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2013年10月23日水曜日

欲動と原トラウマ

フロイトの最晩年の論文『終りある分析と終りなき分析』Die endliche und die unendliche Analyse1937――ラカンがフロイトの遺言と呼んだーーには、「欲望」“Wunsch”という語彙が独立してはひとつも出てこない(wünschenswert = desirableやらunerwünscht = unwantedの類はある)。

頻出するのは、TriebとTrauma、すなわち「欲動」と「心的外傷」(人文書院旧訳では、前者は「本能」となっており、「欲動」概念が日本では流通することすくない遠因のひとつかもしれない)。

そこでは「欲望」のみを分析治療で扱ってそれを克服しても、欲動と原トラウマにはなすすべがないとさえ読める(フロイトの長年の治療努力にもかかわらず「狼男」が晩年まで肛門欲動を克服できなかったことを想起しておこう)。

ラカン理論において、《ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。》(資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

たとえば、ジジェクによれば、ドゥルーズ&ガタリの「欲望機械」は、フロイト=ラカンの「欲動」のこと。
The starting point for a Lacanian reading of Deleuze should be a brutal and direct substitution: whenever Deleuze and Guattari talk about “desiring machines” (machines désirantes), we should replace this term with drive. The Lacanian drive—this anonymous/acephalous immortal insistence‐to‐repeat of an “organ without a body” which precedes the Oedipal triangulation and its dialectic of the prohibitory Law and its transgression—fits perfectly what Deleuze tries to circumscribe as the pre‐Oedipal nomadic machines of desire: in the chapter dedicated to the drive in his Seminar XI, Lacan himself emphasizes the “machinal” character of a drive, its anti‐organic nature of an artificial composite or montage of heterogeneous parts.(ZIZEK“Less Than Nothing”(2012)CHAPTER 9 Suture and Pure Difference )。

ところで、『終りある分析と終りなき分析』の冒頭近くにランクの『出産の外傷』という論文が紹介されている。今では出産外傷を語る人は少ないだろうし、フロイト自身、批判的な検討に耐えられるものではない、と書いている。しかし、ここでは用語に注目するためだけに引用する(人文書院旧訳から)。

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(『終りある分析と終りなき分析』)


ここではこの文を出産外傷から離れて読み換えるなら、人間とは、《一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängung」を受けて存続する》動物である、と当面してみよう(当面というのは、精神病やら自閉症などの具合がわたくしにはいまひとつピンと来ていないせいだ)。

《一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま》とは、ここでは幼児期に体験する「言語化できない」三つの謎にかかわるものとしよう、すなわち「女性性」、「父性」、「性的関係」、つまりフロイト文脈なら「母」のジェンダー(そして「女性」のそれ)、「父」の役割、「両親」の性関係ということになり、ラカン文脈では、La Femme n'existe pas(「女」は存在しない)、 L'Autre de l'Autre n'existe pas(「他者」の「他者」は存在しない)、 Il n'y a pas de rapport sexuel(性関係はない)、ということになる(Paul Verhaeghe の小論『TRAUMA AND HYSTERIA WITHIN FREUD AND LACAN 』による)。

この三つの謎が「原抑圧」にかかわる。そしてそれは「後期抑圧」に関連する「欲望」ではなく、幼児期心的外傷(原トラウマ)に関連する「欲動」の源泉である、ととりあえずしておこう。

この幼児期原トラウマは内的なものであり、後に外部からありうる「後期」トラウマとはまったく別のものである。

そのあいだの消息を中井久夫は次のように書いている。

時間はふつう未来に向かって進行する。しかし、時間は停止しているだけでなく、時間軸が後ろに向かいがちである。時間の井戸に下降している感覚がある。

治療者は所詮、擬似体験者である。( ……)しかも何例か、すなわちいくつかの井戸を受け持つ。時間の井戸下降感覚は、いずれも、日常生活に奇妙な影響を与える。それは、精神分析などで幼少期を問答しているのとは全然といってよいほど違う。これは治療者の側への作用である。周囲の人と時間のベクトルがちがってくるのである。

