名手マイスキー、ベル、キーシンのトリオでも
いまだ遠くおよばないのだな。
ーーという言い方をするのは、
専門家に怒られるのは知っているが
具体的に言えよ、もっと、と。
音楽について語るのは難しいよ
オレの趣味の問題だね
次元が違うんじゃないか
「美」を信頼していた時代
「神」とまではいわないが
「祈り」がまだあった時代の演奏と
もちろんすでに「伝統」は廃れようとしていたさ
ハイフェッツ、ルーヴィンシュタイン、ピアティゴルスキーもね
それを救い出そうとする過剰な「祈り」を籠めて
というふうに言えるかもな
ルーヴィンシュタインがばたばたやっていたり
ときおり流していたりするのは許そう
二楽章は甘美な果実が滴るようなのだから
でももうすこし昔のコルトー、チボー、カザルスの名演もある。
冒頭のカザルスのチェロのなんとすばらしいこと!
ヴァイオリンとピアノではなく、チェロ、ヴァイオリン、ピアノだが、あたかも次の如し。
……ピアノとヴァイオリンとの美しい対話! 人間の言葉を除去したこの対話は、隅々まで幻想にゆだねられていると思われるのに、かえってそこからは幻想が排除されていて、話される言語は、けっしてこれほど頑強に必然性をおし通すことはなかったし、こんなにまで問いの適切さ、答の明白さをもつことはなかった。最初に孤独なピアノが、妻の鳥に見すてられた小鳥のようになげいた、ヴァイオリンがそれをきいて、隣の木からのように答えた。それは世界のはじまりにいるようであり、地上にはまだ彼ら二人だけしかいなかったかのようであった、というよりも、創造主の論理によってつくられ、他のすべてのものにはとざされたその世界――このソナタ――には、永久に彼ら二人だけしかいないだろうと思われた。それは一羽の小鳥なのか、小楽節のまだ完成していない魂なのか、一人の妖精なのか、その存在が目には見えないで、なげいていて、そのなげきをピアノがすぐにやさしくくりかえしていたのであろうか? そのさけびはあまりに突然にあげられるので、ヴァイオリン奏者は、それを受け止めるためにすばやく弓にとびつかなくてはならなかった。すばらしい小鳥よ! ヴァイオリン奏者はその小鳥を魔法にかけ、手なずけ、うまくつかまえようとしているように思われた。すでにその小鳥はヴァイオリン奏者の魂のなかにとびこんでいた。すでに呼びよせられた小楽節は、ヴァイオリン奏者の完全に霊にとりつかれた肉体を、まるで霊媒のそれのようにゆり動かしていた。スワンは小楽節がいま一度話しかけようとしているのを知るのであった(……)。しかしこんどは、じっと動かないかのように、宙にかかったままで、ほんの一瞬たわむれると、そのあとで息がたえようとしていた。だからスワンには、それがつづいているそんなに短い時間を、すこしも空費するひまがなかった。それは浮かんでいる虹色のシャボン玉のようにいまはまだ宙にあるのだった。虹さながらに、光彩がよわまり、低くなり、また高くなり、やがて消えようとする一瞬に、ひときわ強くかがやきながら、その小楽節は、それまで見せていた二つの色に、色とりどりの他の弦、プリズムのすべての弦を加えて、それらに歌をうたわせた。スワンは動こうともしなかった、そしてほかの人たちをおなじように、静かにさせておきたかった、どんなにかすかな身動きも、たちまち消えようとしている、超自然的な、快い、こわれやすい、このふしぎな魅力をそこなうかのように。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」井上究一郎訳)
…………
カザルスたちによるフォーレピアノ クインテットの録音が残っていたらいいのに
これは誰たちの演奏かわからないが、
コルトーやルーヴィンシュタインだったら、この冒頭をどんなふうにやっただろう。
ーーそれにカザルスやチボーの絃はどんなふうに歌っただろう
ハイフェッツやピアティゴルスキーだったら?
◆Alfred Cortot plays Fauré's Berceuse from 'Dolly'
◆Jacques Thibaud,&Alfred Cortot Faure sonata n.1 in A Maj.
※:FAURÉ Piano Quartet No.1 - E.Gilels, L.Kogan, R.Barshai, M.Rostropovich, 1958
もちろん、カザルス当時は、総統のピアニスト(ヒットラーのお気に入り)のピアニストElly Neyのような奇跡の演奏もあるさ。これはシューマンだけどさ