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2013年9月9日月曜日

騙されない人は彷徨うLes non-dupes errent

ラカンには「騙されない彷徨Les non-dupes errentというセミネールがあるXXI-Les non-dupeserrent   1973-1974)。

この文は何を言っているのか。一見そうと思われるようには、騙されないためには人は彷徨わなければいけない、ということではないらしい。

もちろん、《精神科医なら、文書、聞き書きのたぐいを文字通りに読むことは少ない。極端に言えば、「こう書いてあるから多分こうではないだろう」と読むほどである》(中井久夫『治療文化論』p81)であるだろうから、人の語ったことに騙されないために、あれやこれやと模索する、という態度は、精神科医だけでなく、思索にかかわるひとなら、当然持ち合わせなければならない。


だが、それは基本として、《Les non-dupes errent》には、別に次のような含みがあるようだ。

Les non-dupes errent 「騙されない人々は彷徨う」。この文章を耳で聞くと「父の名」Les Noms-du-Père と同じ音になります。つまり「騙されない人々は彷徨う」という表現の背景には、騙されないために必要なものは、Nom-du-Père ですよ、「父の名」ですよ、という暗示がある》(藤田博史)

騙されないために必要なものが、「父の名」であることについてのジジェクの説明を聞いてみよう( 以下の文の「象徴的機能」を「父の名」として読もう)。


マルクス兄弟の映画の一本で、嘘を見破られたグルーチョが怒って言う。「お前はどっちを信じるんだ? 自分の眼か、おれの言葉か?」 この一見ばかばかしい論理は、象徴的秩序の機能を完璧に表現している。社会的仮面のほうが、それをかぶっている個人の直接的真実よりも重要なのである。この機能は、フロイトのいう「物神崇拝的否認」の構造を含んでいる。「物事は私の目に映った通りだということはよく知っている。私の目の前にいるのは堕落した弱虫だ。それにもかかわらず私は敬意をこめて彼に接する。なぜなら彼は裁判官のバッジをつけいてるので、彼が話すとき、法が彼を通して語っているのだ」。ということは、ある意味で、私は自分の眼ではなく彼の言葉を信じているのだ。確固たる現実しか信じようとしない冷笑者(シニック)がつまずくのはここだ。裁判官が語るとき、その裁判官の人格という直接的現実よりも、彼の言葉(法制度の言葉)のほうに、より多くの真実がある。自分の眼だけを信じていると、肝腎なことを見落としてしまう。この逆説は、ラカンが「知っている[騙されない]人は間違える(Les non-dupes errent)」という言葉で言い表そうとしたことだ。象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。美徳について説教する腐敗した司祭は偽善者かもしれないが、人びとが彼の言葉に教会の権威を付与すれば彼の言葉は人びとを良き行いへと導くかもしれない。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

ーーこの引用だけでわかりにくい場合は、「来るべき精神分析」ブログさんにその章全体の長い引用がある。


2012年の大著のなかでも、ほぼ同じ説明がされる。そこでは、「subject supposed to know」(知っていることを想定された主体)に言及しつつ、次のように書かれている。

……Lacan’s dictum la vérité surgit de la méprise—more precisely, de la méprise du sss (sujet supposé savoir): one cannot get directly at the inexistence of the big Other, one has first to be duped by the Other, because le NomduPère means that les nondupes errent: those who refuse to succumb to the illusion of sss also miss the truth concealed by this illusion. This brings us back to “God is unconscious”: “God” (as subject supposed to know, as big Other, as the ultimate addressee beyond all empirical addressees) is a permanent, constitutive structure of language; without Him, we are in psychosiswithout the place of GodFather, the subject ends up in a Schreberian delirium. God as sss is unsurpassable, in its basic dimension of big Other, of the place of Truth. The big Other is thus the zerolevel of the divine, it is properly the place where, if you allow me this play with words, god—godspeak—speaking (le dieu—le dieur—le dire) produces itself. It is saying which makes God out of a nothing. And as long as something will be said, the hypothesis of God will be here.”ZIZEKLESS THAN NOTHING 2012


※参照:ラカンの想定された主体[subject supposed to know, sujet suppose savoir]


《象徴的機能に目を眩ませることなく、自分の眼だけを信じ続ける人は、いちばん間違いを犯しやすいのである。自分の眼だけを信じている冷笑者が見落としているのは、象徴的虚構の効果、つまりこの虚構がわれわれの現実を構造化しているということである。》

社会的仮面、つまり象徴的機能をめぐって、わかりやすい例としてアランをひこう。ーーアラン? 「チョークの粉がつくる雲の中で教師然としているアラン」(ラカン「メルロポンティ追悼」)であり、ラカンの『セミネール一巻』では、それなりに好意的に取り上げているあのユマニスト、アランだ。ーー《アランは、パンテオンについて心に描くイマージュにおいては人はその円柱の数を数えることはできない、と強調しました。それについては私なら、パンテオンを設計した人を除いては、と答えましょう。これだけでもう、私達は現実的なもの、想像的なもの、象徴的なものそれぞれの関係に入り込んでいます。》(「フロイトの技法論」上 P231 岩波書店)


