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2014年7月29日火曜日

ヒエロニムス・ボスの御居処(おいど)

良心はその持主が行いの正しい人であればあるほどますます厳格かつ疑い深い態度をとり、その結果、ついには聖なるものの領域に一番深く足を踏み入れた人々こそが一番酷く罪の意識に悩むことになるのだ。こうなると、正しい行いをしても、それにたいする報いの一部は帳消しになってしまうわけで、超自我の命ずるままに自分を抑えてきた自我は、超自我の信頼を博するどころか、信用を得ようといくら努力しても無駄に終わるかに見えるのである。こういうと、そんな苦情はわざとでっち上げたものだという反論が出ることだろう。すなわち、良心が平均より厳格で敏感であることこそ行いの正しい人間の特色で、聖者たちが自分は罪人だという場合それは、欲動を満足させたいという誘惑のことを考えると、あながち嘘ではないというのである。なぜなら、周知のように誘惑は、折に触れて満足させてやれば少なくとも当座は力が弱まるのにたいし、いつも撥ねつけてばかりいるとその力を増すだけだから、聖者たちはとくに強い誘惑に曝されているわけなのだ。(フロイト『文化への不満』人文書院 著作集3 P480)

ーーとごく標準的な引用から始めたが、こう引用してもよい。

「美」という概念が性的な興奮という土地に根をおろしているものであり、本来性的に刺激するもの(「魅力」die Reize)を意味していることは、私には疑いないと思われる。われわれが、性器そのものは眺めてみればもっとも激しい性的興奮をひきおこすにもかかわらず、けっしてこれを「美しい」とはみることができないということも、これと関連がある。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集5 人文書院 P26)

これは比較的初期の(1905年)の論文であるというなら、冒頭に引用した『文化への不満』にもこうある。

残念なことに、精神分析もまた、美については、他の学問にもまして発言権がない。ただ一つ確実だと思われるのは、美は性感覚の領域に由来しているにちがいないということだけである。おそらく美は、目的めがけて直接つき進むことを妨げられた衝動の典型的な例なのであろう。「美」とか「魅力」とかは、もともと、性愛の対象が持つ性質なのだ。(フロイト『文化への不満』著作集3 P446~ 原著1930年)

《美は性感覚の領域に由来している》という表現に違和を感じる向きでも、美はエロスの領域に由来しているとすれば、なんの齟齬もなくなるだろう。そしてこの「エロス」を、融合欲動ーー大文字の母、母なる大地との、〈神〉との、〈女〉とのーー統合を求める欲動とすれば、いっそう違和は消え失せる。

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。(Paul Verhaeghe『BEYOND GENDER. From subject to drive』ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書





Hieronymus Bosch painted sheet music on a man's butt and now you can hear it



ーーと聴けば、ここでは本来ルネッサンス期の音楽やらさらに遡ってグレゴリオ聖歌などのYouTubeでも貼り付けるのが、「論理的」であろうが、バッハ好きのわたくしとしては、歴史をやや前方に進んでバッハを貼り付けることにする。

十代の半ば過ぎにバッハのコラールやオルガン曲をよく聴いたのだが、
あれは性欲盛んな年齢向きだろうよ
最近は昔ほど特権的に熱愛するってわけでもないからな





ああでもなんと「清らかで崇高」であることよ




サリヴァンは、フロイトがあれほど讃美した昇華を無条件な善ではないとして、それが代償的満足である以上、真の満足は得られず、つのる欲求不満によって無窮動的な追及に陥りやすいこと、また「わが仏尊し」的な視野狭窄に陥りやすいことを指摘している。(中井久夫「「創造と癒し序説」 ――創作の生理学に向けて」)





まさか歌ったあと、乱交してたんじゃないだろうな





昇華(=崇高化)はふつう非・性化と同じことだと考えられている。非・性化とはすなわち、リビドー備給を、基本的な欲動を満足させてくれそうな「野蛮な」対象から、「高級な」「洗練された」形の満足へと置き換えることである。われわれは女に直接に襲いかかる代わりに、ラヴレターや詩を書いたりして誘惑し、征服する。敵を気絶するまでぶん殴る代わりに、その敵を全面否定するような批判を含んだ論文を書く。通俗的な精神分析的「解釈」によれば、詩を書くことは肉体的欲求を満足させるための崇高にして間接的な方法であり、精巧な批判を書くことは肉体的攻撃衝動の崇高な方向転換ということになろう。(ジジェク『斜めから見る』)





イタリアバロックのなかでは品が欠けるという評価を受けることもあるヴィヴァルディの愛のカンタータの崇高化の至高の例だぜ





わたくしはかつてこの寺で、いかにもこの観音の侍者にふさわしい感じの尼僧を見たことがあった。それは十八九の色の白い、感じのこまやかな、物腰の柔らかい人であった。わたくしのつれていた子供が物珍しそうに熱心に廚子のなかをのぞき込んでいたので、それをさもかわいいらしくほほえみながらながめていたが、やがてきれいな声で、お嬢ちゃま観音さまはほんとうにまっ黒々でいらっしゃいますねえ、と言った。わたくしたちもほほえみ交わした。こんなに感じのいい尼さんは見たことがないと思った。――この日もあの尼僧に逢えるかと思っていたが、とうとう帰るまでその姿を見なかったので何となく物足りない気がした。(和辻哲郎『古寺巡礼』)





あなたとぼくは
大草原のすみっこにもぐりこんで
着ているものをみな脱いで
ていねいにおじぎして
一つ一つ差し上げた
むかしは尼僧のようだったあなた
あなたもくれた
激しくたたきつけて来る太陽の中で
めらめらと焔が燃えた
光が光にかさなった
けれども二つの火が燃えていた

ーー吉増剛造「プレゼント」より




「僕はある美しい女性に夢中になっている。彼女に結婚を申し込んだが、断られた。それでも僕は彼女の事が世界中の何より好きなんだ。彼女と一緒にいるどんな僅かなひと時でも僕にとってはまさに天国にいる気分なんだ…お願いだよ、今度いつ彼女に会えるのか教えてくれないか?」(グレン・グールドの秘められた恋

もっと聴く? かなり長いけど




せっかくですが遠慮します

ーーこのモンサンジョンとの対話、グールドがすべてシナリオを書いていたらしいぜ