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2013年10月26日土曜日

日本人の精神構造・社会構造の鍵概念をめぐる

九鬼周造の『「いき」の構造』(1930は次のように始る。

生きた哲学は現実を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」という現象のあることを知っている。しからばこの現象はいかなる構造をもっているか。「いき」とは畢竟わが民族に独自な「生き」かたの一つではあるまいか。現実をありのままに把握することが、また、味得さるべき体験を論理的に言表することが、この書の追う課題である。

土居健郎の『「甘え」の構造』(1971)は次の如し。

甘えという言葉が日本語に特有なものでありながら、人間一般に共通な心理現象を表 しているという事実は、日本人にとってこの心理が非常に身近かなものであることを 示すとともに、日本の社会構造もまたこのような心理を許容するようにでき上がって いることを示している。言い換えれば甘えは日本人の精神構造を理解するための鍵概 念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念ともなるということ ができる。

両者を敬愛をもって語る中井久夫の「いじめの政治学」(1997は次のように始る。

長らくいじめは日本特有の現象であるかと思われていた。私はある時、アメリカのその方の専門家に聞いてみたら、いじめbullyingはむろんありすぎるほどあるので、こちらでは学校の中の本物のギャングが問題だという返事であった。

その後、別の著者によって『「いじめ」の構造』という著作があるようだが、中井久夫の「いじめの政治学」は、『「いき」の構造』や『「甘え」の構造』と同じ手法で書かれている。ただ小論であり、氏の謙虚さもあって、あえて「構造」としなかったのではないかと推測される。

九鬼周造の手法とは次の通り。

意識現象の形において意味として開示される「いき」の会得の第一の課題として、我々はまず「いき」の意味内容を形成する徴表を内包的に識別してこの意味を判明ならしめねばならない。ついで第二の課題として、類似の諸意味とこの意味との区別を外延的に明らかにしてこの意味に明晰を与えることを計らねばならない。かように「いき」の内包的構造と外延的構造とを均く闡明することによって、我々は意識現象としての「いき」の存在を完全に会得することができるのである。

「いき」の内包的表徴として、「媚態」「意気地」「諦め」が挙げられる。

「いき」の外延的表徴、すなわち、《「いき」と「いき」に関係を有する他の諸意味との区別を考察して、外延的に「いき」の意味を明晰らしめる》ために、「上品」、「派手」、「渋味」などが挙げられる。




中井久夫が「いじめの政治学」で次のように書くとき、まさに「いじめ」の外延的な区別を探っているといってよい。
いじめといじめでないものとの間にはっきり一線を引いておく必要がある。冗談やからかいやふざけやたわむれが一切いじめなのではない。いじめでないかどうかを見分けるもっとも簡単な基準は、そこに相互性があるかどうかである。鬼ごっこを取り上げてみよう。鬼がジャンケンか何かのルールに従って交替するのが普通の鬼ごっこである。もし鬼が誰それと最初から決められていれば、それはいじめである。荷物を持ち合うにも、使い走りでさえも、相互性があればよく、なければいじめである。

――ということについ最近気づいた、つまり中井久夫のいじめ論が『「いき」の構造』と『「甘え」の構造』の系譜にある、ということに。

このところベルギーのラカン派精神分析医Paul Verhaeghe の論をすこしまとめて読んでいるのだが、「いじめbullyingの叙述が次のようにある。

In recent years, a lot of attention has been paid to the sub-ject of bullying at school.(……)
'Children have always been bullies and will always continue to be bullies. The question is not so much what is wrong with our children; the question is why adults and teachers nowadays cannot handle it anymore'. (……)

Doris Lessing's remark: there is something wrong with authority. The function of authority, which used to be a self-evident truth embodied in many different figures, has now disappeared. The fact that the basis for bringing up children disappeared at the same time can be seen in everyday life. Optimists maintain that teachers and par-ents now have to make sure that they 'deserve' their authority—they have to earn it. However, experience has shown that the authority that remains usually consists of pure power, and, further, such power exists only if it is vis-ible and tangible.(Love in a Time of Loneliness ーーTHREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE )

「いじめ」などどこにでも、昔からある。だが問題なのは、なぜ現在、大人たちや教師たちが、「いじめ」をうまく扱えないのか、であるとされており、父-の-名の喪失(「父」の象徴的権威の喪失)に関連させて「いじめ」の跳梁跋扈が書かれている(Doris Lessingは英国のノーベル賞作家)。