さらに、この井戸の構造は単純でない。最初に語られるトラウマは二次受傷であることが多い。たとえば高校の教師のいじめである。これはかろうじて扱えるが、そうすると、それの下に幼年時代のトラウマがくろぐろとした姿を現す。震災症例でも、ある少年の表現では震災は三割で七割は別だそうである。トラウマは時間の井戸の中で過去ほど下層にある成層構造をなしているようである。ほんとうの原トラウマに触れたという感覚のある症例はまだない。また、触れて、それですべてよしというものだという保証などない。

たしかに言語化はイメージを減圧する。言語とはそのために生まれたという人もあるぐらいである(高知能自閉症の言語と儀式もまた)。絵画も生のイメージを減殺する力がある。神戸では震災直後、米国からの援助者が「もう泣きましたか」「話して下さい」とよく被災者に語りかけていた。米国人は、日本人は自己の体験を語れない社会であるから被害者が深刻になるのだといっていた。そうなのだろうか。言語は重要であるが、ナラティヴもまた一つのフィクションであって、絵画療法に似ていはいないだろうか。

時間は偉大な癒し手であって、体験がいつのまにか浄化されてゆくことはある。「成仏」とはその行く手にあるものだろう。「季節よ、城よ、無傷なところがどこにあろう」(ランボー「地獄の一季節」)季節は「過ぎゆくもの」、「城」はとどまるものか。おそらく、トラウマを飼い馴らすことはできるとしても、人はトラウマをなかったことにすることなど、できないのであろう。悲劇の感覚というものがある救いになることがあるが、時には不幸な執念が人生を埋めてゆくこともある。(中井久夫「トラウマについての断想」『日時計の影』所収P59-60 )

「原抑圧」については、想像的ファルスの欠如(―φ)をめぐって語る藤田博史氏の説明を抜き出しておく。

【精神病の治療と神経症の治療】

たとえば Φ が欠如してしまった場合、これは精神病の基本構造になりますけど、この場合、治療というのは Φ を事後的にそこへ填め直すことができるのかどうか問題になってきます。

これに対し、神経症では大文字のAのレベルでの話になります。こうして、各病態や症状を把握する場合は、このファンタスムの各要素の成立順位が大切になってきます。具体的には Φが最初に取り込まれますが、これは最初の抑圧すなわち原抑圧が起こることを意味します。この時、何が抑圧されるかというと Φ の手前にある ーφ が抑圧される訳です。そしてこの Φ は次ぎに来る大文字の他者A によって抑圧されます。この抑圧を後期抑圧と呼びます。ですから抑圧の分数式を書くと(図 7)、―φ、Φ、A のそれぞれは三階建てビルみたいなものを形作っていることになります。もっと正確に表現するなら、これがビルとすれば、その下は全部地下(図7)。そしてわたしたちにはこの地上のビルしか見えないのです。しかしながら A の下には Φ が埋もれており、 Φ の下には ーφ が埋もれています。ここで梶井基次郎の有名な言葉「桜の樹の下には死体が埋まっている」という表現を思い出してもよいでしょう。つまり -φ が埋まっているからこそ、大文字の他者Aという万華鏡のような世界を創り出すことが可能になっている、と。

 そして神経症というのは、この抑圧された地下から A に何らかの影響が及ぶ事態なのです。つまりこの地上のラインが、抑圧のラインに相当し、地下から地上に向かって影響を及ぼす。ですから、神経症の場合は、地面に埋まっているナマズのようなもの、あるいはマグマのようなものを、治療という形で A の中へ解消あるいは回収することができれば、症状は消失すると考える訳です。これが神経症に対する精神分析治療の基本的な考え方です。つまり地下になにか、ガスの塊とか、エネルギーの塊のようなものが留まっていて、これが地上の A に悪影響を与えているとすれば、このエネルギーの塊が逃げることの出来る通路を造って、それを A の中に回収することで症状の消失を目論みます。これは別の言い方をすると、上手く意味にならなかったエネルギーを意味に変換することによって解放してしまう行為です。これが神経症の治療です。(「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺




この「原抑圧」については、いろいろな主張があって、かならずしもこの藤田博史の見解で統一されているわけではない。たとえば、「フロイトの四つの「否Ver‐」( 排除、抑圧、否定、否認)ーージジェク『LESS THAN NOTHING』より」の後半を見よ。


いずれにせよ、「欲動」概念が治療の中心であるには相違なく、小論『Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way』(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)の穏当な説明では次の如し(狼男やドラの症例を例にしている)。

