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2014年8月19日火曜日

二つの主体(二つの無意識)をめぐる

「無意識」 l'inconscient という用語も,存在の真理の現象学的構造,つまり症状の構造a/ φ barré における a のことである場合とφ barré のことである場合とがあり,Lacan を読むときにはその都度,どちらを指しているのか注意深く識別しなくてはなりません.(小笠原晋也氏ツイート)

…………

ラカンの主体とは、無意識の主体のことである。

たとえば、今でも英語版のWikipediaではその定義が多いに活用されているDylan Evansの『An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis』1996にはこうある。
Lacan's ‘subject' is the subject of the unconscious.

さて冒頭に引用されたように無意識が二種類あるのであれば、主体も二種類あることになる。

無意識が二種類あることについては、なにも小笠原氏独自の見解ではない。

それは「後期抑圧による無意識」と「原抑圧による無意識」とされたり、「象徴界による無意識」と「現実界による無意識」とされたりもするだろう。

比較的初期のフロイトの著作「症例ドラ」からもそれは明らかに読み取れる(参照:症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ)


…………

以下、二つの主体をめぐるブルース・フィンクの見解を掲げるが、そこでは表象と情動の対比がなされつつ叙されているので、まずは「情動」の簡潔な定義を先に挙げておく。

ラカンの言う情動とは、身体がシニフィアンの媒介なしに現実界にアフェクトされること(立木康介)--フロイトの「現勢神経症Aktualneurose」概念をめぐる現代の新しい「症状」


◆『READING SEMINAR XX  Lacan's Major Work on Love,Knowledge, and Feminine Sexualityより「Knowledge and JouissanceBruce Fink)の冒頭近くの箇所の私訳(かなりあやしい箇所があるので、英原文を必ず参照のこと)。

ラカンは、フロイトの表象と情動の間の基本的な区別を、言語とリビドーの間の区別、あるいはシニフィアンと享楽の間の区別に翻訳した。ラカンの主体の議論のすべては、――誰が、何が、精神分析において主体なのかーーはこの基本的区別あるいは分裂disjunctionにかかわる。フロイトは、すでに表象と情動が位置する場所との取っ組み合いをしていた。彼は、種々に重なる心的地形学を持ち出した。自我に表象をあてがい、イドに情動をあてがう。イドの眼目とされる欲動を通して吐き出される情動である。

Lacan translates Freud's fundamental distinction between representation and affect as the distinction between language and libido, between signifier and jouissance, and his whole discussion of the subject—of who or what the subject is in psychoanalysis—has to do with this fundamental distinction or disjunction. Freud had already grappled with where to locate representation and affect. He came up with various overlapping topographies of the mind, assigning representation to the ego and affect to the id, affect being discharged through the drives said to be part and parcel of the id.
ここでは超自我はあまりフィットしない。しかしながら、表象の用途を与えられてはいるーー命令、批評、等々――。それは、超自我が自我を叱りつけるとき、超自我はややひどく羽目を外すというふうな厳格なモラルの色調と綯い交ぜになっている。心の構造を分割するフロイトの初期の試みは、情動はまったく描かれていないままである。意識―前意識―無意識の地政学が示すのは、表象がどの三つの水準にも見出されることだ。しかし情動はどうなったのか? フロイトはここでは矛盾に導かれている。私は提案してみようと思う、情動は無意識であり得ると。フロイトのほとんどの理論的仕事は、ただ表象のみが無意識であるとことを叙する方向に向かっているのではあるが。

The superego did not quite fit, however, given its use of representations—imperatives, critiques, and so on— combined with a stern moral tone suggesting that the superego has a little too much fun when it berates the ego. Freud's earlier attempt to divide up the mind had left affect out of the picture altogether: the conscious-preconscious-unconscious topography suggests that representations can be found at all three levels, but what of affect? Freud is led here, inconsistently, I would argue, to suggest that affects can be unconscious, whereas most of his theoretical work goes in the direction of saying that only a representation can be unconscious.2
われわれは言うことができる、ラカンは表象/情動の対立をフロイトよりもよりいっそうはっきりと分極化した、と。もっとも彼の仕事でつねにそれ自体として示されているわけではない。ラカンが主体について話しているとき、――ここで、ジャック=アラン・ミレールのセミネール“Donc” (1993–1994)に従うがーー実際には、ラカンの仕事には、二つの主体がある。すなわちシニフィアンの主体と享楽の主体である。あるいは少なくとも主体の二つの顔がある。シニフィアンの主体とは、レヴィ=ストロースの主体とも呼ぶことができるだろう。そこでの主体は、知識、あるいは知識に基づいた行動を包含しているのだが、彼はそうしているどんな考えももっていない。

