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2013年11月4日月曜日

「世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれ」(大岡昇平)

「戦後25年、おれたちを戦争に駆り出したやつと、同じひと握りの悪党どもは、まだおれらの上にいて、うそやペテンで、(昔と)同じことをおれたちの子どもにやらせようとしている」

「歴史は繰り返すというけども、全くこの(復古調の)世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれと思う」

──「なんだかんだといっても、最後に勝利を占めるのは人間の正義なんだ」

──「まあともかく、おれは正しいことは最後まで残るという楽天的な考えだな」

出典はさだかではないが、大岡昇平の発言らしい(大岡昇平の二面性)。

《フィリピンで死んだ戦友たちの話題になったら、急に涙声になり、事実、目に涙を浮かべた(……)。戦後作家の中では、異例なほど強靱な頭脳を持った大岡昇平は、同時に文壇きっての泣き虫》、ともある。


原発災害処理やら秘密保護法案やら大久保で騒いでいる連中やら

「全くこの(復古調の)世の中がいやになっちゃうよ、もう。かってにしやがれと思う」

なんだかんだといっても
せめてたまには呟かないとな
ブログやってても、SNSやってても
趣味の話ばかりじゃなくてさ


知性が欲動生活に比べて無力だということをいくら強調しようと、またそれがいかに正しいことであろうと――この知性の弱さは一種独特のものなのだ。なるほど、知性の声は弱々しい。けれども、この知性の声は、聞き入れられるまではつぶやきを止めないのであり、しかも、何度か黙殺されたあと、結局は聞き入れられるのである。これは、われわれが人類の将来について楽観的でありうる数少ない理由の一つであるが、このこと自体も少なからぬ意味を持っている。なぜなら、これを手がかりに、われわれはそのほかにもいろいろの希望を持ちうるのだから。なるほど、知性の優位は遠い遠い未来にしか実現しないであろうが、しかしそれも、無限の未来のことというわけではないらしい。(フロイト『ある幻想の未来』)


・けだし政治的意味をもたない文化というものはない。獄中のグラムシも書いていたように、文化は権力の道具であるか、権力を批判する道具であるか、どちらかでしかないだろう。(加藤周一「野上弥生子日記私註」1987)

・私は政治を好まない。しかし戦争とともに政治の方が、いわば土足で私の世界のなかに踏みこんできた。(加藤周一「現代の政治的意味」あとがき 1979)

・文化的成熟とは、みずからを批判し、みずからを笑うことのできる能力である。(加藤周一「歴史の見方」 1986)


・「考える」という営みは既存の社会が認める価値の前提や枠組み自体を疑うという点において、本質的に反時代的・反社会的な行為です。(吉岡 知哉 卒業生の皆さんへーー2011年度大学院学位授与式

私は、たとえば、ほんの少量の政治とともに生きたいのだ。その意味は、私は政治の主体でありたいとはのぞまない、ということだ。ただし、多量の政治の客体ないし対象でありたいという意味ではない。ところが、政治の客体であるか主体であるか、そのどちらかでないわけにはいかない。ほかの選択法はない。そのどちらでもないとか、あるいは両者まとめてどちらでもあるなどということは、問題外だ。それゆえ私が政治にかかわるということは避けられないらしいのだが、しかも、どこまでかかわるというその量を決める権利すら、私にはない。そうだとすれば、私の生活全体が政治に捧げられなければならないという可能性も十分にある。それどころか、政治のいけにえにされるべきだという可能性さえ、十分にあるのだ。(ブレヒト『政治・社会論集』)

いつも怒っていたり絶望しているわけにはいかないのはわかってるよ
「サラエボの傘」も必要さ

雨よりも遙かに危険な砲撃に対して傘がまったく無力であり、それがいつ自分の頭上に炸裂するかもしれないと知っていながら、彼らは、それでも傘をさして外出するし、傘の選択には自分の趣味を反映させさえするだろう。それが現実というものにほかならず、砲撃から身を守るのに無力だという理由で、雨の日に傘を差す人々を嘲笑するのは、非現実的である。(蓮實重彦

