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2013年8月9日金曜日

フローベールの『紋切型辞典』をめぐって

【フローベール『紋切型辞典』より抜粋】

書く 「つい筆がすべって」(クレンテ・カラモ)と言えば文章や綴りの過ちの言いわけとなる。

  底なし。無限の象徴。高尚な考えをもたらしてくれる。海辺に行くときはかならず望遠鏡を持参すべきである。
海を眺めたら、いつでも「なんという水の量だろう!」と言うべし。

音楽 そこはかとなき物思いをさそい、世の風俗を浄化す。例、ラ・マルセイエーズ。

詩人 「能無し」を人聞きよく言い換えた同義語。昼日中から夢を見ている人。

怒り 血行をよくする。したがって、ときどき怒りを覚えることは体によい。

羞恥心 女性にとってもっとも美しい装飾品。

・神経 病気の正体がわからないときは神経のせいにすること。この説明で病人はけっこう納得する。

・聖職者 女中と寝て、子どもが生まれると甥と称す。よろしく去勢すべし。「いや、なかには立派な坊さまもいますよ」

・編集・編纂 だれでもできる


…………


◆一八五二年の暮れの年上の女友達への書簡(『紋切型辞典』の構想)
ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞讃し、多数派がつねに正しく、少数派はつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。従って文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。……そもそもこの弁証論の目的は、いかなる意味での超俗行為をも断固として排撃することにあるのだと主張したい。(フローベール)


…………

『紋切型辞典』とは、刊行を夢みられながらもついに刊行されなかった遺著の一冊ではなく、あらかじめ所属すべき世界を奪われたままあたりを漂っている引用文の群にすぎない。それ故、任意の項目とその定義を分析しながら、そこに作家の思想なり世界観なりを抽出しようなどと試みてはなるまい。気の利いた反語的アフォリズムでもなければ、批評的な箴言集ですらないのだから、そこに人が見いだすものは、世界そのものの容貌にも似た退屈さだけだ。

たとえば「芸術」Artsの項目を見てみるとどうか。

芸術 まったくもって無駄であるーーそれよりみごとに、また迅速にやってのける機械がこれにとってかわったのだから。

もっとも早い時期に書かれたと見なされる原稿のこの定義は鉛筆で消され、いま一つの原稿に、次のようなかたちでふたたび姿を見せている。

芸術 施療院へ通じる道。機械のほうがずっと手際よく、迅速にやってくれるのに、今さら何の役に立つ。

(……)

「芸術」の定義が蒙る動揺は、二つの側面において進行する。一方では、それを享受する層の飛躍的な増大という現象があり、また他方、増大した享受者たちの趣味に見合った芸術品の質的な低下、及び量産の可能性という事態がある。いってみれば、それまで芸術品と思われていたものに酷似した芸術まがいの生産物があたりに氾濫し、軽薄な複製のごとき類似品の群によって、本物の姿が見きわめがたくなってしまったのだ。事実、オペレッタの方がオペラより気軽に楽しめるし、文豪の手になる本格的な小説よりも新聞の連載小説の方がはるかにわかりやすいに違いない。(……)

ここで重要なのは、本物よりもそれに酷似した模造品が大量に生産され消費されてゆくという文化的な状況のもとで、その定義にとどまらずあり方そのものまでが曖昧になってゆく「芸術」を、社会全般があからさまに無視し、それについて語ることをやめたわけではなく、かえって、かつてないほどの饒舌さで、誰もがこの語彙を口にしていたという点である。初期の産業社会が可能にした複製技術と大衆化現象とを介して、「芸術」ははじめて普遍的な話題となったのである。「芸術」の定義に自足しきっていた時代ではなく、模造品の氾濫による定義の動揺が起ったときに、「芸術」は芸術の物語を持つに至ったのだといってもよい。それ故、『紋切型辞典』に読まれる「まったくもって無駄である」「今さら何の役に立つ?」といった語句から、すぐさま芸術の無益性という概念を読みとり、興隆期の市民社会に支配的だった芸術蔑視の風潮に対する編纂者の苛立ちをさぐりあてらりしてはならない。かりに編纂者の側に苛立ちがあるとするなら、それは、あまりに芸術が話題になりすぎるという現象に対してである。本来の意味での芸術とは無縁の生活をいとなんでいる連中までがこの語彙をたやすく口にし、誰に頼まれたわけでもないのにその未来の姿を語ってみせたりする説話論的な磁場の成立こそがここでの真の問題なのだ。(蓮實重彦『物語批判序説』)

