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2013年7月7日日曜日

私の好きなもの(吉岡実、ロラン・バルト)

ラッキョウ、ブリジット・バルドー、湯とうふ、映画、黄色、せんべい、土方巽の舞踏、たらこ、書物、のり、唐十郎のテント芝居、詩仙洞、広隆寺のみろ く、煙草、渋谷宮益坂はトップのコーヒー。ハンス・ベルメールの人形、西洋アンズ、多恵子、かずこたちの詩。銀座風月堂の椅子に腰かけて外を見ていると き。墨跡をみるのがたのしい。耕衣の書。京都から飛んでくる雲龍、墨染の里のあたりの夕まぐれ。イノダのカフェオーレや三條大橋の上からみる東山三十六峰 銀なかし。シャクナゲ、たんぽぽ、ケン玉をしている夜。巣鴨のとげぬき地蔵の境内、せんこうの香。ちちははの墓・享保八年の消えかかった文字。ぱちんこの 鉄の玉の感触。桐の花、妙義の山、鯉のあらい、二十才の春、桃の葉の泛いている湯。××澄子、スミレ、お金、新しい絵画・彫刻、わが家の猫たち、ほおずき 市、おとりさまの熊手、みそおでん、お好み焼。神保町揚子江の上海焼きそば。本の街、ふぐ料理、ある人の指。つもる雪(吉岡実〈私の好きなもの〉一九六八年七月三一日)。

下町育ちの吉岡実らしい。それと「ロリコン」と「エロス」の気配はかすかに。「現代日本でいちばん不道徳な、いちばんエロティックな いちばんグロテスクな、いちばん犯罪的な、…詩を書く詩人」(澁澤龍彦)の面影はわずかにしか窺えない。


次の『彼自身によるロラン・バルト』「私は好きだ、好きではない」の項より(”Roland Barthes par Roland Barthes”は、1975年出版であり、吉岡実はバルトに倣ったのかと、以前は思い込んでいたが、そうではないのだ)。

《私の好きなもの》、サラダ、肉桂、チーズ、ピーマン、アーモンドのパイ、刈った干草の匂い(どこかの「鼻〔調香師〕」がそんな 香水をつくってくれるといいのだが)、ばらの花、しゃくやくの花、ラヴェンダー、シャンパン、政治的には軽い立場、グレン・グールド、よく冷えたビール、 平らな枕、焼いたパン、ハヴァナの葉巻、ヘンデル、適度の散歩、梨、白桃あるいは樹墻による保護なしで仕立てた桃、桜んぼ、絵具、腕時計、万年筆、ペ ン、アントルメ、精製していない塩、リアリズムの小説、ピアノ、コーヒー、ボロック、ドウンブリー、ロマン派の音楽いっさい、サルトル、ブレヒト、ヴェル ヌ、フーリエ、エイゼンシュテイン、列車、メドックのワイン、ブーズィー、小づかいを持っていること、『ブヴァールとペキュシェ』、サンダルばきで南西部 地方の裏通りを晩に歩くこと、L博士の家から見えるアドゥール河の湾曲部、マルクス・ブラザーズ、サラマンカから朝の七時に出発するときにたべたセルラー ノ[スペイン風のハム]など。
《私の好きでないもの》、白いルルー犬、パンタロンをはいた女、ゼラニ ウム、いちご、クラヴサン、ホアン・ミロ、同義語反復、アニメーション映画、アルチュール・ルビンシュタイン、ヴィラ、午後、サティ、バルトーク、ヴィ ヴァルディ、電話をかけること、児童合唱団、ショパンの協奏曲、ブルゴーニュのブランスル(古い、きわめて陽気な、輪になっておどるダンス)、ルネッサン ス期のダンスリー、オルガン、M-A・シャルパンティエ、そのトランペットとティンパニー、政治的=性的なものごと、喧嘩の場面、率先して主導すること、 忠実さ、自然発生性、知らない人々と一緒の夜のつき合い、など。

