では幻想とは何なのか? 幻想において“実現されている”(上演されている)欲望とは主体自身の欲望ではなく、他者の欲望である。すなわち、幻想、幻想的な構成とは、“Che vuoi?” (あなたはなにを欲しているの?)という謎への答であり、それは主体の原初の本質的な(構成的な)立場を表わす。欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹等々が、彼のまわりで戦いを繰り広げる。子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。もっとも基礎的なレベルでは、幻想は私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。
What, then, is fantasy? The desire “realized” (staged) in fantasy is not the subject's own but the other's desire—that is to say, fantasy, a fantasmatic formation, is an answer to the enigma of “Che vuoi?” (What do you want?), which renders the subject's primordial, constitutive position. The original question of desire is not directly “What do I want?” but “What do others want from me? What do they see in me? What am I for others?” A small child is embedded in a complex network of relations, serving as a kind of catalyst and battlefield for the desires of those around him; his father, mother, brothers, and sisters, and so on, fight out their battles around him.While being well aware of this role, the child cannot fathom what object he is for the others, or the exact nature of the games they are playing around him. Fantasy provides him with an answer to this enigma—at its most fundamental level, fantasy tells me what I am for my others.
たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)
再び冒頭の『LESS THAN NOTHING』の文に続く。
再び反-ユダヤ主義、反-ユダヤ人妄想を取り上げるなら、典型的な形でこの幻想の根源的な相互主観的性格を見てとれる。ユダヤの陰謀の社会的幻想とは“社会は私から何を欲しているのか?”という問いへの答を提供する試みなのであり、それは私が余儀なく参加させられるあいまいな出来事の意味を明るみに出してくれる。こういった理由で、標準的な“投影”理論、――その理論によれば、反-ユダヤ主義者はユダヤ人の姿に己れの否認された部分を“投影する”ということーーそれだけでは不充分である。“概念上のユダヤ人”の姿は、反-ユダヤ人の“内的葛藤”の外在化したものには還元されえない。逆に、主体は最初から非中心化されている、意味や論理はコントロールから逃れてしまう不明瞭なネットワークの部分でしかないという事実を証し立てる。
It is again anti‐Semitism, anti‐Semitic paranoia, which reveals in an exemplary way this radically intersubjective character of fantasy: the social fantasy of the Jewish plot is an attempt to provide an answer to the question “What does society want from me?” to unearth the meaning of the murky events in which I am forced to participate. For that reason, the standard theory of “projection,” according to which the anti‐Semite “projects” onto the figure of the Jew the disavowed part of himself, is inadequate—the figure of “conceptual Jew” cannot be reduced to being an externalization of the anti‐Semite's “inner conflict”; on the contrary, it bears witness to (and tries to cope with) the fact that the subject is originally decentered, part of an opaque network whose meaning and logic elude its control.
……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。
ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))
さてジジェクの上の叙述は三種類の幻想にかかわるのだろう(参照:「きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい?」)。
誰でも次のフレーズは知っている、何度も何度も繰り返される、“欲望は〈他者〉の欲望である”と。しかしラカンの教えのそれぞれの決定的段階で、このよく知られた公式は異なった読み方に該当する。ます1940年代にすでに現れた“欲望は〈他者〉の欲望”とは、単純に、欲望のパラノイア的な構造を触れている。簡単にに言えば、羨望の構造だね。ここでは主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、外作用的な、想像的関係のたぐいだ。基本的な羨望の構造であり、私はある対象を欲望する、〈他者〉が欲望するかぎりにおいて等々。これが最初のレベル、いわば想像的レベルだ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳)
