日本のフェミニズム運動では、いまだ家父長制打倒などということが叫ばれる。だが、日本ではもともと家父長制などというものはなかった、いやあったにしろ、とても弱いものであった、ということは今までさんざん語られてきた。たとえば中井久夫は次のように書く。
かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。
明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収)
これは、二十一世紀に入ってから書かれた文だが、たとえば柄谷行人は、90年代初頭に、日本の権力構造の特徴のひとつとして、母系的なものの残存を指摘している、あるいは、《日本における「権力」は、圧倒的な家父長的権力のモデルにもとづく「権力の表象」からは理解できない》、と。(柄谷行人「フーコーと日本」1992 --参照:いつのまにかそう成る「会社主義corporatism」)。
ここではさらに遡って、80年代に書かれた浅田彰の論を引こう。
さて、高度成長と、それによる高度大衆社会の形成は、共同幻想の希薄化をもたらした。 いいかえれば、国家のレヴェルが後退し、家族のレヴェルが、それ自体解体しつつも、前 面に露呈されてきたのだ。......そもそも対幻想を対幻想たらしめていた抜き差しならぬ他者との「関係の絶対性」の契機がそれ自体著しく希薄化し、対幻想は拡大された 自己幻想に限りなく近付いていく。そうなれば、そのような幻想の共振によって共同体を構成することも不可能ではなくなる。公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体。......それ はむしろ、われわれを柔らかく、しかし抗しがた い力で束縛する不可視の牢獄と化している。それがハードな国家幻想に収束していく可 能性はたしかに小さくなったかもしれないとしても、だからといってソフトな閉塞に陥らない という保証はどこにもないのである。(浅田彰「むずかしい批評」(『すばる』1988 年 7 月号)
家父長制などというものは、欧米の一神教の世界のことであり、それは欧米の旧来型のフェミニストたちにまかせておけばよい。われわれの敵は、ーーいやフェミニストたちの敵はと言っておこうーー、《公的というより私的、言語的(シンボリック)というより前言語 的(イマジナリー)、父権的というより母性的なレヴェルで構成される共感の共同体》なのではないか。家父長制と母権制(母性的なものの残存)とは、権威と権力の二項対立の文脈で捉えうる。それは、「父の権威」と「母の権力」と言ってもよいし、ここで再び中井久夫の言葉を引くなら、《父性のレリギオ(距離のあるつつしみ)と母性のオルギア(距離のない狂宴)》とも言える。
Authority is not synonymous with power. In fact, I would even argue that power is directed against authority(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』)
彼は、権威Authorityの欠如が、権力powerを生む、とまで言っている。
事実、日本的文脈でも、かつて曲りなりにもあった「権威」が消滅し、いまではえげつない「権力」が猖獗していると言えるのではないか。
・歴代の経団連会長は、一応、資本の利害を国益っていうオブラートに包んで表現してきた。ところが米倉は資本の利害を剥き出しで突きつけてくる……
・野田と米倉を並べて見ただけで、民主主義という仮面がいかに薄っぺらいもので、資本主義という素顔がいかにえげつないものかが透けて見えてくる。(浅田彰 『憂国呆談』2012.8より)
あるいはまた、日本で権力欲が跳梁跋扈するのは、権威が弱いためである、とも言いうるのだ。
差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」)
最近、ノーベル文学賞をとった(かつてのフェミニストでもある)ドリス・レッシングは「いじめ bullying」をめぐって次のように語っている。
In recent years, a lot of attention has been paid to the subject of bullying at school.(……)
'Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore'. (……)
Doris Lessing's remark: there is something wrong with authority. The function of authority, which used to be a self-evident truth embodied in many different figures, has now disappeared. The fact that the basis for bringing up children disappeared at the same time can be seen in everyday life. Optimists maintain that teachers and parents now have to make sure that they 'deserve' their authority—they have to earn it. However, experience has shown that the authority that remains usually consists of pure power, and, further, such power exists only if it is visible and tangible.(Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness ーーTHREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 )
すなわち「いじめ」などいつの時代でもあった、だがそれに歯止めがかからなくなったのは、「父権的権威の失墜」による、と。
今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)
ここで、ジジェクは、「エディプスの父/原初の享楽の父」の対照を示しているが、それは「権威/権力」の対比のことなのであり、ラカン派では、この剥き出しの権力としての「原初の享楽の父」の審級を、「母なる超自我」とも呼ぶ。
リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ラカンの娘婿でもあるジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The
Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org)
“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”
ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される以前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして象徴的権威の失墜の時代とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということだ(「母なる超自我」をめぐっては、ウェブ上に田中純氏の「暗号的民主主義──ジェファソンの遺産」にもそのいくらかの説明がある)。
楽しみを強制するものはない。超自我を除いて。超自我は享楽の命令である。「楽しめ!」(ラカン『セミネールⅩⅩ』)
上に挙げたように、この享楽の超自我が、母なる超自我なのであり、第二世代のフェミニスト、アンチフェミニズムのフェミニストとも揶揄されることがあるカミール・パーリアの言う<母>、ーー「自然という雌の竜」なのだ。
男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カミール・パーリア「性のペルソナ」鈴木明他)
家父長制や男根中心主義は、もともと、たんに原初の全能的母権制の弱々しい反映に過ぎなかった、という指摘もある。
the patriarchal system and phallocentrism are merely pale reflections of an originally omnipotent matriarchal system(Paul Verhaeghe『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』)
…………
ーーなどと気の弱いオレはけっして口にしない。やはりある種の「フェミニスト」のお嬢さんやおばさん方はカミール・パーリアのいう「歯の生えた力“toothed power”」ーー歯の生えた全能「権力」?--、すなわち母なる「ヴァギナ・デンタータ」を備えており、怖いものである。
ここで念押ししておけば、家父長制など、いまさら回復できるものではないし、それを主張するものでもない。そうではなく、フェミニストたちが闘うべきなのは、「権威」ではなく「権力」だということだ。そして破廉恥な権力を抑えるためには、「父」の機能が必要なのではないか、という問いである。この「父」とは、もちろん「女性」がその役割を占めてもよい。ただその「父」の機能、あるいはNom-du-Père(父の名)がないと、勝手気ままな無法の「権力」が生じてしまい勝ちだということである。
たとえば会社組織に思いを馳せてみてもよい。レリギオ(つつしみ)のある経営をしているのは、なんらかの「権威」ーーそれは伝統、あるいは社風でもよいし、経営者の資質でもよいーーそういった「権威」のある企業ではないか。そうでない場合、猥雑な「権力」によって経営がなされているということは言えないだろうか。
というわけで、とっくの昔に《母親に対しての回帰であり降伏》状態のわたくしのこの些細な書き物をもし読むことがあっても、「なんなの、坊や?」などと難詰するのは勘弁してもらいたいーー、なかんずく全能の「お母さん」たちよ。
The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother.
母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。
This is every young policeman's nightmare: a middle-aged woman rolls down her car window and asks, 'What is it, son?'
これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
It is this original omnipotence that evokes fear in all its aspects, from sexism to misogyny
この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(Paul Verhaeghe)
※参照:Articles by Paul Verhaeghe
とりわけ、”The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles”では、かつてのフェミニストの闘士たちGermaineGreerやDoris Lessing、あるいはCamille Pagliaのいささかの態度変更とも読める言葉を引用しつつ、いまでは彼女らが父の権威の再導入の必要性を語る文が紹介されている。以下の文には、女流ラカン派のColette Solerの言葉の引用がなされている。
とりわけ、”The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles”では、かつてのフェミニストの闘士たちGermaineGreerやDoris Lessing、あるいはCamille Pagliaのいささかの態度変更とも読める言葉を引用しつつ、いまでは彼女らが父の権威の再導入の必要性を語る文が紹介されている。以下の文には、女流ラカン派のColette Solerの言葉の引用がなされている。
nowadays, popular opinion is asking, sometimes even begging, for a return of law and order-i.e., a return to the authoritarian father, again both at the individual and at the sociological level. No wonder Colette Soler defines our century as the one in which we wanted to educate fathers into their role.