ソクラテスの話相手は、子供ではなかった。経験や知識を積んだ政治家であり、実業家であり軍人であり、等々であった。彼は、彼等の意見や考えが、彼等の気質に密着し、職業の鋳型で鋳られ、社会の制度にぴったりと照応し、まさにその理由から、動かし難いものだ、と見抜いた。彼は、相手を説得しようと試みた事もなければ、侮辱した事もない。ただ、彼は、彼等は考えている人間ではない、と思っているだけだ。彼等自身、そう思いたくないから、決してそう思いはしないが、実は、彼等は外部から強制されて考えさせられているだけだ。(……)
彼は、自己を主張しもしなければ、他人を指導しようともしないが、どんな人とも、驚くほど率直に、心を開いて語り合う。すると無智だと思っていた人は、智慧の端緒をつかみ、智者だと思っていた者は、自分を疑い出す。要するに、話相手は、皆、多かれ少かれ不安になる。そういう不安になった連中の一人が、ソクラテスに言う。
「君は、疑いで人の心をしびれさせる電気鰻に似ている」
ソクラテスは答える。
「いかにもそうだ、併し、電気鰻は、自分で自分をしびれさせているから、人をしびれさせる事が出来る、私が、人の心に疑いを起こさせるのは、私の心が様々な疑いで一杯だからだ」と。(小林秀雄『プラトンの「国家」』)
この電気鰻は、最近の訳では、しびれなまずとか、シビレエイとされていることが多い(プラトンの対話編「Meno メノン」)
ソクラテスは、当然、次のように言うことができる。―――私は、友人である以上に愛であり、恋人である。私は哲学である以上に芸術である。私は、積極的意志であるよりも、しびれなまずであり、強制であり、力である、と。『饗宴』、『パイドロス』、『パイドン』は、三つの偉大なシーニュの研究である。
しかし、ソクラテスのダイモン・イロニーは、出会いを越えることにおいて成立する。ソクラテスにあっては、知性がまだ出会いに先立っている。知性は、出会いを喚起し、刺激する。プルーストのユーモアは、これとは異なった性質のものである。ギリシャ的イロニーに対する、ユダヤ的ユーモアである。(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』「思考のイマージュ」P203)
…………
少し前、上の小林秀雄の短いエッセイを読んで、いままでまともに読んだとは到底云い難い『国家』を、今回はやや熱心に読んでみた。熱心といっても、《話があんまり理屈ぽくなると直ぐ退屈なぞする月並みな一読者》に過ぎないし、さらに読書の集中をさまたげる余分な「知識」の欠片さえ持っているのだが、それがあやふやで朧であるのがいっそうたちが悪い。要するに、ニーチェやドゥルーズの「プラトニズムの転倒」やらソクラテス自身がソフィストであるとする見解やらを頭の片隅に抱えながら読むことになる。
朧気な知識の代表的なもののひとつとして、『国家』の最終巻(10巻)に出てくる「寝椅子」をめぐるイデア論はやはりいまではそのまま受けとるわけにはいかないだろう。
そこでは、イデアを創作をする「神」、イデアに従い制作する職人、真似るだけの(見かけだけの像をつくる)芸術家という順番で序列をつけ、芸術家を一番下に貶めているということになる。
そしてドゥルーズの『シネマ』や『プラトンとシミュラークル』などを読んでいるものではないが、次の指摘は、いまプラトンを読むとき、忘れてはならないことだろう。
◆映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-箭内 匡より
さて以下は、上のようなあまいな「偏見」をもった者が読むプラトンの『国家』、それにもかかわらず面白く読むことができる箇所を拾い上げようとする者の備忘録である。
朧気な知識の代表的なもののひとつとして、『国家』の最終巻(10巻)に出てくる「寝椅子」をめぐるイデア論はやはりいまではそのまま受けとるわけにはいかないだろう。
そこでは、イデアを創作をする「神」、イデアに従い制作する職人、真似るだけの(見かけだけの像をつくる)芸術家という順番で序列をつけ、芸術家を一番下に貶めているということになる。
