――ところで、きみは軀のどの部分をもっとも熱心に使うんだい? オナニーしているときのことだけどさ
「耳だわ、もちろん」
'Which part of the body is most intensely used while masturbating? The ear.' (“THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE” Paul Verhaeghe)
鍵穴を覗き込む窃視者は、自分自身の見る行為に没頭しているが、やがて突然背後の小枝のそよぎに、あるいは足音とそれに続く静寂に驚かされる。ここで窃視者の視線は、彼を対象として、傷つきうる身体として奈落に突き落とす眼差しによって中断される。(コプチェク『女なんていないと想像してごらん』)
究極のファンタジーの対象は、まなざし自体だね。そして私は思うんだが、これは政治に当てはまるだけでなく、セックスも同じだね。ひとは、どうやってポルノは可能かという基本的な問いをいつもなすべきだな。精神分析の物議をかもす答は、セックスとしてのセックスはいつもすでにポルノだからだというものだ。私が愛人、あるいは愛人たちといっしょにいるとき、ーー強調しておくよ、複数形を。というのは二項ロジックとして非難されないためにねーー私はいつも第三のまなざしを想像しているんだな。つまり私は誰かのためにヤッテいるんだ。こういえるかもしれない、ここに恥の基本的な構造がある、と。きみがヤルことに没頭してるとき、いつも魅惑/怖れがあるんだな、〈大他者〉の眼にはどうみえるかというね。
The ultimate object of fantasy is the gaze itself. And I think that this goes not only for politics but also for sex. Here one should always ask the basic question as to how pornography is possible. The controversial answer of psychoanalysis is that it is possible because sex as sex is always already pornographic. It is pornographic in the sense that even when I am with my lover or lovers - let me stress the plural so as not to be accused of a binary logic - I always imagine a third gaze; that I am doing it for someone. One might say that there exists a fundamental structure of shame. When you are engaged in sexual activity there is always a fascination /horror as to how this would look in the Other's eyes.
私たちの最も内密の行動でさえ、いつも潜在的なヴァーチャルのまなざしのために行動してるのだよ。だからこの構造、すなわち誰かが私を観察しているという考えに取りつかれた構造ね、これはいつもセクシャリティ自体に刻みこまれてるんだな。ファンタジーとはヤッテいるのを観察している〈他者たち〉という考えにそれほどかかわるわけではなくて、むしろ逆だね。最も基本的なファンタジーの構造というのは私がヤッテいるとき、誰かが私を観察しているのを幻想しているfantasizeことだな。
Even with our most intimate acts, we always act for a potential virtual gaze. So this structure surrounding the idea that somebody is observing me is already inscribed into sexuality as such. Fantasy concerns not so much the idea of observing Others having sex but, rather, the opposite. The most elementary structure of fantasy is that when I have sex I fantasize that somebody is observing me.