ーーもっとも「穏当な」というのは、Janne Kurkiの「Heidegger and Lacanーーtheir most important difference 」に於ける叙述に依拠しているだけだが。

《For my knowledge, the best example of this kind of psychoanalytic theory nowadays is what Paul Verhaeghe is doing: there are universal (in regard to the Western world of scientific era) phenomena called “disorders” etc, and what psychoanalysis – and it seems that only psychoanalysis can do this – can do is to give a coherent theory of the non-present dynamics behind these present phenomena.》(LACAN.COM)

The repressions had obviously been overcome but the drive root, on the other hand, had not been rendered inactive. Moreover, it is clear that the analysis with Brunswick, and all the others that followed, did not succeed in this respect; at the age of 77, the Wolf man was still haunted by the anal drive. Concerning Dora, the same kind of reasoning can be applied. The postscript published by Felix Deutsch fifty years after Dora's analysis with Freud reveals that the original symptoms – the catarrh, the tussis nervosa and the aphonia – had returned in their original form. Obviously, the limited analysis that Freud undertook with her was enough to remove the Symbolic material of her symptoms, but it did not touch on the relationship between the subject and the oral drive. Consequently, this oral drive reinserted itself into the chain of signifiers.

Thus, it is no surprise that Lacan considers the drive to be central to what he terms Freud's legacy. Indeed, Freud's conclusion, after fifty years of clinical practice, can be summarised as follows: it is the drive that determines the lasting success of the treatment. The same evolution is to be found in Lacan's work: the early Lacan will focus on the Symbolic and the Imaginary, but from seminar XI (1964) onward, the Real and the drive come to be given the most attention.

In the second period of Lacan's teaching, after 1964, he systematically demonstrated the twofold character of the symptom – Real and Symbolic – thus continuing a central theme of Freud's work.


神経症の治療において「後期抑圧 Nachverdrängung」が巧く処理されても、階層的な地下の「原抑圧」があり(欲動の固着が残る場合が多い)、それは上の小論の狼男の肛門欲動の例、さらにドラの口唇欲動の例などが示す。通常の抑圧(後期抑圧Nachverdrängung)とは、病原論のダイナミズムから言えば、二次的なものであり、原初的な「欲動」の蠢きにたいする防衛の仕事に過ぎない。

ジジェクは既に早い段階で(1991)こう書いている。《欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。》(『斜めから見る』)

再度『Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way』(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)から引用すればフロイトの鍵概念、原抑圧―抑圧、原幻想―幻想、原父―オイディプスの父等を並べ、「原」と付けられるものは、現実界、そうでないものは象徴界の概念としている。

……every Freudian key concept. Each time, Freud makes a differentiation between a “primal” form and a second version: primal repression – “after-repression”, primal father – oedipal father, primal phantasm – phantasm. In the context of our paper, the idea of primal repression is the most interesting one because we can situate there the drive root of the symptom, the Real. It is only with the after-repression that the Symbolic component comes into being. For Freud, this is always a “faulty connection” (falsche Verknüpfung) between a drive component and a representation.

おそらくこの欲動―享楽への対応は、ラカンの治療理論の、後期「サントームの臨床」にかかわる筈だ(一部、中期の「幻想の臨床」にもかかわる)。

ミレールは 2000-2001 年のセミネールにおいて、ラカンの教えを三つの時期に分けた。ラカンの体系の区分は研究者によって異なるが、ミレールは前期をセミネール 1 から 10までの時期(1953-1963)、中期をセミネール 11 から 21 までの時期(1964-1974)、後期を「第三の女」とセミネール 22 から 27 までの時期(1974-1980)とした 29)。そして、翌年のセミネールにおいて、 それぞれの時期に対応するものとして、 「ラカンの三つの臨床」を提示している。ラカン第一臨床は「同一化の臨床」、ラカン第二臨床は「幻想の臨床」、ラカン第三臨床は「サントームの臨床」とされている。(赤坂和哉『ラカン的臨床への助走』)

「同一化の臨床」、あるいは「幻想の臨床」は、象徴界(欲望―幻想)、もしくは想像界にかかわり、「サントームの臨床」は、現実界(欲動(享楽)-原トラウマ)にかかわる。このあたりは「偽日記」に赤坂和哉の『ラカン 派精神分析 の治療論』の要点がまとめられている。

