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2014年5月6日火曜日

五月六日 現代嘲弄文例集

小泉義之氏の書評 『社会的なもののために』を読んで、思いがけず愉快を感じてしまったので、以下に遺忘に備えて置く。

副題に「飲屋談義と薀蓄披露」とされているように、徹底的な嘲弄の言葉から成り立っている(かすかな例外を除いて)。最終的には次のように書かれている。

 【人畜無害】あるいは【無毒化・無力化】
本書は平凡で凡庸である。ところが、本書の類は、好意的に迎えられる。人畜無害だからである。だから、大学人がどのようにしておのれを無害化し、ひいては無毒化・無力化するのか、また、そのことを歓迎する層がどのようにしておのれを無力化するのかを探る上で、本書は有益な素材になるのである。

いわゆるすっとぼけた「大学人」ーー学生のとき、学校に長く居続けたいと願った者の成れの果て(レヴィ=ストロース)であるかどうかは窺知れないがーーに活を入れるためには、こういった書評も必要なのだろう。

《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

悪口は中野重治にも諌めの言葉があるが、やはり捨て難い。

何ごとによらず、悪口をいうことのほうが褒めることよりもやさしいようである。褒め言葉は、当の対象がよほど十分に褒められるのに値していなければ、とかくうわつ調子なものになりがちである。これに反して、悪口のほうは、対象の弱点を取り上げるのがその仕事であるから、本来の性質上、甘くなることがそれほどできぬではないかと思う。それだから、たとえある悪口が実際にはちょろいものであっても、それが悪口であるというだけの原因によつて、けつしてちょろいものではないという外観をーーー少なくとも褒め言葉よりは、そなえやすいようである。(中野重治 「映画の悪口ーーー罪はどこにある」)

 …………

さて項目を立てて順不同に小泉節を抜き出そう。あくまで書評の対象である『社会的なもののために』を読んでいない者が抜粋する「言葉の技」、ボロクソ芸を楽しむためのものである。


【凡庸】
薀蓄開陳以外の大半は凡庸な時論・政論の類で占められている。ただし、発言者たちは、おおむね自己の発言が平凡であることを自覚しており、しかも、現在の情勢ではそんな平凡に強調線を引くことが社会的にも政治的にも重要であると考えているようである。だから、本書を平凡と指摘したところで、書評にも批評にもなりはしないが、その強調線の引き方も平凡なので、平凡×平凡=凡庸と評しておく。

【既視感・既読感】
大学内外の知識人・テクノクラートの発言力が高まっているように見える現状にあって、本書を読みながら感じたのは、「ある民族の発展において、学者が前面にしゃしゃり出ている時代を見るがよい。それは疲労の時代、しばしば黄昏の、没落の時代である」(ニーチェ『道徳の系譜』)ということである。もう一つの印象は、既視感・既読感である。発言者たちの自覚以上に、本書の談論は既に何度となく言われてきたことである。しかも、既存の水準より低下している。発言者たちは狭い専門分野以外についての勉強が足りないのではないか。

【コンセンサスが成り立っているような空気】あるいは【仲良し】
よくあることだが、本書の基本用語「社会的なるもの」の定義はなされていない(定義らしきものはあるにはあるが、論外である)。私自身は定義一般に大した意味を感じないので、そこは問題にしない。問題にしたいのは、その使われ方である。すこし気味がわるいのは、「僕はのれない」(宇野:三四三)といった何様のつもりなのか理解し難い呟きはあるものの、全体として、「われわれが強調しようとしている社会的なもの」(宇野:三二一)の何たるかについて、特段の相互批判もないまま、コンセンサスが成り立っているかのような空気が醸し出されていることである。きっと、みんな仲良しなのだろう。

このコンセンサスが成り立っているような空気をめぐってはラカン派村社会における 仲良し同士の「ジャーゴン」連発に対するジジェクの痛烈な文がある。
…Lacanian communities, where the group recognizes itself through the common use of some jargon-laden expressions whose meaning is not clear to anyone, be it “symbolic castration” or “divided subject”—everyone refers to them, and what binds the group together is ultimately their shared ignorance. Lacan's point, of course, is that psychoanalysis should enable the subject to break with this safe reliance on the enigmatic master signifier.

----THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE. Slavoj Zizek

たとえば最も基本的な概念「転移」をめぐるラカン派の諸説を覗いて見ると愉快になること間違いなし。→ ラカン派の「転移」のいろいろ


【児童会・生徒会】
また、ある発言者によると、それは「理念」であり、どうやら「高負担高福祉というオプション」についての「コンセンサス」のことであるようだ(宇野:二〇八)(こういう単純で乱暴な発言はやめていただきたい)。また、ある発言者によると、社会的なものの「知」は「国民空間をつくる知」になるらしい(道場:二七九)。だから、ある発言者によると、社会的なものが引く「境界」を絶えず乗り越えることが必要であり(宇野:一二八)、その「正統性」を供給するものは国民国家しかないらしく、それを乗り越えるものが「デモクラシー」であるようだ(小田川:二〇五)(この非政治性・非「社会性」にもちょっと驚かされる。たぶん社会は児童会や生徒会のように出来上がっているのだろう)。

ーー 《社会的なものが引く「境界」を絶えず乗り越えることが必要》などというのは、ツイッターなどでも《勉強が足りない》にもかかわらず、インテリぶりたい手合いがしばしば呟いているのを見かけるが、あたかもかつてから何度も反復された幼児の繰言のようであり、ーーたとえば二元論の概念操作を批判する場合のようなーー児戯に類するように感じてしまう。《浅田(彰)君が二元論はいけないと言っているけれどもね。概念操作としては二元論というものは絶対必要なんですよ。》(蓮實重彦『闘争のエチカ』)


【寝ぼけた呟き】
「原理をめぐる質的な論争」?本書にそれは見られない。見られないだけでなく、感じ取れない。その一方で、「量的論争」たる再分配をめぐって研究会後の飲屋での談論としか評しようのない発言(酒井:二八〇を受けて)がなされていく。

過剰労働力問題をどうやって解決したかというと、田中角栄に象徴されるように、公共事業で解決したという側面はあります。土木と建設である、つまりは土建と呼ばれる世界です。これはほとんどもう中上健次の世界ですよね。(前川:二八一)。
 
だから、何だと言いたいのか?今後、土建をどうしたいというのか?震災復興、再生可能エネルギーの土建を何と心得るのか? それが中上健次の世界であったとして(!)、さまざまな地区の土建をどうしようというのか?仮に田中角栄的なものを復権させるというなら、どうして「社会民主主義政党があったほうがいい」(宇野:二〇八)という寝ぼけた呟きが放置されているのか?

【「左翼の人」って誰のこと?】
他方で、社会運動に対する姿勢の反動であろうが、左翼に対するや居丈高になる。例えば、「左翼の人は、経済の論理はおのずからして悪いと考えがちで」(前川:三一三)あるらしいが、その「左翼の人」って誰のことかをきちんと教えていただきたい。言うまでもないが、同時に、その「経済の論理」の内実を示してもらわなければ困る。例えば、一方で新自由主義は「民主的統制なき独占」(小田川・市野川:三三六)とされ、他方で「反独占、脱独占という新自由主義の論理」(市野川:三四〇)とされており、端的に矛盾しているので直していただきたい。その上で、民主的統制付きの独占を何と心得ているのか書いていただきたい。要するに、「経済の論理」――まさかそれは金融政策に還元されるものでも、経済政策原理主義(小泉純一郎内閣)に回収されるものでもあるまい――をきちんと示していただきたい。


【狭い視野に入る限りでのケチつけによるポジショニング】
 こういう言い方もしておく。狭い視野に入る限りでの社会運動や左翼にケチをつけてポジショニングするヒマがあるなら、もっと世間を見渡して、相手にとって不足のない「敵」や「権威」を相手にしていただきたい。いたるところにゴロゴロしているではないか。