中井久夫はいじめ現象を、権力欲に結びつけている。《権力欲(……)その快感は思いどおりにならないはずのものを思いどおりにするところにある。》






もともと一神教の社会ではない日本は「父の権威」が弱かった。

かつては、父は社会的規範を代表する「超自我」であったとされた。しかし、それは一神教の世界のことではなかったか。江戸時代から、日本の父は超自我ではなかったと私は思う。その分、母親もいくぶん超自我的であった。財政を握っている日本の母親は、生活費だけを父親から貰う最近までの欧米の母親よりも社会的存在であったと私は思う。現在も、欧米の女性が働く理由の第一は夫からの経済的自立――「自分の財布を持ちたい」ということであるらしい。

明治以後になって、第二次大戦前までの父はしばしば、擬似一神教としての天皇を背後霊として子に臨んだ。戦前の父はしばしば政府の説く道徳を代弁したものだ。そのために、父は自分の意見を示さない人であった。自分の意見はあっても、子に語ると子を社会から疎外することになるーーそういう配慮が、父を無口にし、社会の代弁者とした。日本の父が超自我として弱かったのは、そのためである。その弱さは子どもにもみえみえであった。(中井久夫「母子の時間 父子の時間」初出2003 『時のしずく』2005所収ーー参照:「父なき世代」)

日本が「いじめ」先進国であるとしたら、これがその理由のひとつかもしれない、--とすれば他の東アジアの国はどうなのだろう、という疑問がすぐさま湧くが。

…………

少し前、千葉雅也氏がツイッター上でつぎのような発言をしている。氏はときおり九鬼周造への親愛の情をポロっと口にする人でもある。


《さて、僕がどうして「ギャル男」や「ラッセン」などを批評の対象にしてきたのか、という点について、誤解する人もいるようなので、これについてコメントしよう。》と始まり、以下のように続く。

現代の批評をよく知らない人にも聞いてもらいたいのですが、現代の批評とは、少数の「本当に美しいもの、かっこいいもの、おしゃれなもの」を見抜くことではありません。現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです。

現代の批評では、「本当にかっこいい、美しい、おしゃれなもの」を「真に」選択可能であるとは考えません。対象にプラスの価値を賦与するのは、特定の「文脈」(言い換えれば、評価者集団の慣習)です。なので、特定のものをこれこそ傑作と断言するのは、特定の価値観へのコミットでしかない。

特定の価値観をベストであると信じるのは「イデオロギー」です。私たちは特定のイデオロギーを必ず有するし、それをベースにして表現活動をしますが、しかし「批評」とは、特定のイデオロギーの主張ではない。批評は諸イデオロギーの「比較」を基本とします。イデオロギーの主張は「政治」です。

僕が、ラッセンなど、或る価値観から評価した場合に「明らかにダメな」ものを積極的に扱うのは、本当の良さが分からないからでもなければ、本当に良さに対して「逆張り」をしているのでもありません。「本当に良いもの」など存在しない。良い(かつ悪い)ものは複数存在することを示すためです。

ここまでのコメントに対しては、「よくあるポストモダン相対主義であり、本当に良いものを分からないから相対主義に逃げている」という反論がありうる。その場合ならば、文脈相対性によって破砕されない、単一ないし有限個の「美」なり「グッドデザイン」なりの存在論的な基準を構成してみせてほしい。

単一ないし有限個の「美」なり「グッドデザイン」なりの存在論的な基準を構成するという作業については、僕の知る限り、世界の美学者において一致した結論はないはずです。特定のしかたでそうした基準を構成してもそれは仮説です。ないし、それを感情的に主張するならばイデオロギーであることになる。

私たちは(a)特定のイデオロギーによる表現活動=政治をしながら、同時に、(b)イデオロギーを比較検討する活動としての批評をするわけです。(a)と(b)はしばしば境界が不分明になり(あえてそうすることで(a)の主張に役立てるというテクニックもある)、そのためにいざこざが起こります。


もちろんこれら発話に対しては、《或る価値観から評価した場合に「明らかにダメな」ものを積極的に扱う》とき、どうして数多くある「明らかにダメな」もののなかから、「ギャル男」や「ラッセン」を選ぶのかに興味があるという人もいるだろう。だがそれをめぐってはここでは触れない。

