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2013年5月11日土曜日

倒錯と女の素足(谷崎潤一郎)


「倒錯」とは、本来、徹底的に「間接的」であろうとする生の倫理のことである。欲望の昂進からその成就へとただちに進むのではなく、その中間に何ものかを、――「物〔フェティッシュ〕」を、「言葉」を、「演技」を、「物語」を介在させ、欲望の成就をどこまでも遅延させようとするものが、「倒錯」なのである。(松浦寿輝『官能の哲学』)


デモ生キテイル限リハ、異性ニ惹カレズニハイラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思ウ。(…)スデニ無能力者デハアルガ、ダカラト云ッテイロイロノ変形的間接的方法デ性ノ魅力ヲ感ジルコトガ出来ル。現在ノ予ハソウ云ウ性慾的楽シミト食慾ノ楽シミトデ生キテイルヨウナモノダ(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)

ーー《僕はまだ瘋癲老人じゃありませんよ。あんなにはなっていませんもの。 谷崎さんは前から大分そうですけど》(伊吹 和子「川端康成 瞳の伝説」

「倒錯」とは、何かしら不透明で抵抗力を備えたものの現前を介してしか遭遇が可能とならないという動かしがたい事態を前提としたうえで、そうした梃子でも動かないものの現前にゆっくり馴れ親しんでゆく過程のうちに快楽を見出すといった忍耐強い精神の姿勢のことである。ひとことで、「媒介されること」の快楽のことだと言ってしまってもよいかもしれぬ。(前掲 『官能の哲学』)

《鍵を握るのは倒錯の概念、精神病と神経症の中間、精神病者による<法>の排除と、神経症者の<法>への組み込みの中間……、倒錯とは<法>の支配の解体に対する答え、象徴による<禁止>を回復しようとする試みではないか。》(ジジェク“WHAT CAN PSYCHOANALYSIS TELL. US ABOUT CYBERSPACE?”)www.psybc.com/pdfs/library/Psa_Cyberspace.pdf‎


…………

丁度四年目の夏のとあるゆうべ、深川の料理屋平清の前を通りかかつた時、彼はふと門口に待つて居る駕籠の簾のかげから、真っ白な女の素足がこぼれて居るのに気づいた。鋭い彼の眼には、人間の足はその顔と同じように複雑な表情を持つて映つた。(谷崎潤一郎『刺青』)

「素足も、野暮な足袋ほしき、寒さもつらや」といいながら、江戸芸者は冬も素足を習とした。粋者の間にはそれを真似て足袋を履かない者も多かったという。(九鬼周造『いきの構造』)


私の布団の下にある彼女の足を撫でてみました。ああこの足、このすやすやと眠っている真っ白な美しい足、これは確かに俺の物だ。彼女が小娘の時分から毎晩毎晩お湯に入れて(谷崎潤一郎 「痴人の愛」)

盛リ上ガッテイル部分カラ土蹈マズニ移ル部分ノ,継ギ目ガナカナカムズカシカッタ。予ハ左手ノ運動ガ不自由ノタメ,手ヲ思ウヨウニ使ウコトガ出来ナイノデ一層困難ヲ極メタ。「絶対ニ着物ニハ附ケナイ,足ノ裏ダケニ塗ル」ト云ッタガ,シバシバ失敗シテ足ノ甲ヤネグリジェノ裾ヲ汚シタ。シカシシバシバ失敗シ,足ノ甲ヤ足ノ裏ヲタオルデ拭イタリ,塗リ直シタリスルコトガ,又タマラナク楽シカッタ。興奮シタ。何度モ何度モヤリ直シヲシテ倦ムコトヲ知ラナカッタ。(谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』)


