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【原文】: 空蝉之 命乎惜美 浪尓所濕 伊良虞能嶋之 玉藻苅食 (作者: 不明)
【よみ】: うつせみの、命を惜しみ、波に濡れ、伊良虞の島の、玉藻刈り食む
【原文】:高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉 (作者:中大兄 三山歌)
【よみ】:香具山は 畝傍(うねび)を善(え)しと 耳成(みみなし)と 相争ひき 神代より かくなるらし 古昔(いにしへ)も しかなれこそ 現身(うつせみ)も 嬬(つま)を 争ふらしき
【原文】: 宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見 (作者: 大伯皇女)
【よみ】: うつそみの、人にある我れや、明日よりは、二上山を、弟背(いろせ)と我が見む
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「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。(時枝誠記『国語学原論』)
この時枝誠記の『国語学原論』の文の捕捉としては、吉本隆明の『初期歌謡論』に書かれる文がいい。それを引用している柄谷行人の『日本近代文学の起源』より、柄谷氏の文もふくめて抜粋する。
ところで、和歌の韻律は「文字」の問題とどう関係しているのだろうか。国学者は、荷田在満の「国歌八論」以来、音声によって唱われた歌と、書かれた歌の差異を問題にしてきたといえる。本居宣長において、『古事記』の歌謡は唱われたものであり、歌謡の祖形だとみなされた。吉本隆明は、賀茂真淵が指摘したように、それらは祖形であるどころか、すでに“高度”なレベルにあるという。
《いま『祝詞』には、「言ひ排く」、「神直び」、「大直び」という耳なれない語が、おおくみつけられる。はじめに<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>という言葉があった。成文化するとき漢音文字をかりて、「言排」、「神直備」、「大直備」と記した。これが、<言ひ排く>、<神直び>、<大直び>と読みくだされる。この過程は、なんでもないようにみえて、表意、あるいは表音につかわれた漢字の形象によって、最初の律文化がおおきな影響をこうむった一端を象徴している。<いいそく>、<かむなほび>、<おおなほび>といえば、すくなくとも『祝詞』の成立した時期までは、あるあらたまった言葉として流布されていた。「なほび」という言葉は、神事、あるいはその場所などにかかわりのある言葉としてあった。<かむ>とか<おほ>とかは尊称をあらわしていた。そのころの和語は、適宜に言葉を重ねてゆけば、かなり自在な意味をもたせることができたとみられる。しかし、これを漢字をかりて「言排」、「神直備」、「大直備」のように表記して、公式な祭式の言葉としたとき、なにか別の意味が、漢字の象形的なイメージ自体からつけ加えられた。これは和語の<聖化>のはじまりであり、<聖化>も律文、韻文化へのひとつの契機と解すれば、ここにすでに歌の発生の萌芽のようなものは、あった。
成句や成文となれば、さらに律化、韻化の契機はふかめられた。語句の配列はそのもので、ひとつの律化だからである。》(「初期歌謡論」)
この注目すべき吉本隆明の考えにしたがえば、歌の発生、あるいは韻律化はそもそも漢字を契機としている。宣長が祖形とみなすような「記」、「紀」の歌謡は、文字を媒介しなければありえないような高度な段階にある。それは音声で唱われたとしても、すでに文字によってのみ可能な構成をもっている。《たぶん、宣長は、<書かれた言葉>と<音声で発せられた言葉>との質的なちがいの認識を欠いていた。すでに書き言葉が存在するところでの音声の言葉と、書き言葉が存在する以前の音声の言葉とは、まったくちがうことを知らなかった》(「初期歌謡論」)(柄谷行人『日本文学史序説』講談社文芸文庫 P73-74)
たとえば、平安時代に、各地の人々が京都の宮廷で話されている言葉で書かれた「源氏物語」を読んで、なぜ理解できたのか。それは彼らが京都の言葉を知っていたからではありません。今だって各地の人がもろに方言で話すと通じないことがあるのに、平安時代に通じたはずがない。「源氏物語」のような和文がどこでも通じたのは、それが話されていたからではなくて、漢文の翻訳として形成された和文だったからです。紫式部という女性は司馬遷の『史記』を愛読していたような人で、漢文を熟知している。にもかかわらず、漢語を意図的にカッコに入れて『源氏物語』を書いたわけですね。
