Lacan makes this clear when he emphasizes how every One, every Master‐Signifier, is simultaneously S(Ⱥ), a signifier of the lack of/in the Other, of its inconsistency. (ZIZEK“LESS THAN NOTHING”2012)
…………
小笠原晋也氏が2002年12月の事件とその後の囚役から復活されて(参照:東京ラカン塾)、ツイッターでラカンの講義をされているのに最近気づいた。わたくしはこのあたりの事情をまったく知らなかったし、小笠原氏の著書も読んだことがないのだが、ウェブ上を検索すると浅田彰の次のような評言に行き当たった(2ちゃんねるでの書き込みであり引用元が消滅しているので信頼性の多寡はうかがいしれないが)。
浅田彰:ファム・ファタールとラカニアンの敗北
ジャック・ラカンの影響を受けた(直接精神分析を受けたわけではないに せよ)人物が妻を殺してしまう。 ルイ・アルチュセールではなく小笠原晋也のことである。 今でこそ日本でもラカンに関するかなり良質な解説が出揃っているけれど、 私が『構造と力』(勁草書房、1983年)を書いた頃は翻訳も解説もほとん ど意味不明に近かった。 それだけに、私よりひとつ上の1956年生まれで、ラカンの後継者である ジャック=アラン・ミレールに師事した小笠原晋也が、ラカンの八つの論文 をできるだけ論理的に解読してみせた『ジャック・ラカンの書』(金剛出版、 1989年)を出版したときは、日本でもやっとまともなラカン派の書物が 出たという印象をもったものだ。 その内容は古びておらず、つい最近も、ラカンを読みたいという学生に、 参考書のひとつとし薦したくらいである。
ーーとあるように1989年にすぐれた解説書を書かれ、そしてこの浅田彰の文は、2002年以後に書かれているはずだから、その時点でも、彼の評価では傑出しているということになる。
小笠原氏のツイートや論文は、氏独自の訳語や用語を使われており、いささかとっつきにくいし、そもそもこの五年ほどのあいだに断片的にラカンまわりを読んだにすぎないラカン初心者のわたくしにはやや難解なところが多いのだが、たとえば小笠原氏独自のφ barréという書き方がある。
『ハイデガーとラカン』(日本語版新版 20140710, PDF)には、《可能な混乱を避けるために,我れらは,既存の学素 ( − φ ) を使いまわすのではなく,新たな学素
φ barréを導入することを選択する 》とされており、すなわち ( −
φ ) とすることによって想像界の審級である誤解を招かないように、φ barréという「学素」を導入して現実界的なものを言い表わそうとする意図があるようだ。
しかも、《a / φ barré, これは a /Ⱥ
とも表記できる》とされており、すなわちφ barré=Ⱥということになるのだろう。とすればȺは現実界的なものになる。これは冒頭にジジェクの説明の一部のみを掲げたが、それによれば象徴界、〈他者〉の非一貫性inconsistencyが現実界の領野であり、それがS(Ⱥ)であるならば、ジジェクのこの時点の見解と小笠原氏の見解は齟齬をきたすことはない。
ここで小笠原氏による三つのファルスの説明をきいてみよう(phallus と去勢; 存在論的穴; 他 A の場処の topologie としての cross-cap ; 存在の請求.)。
…phallus についてですが,Lacan は精神分析において三つの phallus を区別するよう教えています.それは,徴象,影象,実在の三つの位に応じての区別です.
まず「去勢の影象的な関数」としての phallus : ( - φ ) があります.第二に「悦の徴示素」signifiant de la jouissance と規定される phallus : Φ があります.第三に,signifiant de l'Aufhebung, signifiant de la perte と Lacan が呼ぶ phallus : φ barré があります.この学素はわたしの工夫ですが,その概念はちゃんと Lacan のなかにあります.
以上の三つの phallus はいずれも signifiant ですが,( - φ ) は imaginaire, Φ symbolique, φ barré は réel の位にそれぞれ位置づけられます.
他方,去勢とは何でしょうか?精神分析において去勢は,基本的に,去勢複合,すなわち,去勢不安として問題になります.そして,去勢不安という表現は冗長であって,精神分析においてかかわる不安はすべて去勢不安です.去勢との連関における不安です.
不安は,a が φ barré を代理する限りにおいて,a との出会いにおいて惹起されます.つまり,去勢とは φ barré そのものです.かくして,phallus と去勢との関繋を整理すると,こうなります.まず,φ barré は去勢そのものです.