貧乏な田舎者が、乗っていた船が難破して、たとえばシンディ・クリフォードといっしょに、無人島に漂着する。セックスの後、女は男に「どうだった?」と訊く。男は「すばらしかった」と答えるが、「ちょっとした願いを叶えてくれたら、満足が完璧になるんだが」と言い足す。頼むから、ズボンをはき、顔に髭を描いて、親友の役を演じて欲しいというのだ。「誤解をしないでくれ、おれは変態じゃない。願いを叶えてくれれば、すぐにわかる」。女が男装すると、男は彼女に近づいて、横腹を突き、男どうしで秘密を打ち明け合うときの、独特の流し目で、こう言う。「何があったか、わかるか? シンディ・クリフォードと寝たんだぜ!」
目撃者としてつねにそこにいるこの〈;第三者〉は、無垢で無邪気な個人的快感などというものはありえないことを物語っている。セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)
《セックスはつねにどこかかすかに露出狂的であり、他者の視線に依存しているのである》とあるが、ではほかの行為はどうなのだろうか。「意識とは躊躇の別名だ」(荒川修作=河本英夫)とするなら、意識された行為はほとんどつねにそうではないか。いや神経症圏のひと(標準的な人びと)が眼差しであるなら、精神病圏のひとは声であるかもしれない。
欲動のタームでは、声と眼差しはエロスとタナトス、生の欲動と死の欲動に関係している。……《眼差しー恥ー自我理想》と《声ー罪ー超自我》。
In terms of the drives, the voice and the gaze are thus related as Eros and Thanatos, life drive and death drive……gaze–shame–Ego Ideal, and voice–guilt–superego.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
だが、最近は(前世紀末あたりから)、「ふつうの精神病」、あるいは「二十世紀の神経症の時代から、二十一世紀の精神病の時代へ(あるいは倒錯の時代へ)」などということが言われている。
晩年のラカンは、その副次的なテキストでありながら、《ひとは皆狂人でありTout le monde est fou言い換えれば妄想的délirantである》としている(ミレール2008セミネールより)。この妄想的délirantという用語は、パラノイアにかかわり、すなわち、ひとは皆精神病であるということになる。ここにミレール概念の「ふつうの精神病」の起源のひとつがあるのだろうとは思う。
ミレールは同じ2008年のセミネールでサントームについてこう語っている。
(旧来の臨床、症状を中心とした象徴界の臨床ではなく)、第2の精神分析臨床は症状symptômeの概念を、この〔「終わりのない分析」で示される症状の〕残余のモデルに基づいて再構成するものです。こうしてラカンはそれを古い綴り方でサントームsinthomeと呼びました。サントームとは、治癒不可能なものの名前なのです。
ここで「終わりのない分析」とされるのは、もちろんフロイトの最晩年1937の論文(ラカンがフロイトの遺書と呼んだ)のことであるが、症状の彼方にある残余については、フロイトは初期から語っている(参照:二種類の「症状symptom」(象徴界と現実界)と「サントームsinthome」)
だがここではラカン派内部でも論議がさかんな(すなわち異論の余地が多い)「ふつうの精神病」をや「サントーム」をめぐるのではなく、「ふつうの精神病」概念(1998年にECF)を言い出すまえの、ごく一般的なミレールの文を抜き出しておこう。
神経症・精神病・倒錯の三つだけが領域なのではありません。例えば、男と女、男性的構造と女性的構造という臨床的カテゴリーもあります。これは三つの主要な臨床的カテゴリーをきれいに横断しています。例えば、ラカンは倒錯は男性的剥奪であり、男と女の二項構造を神経症・精神病・倒錯の三つ組みと結合させるとさらに複雑になると言っています。私たちが言いうるのは、倒錯は男性的剥奪であり、本物の精神病のすべては女性であろうということです。ラカンは精神病を「女性への衝迫[pousse a la femme]」とみなすという、今では有名となったフレーズを作りました。精神病は女性の領域にあるのです。神経症においては、 ヒステリーと強迫が区別され、 一般に女と男に関連付けられます。