春琴は寝床に這入つて肩を揉め腰をさすれと云われるままに暫く按摩しているともうよいから足を温めよと云ふ畏まつて裾の方に横臥し懐を開いて彼女の蹠を我が胸の上に載せたが胸が氷の如く冷えるのに反し顔は寝床のいきれのためにかつかつと火照つて歯痛がいよいよ烈しくなるのに溜まりか、胸の代わりに脹れた顔を蹠へあてて辛うじて凌いでいると忽ち春琴がいやと云ふ程その顔を蹴つたので佐助は覚えずあつと云つて飛び上がつた。(『春琴抄』)


漸ク両足ヲ満足ニ塗リ終ッタ。右足カラ先ニ少シ高ク擡ゲテ,下カラソレニ色紙ヲ当テ,足ノ裏デ印ヲ捺スヨウニサセタ。何度モ何度モ試ミテ巧ク行カズ,希望スル拓本ガ作レナカッタ。二十枚ノ色紙ハ凡ベテ徒労ニ帰シタ。予ハ竹翠軒ニ電話ヲカケ,直チニ色紙ヲモウ四十枚届ケサセタ。今度ハ方法ヲ改メテ,足ノ裏ノ朱ヲ一遍キレイニ洗イ落シ,足ノ趾ノ股マデモ一本々々拭イトリ,立ッテ椅子ニ掛ケサセテ,予ハソノ下ニ仰向イテ臥,窮屈ナ姿勢ニ堪エナガラ足ノ裏ヲ叩キ,色紙ノ上ヲ両足デ蹈マセテ捺印サセタ。(『瘋癲老人日記』)

その女の足は、彼に取つては貴き肉の宝玉であつた。拇指から起こつて小指に終わる繊細な五本の指の整い方、  繪の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗ふかと疑はれる皮膚の潤澤。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを踏みつける足であつた。 (『刺青』)
ーーああ、昨今は、若い乙女でさえハイヒールなるもので素足を変形させてしまった、その風俗と流行ニクムベシ




僕は一体子供の時分から若い女の整った足の形を見ることに、異様な快感を覚える性質の人間でしたから、実は疾うからお富美さんの素足の曲線の見事さに恍惚となって居たのでした。(……)あの、お富美さんの足が僕の顔の上を踏んでくれた時の心持ち――あの時僕は踏まれている自分の方が、それに見惚れて居る隠居よりもたしかに幸福だと思いました。(『富美子の足』)

イヤ、止メヨウト思ヘバ思フホド、マスマス気狂ヒノヤウニナツテシヤブツタ。死ヌ、死ヌ、ト思ヒナガラシヤブッタ、恐怖ト、興奮ト、快感トガ、代ル代ル胸ニ突キ上ゲタ(『瘋癲老人日記』)


…………

私は、対女性の態度でも先生(=荷風)とは行き方を異にしていた。私はフェミニストであるが、先生はそうではない。私は恋愛に関しては庶物崇拝教徒であり、ファナチックであり、ラジカルで生一本であるが、先生は女性を自分以下に見下し、彼女等を玩弄物視する風であるが、私はそれに堪えられない。私は女は自分より上でなければ女とは思わない。(略)私は又外貌がどんなに美しくても、病的で、不健康で、体内が不潔そうに思える女を嫌った。美人ではあるが、過去にさまざまな経歴を持った、所謂海千山千の女を嫌った。ところで晩年の永井先生は、私の最も忌み恐れている階層の女に好んで近づき、彼女たちを無二の友とすることで世間に反抗した。私には先生のような反骨や社会的批評の精神がない。先生のものには「ひかげの花」のお千代や「墨東綺譚」のお雪のような女が現れるが、私の作品に出て来るのは「蘆刈」のお遊さんや「春琴抄」の春琴や「鍵」の郁子や、せいぜい「台所太平記」の女中たちのように若くて清潔で溌刺した女性ばかりである。(谷崎潤一郎『雪後庵夜話』)




《自分は一生忘れまい。苫のかげから漏れる鈍い火影が、酒に酔って喧嘩している裸体の船頭を照す。川添いの小家の裏窓から、いやらしい姿をした女が、文身した裸体の男と酒を呑んでいるのが見える。》(永井荷風『深川の唄 』)