( - φ ) は φ barré の影象的な相関者であり,女の欠如せる phallus です.最後に Φ は,男の性別構造において φ barré の穴を塞ぐ仮象であり,(……)男において特に強い精神分析への抵抗(男性的抗議)を惹起するものです.
ですから,le phallus est le signifiant de la castration とひとくちに Lacan が言ったことは無いのではないでしょうか?勿論,そう言ったこともあったかもしれませんし,それはそれで,上述の三つのうちいずれを意義しているのか読解できる だろうと思いますが,先ほど Lacan のおもだったテクストを見た限りでは,le phallus est le signifiant de la castration ともろに言われている箇所は見つかりませんでした.代わりに,わたしの引用した表現は,Lacan 自身のものです.
ところでフィンクは二十年ほどまえ、すでにS(Ⱥ)の現実界的側面を指摘している。
◆ブルース・フィンクの『後期ラカン入門: ラカン的主体について』第八章より。この書は日本でも最近(漸く)、翻訳がでたようだが、わたくしの手元に邦訳はないので、原文よりの意訳(いいかげん訳)である。
第五章で、私はS(Ⱥ)を「〈他者〉の欲望のシニフィアン」として話した。そこでの文脈はセミネールⅥのハムレットのラカンの議論であった。ラカンのこの段階にては、S(Ⱥ)はシニフィアンとしてのファルスのラカンタームであるように見える。このような意味でラカンは初めてイマジネールとしてのファルス(-φ)をシンボリックとしてのファルス(Φ)から区別している。
In chapter 5, I spoke of S(Ⱥ) as "the signifier of the Other's desire," in the context of Lacan's discussion of Hamlet in Seminar VI. At that stage in Lacan's work, S(A) seems to be Lacan's term for the phallus as signifier, and thus in a sense it is what allows Lacan to first separate the phallus as imaginary (-φ) from the phallus as symbolic (Φ).
ラカンのテキストにおけるシンボルの意味は、長い年月をかけて、しばしば驚くほど変貌していく。私は提案しようと思う、セミネールⅥとⅩⅩの間で、S(Ⱥ)は、〈他者〉の欠如もしくは欲望を意味するものから、“最初の”喪失のシニフィアンを意味するものになっている、と(そのシフトは審級の変化に相当する。それはあまりにもしばしばラカンの仕事の事例である。すなわち象徴界から現実界である。すべての要素は“男たち”の下ではシンボリックにかかわり、“女たち”の下ではリアルにかかわるのが見出されることに注意を促しておく)。最初の喪失とは、とても多くの仕方で理解されうる。
Symbols' meanings often evolve very significantly over time in Lacan's texts, and I would suggest that S(Ⱥ) shifts between Seminars VI and XX from designating the signifier of the Other's lack or desire to designating the signifier of the "first" loss.36 (That shift corresponds to a change in register, as is so often the case in Lacan's work: from symbolic to real. Note that all of the elements found under "Men" are related to the symbolic, whereas all those under "Women" are related to the real.) That first loss can be understood in quite a variety of ways.
それは象徴界のフロンティアとして理解されうるし、そして“最初の”シニフィアン(S1,母なる〈他者〉mOtherの 欲望)の喪失としての現実界として理解されうる。それは原抑圧が起こったとき、である。この最初のシニフィアンの“消滅”は、シニフィアンが可能となる秩序自体を設定するために必要不可欠である。この除外は別のなにかが生ずるためには、かならず起こらねばならない。
It might be understood at the frontier of the symbolic and the real as the loss of a "first" signifier (S1. the mOther's desire), when primal repression occurs. The "disappearance" of that first signifier is necessary for the instituting of the signifying order as such: an exclusion must occur for something else to come into being.
最初に除かれたシニフィアンの地位は、明らかに他のシニフィアンたちの地位とはまったく異なる、ーーそれは(象徴界と現実界のあいだの)境界現象以上のものーーそして原初の喪失、あるいは主体の起源にある欠如のシニフィアンと強い類縁性をもっている。こうして私は提案しようと思う、最初の除外、あるいは喪失は、ともかくも代表象あるいはシニフィアン、すなわちS(Ⱥ)に見出すことができる、と。
The status of that first excluded signifier is obviously quite different from that of other signifiers—being more of a border phenomenon (between the symbolic and the real)—and bears close affinities to that of a primordial loss or lack at the origin of the subject. I would suggest that the first exclusion or loss somehow finds a representative or signifier: S(Ⱥ).