しかし、だからといってヒステリーの男性がいないと主張するのではありません。私たちが神経症を語るとき、あるときはこのように注目しますが、また別の機会には、フロイトは強迫神経症をヒステリーの方言であり、ヒステリーが神経症の中核であると考えていたことを元にして、ヒステリー神経症と強迫神経症の区別について注目します。たまに、さらなる神経症的存在として恐怖症に注目することもあります。ラカンの著作のなかには、あるときにはヒステリーと強迫の二項対立があり、またあるときには恐怖症・ヒステリー・強迫の三つ組みの区別があります。(ミレール「ラカンの臨床パースペクティヴへの導入」1996)
少し前にもどれば、そこでは、神経症者と精神病者は、それぞれ眼差しと声を意識する(幻想する)とした。だがここでの「幻想」の用語自体をも気をつけなくてはならない。幻想とは基本的には《欲望は〈他者〉の欲望》にかかわる。
まず第一に想像界の幻想がある。
誰でも次のフレーズは知っている、何度も何度も繰り返される、“欲望は〈他者〉の欲望である”と。しかしラカンの教えのそれぞれの決定的段階で、このよく知られた公式は異なった読み方に該当する。ます1940年代にすでに現れた“欲望は〈他者〉の欲望”とは、単純に、欲望のパラノイア的な構造を触れている。簡単にに言えば、羨望の構造だね。ここでは主体の欲望は〈他者〉の欲望であり、外作用的な、想像的関係のたぐいだ。基本的な羨望の構造であり、私はある対象を欲望する、〈他者〉が欲望するかぎりにおいて等々。これが最初のレベル、いわば想像的レベルだ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳)
これ以外に通常の「幻想」(象徴界のファンタジー)がある。
「人間は<他者>として欲望する」というのは、まず何よりも、人間の欲望が「外に出された」<大文字の他者>、すなわち象徴秩序によって構造化されていることを意味する。つまり私が欲望するものは<大文字の他者>、すなわち私の住んでいる象徴的空間によってあらかじめ決定されている。たとえ私の欲望が侵犯的、すなわち社会的規範に背くものだとしても、その侵犯それ自体が侵犯の対象に依存しているのである。(ジジェク『ラカンはこう読め』鈴木晶訳)
だがラカン理論において決定的なのは現実界の幻想である。
しかし私の考えではラカンの決定的な最後の公式は、分析家のポジションが大文字の他者 (A)、すなわち象徴的秩序の具現化としての分析家の場所からもはや始まらないと定義したときだね。分析家は小文字の他者 (a)、その幻想的な対象と同一化するときとしたときだ。言い換えれば、分析家は〈他者〉の欲望の不透過な謎を体現したときということ。(ジジェクConnections of the Freudian Field to Philosophy and Popular Culture意訳1995)
すなわち再度、『ラカンはこう読め』から抜き出せば次のようなことになる。
……主体は、<他者>を欲望するものとして、つまり満たしがたい欲望の場所として、捉える限りにおいて、欲望できる。あたかも彼あるいは彼女から不透明な欲望が発せられているかのように、他者は謎にみちた欲望を私に向けるだけでなく、私は自分が本当は何を欲望しているのかを知らないという事実、すなわち私自身の欲望の謎を、私に突きつける。
この現実界の「幻想」とパラノイア的な「妄想」とはどう異なるのだろうか。事実、ジジェクは最近の書で、幻想とパラノイアは本質的に繋がっているとしている。これは、すなわち、幻想と妄想はあるレベルでは(現実界のレベルでは)ほとんど同一なものだと言っていることになる。
This notion of the lacking Other also opens up a new approach to fantasy, conceived as precisely an attempt to fill out this lack of the Other, to reconstitute the consistency of the big Other. For that reason, fantasy and paranoia are inherently linked: at it most elementary, paranoia is a belief in an “Other of the Other,” in another Other who, hidden behind the Other of the explicit social reality, controls (what appears to us as) the unforeseen effects of social life and thus guarantees its consistency.(ジジェク『LESS THAN NOTHING』)