これ以外に通常の「幻想」(象徴界のファンタジー)がある。
「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)
しかし私の考えではラカンの決定的な最後の公式は、分析家のポジションが大文字の他者 (A)、すなわち象徴的秩序の具現化としての分析家の場所からもはや始まらないと定義したときだね。分析家は小文字の他者 (a)、その幻想的な対象と同一化するときとしたときだ。言い換えれば、分析家は〈他者〉の欲望の不透過な謎を体現したときということ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳1995)
……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。
もっとも想像界の幻想と現実界の幻想が、ときに区別がつきがたいということはあるだろう。
セミネール III でさえ、 ラカンは精神病を本質的に想像的なものによって定義していました。ラカンはある意味、精神病と想像的なものは等価であると考えていたのです。ラカンの著作における想像的なものは、このように精神病的なものでありますから、鏡像段階をパラノイアの記述として読み直すこともできるでしょう。すなわち、他者との基礎的な衝突があり、それは他者が私の役割を強奪していくからである、と。鏡像段階は投影によって構造化されているのです。主体の天然のパラノイア、想像的レベルに位置する主体、正常性(象徴的正常性)へと加入することを許可する象徴的秩序、をラカンはたびたび強調していました。しかし最後には、ラカンは精神病的主体はまったく正常であると喜んでいうようになりました。これは、アブノーマルなのは象徴的秩序の方であり、人間の性質は基本的にパラノイア的であるということを意味しています。(ミレール『ラカンの臨床パースペクティヴへの導入』)
また現実界の幻想と、妄想とはどう異なるのだろうという問いも生まれる。
…………
以上は佐々木中氏のツイートとさる匿名の人物のツイートの発話、さらにはそれへの彼のやや過剰ともみえる反応を読んで、ジジェクまわりを中心にその見解のいささかをまとめたものである。
ーー過剰な反応は、フロイトによれば……、などとはここでは書かないようにしておこう。ただし誰でも《 彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います》には相違ない。
作家と大学教師が両立するかどうかについても、種々の見解があるだろう。
佐々木中氏の「政治的」な発言には共感することが多いのだが、彼とて完璧ではない。 たとえば昨年( 2013年11月14日)の彼のツイート、ここにあるのはパラノイア的な「投影」や「嫉妬」ではないかと疑ってみることさえできる。
欠如する〈他者〉の概念は、幻想への新しい接近の領野を開く。まさにこの〈他者〉の欠如を満たす試み、〈大他者〉の一貫性を再構成するものとして捉えるかぎりにおいて。こういった理由で、幻想とパラノイア(妄想)は本来、その最も基本的なレベルでは、互いに繋がっている。パラノイアとは”他者の他者”の信念である。他の〈他者〉、外部に現われた社会的現実の〈他者〉の裏に隠れた〈他者〉、社会的生活の不足の効果をコントロールし、その一貫性を保証してくれる〈他者の他者〉への信念である。(私意訳)
This notion of the lacking Other also opens up a new approach to fantasy, conceived as precisely an attempt to fill out this lack of the Other, to reconstitute the consistency of the big Other. For that reason, fantasy and paranoia are inherently linked: at it most elementary, paranoia is a belief in an “Other of the Other,” in another Other who, hidden behind the Other of the explicit social reality, controls (what appears to us as) the unforeseen effects of social life and thus guarantees its consistency.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
※附記(「ラカン派の「転移」のいろいろ」より)
<大他者>に対する精神病者の不信、(間主観的共同体に具現化された)<大他者>は自分を騙そうとしている、という彼の固着観念は、つねに必然的に、一定不変の<他者>、断絶のない<他者>、すなわち「<他者>の<他者>」(……)に対する揺るがぬ信頼に支えられているのである。パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の<他者>をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「<他者>の<他者>」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼はまったく正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。(ジジェク『斜めから見る』P156)
@AtaruSasaki【学生拡散・重要】私の講義を受ける学生は必ず読んでおいて下さい。→「レポートの評価について」http://www.atarusasaki.net/blog/?p=709
@tjummatsu@AtaruSasaki 20年後輩の佐々木先生へ。大学教授然としたこんな陳腐なツイートは見たくない。公然と拡散しなくていい。
@AtaruSasaki「あなたの⚪︎⚪︎する姿は見たくない」というのは自分の妄想を勝手に他者に投影している、すなわち他者がいない世界に住んでいる老いた幼児の言葉。“@tjummatsu: @私 20年後輩の佐々木先生へ。大学教授然としたこんな陳腐なツイートは見たくない。公然と拡散しなくていい。”
@AtaruSasaki傲慢に聞こえてもいい。こんな老人をつくらないために私は講義をしています。私の『夜戦』の鏡の理論、他者と投影の理論も理解できていないことを自ら暴露しているのに、勝手に脳内に佐々木中と名付けた何かを飼っている。「それは私ではない」!
