◆ラカン「ラジオフォニー」(1970.6)ーー東京精神分析サークル試訳より
理解を助けるために、ここに今年の私のセミネール(ⅩⅦ:引用者)の主題であった四つの「ディスクール」の構造的図式を挙げる。それがどのように展開されたかを知らない人たちのためである。
「精神分析の裏側」に取りあげられた四つの言説
支配者のディスクールはヒステリー者のディスクールの後退によって解明される。
大学のディスクールは精神分析家のディスクールへの「前進」によって解明される。
それぞれの場所は次の通りである
行為者 他者
真理 生産
各項は、
S1 支配者のシニフィアン
S2 知
S 主体
A 剰余享楽
である。
この後者の「前進」をラカン派精神分析家の小笠原晋也氏は、ツイッターで次のように説明している(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。
大学の言説と分析家の言説との関繋について Lacan は Radiophonie の末尾でこう言っています:大学の言説は,分析家の言説への「前進」により解明される.(「前進」 progrès という語には括弧が付されています.)
この命題をどう解釈すべきでしょうか?まずは,大学の言説において真理の座に置かれていた支配者 S1 が,分析家の言説では生産の座へ閉出されます.S1 は,或る意味で「父の名」です.「父の名」の概念は S1 に尽きるわけではありませんが.
男が精神分析可能となるためには,まず「父の名」の閉出が必要です.男の性別を規定する signifiant Φ を捨てさせねばなりません.さもないと,Freud が克服不可能な抵抗として行き当たった「男性的抗議」が最後に障碍物となります.
「男性的抗議」は,signifiant Φ の閉出,すなわち去勢が惹起する不安に対する防御です.その防御をまず解除しなくてはなりません.そのためにも,分析家の言説への導入の際の予備面接の間に,十分に症状を出現させる必要があります.
精神医療と精神分析との関係について御質問いただきました.フランスを引き合いに出すと,一概には言えませんが,つまり医療施設ごとに異なりますが,精神科医,看護師,臨床心理士,social worker が皆,治療環境を分析家の言説の構造のものにしようと意図的に,積極的に努力している精神病院があります.そのような病院では,患者さんを単なる treatment (治療,取り扱い)の客体として見るのではなく,つまり,大学の言説の構造における a として患者さんを扱うのではなく,患者さんは,分析家の言説の構造の左上の座,能動者の座に位置する a になります.治療者側は,右上の座の $ の立場にたちます.$ は聴く者であり,a が何を言おうとしているのかに耳を傾けます.それによって,治療者側はよりよく患者さんの症状を把握できるようになります.
ここにaと表記される「患者さん」が、大学の言説では客体の場(右上の座)であり、だがそうあるべきではなく、「患者さん」は、分析家の言説の左上の座、能動の座に位置することが大切であるとの見解が示されている。
ここではむしろ、もう一度、小笠原氏のツイートから拾ってみよう。
分析家の言説の構造において,左側のa/φ barré — これは a/Ⱥ とも表記できますが —,この左側の構造と ,右上の座の$ とのどちらが分析家でどちらが分析者analysant (患者)か,ということは固定されたものではありません.(小笠原tweet)
このツイートにあるφ barréやȺは、四つの言説のそれぞれではなく、さらにその下にある形式的構造の真理がφ barréやȺであるということだろうが、いまはそれにも触れない(参照:ラカンの S(Ⱥ)をめぐって)。
いまは四つの言説がラカン理論の頂点であるとかつて説いたベルギーの精神分析医ポール・ヴェルハーゲの論からいくらか抜粋して私意訳をしておく。彼はその後、ラカンの性別化の式をめぐる論も多く、おそらくそれを、もう一つのラカン理論の華と扱っているのだろうから、必ずしも1995年の見解と現在は同じではないかもしれないが、上に文献をリンクしたように、2011年にも「四つの言説」をめぐるすばらしいレクチャアをしており、やはり臨床家としては、この理論がつねに念頭にあるのだろう。
ラカンに関するかぎり、彼が構造主義者であるかどうかという問いへ答えるのはやや困難です。このたぐいの論議は、すべて、そこに付随する定義しだいなのですから。それにもかかわらず、ひとつだけは、私にとって、とてもはっきりしています。フロイトは構造主義者ではありませんでした。もしラカンが唯一のポストフロイト主義者、すなわち精神分析理論をほかのより高い水準に上げたとするならば、この止揚(Aufhebung)、ヘーゲル的意味での「持ち上げ」は、すべてラカンの構造主義と形式主義にかかわります。残りのポストフロイト主義者は、フロイトの後塵を拝しています。プレフロイト主義の水準に戻ってしまっているとさえ、とても多くの場合、言いうると思います。フロイトが根本から革新的であったことははっきりしています。彼は、人間の研究の新しいパラダイムに向けて、彼独自による進化を実践しました。フロイトは、あまりにも根本から革新的だったので、それを超えることなど、ほとんど不可能にさえ見えます。だがら、もしラカンが止揚(Aufhebung)したというなら、わたしたちはそれが何の意味なのか説明する必要があります。ラカンはその理論において何を獲得したのか? と。
As far as Lacan is concerned, I find it rather difficult to answer the question of whether he was a structuralist or not. In a discussion of that sort, everything depends on the definition one adheres to. Nevertheless, one thing is very clear to me: Freud was not a structuralist and, if Lacan is the only postfreudian who lifted psychoanalytic theory to another and higher level, then this Aufhebung, elevation in Hegel's sense, has everything to do with Lacanian structuralism and formalism. The rest of the postfreudians stayed behind Freud, even returning very often to the level of the prefreudians. It is obvious that Freud was fundamentally innovative. He operated on his own a shift towards a new paradigm in the study of mankind. He was so fundamentally innovative that it would seem almost impossible to go any further. So, if we state that Lacan operates an Aufhebung, we have to explain what we mean by that. What is there to gain with Lacanian theory?
