子どものころよく座敷の柱におでこをくっつけて泣いた
外出している母がもう帰ってこないのではないかと思って
母はどんなにおそくなっても必ず帰ってき
ぼくはすぐに泣き止んだけれど
そのときの不安はおとなになってからも
からだのどこか奥深いところに残っていてぼくを苦しめた
だがずっとあとになって母が永遠に帰ってこなくなったとき
もう涙は出なかった
(谷川俊太郎「なみだうた」より 『モーツァルトを聴く人』)
しらなかったねえ
◆特別対談 終わらない世界へ(古井由吉・蓮實重彦)より
古井 蓮實さんとは初めての対談になりますが、大学では同級生ですね。
蓮實 そう。東大では駒場の二年間同じクラスだったわけだし、立教大学では紛争中に教員として同僚だった。
古井 そうなんですよ。
蓮實 これも二年一緒でした。二人が立教を離れてからも何かの折りに会って挨拶はしているし、一番最後にお会いしたのは、後藤明生氏の大阪での葬儀のときですね。だから、対談が初めてというのは不思議な気がします。別に避けあったわけではないし、疎遠というのとも違う。古井さんは作家としてしかるべき道を歩んでおられて、私も批評家として古井さんの作品はずっと読んできたわけです。一つ心残りだったのは、『仮往生伝試文』を発表された80年代の終わりから90年代の初めにかけて、古井由吉論を書くぞと決意して準備したことがあるんですが、それがさまざまな理由で流産してしまったことです。
古井 その頃は、分かれ道に直面していたから、僕も書かれると苦しいときでした。
蓮實 それ以後、個人的に妙に忙しくなったり、老後の設計ミスがいろいろあったりして、結局、古井論は書けないままでいました。それでも96年に「新潮」に短いながら『白髪の唄』について「狂いと隔たり」という文章を書き(『魅せられて』所収)、今回また最新作『辻』(小社刊)を読ませていただいたのですが、これにはとても深いところで動かされました。「この人枯れてない」っていう印象が最初に心に浮かびましたが、これはしょうがないんですね。
古井 しょうがないんですね(笑)。書いている最中だけは年齢不詳になる。あんまりいいことではないと思うんだけど。
蓮實 それから、どこにいるのかもわからない感じで書いておられる。
古井 そうなんです。
ーーというわけでちょっと調べてみたらこういうぐあいだ
谷川俊太郎(1931-)
グレン・グールド(1932- 1982)
母(1932- 1982)
中井久夫(1934-)
大江健三郎(1935-)
蓮實重彦(1936-)
古井由吉(1937-)
比較的よく読む作家というか
日本から海外のいまの住まいに
それなりの数の書やCDをもちこんだ
作家たちというのはこんなひとたちで
いやほかにもあるけれど
たとえば柄谷行人は1941年生れなんだな
でもこのあたりの4、5年の違いというのは
少年期に戦争を肌に感じたか
そうでないかの相違があるんじゃないか
資質のちがいはあるにしろ
柄谷行人にはぞっこん惚れこむというふうにはいかない
としたところで
田村隆一の顔が浮かんできたが1923年生れか
十三秒間隔の光り 田村隆一
新しい家はきらいである
古い家で生れて育ったせいかもしれない
死者とともにする食卓もなければ
有情群類の発生する空間もない
「梨の木が裂けた」
と詩に書いたのは
たしか二十年まえのことである
新しい家のちいさな土に
また梨の木を植えた
朝 水をやるのがぼくの仕事である
せめて梨の木の内部に
死を育てたいのだ
夜はヴィクトリア朝期のポルノグラフィを読む
「未来にいかなる幻想ももたぬ」
というのがぼくの唯一の幻想だが
そのとき光るのである
ぼくの部屋の窓から四〇キロ離れた水平線上
大島の灯台の光りが
十三秒間隔に
新しい家で母は「神経」の調子を狂わした
わたくしが五歳のときだ
小学校入学準備のため名高い学校の通学圏にある