しかし、いつも「サラエボの傘」ばかりじゃあこまるよ
「マルクスもドストエフスキーも読んで」?
いや、もっと最近でいい
フーコーもデリダもジジェクも読んで、さ

危機を本当に深刻な問題であるとは認めようとせず、「(事態はきわめて深刻であり、自分たちの生存そのものがかかっているのだということを)よく知っているが、それでも……(心からそれを信じているわけではない。それを私の象徴的宇宙に組み込む心構えはできていない。だから私は、(…)危機が私の日常生活に永続的な影響を及ぼさないように振る舞いつづけるつもりだ)という有名な否認 (ジジェク『斜めから見る』)

…………

騒がしい友だちが帰った夜おそく 食卓の上で何か書こうとして
三十年あまり昔のある朝のことを思い出した
違う家の違うテーブルで やはりぼくは「何か」を書いていた
夏の間に知り合った女に宛てた「別れ」という題ののそれは
未練がましい手紙のように いつまで書いてもきりがなかった
そのときもラジオから音楽が流れていて
その旋律を 今でもぼくはおぼろげに覚えている

そのときはそれでよかった
ぼくは若かったから
だがいまだにこんなふうにして「何か」を書いていいのだろうか
ぼくはマルクスもドストエフスキーも読まずに
モーツアルトを聴きながら年をとった
ぼくには人の苦しみに共感する能力が欠けていた
一生懸命生きて自分勝手に幸福だった

ぼくはよく話しよく笑ったけど ほんとうは静かなものを愛した
そよかぜ 墓場 ダルシマー
いつかこの世から消え失せる自分.......

だが沈黙と隣り合わせの詩とアンダンテだけを信じていていいのだろうか
日常の散文と劇にひそむ荒々しい欲望と情熱の騒々しさに気圧されて

それとももう手遅れなのか
ぼくは詩人でしかないのか三十年あまりの昔のあの朝からずっと
無疵で

――谷川俊太郎 「そよかぜ 墓場 ダルシマー」


…………

乾季が訪れて、とても気持のいい陽気なんだよな
「沈黙と隣り合わせの詩とアンダンテだけを信じ」る気分だな
まあ日本のごたごたはどうでもいいよ

で、「文化的成熟とは、みずからを批判し、
みずからを笑うことのできる能力」を気取って
「偽善」めかした引用のプリコラージュさ
大岡昇平の発言に行き当ったことから偽善の蔓をのばしたってわけだ

「善をめざすことをやめた情けない姿を
みんなで共有しあって安心」している奴らよりはましだろ?

(柄谷)夏目漱石が、『三四郎』のなかで、現在の日本人は偽善を嫌うあまりに露悪趣味に向かっている、と言っている。これは今でも当てはまると思う。

むしろ偽善が必要なんです。たしかに、人権なんて言っている連中は偽善に決まっている。ただ、その偽善を徹底すればそれなりの効果をもつわけで、すなわちそれは理念が統整的に働いているということになるでしょう。

(浅田)理念は絶対にそのまま実現されることはないのだから、理念を語る人間は何がしか偽善的ではある…。

(柄谷)しかし、偽善者は少なくとも善をめざしている…。

(浅田)めざしているというか、意識はしている。

(柄谷)ところが、露悪趣味の人間は何もめざしていない。

(浅田)むしろ、善をめざすことをやめた情けない姿をみんなで共有しあって安心する。日本にはそういう露悪趣味的な共同体のつくり方が伝統的にあり、たぶんそれはマス・メディアによって煽られ強力に再構築されていると思いますね。