毒婦好みは谷崎(すくなくとも若い頃の谷崎)、荷風と同様なり

毒婦の第一の資格は美人でなければならぬ。其れも軽妙で、清洒で、すね気味な強みを持つてゐる美人でなければならぬ。其れ故、毒婦が遺憾なく其の本領を発揮する場合には観客は道義的批判を離れて、全く芸術的快感に酔ひ、毒婦の迫害に遭遇する良民の暗愚遅鈍を嘲笑する(永井荷風『虫干』)

幾十人の男の魂を弄んだ年増のように物凄く整って(……)国中の罪と財との流れ込む都の中で、何十年の昔から生き代り死に代った麗しい多くの男女の、夢の数々から生れ出いづべき器量(谷崎潤一郎『刺青』)

…………


素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ









………… 


女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇拝し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行う人間の役割を演じているのである。(フロイト「レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出」)

足とか靴が呪物――あるいはその一部――として優先的に選ばれるが、これは、少年の好奇心が、下つまり足のほうから女性性器のほうへかけて注意深く探っているからである。毛皮とビロードはーーずっと以前から推測されていたようにーー瞥見した陰毛の生えている光景を定着させる。これにはあの強く求めていた女性の陰茎の姿がつづいていたはずなのである。(フロイト『呪物崇拝(フェティシズム)』)

もしフェティシストが呪物を崇拝していると強調するならば、それは片手落ちである。多くの場合、彼らは、呪物を明らかに去勢をしめしているとすぐ分かるような仕方で扱っている。(……)呪物を扱うさいの愛撫と敵視は、去勢の否認と承認に平行しており、種々の症例で、それぞれ異なったふうに入り混じっているので、前者か後者かがより明らかに見分けられる。(同『呪物』)




……おさげ髪を切るものの態度には、たとえ遠くからであっても、否認された去勢を執行しようとする欲求が、強く押し出されていることが見てとれると考えられるのである。彼の行動は、そのなかで女性は陰茎を無事にもっているというものと、父が女性を去勢してしまったという、両立しがたい二つの主張を、和解させているのである。(『呪物』)


以下はメモ。いや上もメモなのだから、なんといったらいいか。

---閑話休題(あだしごとはさておきつ)としておこう。

つまりは、《話の腰を折ることになるが、――尤、腰が折れて困るといふ程の大した此話でもないが――昔の戯作者の「閑話休題」でかたづけて行つた部分は、いつも本題よりも重要焦点になつてゐる傾きがあつた様に、此なども、どちらがどちらだか訣らぬ焦点を逸したものである。》(折口信夫「鏡花との一夕 」)



「フェティッシュfethish」とは、ポルトガル語の「フェイティソ(呪符・護符 feitiço )」,「魔術」から転用された語であり、「プリミティヴな社会での石や木像などの物的な崇拝対象から転じ、訳語として「物神」やら「呪物」とされる。 


「フェティッシュ」は、ラカンが晩年頻用した「みせかけsemblant」のひとつである。

――以下、The Concept of Semblant in Lacan's Teaching • .........Russell Griggを援用しつつ(原文は二重山括弧《 》にて)。


「みせかけ」は、「信じた振りをするfaire semblant」のように使われる。そしてその「みせかけ」が本来のものでないと知っていても、そこに歓びを見出すことである。

《its strange ersatz quality such that we are capable of finding greater satisfaction in it than in the real thing; and, the fact that it has the quality of pretence, where we are happy to make believe (faire semblant as the French say) and pretend it is what it is not, even as we know it is not that thing. 》


「みせかけ」とは、<対象a>のことでもある。それは誘惑し、かつ騙す。「空虚」を覆い、その場に代替物として収まり、われわれはそれに満足を覚える。「空虚void」、あるいは「欠如lack」に直面すれば、われわれは不安を直面する、それを避けるためのものが「みせかけ」だ。


上に引用されたフロイトの文から抜き出すなら、<母>に、《ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴》ということになる。