いわゆる高級住宅街に土地を求め
わざわざ新築したその家に半年も住まず
故郷の田舎町にある祖父母の古い家に病んで戻った
いつの間にか家から着の身着のままふらりと出て
なかなか帰ってこないことが重なった
「座敷の柱におでこをくっつけて泣いた」わけではない
だが不安でいつも顔を紅潮させていたような憶いがある
祖父の屋敷の裏庭に新築した家にいることはまれで
屋敷の玄関の間と台所のあいだにあった小部屋で
寝たきりのままできることが長いあいだ続いた
その六畳の間は南向きなのだが
前庭の木立ちの茂りのせいか薄暗く
母の身体から発しているらしい
母の身体から発しているらしい
粘り気のある淀んだ熱のにおいが混じりあった
重苦しい空気に気圧された
母が突然ふらふらと起きだして台所で働く祖母にむけて
ナイフを閃めかせたこともある
母はまた戦争の記憶に異様なほど過敏だった
テレヴィで戦争の映像が映ると
たちまち貌は暗雲で翳り軀を小刻みにふるわせ
すぐさまスイッチを切るか席を立つことを重ねた
二歳上だったかの母の姉は
女学生の学徒動員で工場で働いているさなか
空爆にあって木端微塵になった
マザコンなのかもな
母と同時代の作家たちを好むのは
ナイフを閃めかせたこともある
母はまた戦争の記憶に異様なほど過敏だった
テレヴィで戦争の映像が映ると
たちまち貌は暗雲で翳り軀を小刻みにふるわせ
すぐさまスイッチを切るか席を立つことを重ねた
二歳上だったかの母の姉は
女学生の学徒動員で工場で働いているさなか
空爆にあって木端微塵になった
マザコンなのかもな
母と同時代の作家たちを好むのは
母から昔話をきいているような感覚に
かすかにでも襲われることがあるから
かすかにでも襲われることがあるから
もちろん感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃に
彼らの作品に行き当たった
ということもあるにはきまっている
みんなそろそろ死んでもいい齢だよな
あと10年もつひとはどのくらいいるのだろう
ということもあるにはきまっている
みんなそろそろ死んでもいい齢だよな
あと10年もつひとはどのくらいいるのだろう
君は死にかけていてぼくはぴんぴんしている
(……)
君はもう利口ぶった他人に吐き気をもよおすこともないし
利口ぶった自分に愛想をつかすこともない
君の時間はゆったりと渦巻き
もうどこへも君を追い立てたりはしない(谷川俊太郎「コーダ」より)
◆古井由吉の《飯を掻きこんでいた箸をいきなり止めて、もどかしく宙をつつくようにしながら、ああ、あれあれ、お母さんの、あの帯いただくわ》
記憶に間違いがなければ昭和の二十八年か、あるいは九年に、高校生の私は五反田で小津安二郎の「東京物語」を見た。駅に近い、御殿山から品川へ向かう道路に面した映画館である。正面はコンクリート風だが、道の向う岸から見あげると、上は古めかしい瓦の大屋根だった。当時、映画が終ると私はたいてい駈けるようにしてその場を去ったものだ。遣る瀬なさをまず振り落とすためだったか。まだ運動靴などをはいていた年頃である。で、その日も二階の上映室を出て日盛りの窓に眼を細め、階段を足早で降りかけると、途中の踊り場で刑事に呼び止められた。
土曜の正午頃に映画から出て来た学生服姿を怪しまれたわけだ。私の学校はその頃から隔週五日制を取っていた。その旨を話すと刑事はすぐに顔を和らげ、私と同じ年頃の息子でもあるのか、どこかわびしげに大学受験の話を始めた。誰も彼も大学へ行くことになって世の中どう変っていくことやら、親は食うや食わずの心配なのに、と歎いた。私も何となく心を惹かれて、馴れぬ立ち話の相手をしばらくしていた。おのずとぽつりぽつりとなる両者の口調に、いましがたの映画の名残りが滴っていたのかもしれない。おかしな図である。