前期の分析は、父の名によって保障される大文字の他者 (象徴的なもの)へと分析主体が導かれることを目的とする。ここで無意識は(歴史や世代によって規定される)共同的なものであり、一つのランガージュとして構造化されている。いわゆる「第三者の審級 」としての大文字の他者 の場(象徴的なもの、構造)はある程度安定的に作動しているとされる。だから分析は、シニフィアン を正しく解読し、主体がその解読された「新しい意味」へと同一化することを目的とする(シニフィアン の正しいシニフィカシオン)。ここでの分析は共同性へと開かれている。

中期の分析は、大文字の他者 の権威を支えていた「父の名」が失墜し、それにかわってその位置に「みせかけ」としての対象aが配置される。唯一の真理を保証するものだった「父の名」はここで複数に分裂し、「想定された知(あたかも知っているかのようにみえる「みせかけ」としての効果)」と化す。そこで無意識は想像的なもの(想定された知)となり、シニフィアン のシニフィカシオンをめぐるものだった分析は、幻想と見せかけをめぐるものとなる(とはいえ「みせかけ」は想像的なものだが、「幻想」はシニフィアン の配列 -象徴的なものであり、象徴的なものの優位はかわらない)。分析の目的は、分析主体が複数の幻想を数え上げ、それらを通り抜けることを通じて外堀を埋め、反転的に欲動(対象a)という「無」に直面することであり(脱幻想)、大文字の他者 がみせかけに過ぎないことを知ることである。その時「私」は主体という地位を解任され、欲動に解体される。分析は、共同化へ向かうのではなく、いわば「私の欲動」へと閉じられる。

後期の分析では、無意識は「駄作としての知」として現実的なものの場に移動する。ここではすべてが享楽から整理される。大文字の他者 を保証するものは「みせかけ」でさえない「穴」、最小限のシニフィアン としての「享楽の一なるもの」にまで切り詰められる。「享楽の一なるもの」とはおそらく、享楽が他ではない「私という固有の場(一)」で起こるという、最初であり最低限の印(私=一)のことだと思われる(ヘーゲル 的な否定性としての「一」?)。要するに大文字の他者 の秩序やシニフィアン の体系は解体され、分析は、「享楽の一なるもの」によって「享楽」を「意味」に結びつけるものとされる。それはつまりサントーム(症状)との同一化(症状とうまくやっていく)である。

欲動と出会った主体には享楽しかなく、意味も真理も解体し、無意味なものとしてのサントーム(症状)を練り上げるしかなくなる。サントームとは享楽の審級化であり、主体はサントームによってかろうじて享楽を意味へと接しさせることができる。ただしサントームは無意味であり「一」なるもの(深さ)であるから、共同性とはまったく通路をもたない。

ーーと引用したが、このあたりの詳細は、この『ラカン派精神分析の治療論』のおそらくは原案のひとつにあたるのだろう、小論『ラカン的臨床への助走』を読んだだけであり、さらに精神分析の門外漢のわたくしには判然としているわけではない。

すくなくとも現実界(欲動や享楽)は、象徴界によって植民地化されていることが多いわけであり、また「サントームの臨床」が「同一化の臨床」「幻想の臨床」を抜かして成り立つという単純なものでもないだろうとも思う(サントームは共同性とはまったく通路をもたない、と赤坂氏は書くし、上に引用された「偽日記」の書き手は、《後期の分析においてサントームにまで還元され解体された主体は、孤独なサントームとして生きると同時に、この社会のなかでなんとかやっていかなければならないのだから、結局また(サントームを抱えたままで)前期の段階(共同性)に回帰して開かれるしかなく、前期-中期-後期-前期-中期……、というダイナミックなループ運動を行う(繰り返す)ことになるのではないか》とする)。


ここでラカンの陶器づくりの話を思い出しておこう。陶器の形(象徴界)ではなく、陶器の空無や穴(現実界)を作るのがその仕事であるが、穴をつくるには象徴界を経なければならない、というものだ。

According to Lacan, the essence of making pottery does not reside in shaping the sides of the jar, but in the emptiness, the hollow space that these sides precisely create. The jar elaborates and localizes a hole in the Real; eventually, this elaboration and localization amounts to an authentic creation. The similarity of this to the genesis of psychopathological symptoms is due to the fact that it is only through the elaboration of the Symbolic constellation that the Real of the drive appears. In other words, one is obliged to pass through the Symbolic if one wants to approach the Real, because it is the Symbolic that delineates this Real. That is why psychoanalysis creates a new subject(『Lacan's goal of analysis: Le Sinthome or the feminine way』(Paul Verhaeghe and Frédéric Declercq)