いま四つの段落に分けて抜き出したが、二番目の段落の”the signifier of the "first" loss.”とある箇所に註36がある。その註が注目に値するのだが、ラカンの文も引用されており、誤訳を怖れるので、英文のまま附す。
This might be written S(a). Let it be noted that at least one of the things Lacan says about S(Ⱥ) may not confirm my interpretation: "S1 and S2 are precisely what I designate by the divided A, which I make into a separate signifier, S(Ⱥ) " (Seminar XXIV, May 10, 1977). This quote at least makes it clear that S(Ⱥ) is, at that point in Lacan's thinking, the signifier of the divided or barred Other, that is, the Other as incomplete. Insofar, however, as that equates S(Ⱥ) with the signifier of the Other as lacking or desiring, it is related to the signifier of the Other's desire, which could, as I am suggesting, be written S(a). Thus stated, however, it could be equated with the phallus (Φ), whereas my sense is that what is in question here is the mOther's desire as lost, or the lost mother-child unity.
フィンクはここでS(Ⱥ)をS(a)ともできるとしている。すなわち”最初の”喪失のシニフィアンである。現実界における”最初の”喪失、--現実界とはシニフィアンで言い表わせないものであり、そのシニフィアンとは語義矛盾もはなはだしいという見解はここでは脇にやるとしてーーそれをフィンクはおそるおそるS(a)とし、小笠原晋也はφ barré としたことになるのだろう。肝要なのは”mOther's desire as lost, or the lost mother-child unity.”であり、これはオットー・ランクの出産外傷概念に限りなく近づく。あるいはおそらくラカンのラメラlamellaに。
事実、小笠原氏はオットー・ランクの名を挙げて次のように書いている。
だが、もしセミネールⅩⅠのラメラ神話をめぐる記述に依拠するならば、最初の喪失のシニフィアンをS(a)とするほうが馴染みやすい。なぜならそこでは対象aを挙げて説かれているから。もっともセミネールⅩⅠはラカンの60年代の仕事である。
さらに言えば、”最初の”喪失のシニフィアンにおける”最初の”は、かならずしも”原初の”の意味ではないはずだ。ポール・ヴェルハーゲは2001年に上梓された書で、ラカンのセミネールⅩⅩ(『アンコール』)にある言葉、”Primary does not mean first}(フィンク英訳)を引用しつつ、非-全体(象徴界の限界領域ーーカントの無限判断の意味での)、あるいは「遡及的nachträglich」という用語を使い、その「最初のfirst」を説明している。
事実、小笠原氏はオットー・ランクの名を挙げて次のように書いている。
もし仮に主体と他 A との“交わり” [ intersection ] に phallus が有り,それにより性関係が成り立つなら,性本能の完全な満足が得られるだろう.そこにおいて成就される十全たる悦は,現実において性行為がもたらすかもしれぬ束の間の快や満足ではなく,而して,もし例を想像するなら,聖書神話におけるエデンの園において人間が神との関係において得ていただろう至福,あるいは,それに劣らず神話的な Otto Rank の想定する“幸福な子宮内生活”(cf. Freud, 1926, p.166)〈其こにおいては,母胎内で子が母と完全に一体となっている〉に相当するかもしれぬような悦であろう.
ともあれ,明らかに,現実の人生においては,如何なる幸運に見まわれようと,そのような悦は実現しない.したがって,帰謬法により,結論される: 主体と他 A との性関係を実現させ得るようなphallus は無い: φ barré .(『ハイデガーとラカン』)
だが、もしセミネールⅩⅠのラメラ神話をめぐる記述に依拠するならば、最初の喪失のシニフィアンをS(a)とするほうが馴染みやすい。なぜならそこでは対象aを挙げて説かれているから。もっともセミネールⅩⅠはラカンの60年代の仕事である。
このラメラ、この器官、それは存在しないという特性を持ちながら、それにもかかわらず器官なのですがーーこの器官については動物学的な領野でもう少しお話しすることもできるでしょうがーー、それはリビドーです。
これはリビドー、純粋な生の本能としてのリビドーです。つまり、不死の生、押さえ込むことのできない生、いかなる器官も必要としない生、単純化され、壊すことのできない生、そういう生の本能です。それは、ある生物が有性生殖のサイクルに従っているという事実によって、その生物からなくなってしまうものです。対象「a」について挙げることのできるすべての形は、これの代理、これと等価のものです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
さらに言えば、”最初の”喪失のシニフィアンにおける”最初の”は、かならずしも”原初の”の意味ではないはずだ。ポール・ヴェルハーゲは2001年に上梓された書で、ラカンのセミネールⅩⅩ(『アンコール』)にある言葉、”Primary does not mean first}(フィンク英訳)を引用しつつ、非-全体(象徴界の限界領域ーーカントの無限判断の意味での)、あるいは「遡及的nachträglich」という用語を使い、その「最初のfirst」を説明している。
◆Verhaeghe, P. (2001). Mind your Body & Lacan's Answer to a Classical Deadlock. In: P. Verhaeghe, Beyond Gender. From Subject to Drive.