同じ東京の小市民とはいいながら、自分のところよりも一段と小奇麗な暮しだな、と高校生の私はまずそういう印象を画面から受けた。戦災の痛手をこうも蒙らなかったら、我家〔うち〕だって、苦さもあんなところだったか、とかすかな羨望も覚えた。戦災の打撃によってさらに多くの小市民家庭が、零落の方向にせよ解放の方向にせよ、出来あがり定着しつつあった時代だったかと思う。雑居家族がそろそろ整理され、ひとつの端境期であった。後の言葉でいう核家族として、簡易にまとまれた家と、なにかの事情でまとまりきれずに古い崩壊の傷やら膿やらをまだひきずっていた家と、およそふたとおりあったようだ。「東京物語」中の「東京者」の暮しぶりは、少年の私の目にはその前者の、むしろ新しい、仕合わせな部類として映ったわけだ。
杉村春子の扮する中年の長女が、母親の葬儀も落着いた頃の或る日、郷里の家で一家揃っての食事の最中に、飯を掻きこんでいた箸をいきなり止めて、もどかしく宙をつつくようにしながら、ああ、あれあれ、お母さんの、あの帯いただくわ、と高っ調子に言った場面が印象に残った。十六、七歳の私にとっても、親族の女たちの間で幾度も目撃した光景のような気がして、まことに得心の行く場面であったが、それでもまた一方で、ああもさばさば行くものか、もうすこし粘りはしないか、という訝りはあった。しっとりとした佳作ではあるが、日本映画特有のスローテンポにはじりじりさせられる、とさる学生新聞の生意気盛りの匿名氏は評していた。洋画のほうではたしか、「陽のあたる場所」が評判を呼んだ頃である。あれこそ重苦しい、スローテンポではないか、と私はそちらにも心を惹かれていた。もう三十年近く昔になる。
わたくし、現在四十代なかばの世帯主、生まれて四十何年来の東京住人、新開地の旧地番を中年期から本籍とする男は一体、新しい東京者なのか、古い東京者のなれのはてなのか、それともあんがい、たわいもない反復なのかーー(古井由吉『東京物語考』)
◆蓮實重彦の「昭憲皇太后の睾丸」、「ミシブチンのコック」、あるいは「ゾケサ」。
下のパラグラフにはまた、《懐しさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それはまごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない》とある。では、『「ボヴァリー夫人」論』を上梓したばかりの蓮實重彦の書き綴るエッセイ「姦婦と佩剣」の冒頭に溢れる「懐かしさ」の抒情は、なんとすべきだろうか。
下のパラグラフにはまた、《懐しさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それはまごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない》とある。では、『「ボヴァリー夫人」論』を上梓したばかりの蓮實重彦の書き綴るエッセイ「姦婦と佩剣」の冒頭に溢れる「懐かしさ」の抒情は、なんとすべきだろうか。
たしかに蓋然性という点からすれば、いま、大部分の日本人が日本語で話し、かつ読んでいることに間違いなかろうが、そうでない残りの部分、つまり日本人でありながらも日本語を話さず、読んでもいない人たちや、逆に日本人でないにもかかわらず日本語で話し、読んでいる人たちは、決して不自然さの中に仮に身を置いているわけではない。余儀なくそうしているのであれ、あるいは自分から進んでそうしているのであれ、その理由はともかくとして、割合からいえば確かに少数者であるに違いないこの残りの部分の存在を無視したばあい、二十世紀の地球はたちどころに地球として機能しなくなるはずであり、その意味で、それは不自然とはほど遠い一つの現実にほかなるまい。だから、いま、この日本語のつらなりを日本人として読んでいるあなたは、決して自然さに保護されているわけではなく、選ばれた不自然を自然であるかに思いこんでいるに過ぎない。