例えば寝椅子というものをめぐって、「画家と、寝椅子作りの職人と、神」という三者がそれぞれ寝椅子という作品を作りうるはずだが、神は「真にあるところの寝椅子の真の作り手」であり、寝椅子職人は「或る特定の寝椅子を作る或る特定の製作者」にほかならず、「先の二者が製作者として作るものを真似る(描写する)者」にあたるのが画家ということになる。(蓮實重彦『「赤」の誘惑―フィクション論序説』)
◆映像について何を語るか-ジル・ドゥルーズ『シネマ』をめぐる考察-箭内 匡より
この論考(「プラトンとシミュラークル」)においてドゥルーズは、プラトンが『ソピステス』において展開する、「コピー」(copie)――プラトンの言葉では「似像エイコーン」――と「シミュラークル」(simulacre)――プラトンの言葉では「見かけだけの像パンタスマ」――の区別を引き合いに出す。
つまり、プラトンによれば、現実の類似物を作るには、(1)モデルとなる物に実際に類似したものを作る(「コピー」を作る)、(2)モデルとなる物と現実上は類似せずとも、見た人に与える効果において同一であることを目指す(「見かけだけの像パンタスマ」、つまりシミュラークルを作る)、の二つの方法がある。
さて、ここで重要なのは、「コピー」があくまでもオリジナルを尊重し、オリジナルの支配下にあるのに対して、「シミュラークル」は、それ自体によってオリジナルと同様の効果を引き起こし、現実には「オリジナル」に似てすらいないために、もはやオリジナルを必要としないということである。ドゥルーズにとって、この「コピー」と「シミュラークル」の区別は、我々の思考様式を根本から反省してみるために役立つものである。
つまり、彼によれば、プラトンに発する「古典的(classique)」な哲学(何らかの形で「本質」と「仮象」の区別も依拠する哲学)の根本的な手続きは、まさに、オリジナル(本質)を無化して根拠なき類似性を提示するシミュラークルを排除し、本質の支配のもとにあるコピー(仮象)のみを残すことで、世界における本質(=イデア)の支配を確立することであった。
しかしながら、我々はもはや、究極的には、このような安定したイデア的中心を持った「古典的」な世界を単純に信じ、そこに存在の根拠を求めることはできないだろう。既にみたように、カントは、「本質」と「仮象」の対立を放棄して、真に「近代的=現代的」(moderne)な思考に向かって決定的な第一歩を踏み出したのであったが、このカントが切り開いた地平において、のちにニーチェが発見し、自らの思索の対象としたのは、プラトン主義による箍が外れて、抑圧されていたシミュラークル(様々な根拠なき類似物たち、偽物たち)が回帰し、その力能を至るところで示しているような世界であり、このニーチェ的なシミュラークルの世界は、今日も、終焉するどころかますますその本領を発揮しつつあると考えられる。
ちなみに、このような状況は、あらゆるシミュラークルたち、「偽物たち」が全て肯定されるという相対主義の勝利を意味するのではない。このニーチェ的な世界観のもとでは、それらの「偽物たち」の存在意義は、いかなる「本質」への類似性によっても評価されない代わりに、それ自体の「力能」(puissance)によって評価されることになるだろう。ニーチェの永遠回帰の概念は、まさにこのシミュラークルの力能の評価の問題と関わるものである。
…………
ソクラテス、たしかに、そういった点については、あなたに反論できる者は誰もいないでしょう。けれども、あなたがいま言われるようなことを耳にするたびにいつも、聞く者たちのほうは何となくこういう感じを受けるのです。つまり、こう考えるのですーー自分達は問答をとりかわすことに不馴れであるために、ひとつひとつ質問されるたびに、議論の力によって少しずつわきへ逸らされて行って、議論の終りになると、その<少しずつ>が寄り集まって大きな失敗となり、最初の立場と正反対のことを言っているのに気づかされる。そして、ちょうど碁のあまり上手くない者が碁の名人の手にかかると、最後には閉じこめられて、動きがとれなくなるのと同じように、自分たちもまた、碁は碁でもちょっと違った、石のかわりに言葉を使うこの碁によって、最後には閉じこめられて、口を封じられてしまう。しかし、だからといって、真実そのものはけっしてそのとおりのものではないのだ、と(プラトン『国家』藤沢令夫訳 487B)