さて、いささかややこしい話は、ここではこれ以上展開しない(というか、このあたりはわたくしには瞭然としていない。そもそも想像界でさえ、ラカンによれば精神病的なものなのだから、イマジネールな幻想と妄想の相違でさえも再考に値する。神経症者の幻想とは、象徴界の幻想のみなのではないか、と)
※参考
精神病者の世界は、想像界と現実界で構成されている。
1.想像界による症状:前述のパラノイア的世界=妄想(例、誰かが私を監視している、私を略奪する、という妄想)
2.現実界による症状:象徴界から排除されたものの回帰=幻覚(例、精神病性の幻覚として人の姿や顔があらわれたり、背中を血の塊が流れているなどの訴え)(「ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」を読む」)
さて倒錯の一般的な話に戻ろう。
厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。……主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。……サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)
すなわち、倒錯者は彼自身の快楽のために行動するのではなく、〈大他者〉の享楽のために行動する。《主体は他者の享楽の道具として己れを位置づける》(ラカン『エクリ』)。
視姦症と露出症において、倒錯者は覗見欲動の対象として自身を位置づける。他方、《サディズム/マゾヒズムは、主体は声の欲動の対象として自身を位置づける》(ラカン『セミネールⅩⅠ』)ということになるらしい。これについては、ジジェクのマイケルマンの映画『マンハンター』を例にしたすばらしく明晰な解説がある(参照:「幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$」)。もちろんこれらはラカン派内の見解であり、異論も種々あるだろう。
…………
《屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなった》
《屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮した》
これは大江が森という〈他者〉の眼差しのもとに自慰行為を、ラカン理論的に、あるいはサルトルのまなざし論をもとに、無意識的にせよ、意識的にせよ、書き綴った文だとしてよいだろう。
これは大江が森という〈他者〉の眼差しのもとに自慰行為を、ラカン理論的に、あるいはサルトルのまなざし論をもとに、無意識的にせよ、意識的にせよ、書き綴った文だとしてよいだろう。
大江健三郎は、「森林」というイメージをほとんどロマンチックなまでに希求しつつ長年執筆活動を続けてきたこと、かつサルトルの強い影響を受けて作家生活を開始している。
眼差しは意識の裏面である、という表現はまったく不適切というわけではありません。というのは、眼差しには実体を与えることができるからです。サルトルは『存在と無』の中のもっとも見事な個所で、他人の実在という次元で、眼差しを機能させています。もし眼差しがなかったとしたら、他人というものは、サルトルの定義にしたがえば、客観的実在性という部分的にしか実現されえない条件にまさに依存することになってしまいます。サルトルの言う眼差しとは、私に不意打ちをくらわす眼差しです。つまり、私の世界のあらゆるパースペクティヴや力線を変えてしまい、私の世界を、私がそこにいる無の点を中心とした、他の諸々の生命体からの一種の放射状の網へと秩序づけるという意味で、私に不意打ちをくらわす眼差しです。無化する主体としての私と私を取り巻くものとの関係の場において、眼差しは、私をして――見ている私をして――私を対象として視ている人の目を暗点化させるにまで至る、という特権を持つことになります。私が眼差しのもとにあるかぎり、私はもはや私を視ている人の目を見ることはできないし、逆にもし私が目を見れば、そのときは眼差しは消えてしまう、とサルトルは書いています。
これは正しい現象学的分析でしょうか。そうではありません。私が眼差しのもとにあるとき、私が誰かの眼差しを求めるとき、私がそれを獲得するとき、私は決してそれを眼差しとしては見ていない、というのは真実ではありません。(…)