The semblant in Lacan

First, though a word on its significance. The importance of the concept is indicated by Lacan's description of objet a as a semblant that fills the void left by the loss of the primary object. If we can explore the nature of this semblant, we shall be able to come to a better understanding of some aspects of objet a. For Lacan a semblant is an object of enjoyment that is both seductive and deceptive. The subject both believes and doesn't believe in semblants but in any case opts for them over the real thing because paradoxically they are a source of satisfaction, better than the real thing that one avoids any encounter with at all cost. Or more accurately, because the semblant fills a lack, we should say that the semblant comes to the place where something should be but isn't, and where its lack produces affects focusing on anxiety. 》



――このRussell Griggの文では、voidとLackが混在して使用されているが、本来、「欠如」と「空虚」、あるいは「穴」は別の物だ。


・Manqué(Lack)欠如 →象徴界

・vide(void)       空虚 →現実界

・trou(hole)       穴    → 想像界
欠如manqueは象徴界におけることがらです。例えば、空虚は場所を、その場所が空いていることを示します。空虚videが現実界にかかわるもの、穴trouが想像界にかかわるものであることを心に留めておいてください。(ラカン『セミネール不安』勉強会 荻本) 


他方、ミレールを参照しつつ、ジジェクに次のような叙述がある、”two types of lack, the lack proper and hole” (The Liberal Utopia ........ section I: Against the Politics of Jouissance.........Slavoj Zizek )。

For Lacan, on the contrary, objet a is a(nother) name for the Freudian "partial object," which is why it cannot be reduced to its role in fantasy which sustains desire; it is for this reason that, as Lacan emphasizes, one should distinguish its role in desire and in drive. Following Jacques-Alain Miller, a distinction has to be introduced here between two types of lack, the lack proper and hole: lack is spatial, designating a void WITHIN a space, while hole is more radical, it designates the point at which this spatial order itself breaks down (as in the "black hole" in physics). (――Jacques-Alain Miller, "Le nom-du-père, s'en passer, s'en servir,").

Therein resides the difference between desire and drive: desire is grounded in its constitutive lack, while drive circulates around a hole, a gap in the order of being. In other words, the circular movement of drive obeys the weird logic of the curved space in which the shortest distance between the two points is not a straight line, but a curve: drive "knows" that the shortest way to attain its aim is to circulate around its goal-object. (One should bear in mind here Lacan's well-known distinction between the aim and the goal of drive: while the goal is the object around which drive circulates, its (true) aim is the endless continuation of this circulation as such.)


――これも混乱を招く叙述だが(わたくしにとって)、最近の書『LESS THAN NOTHING』(2012)では、次のようにされている。

The key formula of semblance was proposed by J‐A. Miller: semblance is a mask (veil) of nothing. Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void. Semblance is like a veil, a veil which veils nothing—its function is to create the illusion that there is something hidden beneath the veil.

もっとも、このあたりは単純ではなく、同じ著書のべつの箇所には、次のような叙述もあり、ジジェクはある意図をもってholeという語を使っているのが分かる。

the concept of drive makes the alternative “either get burned by the Thing or maintain a safe distance” false: in a drive, the “Thing itself” is a circulation around the void (or, rather, hole, not void). To put it even more pointedly, the object of the drive is not related to the Thing as a filler of its void: the drive is literally a countermovement to desire, it does not strive towards impossible fullness and, being forced to renounce it, get stuck onto a partial object as its remainderthe drive is quite literally the very “drive” to break the All of continuity in which we are embedded, to introduce a radical imbalance into it, and the difference between drive and desire is precisely that, in desire, this cut, this fixation onto a partial object, is as it were transcendentalized, transposed into a standin for the void of the Thing.