We might say that Lacan polarizes the representation/affect opposition more explicitly than Freud, though it is not always indicated as such in his work. While Lacan talks about the subject, we might say—following Jacques-Alain Miller's articulation in his seminar “Donc” (1993–1994)—that there are actually two subjects in Lacan's work: the subject of the signifier and the subject of jouissance.3 Or at least two faces of the subject. The subject of the signifier is what might be called the “Lévi-Straussian subject,” in that this subject contains knowledge or acts on knowledge without having any idea that he is doing so.
あなたは彼に訊ねる、彼が自分の村のある場所に小屋を建てる理由を。そして彼の答えは彼の世界を構造化し、効果的に彼の村を秩序化している基本的な対立に一見何も関係がないようにみえる。別の言い方をすれば、「レヴィ=ストロースの主体」は彼が知らず、気づいていない知識を基に、生きかつ行動している。ある意味で、それが彼を生かしている。それは彼のなかに見出される、彼は意識的に気づいるものに頼ることをしないでいる。これは催眠状態を通して発見されるのと同じ種類の知識である。そして、結局、ふつうの用語の意味での、主体をまったく必要としない。それは、ラカンが『主体の壊乱と欲望の弁証法(フロイトの無意識における)』(Subversion du sujet et dialectique du desir dans l'inconscient freudien1960)にて、the subject of the combinatoryと呼んだものである。人の言語、家族、社会によって提供される対立の組み合わせがあり、それが組み合わせの機能である(Écrits, 806).

You ask him why he built a hut in his village in such and such a place, and the answer he gives seems to have nothing to do with the fundamental oppositions that structure his world and effectively order his village's layout. In other words, the “Lévi-Straussian subject” lives and acts on the basis of a knowledge he does not know, of which he is unaware. It lives him, in a sense.It is found in him without our having to rely on what he is consciously aware of. This is the same kind of knowledge discovered via hypnosis, and in the end it seems not to require a subject at all, in the usual sense of the term. It is what Lacan, in Subversion of the Subject and Dialectic of Desire (1960), calls the subject of the combinatory: there is a combinatory of oppositions provided by the person's language, family, and society, and that combinatory functions (Écrits, 806).4
『科学と真理』(1965)にて、ラカンはこの主体を「科学の主体」としている。科学によって研究されうる主体、そして逆説的にこう主張する、《精神分析が働きかける主体は、ただ科学の主体だけである》と。組み合わせの主体、言語の純粋な主体。(……)この主張はいささか率直ではない。というのは精神分析はそのれ求める効果を獲得するために言語――媒体のみとしての言語――にだけに頼るのは本当だが、それにもかかわらず情動への、情動、リビドー、あるいは享楽としての主体への影響を求めるのだから。

In “Science and Truth” (1965), Lacan refers to this subject as the “subject of science” (ibid., 862), the subject that can be studied by science, and claims, paradoxically, that “the subject upon which we operate in psychoanalysis can only be the subject of science” (ibid., 858): the pure subject of the combinatory, the pure subject of language. (……)This claim is a bit disingenuous, for while it is true that psychoanalysis relies only on language to achieve the effects it seeks—language being its only medium—it nevertheless seeks to have an effect on affect, on the subject as affect, libido, or jouissance.
ラカンの仕事を読んでいて遭遇する厄介さのひとつは、どんな時でも彼はどの主体について語っているのか、滅多に具体的に述べないことだ。ひとつの意味から別の意味へと密かに滑りゆくその趣向。私は提案してみよう、『科学と真理』にて、ラカンが“対象object”について語るとき、彼は情動の主体のことを言っている、と。他方、彼が“主体subject”について語っているとき、彼は構造としての主体、組み合わせの純粋な主体のことを言っている、と。こんなふうに、ここでの手始めとして、私はシニフィアンの主体と欲動の主体(あるいは享楽としての主体)を区別したい。いま指摘すべき最初のことは、一番目の主体は二番目のものよりとても取扱いやすいことだ。二番目のものはn'est pas commode、処理するのに容易ではない。これが、多くのポストフロイトの分析家たちに、われわれがJ要因、すなわち享楽jouissance要因と呼ぶものを取り扱う他の方法を探し求めさせている、