選択された不自然を自然だと信ずることへの確信を、ここではとりあえず「制度」と呼んでみたいが、この「制度」が、懐しさの訪れようもない世界へと人びとを閉じこめてしまうことはいうまでもない。「制度」は、それ自体として余白も陥没点も持たない充足しきった空間である。無知のまわりには、知識へと向う強烈な磁力が働いている。誤謬の前には正確さが立ちはだかって正確さへの道を告げる。理性は、非理性を訓育する。正常は狂気を哀れに思う。しかも、こうした二元論をどこまでも堅持すべく、ときには狂気の祭典、非理性の反乱、誤謬の顕揚、無知への郷愁といった儀式をすら「制度」は計画し現実に演出したりもする。そして、いたるところで懐しさの可能性が絶たれてゆくのだ。懐しさとは、知識でも無知でもなく、正確さでも誤謬でもなく、理性と非理性、正常と狂気といった差異そのものを無効にする徹底した曖昧さにほかならぬからだ。そして、そこでは何ものも決定的に選ばれず排除されることもない懐かしさの世界にあっては、昭憲皇太后の睾丸もミシブチンのコックも、それじたいとして一つの現実なのである。すでに述べたごとく、それが懐かしいのは、そうした現実が幼年期の言語体験に特有のあの失われた時に属するからではなく、それが、いまこの瞬間にわれわれのまわりに氾濫していながら、そこから視線をそらすことを一つの自然として選択してしまっているが故に、懐しいのだ。懐しさとは、欠落を惜しむ心の湿りけではない。それはまごうかたなき現実としてありながら、その現実を触知する術を奪われたものの無力感にほかならない。(蓮實重彦「皇太后の睾丸」『反=日本語論』より)
ここにある昭憲皇太后の睾丸は、藤枝静男「土中の庭」における昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌「金剛石を磨かずば」をめぐる叙述に関係する(参照:「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」)。そしてミシブチンのコックは、蓮實少年に関するもので、次のように書かれている。
誰もが「金剛石を磨かずば」の歌に似た一人合点の勘違いの体験を持っているはずだ。そして、後にその誤りが正されてからも、当初の勘違いが「ごく微かにであるが」生き伸びたりするものだ。たとえばその後に獲得しえた漢字の知識によって「シャベルで掘る人/鶴嘴で掘る人/道普請の工夫さん/一生懸命働く」と再現しうる奇妙な歌を戦時下の幼稚園で声をはりあげて何度もおさらいをしていた少年にとって、銃後のまもりを強調するものであったのだろう「道普請の工夫さん」の一行は、セーヨーケンとかマツモトローとかに類する西洋料理屋の一つミシブチンで働くコックさん以外のものでありえようはずもなかった。それだから、白く長くとんがり帽子を頭の上で揺さぶりながら甲斐甲斐しく働く何人ものコックたちが、シャベルやツルハシで何やら大きな鍋をかきまわしている光景が、今日に至るも心のかたすみにごく曖昧ながらも消えずに残っている。
そして『反=日本語論』でもっともおおく言及されてきただろう、「ゾケサ」。
藤枝氏にならって「次手に言うと」、このミシブチンの少年の頭脳は、ゾケサなるもののイメージをもありありと思い描くことができる。「明けてぞ今朝は/別れ行く」という『蛍の光』の最後の一行に含まれる強意の助詞「ぞ」の用法を理解しえなかった少年は、なぜか佐渡のような島の顔をした「ゾケサ」という植物めいた動物が、何頭も何頭も、朝日に向かってぞろぞろと二手に別れて遠ざかってゆく光景を、卒業式の妙に湿った雰囲気の中で想像せずにはいられないのだ。ゾケサたちは、たぶん彼ら自身も知らない深い理由に衝き動かされて、黙々と親しい仲間を捨てて別の世界へと旅立ってゆくのだろう。生きてゆくということは、ことによると、こうした理不尽な別れを寡黙に耐えることなのだろうか、可哀そうなゾケサたちよ。