This other jouissance, in its relation to the beyond, might very well be interpreted as an original one, a primary one from a chronological point of view followed by a later, second jouissance. Lacan corrects this reading in a very explicit way. Primary does not mean first (pp. 52-53). The not-whole is an after-effect, it is nachträglich, only to be delineated by the impact of the Other of the signifier, which tries to establish a totalising effect by means of the One of the phallic signifier.6 As a result, this Other is condemned to a kind of double vision. Indeed, it wants to see, by means of the signifier, something that is defined by this very signifier as something beyond itself – hence its cross-sightedness (p. 71).
"Primary does not mean first"とはヴェルハーゲの要約であり、フィンク英訳では次の如し。
When we say "primary" and "secondary" for the processes, that may well be a manner of speaking that fosters an illusion. Let's say, in any case, that it is not because a process is said to be primary - we can call them whatever we want, after all - that it is the first to appear. Personally, I have never looked at a baby and had the sense that there was no outside world for him.
It is plain to see that a baby looks at nothing but that, that it excites him, and that that is the case precisely to the extent that he does not yet speak. From the moment he begins to speak, from that exact moment onward and not before, I can understand that there is [such a thing as] repression. The process of the Lust-Ich may be primary - why not? it's obviously primary once we begin to think - but it's certainly not the first. (Lacan BOOK XX Encore 1972-1973 TRANSLATED WITH NOTES BY Bruce Fink)
ヴェルハーゲの論のなかで、 S(Ⱥ)解釈をめぐって示唆あふれるのは、ラカンのアンコールから引用した次の文である。
It is the Other that makes the not-whole, precisely in that the Other is the part of the not-knowing-at-all in this not-whole” (p. 90).
この文もフィンクのアンコール英訳にはない。
My translation, because the English translation introduces a different interpretation. The original reads: “C'est l'Autre qui fait le pas-tout, justement en ce qu'il est la part du pas-savant-du-tout dans ce pas-tout”. Indeed, “pas-savant-du-tout” implies at least two meanings: “not knowing of the whole” and “not knowing at all”.
ただしここで、アンコールに第八章冒頭にある厄介な図を示しておこう。
S(Ⱥ)がひどく厄介な場所に書かれているのだ。この位置は中心の享楽、あるいは風船のような形をしている享楽の「穴」、現実界から遠い。この図を、ジジェクはミレールに依拠しつつこう説明している(『斜めから見る』ーー参照:「アンコール」における「サントーム」の図)。
・象徴界のリアル化a:対象a(象徴界を発動させる「〈現実界〉における穴」)、幻想の物語が投影されるスクリーン。
・現実界の想像化Φ:享楽を物質化するあるイメージ
・想像界の象徴化S(A/):大他者(象徴秩序)における欠如、その非整合性を意味するシニフィアン、すなわち大他者は閉じた整合的全体としては存在しないことを示す印=現実界の小さな欠片(象徴界の究極的無意味性のシニフィアン)
中心J:享楽の渦巻=サントーム
現実界の小さな欠片という表現はあるにしろ、S(Ⱥ)は想像界の象徴化とされている。この解釈をナイーブに捉えてしまったら、S(Ⱥ)がなぜ現実界なんだよ、ということになる。わたくしはいまこう書くまでその口であった。
そもそも性別化の式に S(Ⱥ)が出てくるのだから、上の図ばかりに捉われるのは、おろかである。
S(Ⱥ):
Si quelque chose ex-siste a quelque chose, c'est très précisément de n 'y être pas couple, d'en être "troisé," si VOUS me permettez ce néologisme. —Lacan, Seminar XXI, March 19, 1974
Looking back at our table, we see that women, while "coupled," on the one hand, to the phallus, are also inextricably "tripled" (troisées) to the signifier of a lack or hole in the Other. That lack is not simply the lack—directly correlated with desire—that shows that language is ridden with desire and that one's mother or father, as an avatar of the Other, is not complete and thus wants (for) something. For the signifier of that desire-implying lack (or lack-implying desire) is the phallic signifier itself. Lacan is not terribly loquacious in the 1970s regarding S(Ⱥ), and thus I will offer my own interpretation of its function here.(THE LACANIAN SUBJECTBETWEEN LANGUAGE AND JOUISSANCE. Bruce Fink)
※備考:ジジェクの『LESS THAN NOTHING』(2012)における四つの言説と性別化の式の統合の試み。
S1、S2を男性の論理、$、a を女性の論理と関連付けて語っている。
“THERE IS A NON‐RELATIONSHIP”