バルトはこのあとすぐさまこう書く。

《私の好きなもの、好きではないもの》、そんなことは誰にとっても何の重要性もない。とはいうものの、そのことすべてが言おうとしている趣意はこうなのだ、つまり、《私の身体はあなたの身体と同一ではない》。というわけで、好き嫌いを集め たこの無政府状態の泡立ち、このきまぐれな線影模様のようなものの中に、徐々に描き出されてくるのは、共犯あるいはいらだちを呼びおこす一個の身体的な謎 の形象である。ここに、身体による威嚇が始まる。すなわち他人に対して、《自由主義的に》寛容に私を我慢することを要求し、自分の参加していないさまざま な享楽ないし拒絶を前にして沈黙し、にこやかな態度をたもつことを強要する、そういう威嚇作用が始まるのだ。

(一匹の蝿が私に腹を立てさせる、私はそれを殺す。人は、腹を立てさせる相手を殺す。もし私がその蝿を殺さなかったとしたら、それは《ひとえに自由主義のため》であっただろう。私は、殺人者にならずにすますために、自由主義者である。)

………

ふつうは、こうやって並べたら、オレの「私の好きなもの」を書くのだろうな、かつてならそうしたが、今はそんな気はしないね


《私の身体はあなたの身体と同一ではない》だな、気になるのは。――『彼自身によるロラン・バルト』には「身体」という語が頻出する、まるで「身体」をめぐるエッセイのようにして(なぜだれもそう言わないのだろう、あの書物のことを)。


さて「身体」をめぐっていくつか抜き出そう。

《誰かが彼にたずねる、「《エクリチュールは身体を経由する》とあなたはお書きになりましたが、そのわけを説明していただけませんか?」

そこで彼は気づくのだ、彼にしてみれば実に明白なこのような言表のうちで、おおぜいの人びとにとっては朦朧としているものがいかに多いか、ということに。とは言っても、文が意味をなしていないのではない。ただ、省略的なのだ。省略法が勘弁できないというわけだ。それに加えて、この例文に対しては、それほど断固たるものではないにしても、たぶんもうひとつの抵抗がある。公衆の通念の中には、身体についての、ある控えめな考えかたがある。どうやら身体とは魂に対立するものであるらしい。そこで身体をちょっとでも換喩的に拡大することはタブーとなる。》(『彼自身』)


複数の身体

「どんな身体か? 私たちは複数の身体をもっているのだ」。私は消化器的な身体をひとつもっている。私は吐き気を味わう身体をひとつもっている。三つ目は偏頭頭もちの身体だ。という具合にどこまでもつづく。官能としての、筋肉系としての(作家の手)、体液的ないし気質としての身体、そして、とりわけ《情動的な》身体、それは、感動し、揺り動かされ、あるいは圧縮され、あるいは興奮し、あるいはおびえ、しかもそんな様子をまったく見せない身体である。他方で私は、社会化された身体、神話化された身体、人工的な身体(日本の、異性に扮する仮装のそれ)、そして売淫の(俳優の)身体にとらえられ、そのあげく魅惑されている。さらに、これらの公共化された(文学的な、文章として書かれた)身体に加えて、私には、もしそう言うことができるとすれば、地方的な身体がふたつある。それは、パリ住まいの(神経の過敏な、疲れた)身体と、いなか住まいの(休息した、重い)身体とである。(『彼自身』)

悪いもの

“ドクサ”(“通念”)は、彼の言述のなかでさかんに言及されているが、まぎれもなく「《悪いもの》」である。それは内容の面からはどうにも定義することができず、ただ形式の面からしか定義されない。そして恐らく、その悪い形式とはすなわち反復のことなのだ。―――しかし反復されるものにも、ときには良いものがあるではないか。たとえば《テーマ》とは、批評にとっては良いものであって、しかもそれはたしかに、反復される何ものかではないか。―――良い反復とは、身体に由来する反復だ。“ドクサ”が悪いものであるという理由は、それが死んだ反復であること、誰の身体から発生するものでもないということ―――さもなければ、たぶん、まさに“死者たち”の身体から発生するものだ―――という点にある。(『彼自身』)