眼差しは見られるのです。つまり、サルトルが記述した、私を不意打ちするあの眼差し、私を恥そのものにしてしまう――というのはサルトルが強調したのはこの恥という感情ですから――あの眼差し、それは見られるのです。私が出会う眼差しは、これがサルトルのテクストの中に読み取ることができるものですが、見られる眼差しのことではまったくなくて、私が〈他者〉の領野で想像した眼差しにすぎません。
彼のテクストに当たってごらんになればお解りになると思いますが、彼は視覚器官に関わるものとしての眼差しの出現のことを語っているのでは決してなくて、狩りの場合の突然の木の葉の音とか、廊下に不意に聞こえる足音とか――これはどういうときかというと、鍵穴からの覗きという行為において彼自身が露呈するときです――のことを言っているのです。覗いているときに眼差しが彼に不意打ちをくらわせ、彼を動揺させ、動転させ、彼を恥の感情にしてしまうのです。ここで言われている眼差しは、まさに他人そのものの現前です。しかし、眼差しにおいて何が重要かということを我われが把握するのは、そもそも主体と主体との関係において、すなわち私を視ている他人の実在という機能においてなのでしょうか。むしろ、そこで不意打ちをくらわされたと感じるのは、無化する主体、すなわち客観性の世界の相関者ではなくて、欲望の機能の中に根をはっている主体であるからこそ、ここに眼差しが介入してくるのではないでしょうか。
欲望がここでは覗視の領野において成り立っているからこそ、我われは欲望をごまかして隠すことができるのではないでしょうか。(ラカン『精神分析の四基本概念』)
◆大江健三郎『懐かしい年への手紙』より
谷川を見おろす敷地の西の端に、風呂場が別棟になっている。石垣の上の狭い通路から風呂場を廻り込んで向うへ出ると、石垣でかこわれた一段低いところにセイさんが花を作っている小さな畑と物置がある。風呂の焚口は物置の並びにあり、戸外の水汲み場から風呂水を運びこむ戸口も開いている。風呂場の窓は石垣の上にに張り出して谷川を見おろし、対岸をのぞむ。窓は高く、庭から廻り込む通路からは風呂場を覗くことができない。足音をしのんでそこを通り抜けながら、ギー兄さんが窓をあおいで僕の注意をひくそぶりをしたので、なんらかの手段で内部を覗き見する手段をギー兄さんが考案したのだと見当はついていた。案の定! いったん畑の平面へ降りてから風呂の焚き口へ登る、小石を積んだ短い段々の中ほどに、そこで立ちどまれば顔の高さに、こちらへゆるくかたむいた50センチ×30センチの薄暗いガラスのスクリーンが風呂場の板壁を壊してとりつけられているのだ。剥がした羽目板や新しい角材の残りと大工道具が、物置の脇にたてかけられていた。僕らが並んで位置につくやいなや、僕らの頭をまたいで前へ出る具合に向うむきの若い娘ふたりの下半身が、かしいだスクリーンに現れた。
――この角度がな、Kちゃん、女をもっとも動物的に見せるよ、とギー兄さんは解説した……
若い娘たちが全裸でスックと立っている。その丸い尻の下で、それぞれの二本の腿が不自然に思われるほど広い間隔を開いているのに、まず僕は印象を受けた。セイさんとの経験に教えられながら、なお性的な夢に出て来る裸の娘の腿は、前から見ても後ろから見てもぴったりくっついていたから。いま現に見ている娘たちの、その開いた腿の間には、性器が剥き出しになっていたが、それはどちらも黒ぐろとした毛に囲まれ股間全体の皮膚も黒ずんで、猛だけしい眺めだった。
すぐにも娘たちは窓のすぐ下の低く埋めこんだ浴槽に向って進み、しゃがみこんだ。娘たちの尻はさらにも横幅をあらわして張りつめ、窓からの光に白く輝やいて、はじめて僕に美しいものを見ているという思いをあたえた。湯槽から湯を汲み出し、そろって性器を洗っているふたりの、その尻の下方にチラチラ見える黒い毛は、やはり油断のならぬ鼠の頭のようだったが。それから湯槽に入りのんびりとこちらを向いた様子は、日頃のももこさん、律ちゃんと比較を絶して幼く見えた。彼女たちがそろってスクリーンのこちらの僕らを見つめているふうであったのはーー放心したような顔つきからみてもーー僕らがひそんでいると見当をつけたのではなく、新しく浴室の入口脇にとりつけられた鏡を発見して、ということであったわけだ。そのうちスクリーンが翳ってきたのは、ふたりが湯を搔きまわしたので、湯気がこもって鏡の表面を曇らせたのだろう。
――よし。自分が曇りをふいてやる、とギー兄さんがすぐ脇から無警戒な微笑を僕に向けていった。
――なんのために? 自分も風呂に入るのなら……
――え? Kちゃんも楽しんでみているじゃないか?