あらゆる項目がそうだとは断言しえないが、『紋切型辞典』に採用されたかなりの単語についてみると、それが思わず誰かの口から洩れてしまったのは、それがたんに流行語であったからではなく、思考さるべき切実な課題をかたちづくるものだという暗黙の申し合わせが広く行きわたっていたからである。その単語をそっと会話にまぎれこませることで一群の他者たちとの差異がきわだち、洒落ているだの気が利いているだのといった印象を与えるからではなく、それについて語ることが時代を真摯に生きようとする者の義務であるかのような前提が共有されているから、ほとんど機械的に、その言葉を口にしてしまうのだ。そこには、もはやいかなる特権化も相互排除も認められず、誰もが平等に論ずべき問題だけが、人びとの説話論的な欲望を惹きつけている。問題となった語彙に下された定義が肯定的なものであれ否定的なものであれ、それを論じることは人類にとって望ましいことだという考えが希薄に連帯されているのである。(「同上」)

…………


・アーティスト 「芸術家」たちの愚痴の矛先。彼らの血行をよくする。

無感覚なくせに、やたら「身体」と言ってみたり、まったく他人の言葉を聞かないで自分を認めろ、とわめきたてているだけなのに「他者の声をきく」と言ってみたり・・・・。
目的はただ一つ、自分が芸術家、アーティストと呼ばれ、称賛されることのみ。自分が羨望される存在になること。自分が承認されること。それしか頭にない。
たぶん劣等感や、不安を隠そうとして、異常なほどのナルシシズムになるのだろう。言動のすべてに、その醜悪さが迸り出る。(福山知佐子


・知識人  「知識人」批判をする人たち。SNS上では、にわか知識人の餌食。嘲弄すれば知識人(インテリ)になった気分になれる。

われわれは今日ある種の言葉を使えなくなっている。厳密にいえば、それらは死語ではなく、今でも使われているが、あるためらいや留保の感じなしに使えないだけである。その一つは知識人という語である。知識人と名乗る人はほとんどないし、いたところで誰も彼らを相手にしない。にもかかわらず、知識人を攻撃し嘲笑する言葉だけはあいかわらず続いている。むしろいまや知識人批判者が現在の典型的な知識人だというべきである。しかし、実は、知識人、intelligentzia intellectualtという語が使われ実際にそのような者があらわれた時点から、すでにそうであったのではないだろうか。“知識人”をどこかに想定しそれを批判することで自らを意味あらしめようとするようなタイプ、それが知識人なのである。(柄谷行人「死語をめぐって」『終焉をめぐって』所収)


・芸術家  上の文の「知識人」に「芸術家」を代入して読むべし。

いまだ一九世紀に発生した「芸術家」に郷愁をもつ輩は次の如くノタマウ。
「昔は誰かがパトロンになって芸術をまもったが今は皆無。これからは自分で高めて行く戦略とマネージメントが必要ですよ」

・職人  「芸術家」を夢見る人としてバカにする傲慢な人たち、あるいは「芸術家」になるのを諦めたつつましい人たち。ときにアーティストの変種。当人は真の「芸術家」のつもりでいる。施療院へ通じないためには「職人」になるべし。

もはや「純文学」などという者はいない。しかも、純文学を軽侮することがアイロニーとしてあった時代もとうに終っている。今や新人作家がその二冊目のあとがきにつぎのように書く始末なのだ。《良いもの、つまんないかもしれないものも、ちゃんと読んでくれる人がいて、ごまかしがきかないくらい丸ごと伝わってしまうことはプロの喜び、幸せ、大嬉しいことです。しっかり生きて、立派な職人になりたい。いい仕事をしよう》(『うたかた/サンクチュアリ』)。