紋切型はドクサのひとつとしてよいだろうから(キッチュ、凡庸、イデオロギー、制度などももしかり)、よい紋切型というものもあるのだ、身体に由来すれば(たとえば挨拶の言葉とは、そういったものだろう)。


実は、ここのところ、このあたりのことをメモしているのだけれど、ひとが生活でかわす言葉の大半は、紋切型表現であるには違いない。

また「偽日記」からヒントを貰ったのだれどね。

毒にも薬にもならない、たんに退屈なだけの紋切り型というのもある。紋切り型の大部分が(ということはわれわれの生の大部分が?)これかもしれない。だからこそこれらが少しでも「良い」ものであることはかなり重要だと思う。
紋切り型は、ある程度共有された、自動的に作動する思考と納得の形式であり、感情の形式ですらあるだろう。人も社会も八割がたは紋切り型(の交換)で出来ているとすれば、社会について、あるいは生活について本気で考えようとするのなら、紋切り型について考えることを避けられないと思う。そのような意味で、紋切り型を、紋切り型に過ぎないと切って捨てるのは怠惰だとも言える(ある種の人は――ぼくなどもそうなのだが――紋切り型が交換されることの重要性をしばしば軽視する)。社会の様々な制度について、政治について考えるよりもむしろ、紋切り型について、それがどのように作動(作用)するのかについて考える方がずっと「社会のため」にはなると思う。あるいは、「良い紋切り型」を生産しようと努力すること(これはフィクションの問題だろう)、とか。

ーーということだよな。で、よい紋切型が身体に由来する反復だとして、そのときの「身体」ってなんだろうね、具体的には。

重層体としての身体(中井久夫)

A 心身一体的身体

(1)成長するものとしての身体
(2)住まうものとしての身体
(3)人に示すものとしての身体
(4)直接眺められた身体(クレー的身体)
(5)鏡像身体(左右逆、短足など)

B 図式〔シューマ〕的身体

(6)解剖学的身体(地図としての身体)
(7)生理学的身体(論理的身体)
(8)絶対図式的身体(離人、幽体離脱の際に典型的)

C トポロジカルな身体

(9)内外の境界としての身体(「袋としての身体」)
(10)快楽・苦痛・疼痛を感じる身体
(11)兆候空間的身体
(12)他者のまなざしによる兆候空間的身体

D デカルト的・ボーア的身体

(13)主体の延長としての身体
(14)客体の延長としての身体

E 社会的身体

(15)奴隷的道具としての身体
(16)慣習の受肉体としての身体(マルセル・モース)
(17)スキルの実現に奉仕する身体
(18)「車幅感覚」的身体(ホールのプロキセミックス、安永のファントム空間)
(19)表現する身体(舞踏、身体言語)
(20)表現のトポスとしての身体(ミミクリー、化粧、タトーなど)
(21)歴史としての身体(記憶の索引としての身体)
(22)競争の媒体としての身体(スポーツを含む)
(23)他者と相互作用し、しばしば同期する身体(手をつなぐ、接吻する、などなど)

F 生命感覚的身体

(24)エロス的に即融する身体(プロトペイシックな身体)
(25)図式触覚的(エピクリティカルな身体)
(26)嗅覚・味覚・運動感覚・内臓感覚・平行感覚的身体
(27)生命感覚の湧き口としての身体(その欠如態が「生命飢餓感」(岸本英夫))
(28)死の予兆としての身体(老いゆく身体――自由度減少を自覚する身体)

………
(29)暴力としての身体(暴力をふるうことによってバラバラになりかけている何かがその瞬間だけ統一される。ひとつの集団が暴力に対して暴力をもって反応する時にはその集団としてのまとまりが生まれる)