あるいはジジェクが『LESS THAN NOTHING』で引くFrançois Balmèsのことば。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。
François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être, Paris: Presses Universitaires de France 1999. 25 Ibid., p. 138. 26 Balmès also notes this asymmetrical circularity in the relationship between the Real, reality, and symbolization: reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility

そして現実は幻想の側にあり、《現実は現実界のしかめっ面である。》(ラカン『テレヴィジョン』)


ーーで何が言いたいのか?

欲望、欲望とばかりがたがた言うなよな
肝心なのは欲動だぜ
と言おうとしたのだが
まあそこまでいうつもりはなくなった

欲望といいたかったら、ドゥルーズの「純粋欲望」を捩って
「原欲望」とでも言えよな
などとケッタイな造語を振り回すつもりもない

ところで性行為とは欲望であろうか、欲動であろうか
覗き見とは欲望であろうか、欲動であろうか
荷風の覗き見趣味をこのところ引用したのでね

あれはなにを覗くのだろうか
「母」の想像的ファルスの欠如だよな
究極的には

あるいは
幼児期に体験する「言語化できない」三つの謎
「女性性」、「父性」、「性的関係」
を覗くなら、「欲動」の領野に近接した振舞いじゃないか



もっとも中期フロイトの『本能(Trieb欲動)とその運命』1915(フロイト著作集 6 人文書院)では、サディズムとマゾヒズムの分析のあと、次のように覗見と、露出(誇示)をめぐって書き継がれており、つまりは自分の性器を覗くのが、原初的な振舞いということになる。

……もう一つの対立的組合せ、すなわち覗くことと、露出することをそれぞれ目標とする本能を研究してみると、少し違った、さらに単純な結果が出てくる(性的倒錯の用語では覗見症者Voyeur と露出症者Exhibitionist)。そしてここでも前の場合と同じような段階に分けることができるのである。すなわち、

(a)覗きが能動性として、他者である対象にたいして向けられる。

(b)対象を廃棄し、覗見本能が自分自身の身体の一部へと向け換えられ、それとともに受身性へと転じて、覗かれるという新しい目標が設定される。

(c)新しい主体が出現し、それに覗かれようとして自己を露出する。

能動的な目標が受身的な目標よりも早く登場し、覗くことが覗かれることに先行するのも、ほとんど疑いのない事実である。しかしサディズムの場合との重要な差異は次のような点である。つまり覗見本能においては、(a)の段階よりも、もう一つ前の段階が認められるのである。覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出すわけである。覗見本能が(自己と他者とを比較するという過程をたどった上で)、その対象を他者の身体の類似の対象と交換するにいたるのは、そののちのことなのである(段階a)。ところで、このような前段階は次のような理由から興味深いものになる。つまりこの前段階から、交換がどちらの立場で行なわれるかに応じて、その結果として成立する覗見症と露出症という対立的組合せの両極面が現われてくる。すなわち、覗見本能の図式は次のように書き表わすことができよう。