「立派な職人になる」と言うのは、一昔前なら、「大問題」を相手にする戦後派的な作家に対して身構えた作家の反語的な台詞としてありえただろう。それは、実際はひそかに“芸術家”を意味していたのである。そういうアイロニーはまだ村上春樹まではある。しかし、吉本ばななは、これを自信満々でいっているのではないかと思われる。それは文字どおり芸能人のファン・クラブ会誌にふさわしい言葉である。そもそも「職人」や「芸人」がどこにもいなくなった時代に、こういう言葉が吐かれていることは、知識人や芸術家が死語にひとしいことを端的に示している。(柄谷行人「死語をめぐって」『終焉をめうぐって』所収)

まれには、旧来の「職人=芸術家」の生き残りもいる。だが、その類はマスコミやインターネットなど相手にしている暇はないから、あたかも存在しないが如し。
いかなる着想も作品ではないことを、はっきり言っておこう。そしてこの機会にすべての芸術家に忠告しておきたい、単なる可能のうちからどれが最も美しかろうなどと捜しあぐむのは時間の浪費というものである。いかなる可能も美しくはなく、ただ現実のもののみが美しいのだから。まず製作せよ、判断はそれからのことだ。これこそあらゆる芸術の第一条件である。芸術家( artiste)と職人(artisan )との言葉のつながりを見ても、このことはよくわかる。しかし想像力の本性に関する持続的な反省は、さらに確実に重要な考えに導いてくれる。それは、現実の対象をもたぬあらゆる冥想は必然的に不毛だということである。君の作品を考える、いかにも、結構! しかし、人は存在するものをしか考えることはできない。まず君の作品を作ってみることだ。(アラン 『芸術論集』(諸芸術の体系)桑原武夫訳)



・人類  もう人類の将来は長くない、と憂い顔でいうべし。人類愛に燃えた高尚な人物にみえる。

・被害者/社会的弱者 真摯に憂いて社会の不正を糾弾すべし。「人類愛」に燃える人たちの注視の対象。彼らの「正義感」を鼓舞してくれる掛け替えのない人たち。

……被害者の側に立つこと、被害者との同一視は、私たちの荷を軽くしてくれ、私たちの加害者的側面を一時忘れさせ、私たちを正義の側に立たせてくれる。それは、たとえば、過去の戦争における加害者としての日本の人間であるという事実の忘却である。その他にもいろいろあるかもしれない。その昇華ということもありうる。

社会的にも、現在、わが国におけるほとんど唯一の国民的一致点は「被害者の尊重」である。これに反対するものはいない。ではなぜ、たとえば犯罪被害者が無視されてきたのか。司法からすれば、犯罪とは国家共同体に対してなされるものであり(ゼーリヒ『犯罪学』)、被害者は極言すれば、反国家的行為の単なる舞台であり、せいぜい証言者にすぎなかった。その一面性を問題にするのでなければ、表面的な、利用されやすい庶民的正義感のはけ口に終わるおそれがある。(中井久夫「トラウマとその治療経験」『徴候・外傷・記憶』所収)


・匿名者  「実名」にしても「匿名」と変わるところはない「無名」の人たち。「社会的無名者は黙れ」と、かつての社会的評価の高かった「知識人」にノスタルジーを覚える人たちの餌食となる。
「いや、攻撃欲動を発散させるタチの悪い匿名者ばかりですよ」


・実名者 己れの名を流通させるのが生き甲斐のひとたち。多数の無名の視線に憧れる。そのため「匿名者」にアンビバレントな愛憎を抱く。

反デカルト、ヴァレリー主義者。ーー隠れた人生が最高の人生である」(デカルト)「自己でありたくない欲望」(ヴァレリー)。

「匿名者たちは衆愚の集団ですよ」。--ひそかに「選挙」も実名投票にして、階級別に一票の比重を変えたいと願う類の輩もいる。それがかなわぬため、選挙前には衆愚洗脳の発言を振り撒く。

・法律家・医者  若い頃、最低と思われる俗悪さと手を握ってでも世の中を安全に渡ろうと心を砕き、政治的には極右(その時代の)を指向した者の成れの果て。社会的地位が安定したらリベラル左翼を気取るなどという手合いもいる。