One of the difficulties one encounters in reading Lacan's work is that he rarely specifies which subject he's talking about at any one time, preferring to slip surreptitiously from one meaning to the other. I would suggest that, in “Science and Truth,” when Lacan talks about the “object,” he is referring to the subject as affect, whereas when he talks about the “subject,” he means the subject as structure, as the pure subject of the combinatory.Thus at the outset here I want to distinguish between the subject of the signifier and the subject of the drives (or the subject as jouissance). The first thing to be noted is that it is much easier to deal with the first than with the second.The second n'est pas commode, is not easy to get a handle on. This led many post–Freudian analysts to look for other ways of dealing with what we might call the J-factor, the jouissance factor.
現代の心理学への認知行動的接近法は、たぶん二番目の主体に対立したものとしての最初の主体のみに注意を限定していると理解できる。実に、多くの認知行動心理学者は、直感的にさえ理解していないように見える、彼らは何かを欠かしているということさえも。すべては理性的に想定され、彼らのシステムにおけるなにか別のものは必要がない、そしてたしかにそれを考慮する余地がないようである。彼らは探し出して “匡す”、あるいは“非合理的な信念”を打ち砕く。私は彼らがすべてそうだとは言わない。だが私の経験では、それが認知行動療法者の多くの真実である。

Contemporary cognitive-behavioral approaches to psychology can probably be understood as restricting their attention to the first as opposed to the second and, indeed, many cognitive-behavioral psychologists seem not to comprehend even intuitively that they are missing something: everything is supposed to be rational, there being no need for, and certainly no room for, anything else in their system.They seek out and “correct” or destroy “irrational beliefs.” I am not saying this is true of all of them, but in my experience it is true of many cognitive-behavioral therapies.

途中、レヴィ=ストロースの主体をめぐっての叙述があるが、これはおそらく『構造人類学』の叙述にかかわる。

田中純氏が次のようにまとめている文を抜き出しておこう(ポスト郵便都市(ポスト・シティ)──手紙の来歴、手紙の行方 | 田中純)。


レヴィ=ストロースは、ある種族の成員が描き出した村落の空間構造に二つのまったく異なる類型が存在することに注目している。いずれも村全体を円で表わしているが、そのうちの一つは北西から南東に向かう直線で二分されることによって、二つの半族が分割されて配置された図であった。しかし、この村落分布図に激しく反対した者たちが描いたもう一つの図は、これとは対照的に、中心部に半族の首長たちの小屋があって、その周囲には何もない場所が広がるという同心円構造だった。前者が〈高くにいる者〉という半族の者によって描かれたのに対して、後者のような図を描いたのは〈地上にいる者〉という別の半族の者だけであったという。



ここで記述された形態は、必然的に二つの異なる構造に関係しているわけではないのである。それらはまた、単一のモデルによって定式化するにはあまりに複雑な組織を記述する二つの仕方に対応するという場合もありうる。つまり、その組織があまりに複雑であるため、この社会の構造内に占める位置に応じて各半族の成員は、二つのうちのいずれかの仕方で概念化をおこなう傾向をもつことになるのである。というのは、双分組織のごとく均斉のとれた(少なくとも外見上は)タイプの社会構造においてさえ、半族と半族との関係は決してそう考えられがちであるほどに静的でも相互的でもないからである(クロード・レヴィ=ストロース『構造人類学』)


…………


だが安易にふたつの主体すると、原初的に享楽の主体が先にある、というおそらく「誤解」が生れる。ここで、ラカン曰くの「原初とは最初のことじゃないんだよ」を想いだしておこう。

われわれはある過程において、“原初の”と“二次的な”と言うが、それはひどくイリュージョンを育む話し方なんだな。私に言わせれば、どんな場合でも、ある過程で“原初の”と言われるとき、――まあなんでもいいがね、結局のところそう言いたいときは、――それは最初に現われるということじゃないんだ。

個人的には、赤ん坊を眺めたことは一度もないね、その赤ん坊に外部の世界はないという実感をもたないでは。はっきりしてるのは赤ん坊はなにも見てないんだよ、彼を興奮させるもの以外は。それはまさにその通りじゃないかい、赤ん坊がまだ話さないかぎりは。彼が話しはじめた瞬間からだな、まさにその瞬間以降であってその前じゃないんだが、私はやっと理解できるんだ、抑圧のたぐいがあるのが。快-自我の成り行きは“原初”だよ。そうでないわけあるかい? あきらかに“原初”なのさ、ただしいったんわれわれが考えだしてからのだ。でもそれは間違いなく“最初”じゃない。(ラカン『セミネールⅩⅩアンコール』フィンク英訳より私意訳)

もちろん、ラカンの言うことを額面通り受け取らなくてもよい。やはり「原初」は先にあるとする見解もあるだろう。

だがジジェクなどは、この見解をひどく嫌う。これはフロイトの遡及性概念やトラウマにもかかわるし、〈女〉は存在しないについても同様。


ラカンにとって<現実界> ――<物>―― は象徴的空間を歪ませる(そしてその中に落差と非整合性をもたらす)不活性の存在ではなく、むしろ、それらの落差や非整合性の結果である。(ジジェク)


象徴界の穴としての不可能という現実的なとの出会いが、トラウマを引き起こす根元的な出来事だとラカンは考えます。(向井雅明)


