「われらのうちなるヒットラー」(ピカート)
「あなたのうちなる医局」(中井久夫)
「われわれ自身の中のオウム」(大澤真幸)
そして、あなたのうちなる原子力村。
そこの頓珍漢な頭脳の持主、短いエッセイ文をも誤読する「優しい人」。
次の「抵抗的医師とは何か」(楡林達夫)も誤読するのだろう。医局での安易な連帯は、必ずや一度はなつかしくなるものです。暗やみに一歩一歩をすすめてゆくとき、遠ざかりゆく街の灯の何となつかしいことでしょう。たとえ、その灯のもとへ行ってみれば、なげかわしいことが演じられていることを重々承知していようとも。(……)
「医局」の連帯が疑似的なものであると認識できるような、真の連帯を知り、その中に生きることがまず必要です。さしあたり、あなたが、妻、友人、恋人などによって、真の連帯の味わいをすでに知っているならば、それはよいことです。知らなければ、知るようにつとめてください。
なぜなら、「医局」はすでにあなたの裡にもあるのであり、医学生時代の「たのしさ」の一部は、それをあなたの中にこめるための詐術だったのであって、ドイツ人たちが、まず、「われらのうちなるヒットラー」(ピカート)とたたかわねばならなかったと同じように、真の連帯を知ることは、「あなたのうちなる医局」とのたたかいになるのです。
あなたの中にすでに「医局」が住んで、思わぬところで頭をもたげ、そのたびに意識によってそれを克服せねばあなたをくじくことのみでなく、まだ戦っている人たちを深くうら切ることになる――このことは忘れないで下さい。
《だれも、ひとりひとりみると/かなり賢く、ものわかりがよい/だが、一緒になると/すぐ、馬鹿になってしまう》(シラー フロイト『集団心理学と自我の分析』より)
SNSの発話をすこしでも垣間見れば、さいきんではクラスタというらしいローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で馴れ合っているあれらの連中も同じ穴の狢だ。
SNSの発話をすこしでも垣間見れば、さいきんではクラスタというらしいローカル・ヴィレッジがおびたたしく分立して、その内部で馴れ合っているあれらの連中も同じ穴の狢だ。
「世界は黒魔術の城塞である」(アルトー)にもかかわらず、「見たくないものを見ない〈心の習慣〉」(丸山真男)に根から絡みとられ、自らの振舞いのなかの「悪」にまったく気づかない精神、《完全に不埒な「精神」たち、いわゆる「美しい魂」ども、すなわち根っからの猫かぶりども》(ニーチェ)が現在の「悪魔」の典型であろう。
《ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。》『差別感情の哲学』中島義道
《一見聡明で穏やかな一般市民が、「魔女」を告発し、その悶え苦しむ姿を楽しむのだ。中世においてそうであったように、そういう逸楽に耽っている者は、極悪人や犯罪予備軍ではない。むしろ「善良な市民」という名の「優しさ」にあふれた怪物である。》『狂人三歩手前』中島義道
《現代日本の精神構造は、中世の魔女裁判のときやヒットラーのユダヤ人迫害のときの精神構造とそれほど隔たったものではない。ほとんどの人は安心してみんなと同じ言葉をみんなと同じように語る。同じ人に対して同じように怒りをぶつける。同じ人に対して同じように賞賛する。》『醜い日本の私』中島義道
耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)
もちろん実態は違ったという見解もあるのだろう。だが精神分析的には、あれら「美しい魂」たちは、ヒトラーを「自我理想」のポジションにおいて想像的同一化を果たした存在である、というのは「常識」である。
想像的同一化とは、われわれが自分たちにとって好ましいように見えるイメージへの、つまり「われわれがこうなりたいと思う」ようなイメージへの、同一化である。
象徴的同一化とは、そこからわれわれが見られているまさにその場所への同一化、そこから自分を見るとわれわれが自分にとって好ましく、愛するに値するように見えるような場所への、同一化である。(ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』)
ジジェクの説明では、「想像的同一化」が「理想自我」に、「象徴的同一化」が「自我理想」にかかわる。
フロイトの『集団心理学と自我の分析』からひいてみる(古い訳なので、「同一視」は「同一化」として読もう)。