そういいすてて、ギー兄さんは物置の側から母屋の方へ廻り込んで行った。逆に僕は、石垣の上の狭い道を通って庭へひきかえした。いかにもこちらのために覗き窓を造ってやった、というギー兄さんの口ぶりに僕は傷つけられていたのだ。ところが庭から窓ごしに勉強部屋に入りこみ、その勢いのまま机と壁の間の畳の上にデングリ返しをして寝ころがったとたん、僕はカッと燃え上がるような欲望にとらえられた。ギー兄さんもなかへ入ってしまった以上、風呂場の覗き見のスクリーンのところへひとり立って、屋敷の囲む両側の森、谷あいの空、そしてありとあらゆるそこいらの樹木や石、草の眼にさらされながら、マスターベイションをすることを僕は想像し、その想像によって欲望のとりことなったのである。僕はあたらめて窓を乗り越えた。ズボンのなかで勃起している性器が行動の邪魔になるのを感じながら、それでさらにもいどみかかるような気分になって、息使いも荒く。石垣の上を廻りこむ時には、頭上の窓からギー兄さんとももこさんの言葉にならぬせめぎあいのような気配が聞こえてきた。
そして僕があらためて明るくなっているスクリーンに見出したのは、すぐ眼の前の檜の床に横坐りして脇腹を洗っている律ちゃんの幅広の躰だった。その向うの湯槽の低いへりに、こちら向きに腰をかけたギー兄さんの、濃い毛の生えた腿の上にももこさんがまたがっている。僕がスクリーンから覗き見しているのを勘定に入れて、ギー兄さんがわざわざももこさんに性交をしかけているのだ。色白のギー兄さんの裸のそばでは淡い褐色に見える、ももこさんの筋肉質の背中が機敏に上下する様子は、床を蹴りたてるような足の動きともども、ももこさん自体性交に乗り気になっていることを感じとらせた。そしてすぐ眼の前に自分の躰を鏡に映しながら洗っている、つまりはスクリーンに泣きべそをかいたような顔つきで覗き込んでくる律ちゃんの、胸と喉の間をゆっくり動いていた右手が、そのうち下腹部に降りて来た。石鹸を塗った手拭いをピンクの腿に置くと、もう片方の太い腿をグイとずらせ、その手は自分の性器を優しげに覆うように押しつけて揉みしだいている。スクリーンのこちら側に立っている僕の、ズボンのあわせめから斜めに突き出したペニスは、自由になるやいなや勢いよくおののいて風呂場の腰板下方の石積みに、西陽に赤く光る精液を発射した……
頭をたれ、ペニスをしまいながらその場を引揚げようとして、僕はピクリと立ちどまった。物置への段々にそって焚木を積んだ上から、オセッチャンの三つあみにした丸い頭が覗いて、活気みみちた黒い眼をこちらへ向けているのである。僕は胸うちを真暗にして、畑の斜面へ跳び下ると、そのまま石垣をすべりおりるように谷川へ降りて行った。谷川に沿って走り、いったん暗い杉木立の中に入ってからそこを出はずれても、夕暮の谷間の陰鬱な土埃りの乾いた道を、そのうち脇腹の痛みに走り止めて歩きながら帰る間、僕は身悶えする後悔のなかにいた。家に帰りついても母親と顔をあわせぬようせだわの裏口から入り、そのまま狭い自分の寝場所にこもって、妹が夕食を知らせに来ても出て行かぬほど僕は思い悩んでいた……
幼いオセッチャンの純潔な魂にしみをつけた、という罪悪感に僕はとらえられていたのである。それこそ僕は幼女に暴行を働いた人間の血まみれの穢れが自分にかぶさっていると感じた。なぜオセッチャンの眼を警戒しなかったかと、僕は恥を塗りたくられた心で後悔した。屋敷を囲む森から谷のありとあらゆる樹木、草、石にまで見まもられてマスターベイションするという着想に、カッと昂奮したことを思い出しても、自分の愚かしい軽薄のしるしとして、それは後悔のたねとなるのみだった。
夜ふけまで眠れぬまま展転反側するうちに、後悔に染めあげられた想像力は、とめどなく逸脱する方向に行く。風呂場の建物の土台の、わずかに草が生えた石積みの上に飛び散り土埃りを吸って小さなナメクジのように点々とかたまった精液。好奇心からオセッチャンがあれを点検し、その手で性器をさわってしまったら、どうなるか? わずかに眠りえたと思うと、アッと叫ぶようにして眼をさます。自分の臭いのするセンベイ蒲団の上で汗をかいた躰を胴震いするようにして、いま見た夢のおぞましさから逃れようとする。それは試験問題集で読んだ『今昔物語』の「東の方へ行く者、蕪を娶ぎて子を生む語」とからんだ夢なのだった。とぎれとぎれの短かい夢のなかで、オセッチャンが僕の精液のたっぷりついた蕪の、《皺干たりけるを掻き削りて食ひて》いる様子まで見た…… (大江健三郎『懐かしい年からの手紙』p267~)