◆ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。
……外-存在としてのサントームsinthomeの次元は、症候symptomや幻想の次元よりも根源的である。サントームは精神病的な核であり、(症候として)解釈することも(幻想として)通り抜ける "traversed"こともできない。ではどうしたらよいのだ。ラカンの答えは(そしてこれが、精神分析過程の最後の瞬間に対する後期ラカンの定義なのであるが)、サントームと同一化することである。このようにサントームは、精神分析過程の最終的な限界、精神分析が基盤としている暗礁をあらわしている。だが、一方、サントームは根源的に不可能であるという‘この経験こそ、精神分析過程が終ったことを示す究極の証拠ではなかろうか。これこそが、「症候ジョイス」に関するラカンのテーゼの正しい力点である。
ジョイスの精神病への言及が示していたのは、けっして精神分析の応用といったものではない。それどころか、問題にされていたのは、症候ジョイスを用いて分析家の言説そのものに疑問を呈しようとする試みであった。自分の症候と同一化した主体はその技術に対して閉ざされてしまうからである。そしておそらく、分析のこれ以上の終結はない。(ジャック=アラン・ミレール“Preface” in Joyce avec Lacan 1988)
(……)症候への同一化というと、われわれはふつう、われわれをヒステリー化している要素を取り去る唯一の方法がそれを同一化することであるときの、「狂気」への典型的なヒステリー的反転を連想する。つまり、「やっつけられないないなら、いっしょになってしまえ」というアプローチである。(……)
この種の同一化と、精神分析過程の終了の瞬間を告げる同一化とを区別するためには、アクティング・アウトと、ラカンのいう「行為への移行Passage à l'acte」との違いを明確にしなければならない。一般的にいって、アクティング・アウトは依然として象徴的行為、すなわち〈大他者〉に向けられた行為であるが、「行為への移行」は〈大他者〉の次元を保留し、行為は〈現実界〉の次元へと移される。いいかえれば、アクティング・アウトは、象徴的行き詰まり(象徴化の、つまり言葉にすることの不可能性)を行為によって突破しようとする企てである。ただしその行為は依然として、ある暗号化されたメッセージの送り手として機能する。われわれはこの行為を通じて、(たしかに「狂った」ふうにではあるが)、ある種の借金を返済する、なんらかの罪悪感を払拭する、〈他者〉へのある程度の接近を具現化する、等々を企てる。(……)ところが「行為への遂行」は象徴的ネットワークからの退出、社会的絆の消滅を必然的にともなう。つまり、アクティング・アウトによってわれわれが同一化するのは、ラカンが五〇年代に考えていたような症候(〈他者〉に向けられた暗号化されたメッセージ)であるが、「行為への移行」によってわれわれが同一化するのは、われわれの享楽の真の核を構造化している病的な「痙攣」としてのサントームである。(……)
おそらく政治の世界においても、一種の「症候との同一化」を必然的にとまなうような経験がある。よく知られている、「われわれはみんなそうだ!」という感傷的なpathetic経験だ。それはすなわち、耐えがたい真実の闖入として、すなわち社会的メカニズムは「機能しないdoesn't work」という事実の指標として、機能するfunctionsある現象に直面したときの、同一化の経験である。たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するのは、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。これらの例について、次のことを明らかにしておかねばならない。「症候との同一化」は「幻想を通り抜ける"going through the fantasy“」ことと相関関係にあるということである。(社会的)症候へのこうした同一化によって、われわれは、社会的意味の領域を決定している幻想の枠、ある社会のイデオロギー的自己理解を横断し、転倒する traverse and subvert the fantasy。その枠の中では、まさしく「症候」は、存在している社会的秩序の隠された真実の噴出の点としてではなく、なにか異質で不気味なものの闖入some alien, disturbing intrusionとしてあらわれるのである。(ジジェク『斜めから見る』p257-260 鈴木晶訳――いくつかの原文の文や語句は引用者が附記)
…………
◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』から私意訳(すなわちテキトウ訳であり、見直していないので、原文参照のこと)。
……“la traversée du fantasme”(幻想の横断)の課題(人びとの享楽を組織しる幻想的な枠組から最低限の距離をとるにはどうしたらいいのか)は、精神分析的な治療とその終結にとって決定的なことだけではなく、再興したレイシストのテンションが高まるわれわれの時代、猖獗する反ユダヤ主義の時代において、おそらくまた真っ先の政治的課題でもある。伝統的な“啓蒙主義的”態度の不能性は、反レイシストによって最もよい例証になるだろう。理性的な議論のレベルでは、彼らはレイシストの〈他者〉を拒絶する一連の説得的な理由をあげる。だがそれにもかかわらず、己れの批判の対象に魅了されているのだ。
……the question of la traversée du fantasme (of how to gain a minimal distance from the fantasmatic frame which organizes one's enjoyment, of how to suspend its efficacy) is not only crucial for the psychoanalytic cure and its conclusion—in our era of renewed racist tension, of universalized anti‐Semitism, it is perhaps also the foremost political question. The impotence of the traditional Enlightenment attitude is best exemplified by the anti‐racist who, at the level of rational argumentation, produces a series of convincing reasons for rejecting the racist Other but is nonetheless clearly fascinated by the object of his critique.