同一視の場合は、対象は失われているか、放棄されてしまっている。そのとき対象は自我の中で再建され、自我は失われた対象の手本にしたがって、部分的に変化する。ほれこみの場合には、対象は保たれており、そのまま自我によって、自我を犠牲にして過大評価(過剰備給)される。しかしこれについても疑念がある。同一視が対象備給の放棄を前提とするのは、いったい確実なことなのだろうか、保持された対象にたいする同一視はありえないのだろうか、この微妙な問題の論議に入る前に、われわれには、すでに次のような洞察がほのぼのと開けてくる。つまり、他の二者択一、すなわち、対象は自我のかわりになるのか、それとも自我理想のかわりになるのか、という問題がこの事態の本質をふくんでいるという洞察である。(「フロイト著作集 6」P229)
この集団とは、象徴的同一化で「指導者」を選択し、その結果、想像的同一化しあう個人の集まり、ということになる。
この「指導者」の箇所にはヒットラーなどの人間でなくてもよい、「理念」やら「思想」、「芸術」でもよい。「優しい人」たちは、同じ趣味によって湿った瞳を交し合い、想像的同一化の「交接」に心地よく耽る。
この精神分析的「常識」を疑いたい人は疑ったらいい。わたくしは頭脳の具合がナイーヴに出来ているせいか、いまだ疑うところまでいっていないだけだ。
特定の個人や制度にたいする憎悪(愛、嫉妬、羨望などでもよいだろう:引用者)は、それらにたいする積極的な依存と同様に、多くの人々を一体化させるように作用するだろうし、類似した感情的結合を呼び起こすであろう。(フロイト「集団心理学と自我の分析」 p219 フロイト著作集6 人文書院)
憎悪や嫉妬、羨望による感情的結合はいたるところにある。
だが、優しい人たちの「愛」による感情的結合が、他者を傷つけないかどうかをも疑ってみる必要はないとでもいうのか(ここでの「優しい人たち」は、すなわち、「事を荒立てる」かわりに、「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」連中)。
愛は、人間が事物を、このうえなく、ありのままには見ない状態である。甘美ならしめ、変貌せしめる力と同様、幻想の力がそこでは絶頂に達する。(ニーチェ『反キリスト者』)
キリスト教世界の基盤を掘り崩しつつあるのがサタンの賄賂に目のくらんだ魔女の大群であり、魔女は手当り次第に秩序を破壊しつつサタンの世界支配を推進しつつあるーーこの想像は明らかに加害者のものである。このような想像は強迫症者にみられる、ステロタイプの想像に対応している。彼らは目に見えない汚染によって自分の存在が脅かされていると思い込み、その対策として汚染除去(洗浄や焼却)の儀式に耽り、しかもこれらの対抗手段の励行にもかかわらず汚染の原因は限りなく増殖してゆくと観念するのである。これは魔女狩り裁判官の想像そのものではないだろうか。
(……)
二十世紀において私たちはよく似たセッティング(魔女狩り期の:引用者)がにわかに復活するのに出会った。不吉な予感に敏感となり、これにおののく支配階級、経済的・精神的フラストレーションーーエネルギー問題、経済計画の失敗、貨幣制度の不安定化、社会の目的にかんする幻滅、社会主義国にもみられる政治的分裂、多数の難民――があり、大衆の暗黙の合意がある。いわゆる発展途上国の政府の多くはルースで無能力なことルネサンス宮廷並みであるのに気づく。超大国の指導者でさえ(賢人と学者〔マギ〕)に囲まれた存在であり、巨大化しすぎた自国の官僚制度との連絡をうまくいっていない。不可視の病毒汚染という哲学を固守している迫害者が世界のあちこちにいる。また、ありもしない罪を、ありもしない共謀者の名とともに告白し、自分の有罪を肯定しつつ処刑されてゆく犠牲者がいる。……(中井久夫「アジアの一精神科医からみたヨーロッパの魔女狩り」『徴候・記憶・外傷』所収)
そして「優しい人」たち、共同体の規範に忠実な人たち、ーーあるいはニーチェ流に「美しい魂」といってもいいーー彼らの、ことあるごとの上っ面の正義感の表白。
彼らは自らの暴力性におそろしく鈍感であり、自らの魔女狩りには気づかない。
……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。
社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)
彼らは自らの暴力性におそろしく鈍感であり、自らの魔女狩りには気づかない。