われわれの方法の要点は、他人の異常な心的事象を意識的に観察し、それがそなえている法則を推測し、それを口に出してはっきり表現できるようにするところにある。一方作家の進む道はおそらくそれとは違っている。彼は自分自身の心に存する無意識的なものに注意を集中して、その発展可能性にそっと耳を傾け、その可能性に意識的な批判を加えて抑制するかわりに、芸術的な表現をあたえてやる。このようにして作家は、われわれが他人を観察して学ぶこと、すなわちかかる無意識的なものの活動がいかなる法則にしたがっているかということを、自分自身から聞き知るのである。(フロイト「W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢」1907)
悲しみ。ある種の倦怠感。自分がしたり、思ったりするすべてのことにまつわるとぎれることのない(最近、喪に服していらいの)、同じ倦怠感(心的エネルギーの備給の不在)。帰宅。空虚な午後。ある困難な瞬間。午後(のちに語る)。たった一人。悲しみ。塩漬けのような状態。私は、かなりの強度で思考する。あるアイディアが不意にわきあがる。文学的な回心のようなものーー古くさい二つの単語が心によみがえる。文学に踏み込むこと。エクリチュールに踏み込むこと。これまで自分がやったことのないようなやり方で、書くこと。もう、それしかやらないこと。まず、エクリチュールによる生を統一するために、コレージュをやめること(講義は、しばしば書くことと葛藤状態に陥るから)。続いて、講義と仕事とを同じ企て(文学的な)へと投入し、主体の分割を停止せしめ、たった一つの計画、偉大なる計画を優先させること。(ロラン・バルト「日記」1978年4月15日 カサブランカにてーー嘘によってしか愛するものを語ることはできない)
@AtaruSasaki或る「若手」哲学者だか批評家だかが昔「ボクが処女作を出版するときには、東浩紀に推薦文を書いた浅田彰、二人に推薦文をもらって華々しくデビューする!次はボクの時代だ!」と吠え出して、その閉じた醜い権力欲に唖然としたことがある。界隈そんな連中ばかりだよ。みんな、自分の仕事をしよう。
@AtaruSasaki何か身に覚えでも?“@masayachiba: 僕のこと?そんなことを佐々木さんに言った覚えはありません。"@AtaruSasaki: 或る「若手」哲学者だか批評家だかが昔「ボクが処女作を出版するときには、東浩紀に推薦文を書いた浅田彰、二人に推薦文をもらって華々しくデビュー
@AtaruSasaki申し訳ないですが、何を仰っているのかよくわかりません。えっ、千葉くんもこんなこと言っていたの? 他の人には?“@masayachiba: @AtaruSasaki あなた、こういうことしてると読者に見放されますよ。”
※附記:ジャック=アラン・ミレール『エル・ピロポ El Piropo』より
人間の伝達においては、受信者がメッセージを後からそれを発信する者に送るのです。受信者が送るのというのは根本的には彼がメッセージの意味を決定するからです。他者に話すということは決して我々自身が言っていることを我々が分かっているということではありません。他者だけが我々にそれを知らせてくれるのです。そしてそれゆえに我々は互いに話し合うのです。それも常に内容のある情報を伝えるためとは限りません。むしろ相手から我々自身が何であるかを教わるためなのです。こういう理由からディスクールにおいて はつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたとこ ろに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たり ます。 というのは、 意味 sens は、 意味があるのは常にその彼方ですから、 むしろその人が 言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。
主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語るときには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うのです。そしてそのうえ、常に他のことを言います。こういう理由からディスクールにおいてはつねに喚喩および隠喩が混じり合い、語るにおいて我々はいつも自分自身を越えたところに追いやられるのです。誰かの言うことを文字通りに取ることは大変失礼にさえ当たります。というのは、意味sensは、意味があるのは常にその彼方ですから、むしろその人が言うことの奥を聞き取らなければいけないのです。