あるいは、ーーというのはフロイトの覗き見論を挿入するまえの続きだが

荷風が《日記を死の前日まで42年間、
一日も欠かさず書き続けた
彼の後半生は、まるで日記を書くためにあるかのようだった》
だったら、日記は荷風のサントームだった

ーーなどとあやふやな思いつきを主張するつもりもない

で、なんだ?
ダラダラめもってるだけさ
信用しちゃあいけねえ

無だね

性は、われわれが他の人間に最大限に接近し、彼あるいは彼女に自分を全面的に晒す領域なので、ラカンにとって性的享楽は現実界的(リアル)である。その息もつけないほどの強烈さにはどこか外傷的なところがあるし、われわれがそれをまったく理解できないという意味では、あるはずのないものである。だからこそ、性関係が機能するためには、なんらかの幻想を通過させなければならない。デイヴィッド・リーン監督の『ライアンの娘』で、サラ・マイルズと、不倫の相手である英軍将校との逢瀬を思い出してみよう。森の中での性行為が描写されるが、その際、滝の音が二人の押し殺された熱情を表現していることになっている。この描写をいま観ると、紋切り型表現のごたまぜに呆れかえる。しかし、不条理な背景音の役割はきわめて両義的である。その音は、性行為のエクスタシーを強調することによって、ある意味では行為を脱物質化し、その存在の重みをわれわれから取り去ってくれる。ちょっとした思考実験をしてみれば、そのことがよくわかる。こう想像してみようーーこのような性行為の情緒的な描写の最中に、音楽が突然消えて、画面では二人が性急に激しく事に励む様子だけが描写され、苦痛にみちた沈黙を衣擦れの音とうめき声だけが中断するとしたら、われわれは性行為の無言の存在に無理やり直面させられる。要するに、『ライアンの娘』のこの場面の逆説は、滝の音が、性行為から<現実界>を除去する幻想的な遮断幕(スクリーン)として機能しているということである。(……)現実のセックスそれ自体が好ましいものであるためには、(……)非性的な幕で透過されねばならないのである。(……)

ラカンにとって、究極の倫理的課題は、真の覚醒である。それはたんなる睡眠からの覚醒ではなく、むしろ覚醒しているときにわれわれをより強くコントロールしている幻想の呪縛からの覚醒である。(ジジェク『ラカンはこう読め』P90~)

…………

※附記

大江健三郎の小説には覗き見の描写がふんだんにある。それは欲望と欲動の狭間を揺れ動きわたくしはひどく刺激される。

他方、三島由紀夫にも覗き見の場面がある。『午後の曳航』、『豊饒の海』など。どうもたいして刺激されない、あれらは欲望の領野だけの叙述に思える。あるいはすくなくとも、《性行為から<現実界>を除去する幻想的な遮断幕》が甚だしい(趣味の問題だけの話かもしれないが)。

ここでは大江の覗き見描写の数あるなかのひとつ。

…………


暖炉の火が穏やかな気配の弱さになっている。それを立て直そうとして、《火箸で突つき、黒く炭化したところに新たな薪をもたせかけて吹く》。

不幸な事件が重なって起ったことにより「passage à l'acte」的振舞いを繰り返す美貌の元大学教師、ーー彼女の行為は誰かへの象徴的メッセージの機能をもつ「アクティング・アウトacting out」では決してないーー大企業の経営者を父にもちその株配当で裕福な暮らしが可能でもある「まり恵さん」が眼の前に座っている。

大江健三郎の中篇『人生の親戚』の「僕」は、《炎の起ったところでふりかえると、スカートをたくしあげている紡錘形の太腿のくびれにピッチリはまっているまり恵さんのパンティーが、いかにも清潔なものに見えた》。それは米人のセックスフレンドとの切磋琢磨する性交をつうじて、生臭い肉体に属するものは、どこかに移行して、《精神の属性のみが残った》ような清潔さだ……、と。

――「僕」はこんな夢を見たとの記述が小説の前半にはある。

女はうすものを羽織っているのみで、(……)下半身は裸、合成樹脂の黒いパイプ椅子に足を高く組んで掛けている。こちらはその前に立っているのだが、足場が一段低いので、頭はまり恵さんの膝の高さにある。P80

かつて「僕」が、まり恵さんと一緒に、プールで泳いだとき、《彼女の大きく交差して勢いよく水を打つ腿のつけねに、はみ出た陰毛が黒く水に動き、あるいは内腿の皮膚にはりつくのを見た》、その「出来事」が夢の表象として現われる。

まり恵さんの、腿に載せたもう片方の腿があまりに引きつけられているので、性器の下部が覗きそうだが、そこに悪魔の尻尾がさかさまに守っている。つまりはしっとりした黒い陰毛が、クルリと巻きこむように性器を覆っている。

こうやって引用しつづければ、最初に引用された、「火箸で突っつく」、「黒く炭化したところ」がなんの隠喩として機能するのかはもはや言うまでもない。

さて、《まり恵さんは、「僕」がスカートの奥に眼をひきつけられているのに気づくと、両腿を狭める動作をする動作をするかわりに》疲れと憂いにみちてはいるが、派手な顔に微笑を浮かべこう提案することになる。

――今後もう私には、あなたと一緒に夜をすごすことはないのじゃないかしら? それならば、元気をだして一度ヤリますか? 光さんが眠ってから、しのんで来ませんか?