…………

さて、なにを楽しんだかって? やっぱりあれら「社会学者」たちは怖がってるんじゃないか。

恐るべき家族の神秘…おびえて、疲れ果てて、のべつ調子外れで、女性化され、虚弱化され、干からびて、女々しく、飼い馴らされ、母性化された男たちの眼差し、ぶよぶよのオッパイ…(……)

ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように …彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている ……実際どこでも同じことだ …犬小屋の犬… 自分の家でふんづかまって …ベッドで監視され…(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)


以前、嘲笑を磨くための文例を小林秀雄から抜き出したことがあるが、上の小泉節も現代嘲弄文例集として活用すべきではないか。すくなくとも人畜無害な似非インテリをお釈迦にするために。



◆小林秀雄『作家の顔』(新潮文庫より)

【世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿】
……「文芸春秋」を出したのは、菊池さんがたしか三十五の時である。ささやかな文芸雑誌として出発したが、急速に綜合雑誌に発展して成功した。成功の原因は簡単で、元来社会の常識を目当てに編輯すべき総合雑誌が、当時持っていた、いや今日も脱しきれない弱点を衝いた事であった。菊池さんの言葉で言えば、「世の中で一番始末に悪い馬鹿、背景に学問も持った馬鹿」の原稿を有難がるという弱点を衝いた事によってである。(「菊池寛」)

【浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解】
林房雄の放言という言葉がある。彼の頭脳の粗雑さの刻印の様に思われている。これは非常に浅薄な彼に関する誤解であるが、浅薄な誤解というものは、ひっくり返して言えば浅薄な人間にも出来る理解に他ならないのだから、伝染力も強く、安定性のある誤解で、釈明は先ず覚束ないものと知らねばならぬ。(「林房雄」)

【発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人】
「俺の放言放言と言うが、みんな俺の言った通りになるじゃないか」と彼は言う。言った通りになった時には、彼が以前放言した事なぞ世人は忘れている。「馬鹿馬鹿しい、俺は黙る」と彼は言う。黙る事は難しい、発見が彼を前の方に押すから。又、そんな時には狙いでも付けた様に、発見は少しもないが、理屈は巧妙に付いている様な事を言う所謂頭のいい人が現れる。林は益々頭の粗雑な男の様子をする始末になる。(「林房雄」)

【保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は、理論のうちに夢みている。】
……保守派も進歩派も、実人生の見えないロマンチストに過ぎぬと、はっきり考えた人なのだ。保守派は、現実の習慣のうちに安んじて眠っている。進歩派は、理論のうちに夢みている。眠っているものと、夢みているものとは、幾らでもいるが、覚めている人は少い。人生は動いて止まぬ。その微妙な動きに即して感じ考え行う人は、まことに稀れである。(「菊池寛文学全集」解説)


【その他】
衰弱して苛々した神経を鋭敏な神経だと思っている。分裂してばらばらになった感情を豊富な感情と誤る。徒らに細かい概念の分析を見て、直覚力のある人だなどと言う。単なる思い付きが独創と見えたり、単なる聯想が想像力と見えたりする。或は、意気地のない不安が、強い懐疑精神に思われたり、機械的な分類が、明快な判断に思われたり、考える事を失って退屈しているのが、考え深い人と映ったり、読書家が思想家に映ったり、決断力を紛失したに過ぎぬ男が、複雑な興味ある性格の持主に思われたり、要するに、この種の驚くべき錯覚のうちにいればこそ、現代作家の大多数は心の風俗を描き、材料の粗悪さを嘆じないで済んでいるのだ。これが現代文学に於ける心理主義の横行というものの正体である。(「林房雄」)