漫然と読み進めていても、こういった印象を受ける箇所はいくらでもあるのであり、このソフィストめ! と罵るまえに、すこし前に書かれた箇所に戻って、はてと首をひねってみはするが、そう簡単には誤魔化されているのではないかとの印象は消えはしない。
……君の言うことは正しい、たしかに哲学をしている最もすぐれた人々でさえ、一般大衆にとっては役に立たない人間なのだ、ともね。ただし、役に立たないことの責は、役に立てようとしない者たちにこそ問うべきであって、すぐれた人々自身に問うべきではないのだと、命じてやりたまえ。なぜなら、舵取り人のほうが水夫たちに向かって、どうか自分の支配を受けてくださいとお願いするというようなことは、本来あるまじきことだからだね。知者たちのほうから金持の家の門を叩くというものも同様であって、そんな利いたふうなことを言った人は、間違っている。本来からいえば、金持であろうが貧乏人であろうが、病気になれば医者の門を叩かねばならないし、一般に支配を受ける必要のある者はすべて、支配する能力のある者の門を叩かねばならぬというのが、ほんとうなのだ。( 489C)
……こういう状況のただなかにおいて、この最も立派な仕事が、それと正反対の仕事にたずさわっている者たちから善く言われるということは、期待しがたいのだ。しかしながら、哲学に対して寄せられている、これとは比較にならぬほど最も大きく最も強力な非難・中傷はといえば、その原因は、哲学的な仕事にたずさわっていると自称している者たちにある。君が紹介する哲学誹謗者が、『哲学に赴く者の大多数は、まずまったく録でなしであり、そのなかで最も優秀な者たちですら、役立たずの人間だ』と言うのは、ほかならぬそういう自称哲学者たちのことを言っているのだ。(489D)
ここで「自称哲学者」というのが、ソフィストのことだ。
柄谷 ソフィストと呼ばれているけれども、彼らはアテネにとってほとんど外国人であり、いわば思想を売る人たちです。思想の商人ですね。世界資本主義、地中海の資本主義の中心がアテネであって、そこに彼らが集まった。いまで言えばアメリカにヨーロッパの学者が集まるようなものです。アテネの人自体は商業的で、実利的な人たちで、いわゆる哲学に対しては反感しか持ってなかったらしい。
岩井 それはもちろん、ソクラテスが死刑にされちゃうんですから。
柄谷 ものを考える人はみな外国人だった。アメリカもそうなんだけれども(笑)。
岩井 日本には外国人がいないから、だれもものを考えない(笑)。(『終わりなき世界』1990 柄谷行人 岩井克人対談集 P137-138)
二十年以上まえの対談なので、柄谷行人は最近の著書でさらにこのあたりを深めているはずだが、未読のため詳しいことはわからない。いずれにせよ、ソフィストを肯定的に見直そうとする風潮はあるようだ。
(1)イデア論など一般に哲学だと思われているのは、閉じこめられていた「洞窟」から抜けだし高い空へ向かって飛翔するイメージ。アポロ。
(2)あるいは「反=哲学者」であるニーチェのように、ソクラテス以前の哲学者たちに思いを馳せることも可能だ。つまり、上述とは反対に「洞窟」から抜け出すことなく、洞窟の中に留まり、その洞窟の「下」にあるもう一つの「もっと深い洞窟」を探究するイメージ。ディオニュソス。
(3)そしてドゥルーズは(1)でも(2)でもない、高さや深さとは関係のない「表層」だけの思考をする哲学者のイメージを登場させる。ヘラクレス。
この(3)は、シミュラクルにもかかわるのだろう。
《コピーに対するオリジナルの優位を否認すること、影像(イマージュ)に対する範型(モデル)の優位を否認することである。要するに、見せかけ(シミュラクル)と反映の君臨を賛美するということなのだ》(『差異と反復』)
ーードゥルーズは後年、シミュラクル概念から距離を置いたともされるが、詳しいことは分らない。
Daniel W. Smithの『Essays on Deleuze』では次のようにある。
①Deleuze considers the conclusion of the Sophist to be one of the most extraordinary adventures of Platonism.