中井久夫は、ヴァレリーの「身体には三つある」――「私の土台としての身体」「解剖学的身体」「表面的な身体」、さらにもうひとつ「謎めかしい第四の身体」がある、から示唆を受けつつ、だがヴァレリーの身体はそれほど私に訴えるところがなくて、もっといろいろあるのではないかと若い時に思ったそうだ。上の区分は、28+1だが(「身体の多重性」2003『徴候・記憶・外傷』所収)、それ以前にも、『家族の肖像』のなかに「重層体としての身体」1993という小論があり、そこでは十三に分けている。十年間で倍増以上になったわけだ。長く「身体」をめぐって考え続けている方であることが窺われる。

上の区分には中井氏自身により、多くのコメントがつけられているが、それについては、今は触れない。

………

悪い紋切型ばかりいちゃもんつけて来たのだけれど……《安堵と納得の風土の中に凡庸さが繁殖する。そこに語られる言葉が紋切型というやつだ》(『凡庸な芸術家の肖像』ーーああ、とりわけ、とりわけ、ウラヤマシイ


【「紋切型」ということ】

「紋切型」をめぐって、三つの定義の素描(蓮實重彦『物語批判序説』による)

◆第一の定義
まずは、他者の問題を他者の言葉で綴った物語が「紋切型」にほかならぬとする視点が提示されている。その場合、物語の説話論的な持続を支えているものは、自分の言葉が他人の言葉とは違った意味を担っているとする錯覚である。

◆第二の定義
その錯覚の生成をめぐって試みられる二つ目の定義は、どんなものであったか。

あらかじめ物語に記入されており、それが口にされた瞬間には、もはや語りつがれることの意味が喪失するほかない完璧な言葉の露呈を不断に遅延させるために、おびただしい修正可能な誤りを含んだ言葉がつぶやかれてしまう。それが「紋切型」を形成するというものである。

◆第三の定義
つまり、歴史は、不完全な言葉の連鎖として語りつがれることになるのだが、いまそうした二つの定義をされに補足し、同時にまたそれによって補足されるだろう新たな定義の素描が可能となる。

それは、不完全な言葉の連鎖として語りつがれる歴史の方向を決定するのが、共有された翻訳への意志にほかならぬという定義である。これは、きわめて不安定な定義というべきだろう。というのも、翻訳の誘惑にたやすく屈するときに欲望がおさまる方向の統一性とは、それじたいが、正当な起源に基づくことのない錯覚ともいうべきものだからである。あらかじめ翻訳を禁じられているものへと向かう翻訳への意志がなお意志として維持されうるのは、あくまでこうした錯覚の内部においてである。失意、意気阻喪、諦念、後悔といったものがいっときも説話論的な持続を中断することがないのも、それがほとんど現実に近い虚構としてあるからにほかならない。


………

以下、雑然と。


「幸せだから笑うのではない、笑うから幸せなのだ」(アラン)であるならば、

ーー幸せだからよい紋切型をかわすのではない、よい紋切型をかわすから幸せなのだ、だよな

あるいは、
……われわれは象徴的秩序の(……)特徴、すなわちその非心理的な性質へと向う(……)。私が他人を通じて信じる時、あるいは自分の信仰を儀式へと外在化し、その儀式に機械的に従うとき、あるいはあらかじめ録音された笑いを通じて笑うとき、あるいは泣き女を媒介して喪の仕事をおこなうとき、私は内的な感情や信仰に関わる仕事を、それらの内的な状態を動員することなく、やり遂げている。そこに、われわれが「礼儀」と呼ぶものの謎に満ちた状態がある。私は知人に会うと、手を差し出し、「やあ(会えてうれしいよ)、元気?」と言う。私が本気で言っているのではないことは、両者とも了解している(もしその知人の心に「この人は私に本当に関心を持っているのだろうか」という疑念が芽生えたら、その人は不安になるだろう。彼の個人的なことに首を突っ込もうとしているのではないか、と。古いフロイト的なジョークを言い換えるとこうなる。「どうして会えてうれしいなんて言うんだ? 会えてうれしいと本気で思っているくせに」)。ただし、私の行為を偽善的と呼ぶのは誤りだ。別の見方をすれば、私は本当にそう思っているのだから。礼儀正しい挨拶は、われわれ二人の間にある一種の契約を更新しているのだ。同様に、私はあらかじめ録音された笑いを通じて「本気で」笑っているのである(それが証拠に、私は実際に気分が楽になる)。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)


