百万もの法律のかわりに、ただ一つの法律だけで十分である。この法律とはどのようなものであろうか? 汝が人にしてもらいたくないようなことを、他人に対してなすなかれ。汝が他人にしてもらいたいように、他人に対してなせ。これがその法律であり、予言者である。
だが明らかに、それはもはや一つの法律ではなくて、まさに正義の基本的方式、すべての準則である。(プルードン『一九世紀における革命の一般理念』)
中島義道botの「叫び」に出会ったので、記念に並べておく。
彼らは、「自分がされたくないことを他人にするな」と真顔でお説教する。自分がされたくないことでも、他人はされたいかもしれず、自分がされたいことでも、他人はされたくないかもしれないじゃないか!『私の嫌いな10の人びと』中島義道
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自由な、ないし民主的な統治の組織は、君主政治のそれよりも複雑であり学問的であり、より勤勉ではあるがより電光石火的ではない実践を伴っており、したがってそれはより大衆的ではないのである。ほとんど常に自由の統治の諸形態は、それよりも君主制的な絶対主義を好む大衆によって貴族政治と見なされてきた。ここから進歩的な人間が陥っており、これからも長い間陥るであろう一種の循環作用が生じる。もちろん共和主義者たちがさまざまな自由と保証とを要求しているのは、大衆の運命の改善である。したがって、彼らが支持を求めなければならないのは大衆に対してであるが、民主的諸形態への不信ないし無関心によって、自由の傷害となるのも民衆なのである。(プルードン『連合の原理』)
ーー自由よりも権威を好む「民衆」? これは悪くない。
間違ってばかりいる大衆の小さな意識的な判断などは、彼には問題ではなかった。大衆の広大な無意識界を捕えて、これを動かすのが問題であった。人間は侮蔑されたら怒るものだ、などと考えているのは浅墓な心理学に過ぎぬ。その点、個人の心理も群集の心理も変わりはしない。本当を言えば、大衆は侮蔑されたがっている。支配されたがっている。獣物達にとって、他に勝とうとする邪念ほど強いものはない。それなら、勝つ見込みがない者が、勝つ見込みのある者に、どうして屈従し味方しない筈があるか。大衆は理論を好まぬ。自由はもっと嫌いだ。何も彼も君自身の自由な判断、自由な選択にまかすと言われれば、そんな厄介な重荷に誰が堪えられよう。ヒットラーは、この根本問題で、ドストエフスキーが「カラマーゾフの兄弟」で描いた、あの有名な「大審問官」という悪魔と全く見解を同じくする。言葉まで同じなのである。同じように孤独で、合理的で、狂信的で、不屈不撓であった。(小林秀雄「ヒットラーと悪魔」)