②Platonic irony is, in this sense, a technique of ascent, a movement toward the principle on high, the ascetic ideal. The Sophist, by contrast, follows a descending movement of humor, a technique of descent that moves downward toward the vanity of the false copy, the self-contradicting sophist.
③"By dint of inquiring in the direction of the simulacrum," writes Deleuze, "Plato discovers, in the flash of an instant as he leans over its abyss, that the simulacrum is not simply a false copy, but that it calls into question the very notion of the copy ... and of the model" (LS 294). In the final definition of the Sophist, Plato leads his readers to the point where they are no longer able to distinguish the Sophist from Socrates himself: "The dissembling or ironical imitator ... who in private and in short speeches compels the person who is conversing with him to contradict himself."
②のソクラテス/ソフィストをイロニー/ユーモアとする見解をそのまま信用するなら、ドゥルーズのマゾッホ論における、サド/マゾッホ、制度/契約、思弁的論証能力/弁証法的想像的能力、量的な繰返し/質的な宙吊りなどをに関係するということか? だが今はその話題ではない。
さてすこし前に戻って、《閉じこめられていた「洞窟」から抜けだし高い空へ向かって飛翔するイメージ》とされるプラトンの「洞窟の比喩」の話は、『国家』のなかでは最も有名な箇所だろう。
ソクラテスの語る洞窟の比喩は誰でも知っているが、プラトニック・ラヴのように有名になり過ぎて、何処でどういう風に語られているかは読みもせず、みんな空言だと思い込んでいる。だが、実際はそうではない。これは、「対話篇」という思想劇に登場するソクラテスという人物の生き生きした科白であって、もしハムレットの科白が、今日もなお真実だと言うなら、ソクラテスのものもそうだと言わなければおかしい。人間は皆生れてから死ぬまで洞窟の囚人であって、前面の壁に向かって首は固定されていて、背後にある光源が見られないから、壁に映じた自分達の影の動きだけを実在の世界と信ぜざるを得ない。そう語るソクラテス自身も、プラトンの劇作法に従って読めば、洞窟の中にいるので、神様のような口を利いているわけではないし、所謂プラトニスムを講釈しているわけでもない。もし囚人のなかに一人変り者がいて、非常な努力をして、背後を振りかえり、光源を見たとしたら、彼は、人間達が影を見ているに過ぎない事を知るであろうが、闇に慣れていた眼が光でやられるから、どうしても行動がおかしくなる。影の社会で、影に準じて作られた社会のしきたりの中では、胡乱臭い人物にならざるを得ない。人間達は、そんな男は、殺せれば殺したいだろう、とソクラテスは言う。つまり、彼は洞窟の比喩を語り終ると直ぐ自分の死を予言するのである。(小林秀雄『プラトンの「国家」』)
この背後にある光源が曲者であり、いわゆるプラトンのイデアリズム、それは、ジジェクなら光ではなく「影の影」に過ぎないともいう。