結果として、彼の弁明のすべてはリアルな危機は起こった瞬間、崩壊してしまう(例えば“祖国が危機に陥ったとき”)。それは古典的なハリウッドの映画のようであり、そこでは悪党は、“公式的には”最後にとがめられるにもかかわらず、われわれのリビドーが注ぎこまれる核心である(ヒッチコックは強調した、映画とはバッドガイによってのみ魅惑的になる、と)。真っ先の課題とは、いかに敵を弾劾し理性的に敵を打ち負かすことではない。――その仕事は、かんたんに(内なるリビドーが)われわれをつかみとる結果を生む。――肝要なのは、(幻想的な)魔術を中断させることなのだ。“幻想の横断”のポイントは、享楽から逃れることではない(旧式スタイルの左翼清教徒気質のモードのように)。幻想から最小限の距離をとることはむしろ次のことを意味する。私は、あたかも、幻想の枠組みから享楽の“ホック(鉤)をはずす”ことなのだ。そして享楽が、正当には決定できないものとして、分割できない残余として、すなわちけっして歴史的惰性を支える、固有に“反動的”なものでもなく、また現存する秩序の束縛を掘り崩す解放的な力でもないことを認めることである。
Consequently, all his defenses disintegrate the moment a real crisis occurs (when “the fatherland is in danger,” for example), like in the classical Hollywood film in which the villain, though he will be “officially” condemned at the end, is nonetheless the focus of our libidinal investment (Hitchcock emphasized that a film is only as alluring as its bad guy). The foremost problem is not how to denounce and rationally defeat the enemy—a task which can easily result in its strengthening its hold upon us—but how to break its (fantasmatic) spell. The point of la traversée du fantasme is not to get rid of jouissance (in the mode of old‐style leftist Puritanism): taking a minimal distance towards fantasy rather means that I, as it were, “unhook” jouissance from its fantasmatic frame and acknowledge it as that which is properly undecidable, as an indivisible remainder which is neither inherently “reactionary,” supporting historical inertia, nor a liberating force enabling us to undermine the constraints of the existing order.
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“幻想の横断”とは現実の外に出ることを意味するのではない、現実の非一貫的な非-全体を受け入れ、それを“揺らめかす”ことを意味する。幻想fantasy概念、――それは部分対象とのわれわれの関係をぼやけさせる錯覚的なillusoryスクリーンとしての幻想だがーーそれは精神分析がなすべきことという通念に完全にフィットするようにみえるかもしれない。すなわちもちろん風変わりな幻想の支配から自由になり、ありのままの現実に直面するようにという通念である。だが、これはラカンが意図していることではまったくない。彼が狙っているのはほどんど逆のことなのだ。日常生活においては、われわれは“現実”(幻想によって構造化され支えられた現実)に浸っている。しかしこの浸没は症候によって乱される。その症候とは次の事実を証し立てるだろう、すなわちわれわれのプシュケ(心理的機構)の抑圧された別のレベルがこの浸没に抵抗していることを。
“Traversing the fantasy” does not mean going outside reality, but “vacillating” it, accepting its inconsistent non‐All. The notion of fantasy as a kind of illusory screen blurring our relation to partial objects may seem to fit perfectly the common‐sense idea of what psychoanalysis should do: of course it should liberate us from the hold of idiosyncratic fantasies and enable us to confront reality the way it is. This, precisely, is what Lacan does not have in mind—what he is aiming at is almost the exact opposite. In our daily existence, we are immersed in “reality” (structured or supported by the fantasy), but this immersion is disturbed by symptoms which bear witness to the fact that another repressed level of our psyche resists the immersion.