ここで注目したいのは、《現代の批評とは、或る対象の構造を分析し、対象がどのように価値づけられるかの可能性を多面的に考察することです》だ。

肝要なのは、日本語に特有なもの、――《日本人の精神構造を理解するための鍵概 念となるばかりでなく、日本の社会構造を理解するための鍵概念》(『「甘え」の構造』)――の構造分析をすることだろう。


現在、ヤンキーの構造、絆の構造、2ちゃんねるの構造(あるいは日本的なSNSの構造)など、誰かがやりつつあるのだろう(たとえば斎藤環のヤンキー論)。

…………

  

(ときに)一億総懺悔の現代版
責任の所在を隠すときに使われる
「寄り添う」と言い換えられる
学校教育の場でもいじめ事件の折などに使われる
「クラス全員が反省しています」
みんなに責任があると言いながら誰も謝罪しないこと

ーーー決まり文句(谷川俊太郎)より

本日付糸井重里ツイートより
「親しくする」というのは「ゆだねる」でもあります。それを、自然に、相手より先にできる人は、人と「つながる」才能のある人なんだろうな、きっと。ぼくは、その才能をあまり持っていない人間なのですが、ずっと練習し続けているような気がしています。⇒明日9時更新の「ほぼ日」より

彼が言論界で生き長らえているのはこの仕草によること大だろう(ここでは皮肉を含ませるつもりはない)。絆の肯定的側面に光を当てることを抜かしてはならない。

「例えば、(津波がきたとき)最後まで避難を呼びかけて命を失った人がいたが、それらはこの国の人のどんな美徳から来ているのか。失われたものを考えるだけでなく、逆に何が失われていなかったのかを考えるのも一つの方法でしょう」(古井由吉)

ほかに内包的な近似概念として「共感の共同体」がある(たとえば絆の共同体としたとき殆ど同じ内容を示すのではないか)。

かつてからある外延的(境界的)現象としては、

断腸亭日乗  昭和十二年十月五日。 荷風散人年五十九

余この頃東京都民の生活を見るに、彼らはその生活について相応の満足と喜悦とを覚ゆるものの如く、軍国政治に対しても更に不安を抱かず、戦争についても更に恐怖せず、むしろこれを喜べるが如き状況なり。

あるいは、「絆」の外延的概念として検討すべきものに、「妥協」「曖昧模糊」「根回し」「空気を読む」さらには「「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉」(丸山真男)などがあるだろう(もちろん「蛸壺」、「タテ社会」、「甘え」はこの文の文脈にある)。

一般に、日本社会では、公開の議論ではなく、事前の「根回し」によって決まる。人々は「世間」の動向を気にし、「空気」を読みながら行動する。(柄谷行人「キム・ウチャン(金禹昌)教授との対話に向けて」

さらに突っこんでいけば、日本語の構造(「日本語は本質的に敬語的」森有正、柄谷行人)が、「絆」概念にかかわってくるのかもしれない(参照:日本語と下からの目線)。

いま思いつきのようにして書き留めているだけだが、これらだけに思いを馳せるのみでも、一筋縄ではいかない「絆」構造分析だ。

…………

そしてーーというのは「絆」をめぐる雑然とした挿入の前の文脈に引き続くがーーこれらを侮ってはならないはずだ、つまりヤンキーの構造やらラッセン愛好の構造、2ちゃんねるの構造分析などを。

蓮實)僕の夢は、本当の構造主義者が日本に出現することなんです。別に文学に限らないけれど、徹底的な構造分析を本気で試み、しかもすれで成功する人がね。(……)

分析を言説化する手続きってものが、共同体的な倫理によって支えられていてもかまわない。またそのかぎりでは分析の対象が僕の興味のないものでもかまわない。

(……)意味生成の可能性をとことん拡げてその一つひとつのケースを検討することがないから、分析の言説化ではなく、言説化のための分析しか行われない。要素に分解すること、その諸要素の組合わせが示す表情をくまなく記述するという、ごく古典的な論述形式さえ定着していない、だからレクリチュールとエクリチュールに関してはわれわれは近代以前にあるわけです。(……)

九鬼周造は、日本的と呼ばれる「いき」の概念を分析し、その要素と汲み合わせから、構造と機能を近代的に記述している。九鬼のその後の言動はともかく、これは貴重な試みですよね。いちおう、日本的な記号を分析し、記述したわけですから。西田幾多郎はそこまでやっていない。(『闘争のエチカ』蓮實重彦―柄谷行人対談集)