以下の冒頭のヴィデオは、グールドのフーガ構造分析というものだろう。
主題、答唱、対唱、ストレット(第2提示部、9小節から、第1提示部より短い間隔で各声部の主題が入り、12小節から対唱のストレットが現れる)、新しい対唱、カノン、filling in(第4提示部、23小節から、嬰へ短調を保ったまま、ソプラノが変奏された主題を提示)等々、いわゆるシェーンベルクの「発展的変奏」であるところのBWV878のフーガをめぐって。
◆グレン・グールドのバッハ平均律2巻9番のフーガホ長調BWV878ヴィデオ版
主題、答唱、対唱、ストレット(第2提示部、9小節から、第1提示部より短い間隔で各声部の主題が入り、12小節から対唱のストレットが現れる)、新しい対唱、カノン、filling in(第4提示部、23小節から、嬰へ短調を保ったまま、ソプラノが変奏された主題を提示)等々、いわゆるシェーンベルクの「発展的変奏」であるところのBWV878のフーガをめぐって。
◆グレン・グールドのバッハ平均律2巻9番のフーガホ長調BWV878ヴィデオ版
◆同曲スタジオ録音
◆エドウィン・フィッシャーのもの(3.36より)
◆リヒテルのもの(4.11より)
誰かの合唱がないかと探せば、→ Hatsune Miku sings Bach BWV878 Fugue (namuamidabutsu)
…………
【附載】
家具になった音楽 高橋悠治
グレン・グールドが死んだ。クラッシック演奏のひとつの演奏はおわった。
現代のコンサートホールで2000人以上の聴き手をもつようなピアニストは、きめこまかい表現をあきらめなければならない。指はオーケストラ全体にまけない大きい音をだす訓練をうけ、小さな音には表情というものがないのもしかたのないことだ。容量のわずかなちがいによってつくられる古典的リズム感覚は失われた。耳をすまして音を聴きとるのではなく、ステージからとどく音にひたされていればいい耳は、なまけものになった。
音の技術が進む中で
1950年代にレコードがLPになり、テープ編集技術ができあがり、「電子音楽のゆめ」がうまれた。
どんな音もスタジオのなかでおもうままにつくり、くみあわせることができる、と音楽家たちはおもった。材料は自然の音にしろ、人間の声やピアノの音にしろ、聴き手がうけとるのは電圧の変化によるスピーカー膜の振動なのだから、どんな音も電子音の一種に変えられて耳にとどいている。おなじ空間のなかで、つくり手と聴き手がわかちあう音楽ではなく、聴き手のいないスタジオでうまれ、つくり手のみえないスピーカーからながれる音楽がある。音楽は密室の家具になった。テレビが映像をふくむ照明装置であるように。
グレン・グールドは、コンサートホールを捨てて、スタジオにこもった。なまの演奏の緊張と結果のむなしさに神経がたえられなかったのかもしれないが、それを時代の要求にしたてあげたのが、彼の才能だったのか。
グールドのひくバッハは、1960年代にはその演奏スタイルでひとをおどろかした。極端にはやいか、またはおそいテンポ、かんがえぬかれ、即興にみせかけた装飾音、みじかくするどい和音のくずし方。だが、それは18世紀音楽の演奏の約束ごとを踏みはずしてはいない。1970年代には古楽や古楽器の演奏にふれることもおおくなり、グールドの演奏も耳あたらしいものではなくなった。マニエリズムというレッテルをはることもできるようになった。
だが、1960年代のグールドのメッセージは、演奏スタイルではなかった。コンサートホールでは聴くことができない、ということに意味があった。おなじころ、グールドの住んでいた町、カナダのトロントからマーシャル・マルクーハンが活字文化の終わりを活字で主張していた。「メディアがメッセージだ」というのが時代のあいことばだった。
この「電子時代のゆめ」は、数年間しかもちこたえることができなかった。1968年がやってきた。プラハの町にソ連の戦車が姿をあらわし、フランスとドイツで若者たちが反乱をおこし、やがてベトナムはアメリカに勝つ。中国の文化革命もあらしを過ぎ、石油危機を通りぬけると、テクノロジー信仰も、それと対立するコミューンの実験を道づれにしてくずれおちた。次の世代には身をあずけられる原理も、すすむべき道ものこされていなかった。いまメディア革命やその反対側の対抗文化にしがみついている少数は、うしろめたさを感じないではいられないはずだ。いらなくなった文明が病気となって人間にとりついている。文明に反逆する人間も、おなじ病気にかかっている。どちらも船といっしょにしずむのだ。
われわれのしらない明日がやってくる。そこにたどりつこうとしてはいけない。明日やってくる人たちのために、今日のガラクタをしまつしておくのはいい。世界というからっぽな家をひきわたして、でていけばいいのだ。
マルクーハンが死んだときは、もう忘れられていた。グールドも「メディアとしてのメッセージ」の意味がなくなったあとは、演奏スタイルの実験をくりかえすことしかできなかった。レコードというかたちがあたらしくなくなれば、聴いたことのない曲をさがしだしてくるか、だれでもがしっている曲を、聴いたことのないやり方でひくしかない。どちらにしても、そういう音楽はよけいなぜいたくで、なくてもすむものだ。