あらためていうと、日本人は漢字を受け取り、それを訓読みにして、日本語を作り上げたのです。ただ、その場合、奇妙なことがある。イタリア人はイタリア語がもともとラテン語の翻訳を通して形成されたことを忘れています。しかし、日本人は、日本語のエクリチュールが漢文に由来することを忘れてはいない。現に漢字を使っているからです。漢字だから、外来的である。しかし、外部性が感じられない。だから、日本では、韓国におけるように、漢字を外来語として排除もしないのです。ところが、日本では漢字が残りながら、同時に、その外部性が消去されているのです。そこが奇妙なのです。
漢字で言えば、もちろんいろんな要素があるんですけど、いちばん重要なのは「なんで日本人は漢字を用いてきたか」、あるいは「なんで漢字を手放せなかったか」。この視点がいちばん重要だと思うんですよ。これは言うまでもなく「訓(くん)」ができたからなんです。当たり前なんだけど、漢字には本来「音(おん)」しかないはずなんです。漢字の読み方というのは、本来中国語の発音の言語、文字体系のものなんですけど、それが日本に渡ってきて日本の固有語、「やまとことば」と言いますが、固有語に当てられて訓ができるんです。この訓が漢字と強く結びついていて、やまとことばが漢字で書けるようになってしまったということが非常に大きいと思うんですよ。本来なら、仮名ができたのなら仮名だけでやまとことばを書いても良かったはずで、当初は仮名で書いていたはずなんです。いろんな位相があるので、男性の世界では漢文を用い、女性の世界ではひらがなを用いるというなかで、仮名だけでも日本語を書けたはずなのに、漢字で書くという人も一方にいて、伝統的に漢字が勝ってしまったというのが現状なんだと思うんです。
実は訓というのは、世界の言語のなかで現在では日本にしかありません。訓を持つ漢字は「表語文字」、語をあらわす文字で、それ自体で意味を表しているわけです。言語の歴史から言うと、文字の発生というのは表語文字なんですよ。これは絵文字から発達したもので、ものを真似て作ったというところに由来しています。
最古の文字はシュメール文字で、これが表語文字なんですが、このシュメール文字をまったく別系統のアッカド語という言語が借りたときに固有語をあてているんです。つまり「訓」ですね。漢字が生まれる以前にすでに訓があったんです。訓というのは表語文字を違う言語で借りたときに必ず発生するものだと言ってもいいくらいです。日本では、もともとの中国語の意味で用いているときには中国語の発音で漢字を読んだのでしょうが、日本語にその意味に当たる語があった場合には、その漢字の読みにその語を使ってしまったということなんです。中国の漢字を借りた朝鮮半島にも本来訓はあったんですが、中国に距離的に近いものだから、そういう変な使い方はやめようとやめちゃったから音だけしかない形になってしまった。
日本は中国からはるか離れていたから、漢字をより自由に使えたということで、訓が定着したと。ひらがなの「やま」と書くこともできるけど、漢字で「山」と書くこともできる。そうすると、表語文字のほうが意味の識別がよりたやすいんですよね。一字一字音を読んでイメージを思い浮かべるよりも、字を見て「これはこういう意味だ」とわかるわけだから。速読をする方法として「漢字だけ見ていけばいい」ということがよく言われるけど、それと同じことで、訓というのは非常に便利だったので、べったり定着してしまったんです。平安時代以降定着していって、江戸時代にはだんだんと庶民が教育を受けるようになり、さらに明治になると義務教育になり、当時は西洋化と同時に漢文的な文章が良いとされていましたから、より多く漢語を使うようになっちゃった。江戸時代までは文章に和語も多く使っていたんですけどね、それが漢語に置き換わってしまったというわけです。それでいっそう漢字が手放せなくなったということでしょうね。
◆蓮實重彦『反=日本語論』より
日本語と中国語とが、いわゆる祖語を共有することのない全く系統の異なる言語だということ(……)。この事実の確認は、多くのヨーロッパ人が、そしてときには日本の大学生までが、文字と語彙の貸借関係があるというだけの理由で、日本語が中国語から分かれた言葉だと信じきっている現状にあっては、まず第一に強調されねばならない。(……)
