大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)
現在の大学が、奇人・変人を許容するのかどうかというのは、詳らかにしない。だが大学システムが新自由主義(ネオリベラリズム)の怒涛の波に浚われつつあるのではないかというのは十分に憶測される。新自由主義の評語とは、「成功」であり、己れに「投資すること」、そして成功者と「敗者」(負け犬)の選別と排除であろう。
生産性、競争性、革新、成長、アウトプット、プレゼンテーションーーこれらはすべて経済のディスクール、――ラカン派的に言えば「資本主義のディスクール」ーーの語彙群であるが、大学人も不可視の行政システムが奏でるこれらの評語の音楽に乗って「踊る」ことを余儀なくされているに相違ない。(参照:Paul
Verhaeghe“ Identity, trust, commitment and the failure of
contemporary universities http://gfm.statsvet.uu.se/Portals/1/UppsalaUfourdec2013.pdf
以下も冒頭の中井久夫のエッセイの断片と同様、ほぼ二十年前に書かれた文章である。
……現在、科学論文は「引用係数」などいくつかの指数で評価される。論文が引用される度に、その雑誌固有の指数(米国と英国の雑誌各一冊が最高で日本の雑誌はほとんどすべてコンマ以下に評価されている)を乗じては加算したデータベースを作っている機関が世界の某所にあって、誰でも電話一本でただちに任意の研究者の「指数」を知ることができる。
(……)
では「研究の自由」は大学にあるか。
自分の好きな研究をこつこつ独りでやるという、古典的ヨーロッパ型研究の自由があるとすれば、ひょっとすると東大かもしれない。研究費の相対的潤沢に支えられて東大には「出世しようとさえ思わなければ自由にやらせてくれる」面がある(友人の某教授談)。60年代前半の「学術振興会流動研究員」として東大の生物学研究室を経験している私は「伝票一つ書けば高価な試薬を棚から自由にとっていい」東大に驚嘆した。母校では、いかに重要な研究でいかに成果が期待されるかを上司同僚に力説して初めて貰える試薬をである。
現在、東大医学部は「引用指数」において京大の十分の一であると東大医学部長が東大医学部を叱咤しているが、そうなると東大のよさがなくなるのではないかと心配である。「引用指数」の高さはクーンのいう「優秀な通常型科学者」の程度を示すものである。「パラダイム形成科学者」が米国型の研究室から出ないことは、米国人自身が嘆くとおりである。もっとも、「なぜニュートンがアメリカから出ないか」という彼らの嘆きは、「プリンストン大学高等学術研究所」に出来上がった天才を集めても解消しないはずで、大学を変人奇人の溜まり場として数世紀を経なければなるまい。(中井久夫「医学部というところ」『家族の深淵』所収)
…………
学問はこれを身に体し、これを事に措いて、始て用をなすものである。否るものは死学問である。これは世間普通の見解である。しかし学芸を研鑽して造詣の深きを致さんとするものは、必ずしも直ちにこれを身に体せようとはしない。必ずしも径ちにこれを事に措こうとはしない。その矻々として年を閲する間には、心頭姑く用と無用とを度外に置いている。大いなる功績は此の如くにして始て贏ち得らるるものである。 この用無用を問わざる期間は、啻に年を閲するのみではない。あるいは生を終るに至るかも知れない。あるいは世を累ぬるに至るかも知れない。そしてこの期間においては、学問の生活と時務の要求とが截然として二をなしている。もし時務の要求が漸く増長し来って、強いて学者の身に薄ったなら、学者がその学問生活を抛って起つこともあろう。しかしその背面には学問のための損失がある。研鑽はここに停止してしまうからである。(森鴎外『渋江抽斎』)
わたくしはアマチュアラカン派でもなんでもないが、それでもときにラカン派の論文をかなり熱心に読むことがある(というか比較的専門的な論文を読むのはほとんどフロイトやラカン派の論文でしかない)。そのとき気づくのは、アウトプット系の研究者と考証系の研究者がいるということだ。後者はときに孔子や老子を読むように研究していると思うことがある(日本の研究者だけではない)。
わたくしは此に抽斎の修養について、少しく記述して置きたい。考証家の立脚地から観れば、経籍は批評の対象である。在来の文を取って渾侖に承認すべきものではない。是において考証家の末輩には、破壊を以て校勘の目的となし、毫もピエテエの迹を存せざるに至るものもある。支那における考証学亡国論の如きは、固より人文進化の道を蔽塞すべき陋見であるが、考証学者中に往々修養のない人物を出だしたという暗黒面は、その存在を否定すべきものではあるまい。 しかし真の学者は考証のために修養を廃するような事はしない。ただ修養の全からんことを欲するには、考証を闕くことは出来ぬと信じている。何故というに、修養には六経を窮めなくてはならない。これを窮むるには必ず考証に須つことがあるというのである。(……)
要するに迷庵も抽斎も、道に至るには考証に由って至るより外ないと信じたのである。固よりこれは捷径ではない。迷庵が精出して文字を覚えるといい、抽斎が小学に熟練するといっているこの事業は、これがために一人の生涯を費すかも知れない。幾多のジェネラションのこの間に生じ来り滅し去ることを要するかも知れない。しかし外に手段の由るべきものがないとすると、学者は此に従事せずにはいられぬのである。(同『渋江抽斎』)