…………


さて元に戻れば、「みせかけ」とは、「不気味なもの」とは異なる。《the semblant closer to Freud's fetish object than to the uncanny》



たとえばフロイトによれば、無気味なものとは見知らぬものではなく、馴染みのあるものが亡霊のように回帰することであり、《隠されているはずのものが表に現われてきた時は、なんでもすべて無気味な(unheimilich)とよばれる》(フロイト『不気味なもの』)

ーーフロイトの「不気味なもの」は、松浦寿輝が、「フロイトがたぶん女性性器の外観をそのメタファーとして思い描きながら語った「不気味なるもの」は、いかなる心的機制によって抑圧されようと必ず回帰する…」(「死体と去勢──あるいは「他なる女」の表象」)と書いているように、女陰の隠喩としても読めるだろう。

神経症者が、女の性器はどうもなにか気味が悪いということがよくある。しかしこの、女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。(フロイト『無気味なもの』)


「みせかけ」は、「ファルス」や「仮装」とも異なると、Russell Griggは指摘する(このあたりは、諸々の見解があるし、ラカン派でも、「仮装」は「みせかけ」と同じ意味合いで使われている場合が多い)。

《The semblant is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade.》


Russell Griggは、ファルスと見せかけの相違を、ラカンの「無意識の位置Position de l'inconscient」の記述から抽出している。

《I take Lacan to be holding to this distinction between semblant and phallus when in "Position of the unconscious" he remarks, "In restoring... the function of the 'partial' object (by introducing the concept of objet a)... I have not been able to extend it to... the object (φ) as 'cause' of the castration complex."》


ところで、少し前に、“void”の使用例としてジジェク=ミレールの文を引用した。

《semblance is a mask (veil) of nothing(J‐A. Miller). Here, of course, the link with the fetish offers itself: a fetish is also an object that conceals the void.》


Russell Griggのみせかけとフェティッシュ論は、この文の批判(吟味)としてもある。

Semblant as phallus?

……A second way to look at semblants is picked up by J.A. Miller when he says that the function of semblants is to "veil nothing" and also to convert this nothing into something. [4] Again, the double aspect of semblants appears in this definition which emphasizes the functions of veiling and also of drawing our attention to this very veiling. Miller goes on to say that it is because of this double aspect of semblants that as a semblant the veil phallicizes, and phallicizes the body in particular.》



ここでは、ヴェールが身体をファルス化する、それが「みせかけ」だとされているが、Russell Griggは、いや「みせかけ」とはファルスにかかわるものではなく、フェティッシュにかかわるものだ、としているわけだ。再掲すれば、《The semblant is on the side of the fetish object, while the phallus is on the side of masquerade》とGriggは書いている。


ジジェクは『LESS THAN NOTHING』(2012)のおいて、Russell Griggのこの『The Concept of Semblant in Lacan's Teaching』から別の箇所(「擬態mimicry」と「かかしscarecrow」にかかわる箇所)を引用している(電子書籍版P39)  。だがそこではGriggの「みせかけ」吟味には触れられず、この大部な著書の後半になって、”the phallus is the semblance par excellence. What the phallus “causes” is the gap that separates the surface‐event from bodily density”(P615)とされる。

もっともジジェクの"semblance"解釈は、一筋縄ではなく、semblanceをめぐって、ミレール批判をも書く(ミレールはジジェクの師であり、かつては、「わたしのラカンはミレールのラカンです。So I must say this quite openly that my Lacan is Miller's Lacan. Prior to Miller I didn't really understand Lacan」(『彼自身によるジジェク』)としているのが知られている)。


At a more theoretical level, we should problematize Miller's (and, maybe, if one accepts his reading, the late Lacan's) rather crude nominalist opposition between the singularity of the Real of jouissance and the envelope of symbolic semblances. What gets lost here is the great insight of Lacan's Seminar XX (Encore): that the status of jouissance itself is in a way that of a redoubled semblance, a semblance within semblance. Jouissance does not exist in itself, it simply insists as a remainder or product of the symbolic process, of its immanent inconsistencies and antagonisms; in other words, symbolic semblances are not semblances with regard to some firm substantial Realinitself, this Real is (as Lacan himself formulated it) discernible only through impasses of symbolization.(『LESS THAN NOTHING』P695)