ラカンの断言、“La femme n'existe pas”――“〈女〉は存在しない”は、決して象徴的秩序の外にある言いようのない女性的なエッセンスのたぐいに言及しているのではないということだね。象徴秩序に統合されえない、言説の領域の彼岸にあるものでは決してないということだ。
ラカンが「〈女〉は存在しない」というとき、私はまさにこう思うのだな、すなわち、言葉にあらわせない神秘的な「彼岸」が象徴秩序から除外されていることこそが、存在しない、と。わかるかい、私の言っていることが?(ジジェク)


これらの考え方をもっとも端的に表現したものが、次の主張だろう。

《われわれは「現実界の侵入は象徴界の一貫性を蝕む」という見解から、いっそう強い主張「現実界は象徴界の非一貫性以外のなにものでもない」という見解へと移りゆくべきだ。》(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』)


…………


冒頭に小笠原晋也氏のツイートをかかげたが、氏がとてもすぐれたラカン学者であることは認めつつ、一抹の疑義があるのは、ラカンをハイデガーとともに読もうとするその仕方だ。もっともわたくしのような者の疑義はどうでもよろしい。それは、いままでいくらか読んできた書物との齟齬ということである。

たとえば、次の箇所を掲げてみよう(精神分析トゥィーティング・セミナー:フロイト・ハイデガー・ラカン (version20140806))。





 ここだけでははっきりしないかもしれないが、わたくしの誤解でなければ、現実界は象徴界に先行してあるかのような語り口がなされているようにときに感じられるないでもない。その意味合いでは、上のラカンの『アンコール』の《原初は初めのことではない》とか、上に引用されたジジェクの主張と折り合いがつくものだろうか。

あるいはアドルノはこう書いている。

存在者的なものでありながら同時に存在論的でもある現存在の優位を説き、存在とは現前性だと説くハイデガーの理説は、存在をすでに先取りして具象化している。彼が望むように、存在が現存在に先行するものとして自立化されてのみ、現存在に存在を透視する力が与えられるのであるが、それにもかかわらず、ここでもまたこの力によってはじめて存在が露呈されると考えられる。(……)

ハイデガーはその後、現存在分析を、存在者から出発しては基礎づけることのできない存在のまったき優位の方向に転じたのであるから、首尾一貫していることにはなる。むろんそのために、かつての彼の影響力の元になったものは全て抜け落ちることになったが……(アドルノ『否定弁証法』)

さらには柄谷行人はかねてから執拗にハイデガー批判をしているが、ここでは『トランスクリティーク』から。

ハイデガーのように物自体を擁護した者はそれを存在論的な「深層」として見いだしている。しかし、物自体はアンチノミーにおいて見い出されるものであって、そこに何ら神秘的な意味合いはない。(柄谷行人『トランスクリティーク』P80)
ハイデガーは経験的なレベルと超越論的なレベルのカント的区別を、存在的と存在論的の区別として言い換え、まるで彼がそれを初めて見出したかのように強調する。また、経験的自我(存在者)に対して、無=存在であるところの超越論的自我を強調する。だが、彼は「疑う私」、共同体と共同体の「間」にあるような外部的実存については語らない。ハイデガーのいう現存在は同時に本来的に共同存在―――彼にとっては民族を意味する―――である。ここから、疑う存在=単独的な実存は出てくる余地がない。

あえて存在論のタームで語るならば、われわれはデカルトの懐疑から次のように存在論を見出すべきである。コギト(=我疑う)は、システム間の「差異」の意識であり、スムとは、そうしたシステムの間に「在る」ことである。哲学によって隠蔽されるのは、ハイデガーがいうような存在者と存在の差異ではなくて、そのような超越論的な「差異」あるいは「間」なのであり、ハイデガー自身がそれを隠蔽したのである。ハイデガーは、カントの超越論的な批判を、深みに向かう垂直的な方向において理解する。しかし、それは同時に、いわば横断的な方向において見られねばならない。(同上P150)

 もっとも遡及的な現実界の捉え方とは別のラカンもいて、それはハイデガーに近づくのかもしれない。たとえば、1959年の「精神分析の倫理」のセミネールにはこうある。

Das Dingとは起源的に私が「シニフィエ-外」と呼ぼうとするものです。主体が自らの距離を保ち、ある関係様式、あらゆる抑圧以前の原始的情動、のうちに自らを構成するのは、このシニフィエ-外に関連して、そしてそれにたいするパトス的な関係に関連してです。・・・・われわれが時に「神経症選択」と呼ぶ、主体的オリエンテーションの最初の土台、最初の選択がこのdas Dingに関連してなされるのです。(ラカン セミネールⅦーー向井雅明「精神分析とトラウマ」からの孫引き)