The properly Lacanian twist to the story would have been that for us, within the cave, the Real outside can appear only as a shadow of a shadow, as a gap between different modes or domains of shadows. It is thus not simply that substantial reality disappears in the interplay of appearances;what happens in this shift,rather,is that the very irreducibility of the appearance to its substantial support, its “autonomy” with regard to it, engenders a Thing of its own, the true “real Thing.” (Burned by the Thing Slavoj Zizek)
※『パララックス・ビュー』にもまったく同じ文章があるようだが、和訳は手元にないので英文のままとする。
ここでreal(現実界)とあるが、《現実は現実界のしかめっ面である》(『テレヴィジョン』)とされるときのrealであり、現実realityとは異なる。
「現実realityは幻想(ファンタジー)によって構造化されている」、あるいは「現実はフィクションの構造をもっている」等々のラカン派の一見奇妙な指摘があり(参照:幻想の横断)、だがそれらは、「われわれは生涯、影絵をみているに過ぎない」というソクラテスの「洞窟の比喩」とつながる。
いずれにせよ、ソクラテスのこの比喩は、光源ないし太陽を真実や至高の善として捉えることさえなければ、いまでも十分に活きた比喩であって、《人間は皆生れてから死ぬまで洞窟の囚人であって、前面の壁に向かって首は固定されていて、背後にある光源が見られないから、壁に映じた自分達の影の動きだけを実在の世界と信ぜざるを得ない》とは、イデオロギーとかエピステーメ、パラダイムによって首が固定されているというふうにまずは読めばよいのだろう(参照:「人間的主観性のパラドックス」覚書)。
そして後ろを振り向いた光源を真理として、下界の人間だちを外から眺めたつもりになるが、それはまたべつのイデオロギーなのだ。《われわれは世界全体を把握するが、その時、われわれはその世界の中にある。それは逆にいってもいい。われわれが世界の中にしかないというとき、われわれは世界のメタレベルに立っている》(柄谷行人『トランスクリティーク』)
そして再び下界に降りるのは(後述)、こういうことだとしたらよいのだ。
反作用〔反応〕による形成。あるひとつの《ドクサ》(世間の通念)を提示してみて、さて、それが耐えがたいものだとする。私はそれからそのれるために、ひとつのパラドクサ〔逆説〕を要請する。次には、その逆説にべたべたした汚れがついて、それ自体が新しい凝結物、新しい《ドクサ》となる。そこで私はもっと遠くまで新しい逆説を探しに行かざるをえなくなる。(『彼自身によるロラン・バルト』)
さてすこし前に戻って、小林秀雄の『洞窟の比喩』の説明は簡にして要を得ているが、ここではもうすこし詳しく『国家』から引用すれば、洞窟につながれた囚人が光源を見た後、プラトンの叙述はこうある。
彼は困惑して、以前に見ていたもの〔影〕のほうが、いま指し示されているものよりも真実性があると、そう考えると思わないかね?(……)
もし直接火の光そのものを見つめるように強制したら、彼は目が痛くなり、向き返って、自分がよく見ることのできるもののほうへと逃げようとするのではないか。そして、やっぱりこれらのもののほうが、いま指し示されている事物よりも、実際に明確なのだと考えるのではなかろうか?(515D-E)
(……)
もし誰かが彼をその地下の住いから、粗く急な登り道を力づくで引っぱって行って、太陽の光の中へと引き出すまでは放さないとしたら、彼は苦しがって引っぱって行かれるのを嫌がり、そして太陽の光のもとまでやってくると、目はぎらぎらとした輝きでいっぱいになって、いまや真実であると語られるものを何ひとつとして、見ることができないのではないか?