……この点に関して、最も重要なラカンの構造は、もちろん四つのディスクールにおける理論です。(……)
これらの形式的構造の長所は明らかです。まずなによりも、抽象化の水準で目を瞠る利点があります。たとえばラカンのアルジェブラalgebra。あなたはそれらの“petites lettres”、小さな文字、aやSやA、そしてそれらの間の関係によって、なんでも代表象することができます。まさにこの抽象化の水準で、わたしたちはどの個別の主体も大きな枠組みにフィットさせることが可能になります。
The most important Lacanian structure in this respect is, of course, the theory on the four discourses(……)
The advantages of these formal structures are obvious. First of all, there is an enormous gain in level of abstraction. Just as in algebra, you can represent anything with those “petites lettres”, the small letters, the a and the S and the A , and the relationships between them. It is precisely this level of abstraction which enables us to fit every particular subject into the main frame.
第二に、これらの形式的構造は、血と肉の外皮を十分に剝いでいるで、心理学化の可能性を減少させてくれます。たとえば、ひとが、フロイトの原父とラカンの主人のシニフィアンS1を比較するなら、その差異ははっきりしています。前者なら、誰もが、白い顎ひげの、彼の女たちのあいだをうろつく年配者を思い浮かべるでしょう。S1を使うことによって、白い顎ひげを思い浮かべるのはとても困難です。……これが、このとても重要な機能の別の解釈の可能性を開示してくれます。そしてそれが三番目の長所をもたらしてくれます。これらの構造は臨床上の実践をとても効率的に舵を取らせてくれます。
Secondly, these formal structures are so stripped of flesh and bones that they diminish the possibility of psychologizing. For example, if one compares the Freudian primal father with the Lacanian Master signifier S1, the difference is very clear: with the first one, everybody sees an elderly greybeard before his or her eyes, roving between his females, etc. It is very difficult to imagine this greybeard using the S1… which precisely open up the possibility of other interpretations of this very important function. This brings us to the third advantage: these structures permit us to steer the clinical practice in a very efficient way.
実に、これは大きな相違をもたらしてくれます。たとえば、主人のディスクールやヒステリーのディスクールをある所定の状況で使うとしましょう。それぞれの式は、あなたの選択した効果を予想させてくれるでしょう。もちろんこのシステムの短所もあります。フロイトの解決法、すなわち神話や古来の昔話に比較して、ラカンのアルジェブラalgebraは退屈で、うんざりさせさえします。実際、それはなんの血も通っていません。というのは裸の骨にしか関心がないのですから、そのために、フロイトの話に溢れかえる想像な秩序の魅惑は完全に欠けているのです。それは支払わねばならない代価です。
Indeed it will make a great deal of difference, for example, whether one uses a master discourse or a hysterical discourse within a given situation; the respective formulae allow you to predict what the effect of your choice will be. There is of course one disadvantage to this system. Compared to the Freudian solution, with the myths and the age-old stories, the Lacanian algebraic structures are boring, tedious even. Indeed, there is no flesh to them, since they are concerned only with the bare bones and, therefore, they completely lack the ever-present attraction of the Imaginary Order that is pre-eminent in those stories. That is the price one has to pay.