(柄谷)日本人は異常なほどに偽善を嫌がる。その感情は本来、中国人に対して、いわば「漢意=からごごろ」に対してもっていたものです。中国人は偽善的だというのは、中国人は原理で行くという意味でしょう。中国人はつねに理念を掲げ、実際には違うことをやっている。それがいやだ、悪いままでも正直であるほうがいいというのが、本居宣長の言う「大和心」ですね。それが漱石の言った露悪趣味です。日本にはリアル・ポリティクスという言い方をする人たちがいるけれども、あの人たちも露悪趣味に近い。世界史においては、どこも理念なしにはやっていませんよ。

(浅田)日本人はホンネとタテマエの二重構造だと言うけれども、実際のところは二重ではない。タテマエはすぐ捨てられるんだから、ほとんどホンネ一重構造なんです。逆に、世界的には実は二重構造で偽善的にやっている。それが歴史のなかで言葉をもって行動するということでしょう。

(柄谷)偽善には、少なくとも向上心がある。しかし、人間はどうせこんなものだからと認めてしまったら、そこから否定的契機は出てこない。自由主義や共産主義という理念があれば、これではいかんという否定的契機がいつか出てくる。しかし、こんなものは理念にすぎない、すべての理念は虚偽であると言っていたのでは、否定的契機が出てこないから、いまあることの全面的な肯定しかないわけです。(『「歴史の終わり」と世紀末の世界』浅田彰 小学館1994 P243-248)

「善をめざすことをやめた情けない姿を
みんなで共有しあって安心」している手合いってのは
「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」のかもな
それぞれ「歯痛」を抱えてるんだったら責めるつもりはないよ

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト「ナルシシズム入門」『フロイト著作集5』p117)


《我思う、ゆえに我ありは、歯痛を見くびる知識人の言い草である。我感ず、ゆえに我ありは、もっとずっと一般的な効力があり、どんな生物にもかかわる真理である。私の自我は、本質的には思考によってあなたの自我と区別されるのではない。ひと多けれど、想念少なし。われわれは誰しも想念をたがいに伝達しあったり、借用しあったり、盗みあったりしながらほぼ同じことを考えている。しかし、もし誰かが私の足を踏んづけても、苦痛を感じるのは私ひとりだ。自我の根拠は思考ではなく、もっとも基本的な感情である苦しみである。》(クンデラ『不滅』第四部「ホモ・センチメンタリス」)


しかし、「歯痛」を抱えていない連中とは、どんな連中なんだろう。


たとえば、『アンナ・カレーニナ』における、アンナの愛人ヴロンスキーと、同じ名門出で、軍務において大抜擢を受けて彼より数段上に昇格したばかりの友人セルプホフスコイとの、権力者たちの陰謀をめぐっての会話。

「でも、いったい、なぜだい」ヴロンスキーは、権力をもっている数人の名前をあげた。「でも、なんだってこうした連中は独立心にもえていないというんだね?」「それはただ、あの連中が財政的に独立していないからさ。いや、生まれながらにして、持っていなかったからさ。まったく財産を持っていなかったんだね。われわれのように太陽に近いところで生まれなかったからさ。あの連中は金なり恩義なりで、買収することができる。だから、あの連中は自分の地位を維持するために、主義主張を考えだす必要があったわけさ。そのために、自分でも信じていない、この世に害毒を流すような思想や主義を振りまわすが、そうした主義もただ官舎とか、いくらかの俸給にありつくための手段なんだからね。あの連中のトランプの手をのぞいてみれば、それほど巧妙なものじゃない…ひょっとすると、ぼくはあの連中よりばかで、劣っているかもしれないが、しかし、ぼくがあの連中より劣っていなくちゃならんという理由も、べつに見あたらないね。ところが、ただ一つまちがいなく重大な長所は、われわれはあの連中よりずっと買収しにくいってことだよ。そういう人間が今とても必要なんだよ」(トルストイ『アンナ・カレーニナ』木村浩訳 新潮文庫 (中)p140)

金銭上の歯痛やら、「えらくなりたい」という歯痛やらで(不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望:フロイト)、どいつもこいつも買収しやすい奴ばかりだよな。