「優しい」人は他人の加害性に関しては恐ろしく敏感である。だが、こういうかたちでたえず他人を裁き他人に暴力を振るっているという自分の加害性に関しては、都合よく鈍感である。『うるさい日本の私』中島義道
ただ口先で「世の中おかしい」と言っているだけの人は、じつのところ悪徳商法の大家より、振り込め詐欺のプロより、道徳的に悪い。なぜなら、あらゆるスリや泥棒やサギ師は少なくとも自分が「悪い」と自覚しているが、彼らはそういう最低の善悪の自覚さえないのだから。『善人ほど悪い奴はいない』中島義道
優しい人のうちなる魔女、そのお上品な猫っかぶりぶり、「見たくないものを見ない〈心の習慣〉」の囚人たち。
……全世界の者 ――通俗哲学者や道学者、その他のからっぽ頭、キャベツ頭は全く問題外としてーーが根本において一致して認めているような諸命題が、わたしの著書においては、単純きわまる失策として扱われている。たとえば、「没我的」と「利己的」とを対立したものとするあの信仰である、わたしに言わせれば、自己〔エゴ〕そのものがひとつの「高等いかさま」、ひとつの「理想」にすぎないのだ ……およそ利己的な行動というものも没我的な行動というものもありはしないのだ。どちらの概念も、心理学的にはたわごとである。あるいは「人間は幸福を追う」という命題 ……あるいは「幸福は徳の報いである」という命題 ……あるいは「快と不快は相反するものである」という命題など、みなそうである ……これらは、人類をたぶらかす道徳という魔女が、本来みな心理学的事実であるものに、徹底的に、まやかしのレッテルを貼りつけたのであるーーつまり道徳化したのであるーーこれが昂じてついには、愛とは「没我的なもの」であるべきだと説く、あのぞっとするナンセンスにまで至りついたのである ……われわれはしっかり自己の上に腰をすえ、毅然として自分の両脚で立たなければ、愛するということはできるものではないのだ。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)
最後に、数カ月まえの若い大学生のツイートを掲げておこう。せめてこれぐらいのことは認識しておけ! そこの優しいメフィストフェレスよ、からっぽ頭、キャベツ頭め。
大切なのは、自身の暴力性を「仕方ない」と肯定して傍若無人に振る舞うことでも、暴力性自体を否定して目を背けることでもなく、自分の欲望が他者を傷つける危険があることをよく自覚し、それを制御することです。これは倫理として当たり前のことでしょう。
…………
追記:
〈かつては、もし俺がちゃんと覚えているなら、俺の生活は祝宴であり、全ての心が開かれ、すべての酒が流れていた。〉
ある晩、俺は「美」を膝の上に座らせた。ーーそしてそれを苦々しい奴だと思った。ーーそれで俺はそいつを罵倒した。
俺は正義に対して武装した。
俺は逃げた。おお、魔女達よ、おお、悲惨よ、おお、憎しみよ、お前達にこそ俺の宝は託されたのだ!
俺はようやく自分の精神の中からあらゆる人間的希望を消し去る事に成功した。あらゆる喜びを絞め殺してやろうと、 俺はそいつに猛獣の様に音も無く飛びかかった。
くたばりながら、奴らの鉄砲の銃床に噛み付いてやろうと、俺は死刑執行人共を呼んだ。砂や血で窒息してやろうと、 俺は災いを呼んだ。不幸は我が神だった。俺は泥の中に横たわった。罪の風にあたって、からだを乾かした。そして 俺は狂気に一杯食わせてやったのだ。
そして春が白痴のぞっとするような笑いを俺に運んで来た。
ところが、ごく最近の事だが、もう少しで最後の「ぎゃあ」 という声を上げそうになったので、俺は昔の祝宴の鍵を探してみようと思ったのだ、そこでならたぶん食欲を取り戻せる かもしれないと。
隣人愛がこの鍵である。ーーこんなことを思いつくのは、俺が夢を見ていた証拠なのだ!
〈おまえなどずっとハイエナのままでいるがいい、云々…。〉と俺にかつてとても愛らしい芥子の冠をかぶせてくれた 悪魔が叫び声をあげる。〈おまえのあらゆる欲求、それにおまえのエゴイズムとすべての大罪もろとも、死を背負い込むのだ。〉
ああ!そんなものはうんざりするほど手に入れたさ!だが、親愛なる魔王よ、お願いだから、そんなに怒った目つきをしないで ほしい。そして遅ればせのけちな臆病風を吹かせたりしないうちに、物書きには描写や教訓を垂れる才能などないのがお好きな あなたの事だろうから、俺は地獄落ちの自分の手帖から幾葉かのこれらのおぞましい紙片をあなたに切り取ってやるとしよう。(ランボー「地獄の季節」 鈴木創士訳)
※ウェブ上から拾ったので、行わけは不明。