されるのかという御質問をいただきました.この $ は,hysterica の言説において能動者の座にあった désir insatisfait 不満足な欲望としての hysterica の欲望と解釈されると思います.

Lacan は強迫神経症者においては,欲望は désir impossible 「不可能な欲望」だ,と言っています.大学の言説において閉出の座にある $ が,この不可能な欲望に相当すると思います.

どうも強迫神経症ではなさそうだからな、オレは。

やっぱり「倒錯者のディスクール」ってのを思案してみないとな。

Levi R. Bryantは《there are 24 possible discourses.》としているから、そのどれかに当てはまるかもな(Bryan「Žižek’s New Universe of Discourse: Politics and the Discourse of the Capitalist」)。

ただし、ラカン曰く、ジジェク曰く、中井久夫曰く、等々というのは、構造的には大学の言説なんだよ、真理のポジションS1に依拠した、な。デカルトが神に依拠せざるを得なかったというのも、デカルト自身やっぱ大学の言説なのさ。

For centuries, knowledge has been pursued as a defense against truth. —(Lacan, Seminar XIII, January 19, 1966)

そろそろやめた方がいいらしい。「知」に依拠するのは。「真理」とお別れしちまうから。

真理が女である、と仮定すれば-、どうであろうか。すべての哲学者は、彼らが独断家であったかぎり、女たちを理解することにかけては拙かったのではないか、という疑念はもっともなことではあるまいか。彼らはこれまで真理を手に入れる際に、いつも恐るべき真面目さと不器用な厚かましさをもってしたが、これこそは女っ子に取り入るには全く拙劣で下手くそな遣り口ではなかったか。女たちが籠洛されなかったのは確かなことだ。(ニーチェ『善悪の彼岸』)

《真理は乙女である。真理はすべての乙女のように本質的に迷えるものである。「我思う」にしても同様である。教授連中にとって「我思う」が簡単に通用するのは、彼らがそこにあまり詳しく立止まらないからにすぎない。》(ラカン「同一化セミネール」)