葬儀屋を観察していただきたい。彼は表徴の王であって、それ以外のものではない。彼は会衆の性質により、親戚関係により、また身分によって、みずから歩むすべ、見つめるすべ、眼をふせるすべ、相手の名をよぶすべをちゃんとこころえている。彼は表徴を受けとり、表徴をおくりかえして、自分自身の気分などすこしも甘やかさない。重かったり軽かったり、四角かったり円かったり、切れるようだったり刺すようだったりする、およそものというものは、彼の任ではなく、また彼はこれにほとんど頓着しない。彼が任とするのは、人びとの顔と自分自身の顔であり、彼のまわりと彼自身のうちらの人間的秩序であり、ひかえられたりとり交わされたりするもろもろの表徴であり、質量によってではなく意味によって干渉してくるものであり、要するに重さのはかれないものである。こうしたものが彼の任なのだ。わたしは比喩的に任という。そして、彼自身の行動も比喩的なのだ。というのは、彼が監視し気をくばるのは意義であって、ものそのものではないのだから。

ところで、私の考えでは、この表徴の衣服はぴったりと彼にはりついており、しっかりと彼をとらえている。してみれば、彼の考え方もどうして彼の身ぶりに似ないわけがあろう。というのは、われわれの思想は表現によって規制されるものだからだ。口をあけたままではイの音を考えることができない。……(アラン「表徴つかい」『アラン人生語録』(弥生選書)所収  井沢義雄 杉本秀太郎共訳)

 …………


以下は、冒頭に援用させてもらった藤田博史氏のセミネールの講義録からだが、これだけ読むと(藤田氏の真意は別のところにあるのだろうが)、騙されないために彷徨わなければならない、という誤読を生み勝ちなのではないだろうか(もっともこれはジジェクの解釈が正しいとしての見解であり、わたくしはジジェクに「騙されて」いるのかもしれない)。


騙されないこと

したがって治療者は騙されないこと。これが一番の心構えになるわけです。フロイトは実際に口には出さなかったけれども、患者に欺かれることは殆どなかった。患者の陳述に対して、その陳述を字義通りに受け取ることはなかった。患者がどうのこうの言っても、それは幻想のなかで増幅されたり、改変されたり、置き換えられたりしている可能性について常に注意を払っていた。ですから「ラカンは臨床に使えない」などと嘯いている人は、その人自身が既に「言葉に騙されている」ことになるのです。つまり、問題はすでに「使える」とか「使えない」とかいうレベルの話ではないのです。そのような人たちは「ラカンは臨床に使えないという自分の思い込みに騙されている人たち」なのです。ソーカルなどという架空の人物が書いた架空の物語に騙されている人たちがどんなに多いことか。あの本自体が「騙し」であることを見抜けないでいる。


騙されない人は彷徨う

そうすると「騙されない」というスタンスに立つ人は、何か真実なのか、何を信じてよいのか、このことを明言することが困難になります。むしろ、騙されないために彷徨い続けることこそが取るべき唯一の道ということになります。その昔、フォーク・クルセイダーズというフォークグループがいました。彼らの歌に「青年は荒野をめざす」という歌があります。「青年は真実を求めよ、恋人や故郷に別れを告げて、荒野を目指して一人旅立つのだ」というのがこの歌の主旨です。今でも時々、一人で世界を旅している若者たちがいますね。特にアジア、インドやネパールをあてどもなく旅している若者がいます。表向きの理由は「自分探し」や「真実探し」で、自分にとって何か最終的なものを探しているようにも見えます。確かに、騙されない人は彷徨わざるを得ない。ちなみに、フランス語では「騙されない人々」というのは、non-dupes と言います。「彷徨う」という動詞は errer。つまり、Les non-dupes errent 「騙されない人々は彷徨う」。この文章を耳で聞くと「父の名」Les Noms-du-Père と同じ音になります。つまり「騙されない人々は彷徨う」という表現の背景には、騙されないために必要なものは、Nom-du-Père ですよ、「父の名」ですよ、という暗示があるのです。「父の名」とは、シニフィアンの連鎖の中でいうと一番目のシニフィアン S1です(図)。これはファルスと同じものですね。(セミネール断章 2012年3月24日講義より 第3講:「フロイトの治療技法とラカンの治療技法の相違点」藤田博史http://euroclinique-dc.com/_src/sc2181/seminaire20120320of208386815B838D83N838A83j815B83N95B689BB95948CF68EAE83T83C83g.pdf)


図)


S1=Φグラン・フィーは、象徴的ファルス。

上段を、藤田博史氏は次のように読むーー、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》(「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺より)


それぞれの記号の定義は、別の月のセミネール録にある(セミネール断章 2012年1月14日講義より 第1講:「精神分析における治療技法とはなにか?」)。

たとえば、a(小文字の他者)について。
一番右側にある a (objet petit a オブジェプチタ)というのは、もちろんこれはラカンが考えだした記号ですが、複数の意味が込められています。最初に挙げられるのが amour (アムール) 「愛」の頭文字としてのa 。それから abjet (アブジェ)。この概念の理解には多少の解説が必要です。単なる対象 object(オブジェ)ではないのですね。いわばobjet (オブジェ)もどき、オブジェのようでオブジェでない。これを abjet (アブジェ)と呼びます。日本語にすれば「対象もどき」でしょうか。このアブジェはおぞましく堪え難き対象なので「棄却対象」とも訳されています。


※参考

……私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファルス(男根)である。なぜラカンにとって、ファルスはたんなる授精のための器官ではなく、シニフィアンなのか。伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力の行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。この去勢は、私が象徴的秩序に取り込まれ、象徴的な仮面あるいは称号を身にまとうという事実そのものによって起きる。去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。したがってわれわれはファルスを、私の存在の生命力をじかに表現する器官としてではなく、一種のしるし、王や裁判官がそのしるしを身につけるのと同じように私が身につける仮面である。ファルスはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の身体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 P64-65)