ーーというぐあいで、最近は四つのディスクールにやや凝っているのだが、たとえば、きみたちのツイートをためしに分類してみるのだよな。ハハア、こいつは主人のディスクールだな、とか、大学人の、ヒステリーの言説だな、とかね(もっとも四つのマテームだけでなく、− φやS(Ⱥ)、Σなどを導入しないと当てはまらないツイートはあるけどさ)。
The final writing we have from him about this term is the sigma of sinthome, because to write S of barred A as sigma is to give it the position of ex-istence in relationship to meaning; it is to isolate jouissance in the order of the real; that is to say, existent in meaning.(Lacan's later teaching Jacques-Alain Miller)
どのディスクールも基本の形式的構造は次の通り(「私が語るとき、私は自分の家の主人ではない」)。
話し手 → 受け手
もっとも、ひとのディスクールはつねに同じディスクールではない。
たとえばヒステリーのひとでも、つねにヒステリーのディスクールで語るわけではない。
たとえばヒステリーのひとでも、つねにヒステリーのディスクールで語るわけではない。
まあでもツイッターなどで、たとえば「正義の味方くん」たちのそれは、ほとんどつねにヒステリーのディスクールだな。オレの見立てではだがね。
真理というのは、抑圧された真理としてもよいわけで、当人はそれにはなかなか気づかない。
ヒステリーのディスクールの左側は、$/aであり、真理の場にaがあるというのは、まあここでは愛憎としておこう。
たとえば大学人のディスクールばかりでツイートする手合いもいる。この「大学人」とは、「大学」、あの学校とはまったく関係がない。
そのディスクールは、形式的構造の左側には、S2/S1となり、真理の場にはS1がいる。つまり支配者だね。
オレかい?
大学人のディスクールで前半書いたから、いまこうやってヒステリーのディスクールにしてんじゃん、それくらいわかるだろ?
メリハリが大事だぜ。
よき書き手(作家)は分析家のディスクールだぜ、だいたいはな。S2、すなわち知を隠して書くんだよ。ツイッターで、いやウェブ上でも、さらには二流作家や学者の書物で、そんな言説に遭遇するのは稀だがね。
たとえば、次の古井由吉の「原典のない翻訳」とは、a/S2のはず。
…………
たとえば、次の古井由吉の「原典のない翻訳」とは、a/S2のはず。
自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(「文藝」2012年夏号)
…………
小笠原氏は、ヒステリーのディスクールの標的になっていて、すなわち$/a → S1なわけだから、S1のポジション(ヒステリーのディスクールの受け手のポジション)になっていて、その応答が、なんとか主人のディスクールにならないように四苦八苦しているのだな、これもただオレの見立てにすぎないが。ただ優秀なラカン派ではあるから、つねに己れのディスクールが何の言説になっているのかは、問い直しながら書いているのではないかな(だが、ツイッターセミネールという形式的にやむえないこととはいえ、おおむね大学のディスクールなんだろうな、やっぱりあれは)。
この人が王であるのは、ただ他の人々が彼に対して臣下として振舞うからでしかない。ところが、彼らは逆に、彼が王だから、自分たちは臣下なのだと信じているのだ》(『資本論』第一巻第一篇第三章註)。
どうしても王=主人になっちまんだよな、ヒステリーの質問に素直に応答したら。ときには無知を装って応答するのは、苦心作じゃないかい、あれ?
質問者のヒステリーの言説を、分析主体の言説(これはすなわち分析家の言説と同じ)に変えるには、受け手は分裂した主体$を装わなくちゃな。(a → $)
質問者のヒステリーの言説を、分析主体の言説(これはすなわち分析家の言説と同じ)に変えるには、受け手は分裂した主体$を装わなくちゃな。(a → $)