ここで見落としえない点は、(……)一つの漢字が中国語として持っていた音声的価値も、文法的機能も日本語としての漢字の訓の中にはいっさい残存してはおらず、まさにそのことによって、日本語の構文法を支えることになるという点であろう。あながち中国語と日本語とが、ラテン語と英語という親族関係を持っておらず、かえって異質な系統にある言語であったが故に、借用された漢字によって、意味と音声と表記法との自由な戯れが日本語として可能になったという点こそを強調すべきなのである。
たしかにわれわれは、日本語の漢字に、訓読みと音読みと二つ、あるいそれ以上の読み方があるといった言葉を口にしている。そしてその不用意な言葉が、日本語に接近しようとする外国人たちを、必要以上に混乱させることになるのだ。おそらく、ヨーロッパ的精神にとってこの上なくわかりにくいのは、その事実にあるのではない。一つの漢字が、いかなる日本語の意味と結びつき、その意味が日本語で何と発音され、その発音が表意的に借用された漢字と、漢字の標音的側面から創始された仮名とによってどのように表記されるかという点を順に追って説明すれば、その難解さはある程度は緩和されうるものである。つまり「急」の一字は、「急行」の場合はキュウ、「急ぐ」の場合はイソグと発音されると説明すべきではなく、「急」の字に接したら、それがまず「いそぐ」ことを意味し、「イソグ」には、現在の送り仮名の規則によるなら、「急ぐ」と表記すると説明すべきなのだ。(……)
そもそも、訓とは、ほんらいが読み方の問題ではなく、意味の問題ではなかったか。「明」は「明暗」の場合はメイと読まれ、「明るい」の場合はアカるいと読まれると解説しはじめるのではなく、「明」はまず「あかるい」ことを意味し、そして「アカルイ」は「明るい」と表記されうると続けるのが、論理的な筋道というものではないか。その過程を納得した上でなら、一つの漢字の幾つかの読み方が語られても混乱は起るまいと思う。(蓮實重彦『反=日本語論』「萌野と空蝉」 P221-223ーー黒字強調は原文では傍点)
たとえば時枝誠記の『国語学原論』に引かれている名高い「ウツセミ」の例を想起してみよう。時枝博士は、その「文学論」を構成する「文学の記載法と語の変遷」の項目に、次のような書かれた。
「ウツセミ」は現身の意であるが、これを「空蝉」と表音的に記載した結果、理解に際してはそれが表意的のものと考へられ、従つて「空蝉の世」は、人生の義より転じて、蝉の脱殻の如き無常空虚の世の義となり、更に「空蝉の殻」のごとき語が生まれるやうになつた。
日本語を語ろうとするものの必読文献にみられる文章だから、何もいまさら説明めいたものは必要あるまいと思われるが、ここに無知と誤解から生じた日本語の豊かな増殖ぶりの跡を認めうる点に誰も異存はあるまい。現身(うつしみ)なる語の意味と音声との表記法との多様な戯れが、一方で日本神話の構造的理解に通じ、また他方で、西欧形而上学の今日的崩壊過程へと向けるわれわれの視線を鍛えうる役割をも担っているというきわめて啓発的な論文が、坂部恵氏の『仮面の解釈学』におさめられているから、興味のある方はそれを参照されたい。ここではただ、『万葉集』の「うつせみ」が「空蝉」「虚蝉」の現身と誤って表意的に解釈され、奈良時代にはこの語に含まれていなかった「はかなさ」の意味が、平安朝以後の日本語の定着したという『岩波古語辞典』の説明を繰返し、誤解が発揮しうる言語的活力と、文化的創造性の一面を指摘するにとどめておこう。……(同上p226-227)
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※附記
漢詩文だけでなく、候文にてもほとんど漢字ばかりが目立つ森鴎外の『伊沢蘭軒』の登場人物たちの書き物だが、次のようなこともあったようだ。
文中に見えてゐる蘭軒は平頭三十であつた。わたくしは是に由つて「伊沢長安様」と呼ばれた信階が、倅蘭軒ほど茶山に親しくはないまでも、折々は書信の往復をもしたと云ふことを知る。茶山の仮名文字を用ゐること常よりも稍多かつたのは、老人の読み易きやうにとの心しらひではなからうか。(森鷗外『伊沢蘭軒』 その百八十九)
この書信の宛先である蘭軒の父信階は教養のない人物ではけっしてない、《原来伊沢の家では、父信階の時より、毎旦孝経を誦する例になつてゐた》(その百五十二)