(……)だから、思うに、上方の世界の事物を見ようとするならば、慣れというものがどうしても必要だろう。(516A-B)
こうしてやっと囚人たちは<真実>を見ることに慣れる。
するとどうだろう? 彼は、最初の住いのこと、そこで<知恵>として通用していたもののこと、その当時の囚人仲間のことあんどを思い出してみるにつけても、身の上に起ったこの変化を自分のために幸せであったと考え、地下の囚人たちをあわれむようになあるだろうとは、思わないかね?(516C)
だが<真実>に馴れたあとには、再度、洞窟への下降が要請される。
そこで、われわれ新国家を建設しようとする者の為すべきことは、次のことだ」とぼくは言った、「すなわちまず、最もすぐれた素質をもつ者たちをして、ぜひとも、われわれが先に最大の学問と呼んだところのものまで到達せしめるように、つまり、先述のような上昇の道を登りつめて<善>を見るように、強制を課すること。そしてつぎに、彼らがそのように上昇して<善>をじゅうぶんに見たのちは、彼らに対して、現在許されているようなことをけっして許さないこと」
「どのようなことを許さないと言われるのですか?」
「そのまま上方に留まることをだ」とぼくは言った、「そして、もう一度前の囚人仲間のところへ降りて来ようとせず、彼らとおもにその苦労と名誉をーーそれがつまらぬものであれ、ましなものであれーー分ち合おうとはしないことをだ」(519D)
《囚人の仲間のところへ降りて来ようとせず》、とあるが、この「降りる」は、ニーチェの読者なら『ツァラトゥストラ』の第一部の冒頭との類似を想起せざるをえないだろう。
「おまえ、偉大なる天体よ。おまえの幸福もなんであろう、もしおまえがおまえの光を注ぎ与える相手をもたなかったならば。
十年間、おまえはこの山に立ちのぼって、わたしの洞窟を訪ねた。もしそこにわたしとわたしの鷲と蛇とがいなかったら、おまえはおまえの光とおまえの歩みとに倦み疲れたことであろう。
けれどもわたしたちは朝ごとにおまえを待ち、おまえの過剰を受けておまえを軽くし、そしてこういう伴侶をもつおまえを祝福した。
見よ、わたしはいまわたしの知恵の過剰に飽きた、蜜蜂があまりに多くの蜜を集めたように。わたしはわたしにさし伸べられるもろもろの手を必要とする。
わたしはわたしの所有するものを贈り与え、分かち与えよう。そうして世の賢いものたちがふたたびおのれの無知を喜び、貧しいものたちがふたたびおのれの富を喜ぶようにしよう。
そのために、わたしは低いところに下りなくてはならぬ、おまえが夕べになれば海のかなたに沈み、かなたの暗黒界にも光をはこんでゆくのと同様に。おお、あふれこぼれる豊かな天体よ。
わたしも、おまえのように下りてゆかねばならぬ。わたしが下りて訪れようとする人間たちが没落と呼ぶもの、それをしなくてはならぬ。
ツァラトゥストラの「洞窟」は山の上にあり、鷲と蛇とともに太陽の光を浴びる。そして彼はそこで得られた「知恵」の過剰に倦み、かなたの暗黒界に降りる。
ソクラテスの囚人は下界の「洞窟」に繋がれ、壁に映じた影の動きだけを「現実」だと信じる存在である。囚人のなかの選ばれた者は、無理矢理上方に登らされ、太陽に直面させられる。そのあと、ふたたび「洞窟」に降りてゆく義務がある。
ここでは「洞窟」の役割はまったく反対になっているにもかかわらず、明らかなアナロジーがあると言えるだろう。
――ということは既に誰かが指摘しているだろうと思い、インターネット上を探ると、日本語文献では村井則夫氏が、次のようなことを書いているようだ。
ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』は、プラトンの「洞窟の比喩」をフレームとした奇妙な絵画である。「洞窟と太陽で始まり、洞窟と太陽で幕を閉じる大きな円環をなしている」(村井 則夫著『ニーチェ—ツァラトゥストラの謎』 108ページ中公新書)という。ただしツァラトゥストラの洞窟は山上にあり、洞窟から下降し、洞窟に上昇する。ニーチェの哲学は「逆転したプラトン主義」(1・3・267)なのである。
英語文献では、『cave men. KABREN
LEVINSON』 (19th Century Continental Philosophy MAY 2010 Daniel Berthold) kabrenlevinson.com/writing/CaveMen.pdfにやや詳しい。
・Sarah Kofman suggests that Nietzsche is a reflection or duplication of Socrates and that Nietzsche sees himself in Socrates (Kofman, Sarah, "Nietzsche's Socrates(es): "Who" is Socrates?").
・Though we believe Socrates to be “real” in many instances, he is in a literary context basically an actor constructed by Plato. Similarly, Zarathustra is composed by Nietzsche