蓮實重彦の藤枝静男への惚れこみようというのも、藤枝静男は1907生れであり、氏の父や母と同世代のはずだから、それとなにか関係があるのかもしれない。もっともこういう話は安易に語るべきではないだろう。たとえば敬愛する作家が祖父のかわりになるような場合だってある。
フランスの詩人ポール・ヴァレリーは、私の人生の中でいちばん付き合いの長い人である。もちろん、一八七一年生まれの彼は一九四五年七月二十日に胃癌で世を去っており、一八七五年生まれの祖父の命日は一九四五年七月二十二日で、二日の違いである。私にとって、ヴァレリーは時々、祖父のような人になり、祖父に尋ねるように「ヴァレリー先生、あなたならここはどう考えますか」と私の中のヴァレリーに問うことがあった。医師となってからは遠ざかっていたが、君野隆久氏という方が、私の『若きパルク/魅惑』についての長文の対話体書評(『ことばで織られた都市』三元社 2008年、プレオリジナルは1997年)において、私の精神医学は私によるヴァレリー詩の訳と同じ方法で作られていると指摘し、精神医学の著作と訳詩やエッセイとは一つながりであるという意味のことを言っておられる。当たっているかもしれない。ヴァレリーは私の十六歳、精神医学は三十二歳からのお付き合いで、ヴァレリーのほうが一六年早い。ただ、同じヴァレリーでもラカンへの影響とは大いに違っていると思う。ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である。(中井久夫「ヴァレリーと私」)
時代の文化的変遷がすくないかつてのようであれば、父母ではなく祖父母の世代の考え方を規範として生きるということもあるだろうし、中井久夫の場合はそもそも祖父母っ子だったようだ。
父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。(中井久夫「私が私になる以前のこと」ーー中井久夫と創造の病い)
とすれば、また想い起こすのだが、ロラン・バルト(1915-1980)とジイド(1869 - 1951)は、やはりほぼ祖父と孫の年齢差があるとしてよいだろう。
恐らく、《作家であること》! というあの幻想をいだいて青春をすごす若者は、もうひとりもいないのだ。いったい同時代の作家の誰からコピーしようとのぞめばいいのか。誰かの作品をではなく、その仕事ぶり、その姿勢、ポケットに手帳を、頭に文をおさめて世間を歩いてゆくあの流儀を、いったい誰について真似すればいいというのか(そんな風に私はジッドを見ていたものだった、ロシアからコンゴまで歩きまわり、気に入った古典を読み、食堂車のなかで料理を待ちながら手帳に書いている姿を。そんな風なジッドを、私は実際に一九三九年のある日、ブラッスリ・リュテシアの奥まったテーブルで、梨をたべながら本を読んでいる姿を、見たことがある)。なぜなら、幻想が強制するもの、それは日記の中に見いだされるような作家の姿だからである。それは《作家からその作品を差し引いたもの》である。神聖なものの至高な形式、すなわちマークつきの空虚である。(『彼自身によるロラン・バルト』)
古井由吉は次のように語っている。
例えば鴎外、漱石の文章から、多くのことを私は学びます。学ぶことはできる。でも、踏まえることは難しい。踏まえるには堅固ではないとは申しません。踏まえる足のほうが悪いのです。(「群像」 2012年12 月号 翻訳と創作と)
現在のような文化的変遷がすみやかな時代では、ロラン・バルトのいう意味以外にも、父母の世代の作家でさえ、踏まえることは難しくなっているはずだ。とくにインターネットや携帯電話普及以前以後という文化的断絶がある。《携帯電話の普及が心の襞まで書き込む男女のあやというべきものを奪い取ってしまった》(古井由吉『人生の色気』)