このブログを検索

2014年8月25日月曜日

メモ:振付家・ダンサー神村恵

《「神村・福留・小林」がYouTubeで観られるようになっている!! すばらしい。これはすごい作品だと思う》(偽日記)との紹介があって。未知の神村恵さん他の映像を眺める。

彼女のツイートによれば、《2009年に小林耕平さん、福留麻里さんと制作した映像作品「神村・福留・小林」、小林さんの参加している”1974年ニ生マレテ''展に合わせて期間限定公開しています〜 ご覧ください。》とのことで、期間限定公開だそうだから、さっそくダウンロードしておいた。





偽日記の記事に書かれるような、むずかしいことはあまり分からないけれどさ、オレには。

カメラが、世界をとらえる特権的な視点であることをやめていて、多層的なイメージを構成するレイヤーの一つでしかないものになっている。その時に起こるのは、視点やスクリーンといった、複数のレイヤーの多層的な重ね合わせを受け止める基底面が前もっては成立せず、ただ、それぞれが勝手に運動しているいくつもの層があり、それらが重なったり、交差したり、分離したりする様が、たまたま「あるフレーム」による限定によって、一つの多平面的イメージとして顕在化されるということではないだろうか。つまり、各層が、先験的な形式によって制限されることなく運動しているように感じられる。


神村恵の、一見、ダルイ、自然な軀の動きは、セクシーだなあ
こういったのを見ると、男は女にかなわないぜ、とあらためて思うね





かたくなに見えて、実は身体の快楽を突き詰めた彼女の動きは、いろんなものをそぎ落とした先に生まれるもので、原初的な身体の欲望に忠実なんだと思う。だからステージで繰り広げられるエンドレスな動きにさらされて、連綿とした神村時間を過ごしていると、見ている方も小指がぴくりと動いちゃったりするのだ。(前田愛実

これは上の映像へのコメントではないけれど、小指がぴくりと動いちゃうってのは分かるなあ


古谷利裕氏は、《ぼくは、こういう作品を観ると、真っ先にマティスを思い出すのだけど》と書いていて、これはさきほどのレイヤーの多層性の意味でなんだろうけど、神村恵さん自体が、マティスが描いた女を想い起こさせるなあ。







神村恵さんのツイートをすこし追ってみると、《西馬音内(にしもない)盆踊り: 今週秋田にこれ見に行く。めっちゃ楽しみ。》として、次の映像を紹介しているのだけれど




ーーこれもセクシーだなあ





マティスの女たちと同じくらい





惚れちまったなあ、神村恵
「神村恵さん」じゃなくて、「神村恵」なのさ

「呼び捨て」ではなく「言い切り」という形の敬称の対象なんだな