あすへのつらい希望
音楽なんか聴かなくても生きていける。メッセージがあるとすれば、そういうことだ。クラッシク音楽が、聴き手にとってはとっくに死んだものであることに気づかずに、または気づかぬふりをして、まじめな音楽家たちは今日もしのぎをけずり、おたがいをけおとしあい、権力欲にうごかされて、はしりつづけている。音楽産業はどうしようもない不況で、大資本や国家が手をださなければなりたたないというのに、音楽市場はけっこう繁栄している。これほどのからさわぎも、そのななから、人びとにとって意味のあるあたらしい音楽文化をうみだすことに成功してはいない。
グレン・グールドは50歳で死んだ。いまの50歳といえば、まだわかい。だが、かれの死ははやすぎはしなかった。
かれだけではない。だれが死んだって、やりのこしたしごとなどないだろう。しごとの意味の方がさきに死んでしまっている。どこかでそれとしりながら、しごとを続けているのがいまの音楽家の運命だ。こういう仕事をしていれば、いのちをすりへらしても当然だ。
音楽というものがまだほろびないとすれば、明日には明日の音楽もあるだろう。だが、それを予見することはわれわれのしごとではない。いまあるような音楽が明日までも生きのびて明日をよごすことがないとおもえばこそ、音楽の明日にも希望がもてるというものだ。音楽家にとってつらい希望ではあっても。
(讀賣新聞 1982年10月21日付け夕刊のグールド追悼記事)
グレン・グールドふたたび 高橋悠治
NHKテレビ番組『グレン・グールド 鍵盤のエクスタシー』に出てグレン・グールドのヒンデミット/シェーンベルク風ピアノ小品を弾き あらためてグールドのDVDの映像を見て思ったこと二三
高い枝から実をもぎ取るサルのような 極端に低い椅子に座って鍵盤から指で音を掻き取るようなあのしぐさは 最少限の力で音の(ピアノの場合)強度と時間的ずれの微妙な調整 それによる音色(ねいろ)の幻覚を生む 合理的な方法であるはずなのに なぜ あんなにぎくしゃくしてしまうのか 最初の一音の前の身構えが 強調する音の持続が 頸椎をふるわせ 肩甲骨をかたくする のばした指はバネのように鍵盤から飛び退き テニスのラケットのように音をはじきだす 肘からさきだけがうごいている 顔を鍵盤に近づけ 他のものが意識に入らないように 指のうごきだけを見て 口はリズムをとりながら 憑かれたようにさきを急ぐ
再録音した『ゴルトベルク変奏曲』のアリアの遅さ ほとんど停止して次の音が予測できないほどの それでもあたりに漂う沈黙を押しのけて気力だけで 次の音に辿り着くように見える 自転車が倒れないようにできるだけ遅く漕ぐことに必要な技術と似たものがはたらいている ここでは あらかじめ決められた構成や 全体の予想からはずれて 一瞬ごとに生まれては消える音と沈黙のバランスが揺れている
それでも第1変奏に入ると それは錯覚にすぎなかった 全曲のテンポ配分が比率で決められていて それに従うなかで あの異常な遅さと感じられるテンポが現れただけ 1956年の最初の録音の「30のばらばらな小曲」を自己批判して 計算されたテンポ変換で全体を統一しようという意志の厳密な実行結果にすぎなかった グールドはそれを算術的対応と呼ぶが それは1950年代にエリオット・カーターの発明したテンポ変換法とおなじもの
グールドはやはり1950年代に自己形成し そこから一生逃れられなかったのだろう スタッカートで分離された均質な音と 極端に速いか極端に遅いテンポの対照 数学的と言うよりは数字的な精密な細部決定の徹底 それらは同時代アメリカの音列技法による音楽 ディジタルなコンピュータ・アートに向かう制御の思想とおなじ根から生まれた それでも音符を書いたり 電子音響を合成することは 時間をかければできる 演奏現場から遠ざかり 録音に特定した作業と言っても 楽器の演奏は身体なしではできないし 身体の制御は機械とおなじではないから このような原則を身体に強いれば そこから複雑な心身問題が起こるだろう
グールドの全身は呪縛されたように 肘からさきの手とそれを見つめる近視の眼に集中し 上半身は音楽の歩みに誘われて おそらく意識することもなく時計回りにゆるやかに回転している 演奏している音楽だけが世界であり その他のものから切り離されて そのなかにどこまでも没入することはできるけれど それはしょせん そうしている間だけそこに浮かんでいる時間の泡にすぎない その幻覚を演奏中全力で維持していくことと それ以外の毎日の輝きのない時間をすごさなければならない現実との落差は 身体にとって 鈍く重く 耐えられないほどゆっくり締め付けてくる打撃であるだろう
音楽のように特化したものをたよりに 統一原理をもとめることは 現実の分断とそれによる身体の破壊を招きかねない 一つの身体の上で心臓と脳が争っている どちらか弱いほうが破れるまで (2008.7 水牛)