さらに、「礼節と慣習」より。

こどもはまず、自分をとりまく人たち、自分にすべての禍福をもたらしてくれる人たちを観察する。すなわち彼はまず政治的に生きるわけだ。この柔軟な精神は、まず慣習や気まぐれや情念を反映する。真実のものよりも好都合のものを、知識よりも礼節をはるかに貴しとする習慣は、それゆえわれわれだれしものうちにあってもっとも古いものである。多くの無分別、頑迷、不毛の論議といったものは、こうしたところから説明できる。われわれのまわりにも年だけいった大どもにはこと欠かない。(アラン「外的秩序と人間的秩序」「プロポ集」井沢義雄・杉本秀太郎訳)


いずれにせよ、紋切型というのは、実生活にとっては、それを疑いえぬものであるかのように従う必要はあるのだろうよ、そこに留まっているだけでよい人はそれでよい。オレみたいにひどく不快に感じてしまう暇人だけが、ディスったり、ときに思いを馳せたりしたらよいのだ。

さて、前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも、それが疑いえぬものであるかのように従うことが、ときとして必要であると、私はずっと前から気づいていた。しかしながら、いまや私はただ真理の探求のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた。ほんのわずかの疑いでもかけうるものはすべて、絶対に偽なるものとして投げすて、そうしたうえで、まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ることにすべきである、と考えた。(デカルト『方法序説』野田又夫訳)

《耐え難いのは重大な不正などではなく凡庸さが恒久的につづくことであり、しかもその凡庸は、それを感じている彼自身と別のものではない。》(ドゥルーズ『シネマ Ⅱ』)

ーーつまり耐えがたいのは紋切型がいつまでも続くことであり、しかもその紋切型からわたくし自身逃れていない。「わたくしは、ただほどほどに俗物(凡庸)なのです」(ラカン)

僕が一番好きなフーコーの書物は『知の考古学』だけど、あれは徹底した不快さへの戦いですよね。言説という現実をめぐって世間一般に行きわたっている無感覚に対する不快感の表明以外の何ものでもない。またそうした不快感なしに何ごとかを論じうる人々への不快感の表明でもあるでしょう。フーコーの倫理は、その不快さに対する戦いからくるから、理不尽であり、無責任である。つまり全体化された理論には絶対にならない。そのかわり、柄谷さんのいう「生きながらの積極性」といったものが言葉にみなぎるわけです。フーコーを論じる日本人の言葉に、この不快さに対する戦いが見えますか。感じられないでしょう。それは、不快さに対する戦いを不正に対する戦いに利用しようとするさもしい根性が働いているからです。だから、フーコーの倫理を素通りしてしまうのだし、そのことで自分が何を失っているかにも無自覚なのです。不快さに対する戦いの倫理性は理不尽でありながらも自分を実験台にするという積極性を持っている。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)



ーーというわけで、今日は日曜日だ、次男の相手をしなくてはならない。


………


附記:日本では今はこういったことは少ないだろうが、国によってはあからさまにある(わたくしのいま住んでいる国でも)

フランス語のように国家的基準がある言語の内部では、話しかたは集団ごとに異なっており、それぞれの人はみずからの言語の囚われ人となっている。自分の階級の外に出ると、最初のひとことがその人の特徴をしめし、完璧に位置づけて、経歴全体とともにその人をあからさまにしてしまう。人はその言語によって提示され、明らかにされ、打算や寛容による虚偽から漏れ出る形式の真実によって正体を暴露される。だから、言語の多様性は「必然」のように機能し、それゆえに悲劇のもととなるのである。(ロラン・バルト「エクリチュールと言葉」)