So, to conclude, one can propose a “unified theory” of the formulae of sexuation and the formulae of four discourses: the masculine axis consists of the master's discourse and the university discourse (university as universality and the master as its constitutive exception), and the feminine axis of the hysterical discourse and the analyst's discourse (no exception and non‐All). We then have the following series of equations:
S1 = Master = exception S2 = University = universality
$ = Hysteria = no‐exception a = Analyst = non‐All
We can see here how, in order to correlate the two squares, we have to turn one 90 degrees in relation to the other: with regard to the four discourses, the line that separates masculine from feminine runs horizontally; that is, it is the upper couple which is masculine and the lower one which is feminine. The hysterical subjective position allows for no exception, no x which is not‐Fx (a hysteric provokes its master, endlessly questioning him: show me your exception), while the analyst asserts the non‐All—not as the exception‐to‐All of a Master‐Signifier, but in the guise of a which stands for the gap/inconsistency. In other words, the masculine universal is positive/affirmative (all x are Fx), while the feminine universal is negative (no x which is not‐Fx)—no one should be left out; this is why the masculine universal relies on a positive exception, while the feminine universal undermines the All from within, in the guise of its inconsistency. This theory nonetheless leaves some questions unanswered. First, do the two versions of the universal (universality with exception; non‐All with no exception) cover the entire span of possibilities? Is it not that the very logic of “singular universality,” of the symptomatic “part of no‐part” which stands directly for universality, fits neither of the two versions? Second, and linked to the first, Lacan struggled for years with the passage from “there is no (sexual) relationship” to “there is a non‐relationship”: he was repeatedly trying “to give body to the difference, to isolate the non‐relationship as an indispensable ingredient of the constitution of the subject.”……
…………
※以下、フィンクの『後期ラカン入門: ラカン的主体について』の巻末にあるいくつかのシンボル定義の箇所より原文のまま抜き出しておく。
$— (Read "barred S.") The subject has, as I argue, two faces: (1) the subject as alienated in/by language, as castrated (= alienated), as precipitate of "dead" meaning; the subject here is devoid of being, as it is eclipsed by the Other, that is, by the symbolic order; (2) the subject as spark that flies be-tween two signifiers in the process of subjectivization, whereby that which is other is made "one's own."
a — Written object a, object (a), petit a, objet a, or objet petit a. In the early 1950s, the imaginary other like oneself. In the 1960s and thereafter, it has at least two faces: (1) the Other's desire, which serves as the subject's cause of desire and is intimately related to experiences ofjouissance and loss thereof (examples include the breast, gaze, voice, feces, phoneme, letter, nothing, etc.); (2) the residue of the symbolization process that is situated in the register of the real; logical anomalies and paradoxes; the letter or signifi-erness of language.
S1 — The master signifier or unary signifier; the signifier that commands or as commandment. When isolated, it subjugates the subject; when it is linked up with some other signifier, subjectivization occurs, and a subject of/as meaning results.
S2 — Any other signifier, or all other signifiers. In the four discourses, it repre-sents knowledge as a whole.
A — The Other, which can take on many forms: the treasure-house or reposi-tory of all signifiers; the mOther tongue; the Other as demand, desire, or jouissance; the unconscious; God.
Ⱥ — (Read "barred A.") The Other as lacking, as structurally incomplete, or as experienced as incomplete by the subject who comes to be in that lack.