というわけで、“幻想を横断する”こととは、逆説的に、幻想とまったき同一化をすることを意味するのだ。――その幻想とは日常生活への浸没に抵抗する過剰を構造化させているものとしての幻想であるが。Richard Boothbyの簡明な定式では、“幻想の横断”とは、主体がどうにかしてきまぐれな空想に没頭するのを棄て去り、プラグマティックな“現実”に順応することを意味せず、まったく逆のことである。すなわち主体は、日常的な現実の限界にあらわれる象徴界の欠如の効果をあまんじて受け入れること。
To “traverse the fantasy” therefore means, paradoxically, to fully identify oneself with the fantasy—with the fantasy which structures the excess that resists our immersion in daily reality. In Richard Boothby's succinct formulation: “Traversing the fantasy” thus does not mean that the subject somehow abandons its involvement with fanciful caprices and accommodates itself to a pragmatic “reality,” but precisely the opposite: the subject is submitted to that effect of the symbolic lack that reveals the limit of everyday reality.
ラカン派の意味における幻想を横断することとは、心に思い描くことを超えた幻想のリアルな核とより親密な関係をもたらすという意味での幻想にかつてなくおおいにとらわれるclaimedことなのだ。Boothbyは正しく強調している、ヤヌス Janusのような幻想の構造を。すなわち幻想は、一方で鎮圧化、武装解除化の作用があり(〈他者〉の欲望の深淵に堪えさせてくれる想像的な(イマジネールな)シナリオを提供する)、他方で、われわれの現実に同化不能の粉砕化、攪乱化の作用がある。
To traverse the fantasy in the Lacanian sense is to be more profoundly claimed by the fantasy than ever, in the sense of being brought into an ever more intimate relation with that real core of the fantasy that transcends imaging.49 Boothby is right to emphasize the Janus‐like structure of a fantasy: a fantasy is simultaneously pacifying, disarming (providing an imaginary scenario which enables us to endure the abyss of the Other's desire) and shattering, disturbing, inassimilable into our reality.
“幻想の横断”概念のイデオロギーかつ政治的な側面は、ボスニア戦争のあいだ攻囲されたサラエボのユニークなロックグループTop lista nadrealista(超現実主義者のTop List)によって明らかにされた。彼らの、戦争と飢えのさなかのアイロニックなパーフォーマンスはサラエボの人びとの苦境を風刺化したのだが、それはカウンター文化において熱狂的な地位を獲得しただけではなく、一般的なサラエボ市民のあいだでもそうだったのだ(グループの毎週のTVショウは戦争のあいだを通して異常な人気を誇った)。
The ideologico‐political dimension of this notion of “traversing the fantasy” was made clear by the unique role the rock group Top lista nadrealista (The Top List of the Surrealists) played during the Bosnian war in the besieged Sarajevo: their ironic performances which, in the midst of the war and hunger, satirized the predicament of the Sarajevan population, acquired a cult status not only in the counterculture, but also among the citizens of Sarajevo in general (the group's weekly TV show was broadcast throughout the war and became extremely popular).
サラエボの悲劇的な運命を歎き悲しむかわりに、彼らはユーゴスラビアで共有されていた“愚かなボスニア人”についてのクリシェのすべてを敢えて結集したのだった。すなわちそれらのクリシェとまったき同一化をしたのだ。ここでの肝要な点は、真の結束への道は、象徴的な空間に流布している鼻持ちならないレイシストの幻想と直接に対面すること、遊び心にあふれてその幻想に同一化することを通してであり、“人びとは実際にはこのようなんだよ”のために幻想を否定することを通してではないことだ。
Instead of bemoaning their tragic fate, they daringly mobilized all the clichés about “stupid Bosnians” common in Yugoslavia, fully identifying with them—the point thus made was that the path to true solidarity goes via a direct confrontation with obscene racist fantasies circulating in symbolic space, through a playful identification with them, not through the denial of them on behalf of “what people are really like.”