・学者  学生のとき、学校に長く居続けたいと願った者の成れの果て。社会に自分が責任を免除されたままで大学に居続けるための特別の在り方。(レヴィ=ストロースーー猟場の閉鎖

「内なるプロレタリアート」の学者を貶すべからず、大学を道化師の溜まり場にしないために。

文化の「リエゾン・オフィサー」(連絡将校)としてのインテリゲンチアへの社会的評価と報酬とは近代化の進行とともに次第に低下し、その欲求不満がついにはその文化への所属感を持たない「内なるプロレタリアート」にならしめる。(中井久夫ーーインテリ「実名」道化師の「匿名」批判

大学からは奇人・変人はすでに一掃され、すでに芸人的道化師しかいないなどという噂もある。

大学が近代において身分社会を補完し解毒する役割を果たしてきたことは事実である。しかし、学歴社会と大学の存在価値とは本来は別個である。大学とは変人、奇人をも含めて知識人を保護し、時にそこから人類更新の契機を生み出させる点で欠かせない場ではなかろうか。学歴社会が必ずしも大学を必要としないのは前近代中国を見ればよい。そして、まさかと思いたいのだが、学歴社会は生き残って、「知識人」は消滅に近づいたのではなかろうか。知識人のほうが弱い生き物で再生しにくいからである。(中井久夫「学園紛争とは何であったのか」『家族の深淵』1995所収)

「いや、立派な専門家たちもいますよ」
「人文学の危機ですからねえ、生きていくためには芸人もやむえないですよ」


・自分の表現 どこかで小耳にはさんで暗記していた台詞やテクストを「優雅に」置き換え劣化させること。

しばしば古典を読まないことの言い訳になったり、過剰な「自意識」露呈への羞恥心の欠如を示す。

《彼は自分のことを語り、自分のことを繰りかえし、自分を押しつけ、強迫的な独白のように際限もないディスクールのなかに、あたかも閉じこめられているかのようである。》(ロラン・バルト)
「おかしいと思うのは」と彼(シャルリュス男爵)は言った、「そんなふうに戦争下の人間や事件を新聞だけでしか判断していない大衆が、自分の意見でそれを判断していると思いこんでいることですよ」(プルースト『見出された時』)


 「自分の言葉で表現しろ」「きみのは引用ばかりだよ」ーー、この類の表現が引用でないことに気づかない幸福な人たちに所属する言葉。


・紋切型表現  「そんなのは昔からのクリシェ(紋切型)ですよ」


…………

【附記】:

サルトルの『大戦の終末』でさえ、紋切型表現の例として餌食となってしまう。

《サルトルのもっともできの悪い文章をとりあげて、作家サルトルの文学的資質をことさら軽視しようとしてこの一節を引いたのではない》、としつつも、《終りという事態を前にした場合、サルトルさえもがこうした貧しい比喩に逃れるほかないという点が問題》(蓮實重彦)である、と。

「世界終末の年」への逆戻りという表現は、サルトルのいわんとすることの表現であるより、むしろその思考の運動を出来合いの言葉の方へと招きよせ、語りつつある主体を、それが喚起するもろもろの象徴へと、検証を欠いた安易さで同調させる機能を演じているように思う。(蓮實重彦『物語批判序説』)

◆サルトルの『大戦の終末』より

・この次の機会には、地球は破裂するかもしれぬし、この不条理な結末は一万年も前から我々人間の心にかかっていた様々な問題を、宙ぶらりんにしてしまうだろう。

・もし明日また新しい事変が起ったと告げられても、我々は、あきらめたように肩ををびやかせながら、「予定どおりさね」と言うに違いない

・大洪水前の虚無からは幾世代にもわたる祖父たちによって守られており、未来の虚無に対しては、何代にもわたる甥孫によって守られており、つねに時間の流れの中間にあって、決してその末端にはいなかったのだ。しかし、今や我々は、この「世界終末の年」へ戻ってしまったのであり、朝起きる度毎に、時代の終焉の前日にいることになるだろう。



――原発事故のあとには似たような表現が跳梁跋扈したのは誰もが想いだすことができる。

『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)