S(Ⱥ) — Signifier of the lack in the Other. As the Other is structurally incom-plete, lack is an inherent characteristic of the Other, but that lack is not always apparent to the subject, and even when apparent, cannot always be named. Here we have a signifier that names that lack; it is the anchoring point of the entire symbolic order, related to every other signifier (S2), but foreclosed (as the Name-of-the-Father) in psychosis. In Lacan's discussion of feminine structure, it seems to have more to do with the materiality or substance of language (and thus is related to object a as signifiemess).
$◇a
これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。例えて言うなら、大型客船でも小さなヨットでも、航路を決めるコンパスは同じです。大海原を、 30フィートほどのヨットでも「いってきます」と言って、そのままハワイにでも行ったりできるわけです。巨大な装備はいりません。臨床という広大な海原に出てゆく時も事情は似ています。このファンタスムの式をしっかりと押さえておけば目的地へ向かって確実に進んでゆけるでしょう。但し「しっかりと押さえておく」という厳しい前提がつきますが。
$
前回の簡単な復習をしてみると、 $ (S barré エスバレ)バレは「斜線を引かれて象徴界から抹消された主体」を意味します。「象徴界」とは、先ほどから触れている言葉のシステム全体のことです。つまり斜線を引かれて象徴界から抹消された主体」とは、言葉のシステムの全体から弾き出された主体のことです。
◇
ポワンソン。日本語では錐印と言います。錐印とは、日常で錐を買うなどという機会もあまりないと思いますが、例えば、彫刻刀のセットなどに刻印が打ってありますね。あるいは通販で「誰々作」とかいう包丁セットなど売っていたりしますが、その包丁セットにコーンと刻印が打ってあったりします。刻印というのはきわめて象徴的な所作です。例えば、駄目な刻印を押される、などという表現もありますね。ポワンソン poinçonは、c にセディーユというヒゲのような記号がつきます。 $◇a エスバレ・ポワンソン・プチタ。 S barré poinçon petit a。プチ petit は「小文字」という意味ですが、読むときにプチ・アとは言いません。フランス語をご存知の方には自明のことですが、プチタと繋げて発音します。このような現象をリエゾンといいますね。したがって、読み方はエスバレ・ポワンソン・プチタとなります。
a
「象徴界から斜線を引かれて抹消された主体」が a に向かうのですが、その間にポワンソン ◇が立ちはだかっています。ちなみに、 aというのはいくつかの用語の頭文字として考えられます。まず最初に浮かぶのはアムール amour「愛」でしょう。つまり「斜線を引かれた主体」が「愛」を目指しているのですが、ポワンソン ◇が遮っているのです。つまり、両者は永遠に出遭えませんよ、という刻印です。象徴界から抹消された主体がなんとか愛に出遭いたいのだけれど、出遭えない。「永遠にあなたたちは出遭うことはないでしょう」という哀しい宣告。七夕になるといつも雨、みたいなそんな状況です(笑)。ではこの ◇ ポワンソンとはいったい何なのかということが気になりますね。ここでこのポワンソン ◇を分解して書いてみましょう。いきなり一気に分解しますよ。 $ ー -φ ー Φ ー Aー a 。前回は分解の過程を書きましたから、今後はポワンソンを見たらすぐにこの分解式を思い出せるようにしていただきたいと思います。
-φ
$の次に、カエルになる前のオタマジャクシみたいな記号(笑)。これは φフィーです。ギリシャ語のフィー、フィーの小文字だからプチ・フィー。それにマイナスがついているからモワン・プチ・フィー、 moins petit phi とこう書きます。これは「想像的ファルスの欠如」を表わしています。「ファルスの欠如の心像」と表現したりもします。
Φ
これは大文字です。グラン・フィー grand phi つまり象徴的ファルスです。 ―φ が想像的ファルスの欠如であるのに対して、 Φ は象徴的ファルスを表わしています。つまりこれは主体が出遭うシニフィアン、論理的に最初のシニフィアンです。実は、主体はこの最初のシニフィアンに出遭い、次のシニフィアンに連鎖する瞬間に象徴界から抹消されて消えてしまいます。これをラカンは主体のアファニシス(消失)と呼んでいます。
A
これは大文字の A 。これは オートル Autre です。あるいは<他者>。大文字の他者を表記するために、わたしはこのような括弧でくくる書き方を提唱しました。 20数年前です。普通に書くと「大文字の他者」とか言いますね。あるいは「大他者」とか言う人もいますけれども。そうするとこれ ( a )は小文字の他者になります。 autre、他者のautre の小文字。これは「小文字の他者」、「小他者」と言ってもいいですね。