◆ふたたび、ジジェク『斜めから見る』(鈴木晶訳)(「イデオロギー的サントーム」の章より)。
……幻想は、全体主義的な秩序の支えとして機能していながら、同時に、〈現実界〉の残余であり、それによってわれわれは「手を引く」ことができ、社会的・象徴的ネットワークからの一種の距離を維持することができるのである。われわれが白痴的な享楽に強迫的に固執し、それに夢中になってしまうと、全体主義的な操作の手もされわれには届かない。
ファスビンダーの『リリー・マルレーン』の中にも、(……)〈幻の声〉の現象が見られる。映画全体を通じて、ドイツ兵士たちの歌う例のラヴソングがそれこそ擦り切れるまで繰り返され、この無限の反復によって、美しいメロディが、一瞬たりともわれわれを解放しない、吐き気を催させるような寄生虫に変ってしまう。ここでもやはり、その歌の地位は明らかではない。(ケッペルスに体現された)全体主義の権力はそれを大衆操作に用いて、疲れた兵士たちの想像力を虜にしようとする。ところが、歌は、聖霊が瓶から抜け出してしまうように、権力の手から擦り抜けてしまい、自分自身の人生を生きはじめる。誰も、その歌がもたらす効果を操作することはできない。ファスビンダーの映画の決定的特徴は、この「リリー・マルレーン」という歌のもつ徹底した両義性の強調である。この歌はたしかに、ありとあらゆるプロパガンダの手段によって広められたナチのラヴソングであるが、同時に、それを支えているイデオロギー機械から飛び出しそうな、したがってつねに禁止される危険にさらされている、価値転倒的な要素へと今にも変容しようとしている。このような、白痴的な享楽の染み込んだシニフィアンの断片を、ラカンはその教えの最後の段階で、サントームと呼んだ。サントームLe sinthomeは症候symptomではない。症候は、解釈によって解読されるべき、暗号化されたメッセージであるが、サントームは意味のない文字であり、即座に意味-の-享楽jouis-sense, "enjoyment-in-meaning," "enjoy-meantを獲得する。イデオロギー的組織の構成におけるサントームの役割を考えると、「イデオロギー批判」というものを考え直さなければならない。ふつうイデオロギーは一つの言説と見なされている。つまり、イデオロギーはさまざまな要素の連鎖であって、その意味はそれらの要素に特有の分節によって、つまりなんらかの「結節点」(ラカンのいう〈主人のシニフィアン〉)"nodal point" (the Lacanian master-signifier)がそれらを均質な領域へと全体化するその方法によって、重層決定されている、と。ここでわれわれは、すでに古典ともいえるラクラウの分析を引くことができよう。ラクラウによれば、特定のイデオロギー的要素は「浮遊するシニフィアン」として機能し、その意味は支配権力の操作によって遡及的に固定される(たとえば「共産主義」は他のすべてのイデオロギー的要素の意味を特定する「結節点」として機能する。「自由」は「形式的なブルジョワ的自由」と対立する「実際的自由」となり、「国家」は「階級弾圧の手段」となる、等々)。だが、サントームという次元を考慮に入れたとたん、イデオロギー的経験の「人為的」性格を告発し、イデオロギーによって「自然なもの」「与えられたもの」として経験された対象がじつは言説による構築物であり、象徴的重層決定のネットワークの結果であることを暴露するだけでは十分ではなくなる。もはや、イデオロギー的テクストをコンテクストの中に置き、その必然的に見落とされていた余白を眼に見えるようにする、というだけでは十分ではない。われわれのなすべきこと(ギランやファスビンダーのやっていること)は、サントームをコンテクスト(そのコンテクストのおかげで、サントームは魅力を発揮している)から分離し、その徹底した馬鹿らしさを明るみに引きずり出すことである。いいかえれば、われわれがやらなくてはならないのは、(ラカンが『セミネールⅩⅠ』で用いている表現を借りれば)高価な贈り物を糞便の贈り物に変えること、われわれを金縛りにする魅惑的な声を、〈現実界〉の猥褻で無意味な断片として経験することである。この種の「異化」はおそらくブレヒト的な「異化Verfremdung」よりもさらに根底的である。この種の異化は、現象をその歴史的全体性の中に置くことによってではなく、その直接的現実、つまり「歴史的媒介」を摺り抜けるその馬鹿げた物質的現前がまったくつまらないものだということをわれわれに経験させることによって、ある距離を生み出すのである。われわれは、弁証法的媒介、つまり現象に意味を付与するコンテクストを加えるのではなく、それを除去するのである。したがって、『未来都市ブラジル』や『リリー・マルレーン』が描いているのは、「全体主義の抑圧された真実」などというものではない。これらの作品は全体主義の論理にたいしてその「真実」を対置しているのではなく、その白痴的享楽の凶悪な核を分離することによって、実際的社会的束縛としての全体主義を解体しているのである。(ジジェク『斜めから見る』p239-242)