…………


あらためて言うまでもないが、ここに引かれた表現は、《凡庸な資質しか所有していないものが、その凡庸さにもかかわらず、なお自分が他の凡庸さから識別されうるものと信じてしまう薄められた独創性の錯覚》に閉じこもりたい人のための暗記用である、という言い方もできることを念押ししておこう。

しかるべき文化圏に属するものであれば、誰もが暗記していつでも口にする用意が整っていた台詞であり、その意味で、それをあえて言説化してみることはほとんど何も言わずにおくことに等しい。(蓮實重彦『物語批判序説』)

…………

数日前、「経済なき道徳は寝言」という表題で投稿したが、それは二宮尊徳の《道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。》、あるいはジジェクの《右翼知識人は悪党で、既存の秩序はただそれが存在しているがゆえに優れていると考える体制順応者…左翼知識人は道化であり、既存秩序の虚偽を人前で暴くが、自分のことばのパフォーマティヴな有効性は宙ぶらりんにしておく 宮廷道化師》をめぐるものだった。

昨晩、柄谷行人の文のなかにも似たような表現に行き当たったので、ここに備忘しておく。

カントの言葉をもじっていえば、経済的・政治的基盤をもたないコミュニズムは空疎であり、道徳的基盤をもたないコミュニズムは盲目である。(『トランスクリティーク』p200)

まあきみたちも、夜郎自大の「自分の表現」なるもの、すなわちどこかで覚えこんできた台詞の劣化した表現ではなく、せいぜい古典的な書き手の文を「引用」したほうが世のため人のためだぜ。

ところで数年前に次のようなツイートを読んで驚いたことがあり、それ以来この人物の誇大妄想的な、すなわち幼児的な発話に興味をもった時期がある。

やはり私は、今に至るすべての日本語文献には、自分が必要とする論点は書き込まれていない、と感じています。そして実をいうと、外国語文献を調べたってないんだろう、《論点そのものを自分で設計するしかない》と、思い始めています。

このような自惚や傲慢はどうやって生まれるのだろう。母親の「寵児」であった時期をもつ人物なのではないか、などと思いを馳せさせられた。

かつて母親の絶対的な寵児であった者は、生涯あの征服者の感情を、あの成功の確信を抱きつづけるものである。そしてこの確信は、実際に成功を自分の方へ引き寄せてくることがよくある。(フロイト「『詩と真実』中の幼年時代の一記憶」)

だが彼のツイートやブログを読んでも、たとえば一人の作家の全集を徹底的に読み込んだ形跡はまったく見当たらない。いや一冊の古典的書物でさえも疑わしい。おそらく独自の「器量」をもった人物なのだろう。ーー《ヴァレリーの『レオナルド・ダ・ヴィンチ方法序説』にあるように、それぞれ自分の器量を超えた部分は、いかにも、ないも同然である》(中井久夫)。フロイトが書くように、自惚れは、《実際に成功を自分の方へ引き寄せてくる》のだから、ケチをつけるのは遠慮しよう。だが本来古典とは次のように接するものであるに違いない。

真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義  はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)

《もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。》(浅田彰)ーー、上に例を挙げた「彼」だけではない。《自前の哲学を語りたい》連中が最近は跳梁跋扈している。だが、小泉氏が言うように「発言者たちは狭い専門分野以外についての勉強が足りないのではないか。」

「わかりたいあなた」たちにとっては、わかったかわからないかを真剣に問うことよりも、なるべくスピーディーかつコンビニエント に、わかったつもりになれて(わかったことに出来て)、それについて「語(れ)ること」の方がずっと重要なのです。(阿部公彦書評 『ニッポンの思想』佐々木敦

…………

《もはや、われわれには引用しかないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。》(『砂の本』「疲れた男のユートピア」ボルヘス 篠田一士 訳)

「きみにはこんな経験がないかね? 何かを考えたり書こうとしたりするとすぐに、それについて最適な言葉を記した誰かの書物が頭に思い浮かぶのだ。しかしいかんせん、うろ覚えではっきりとは思い出せない。確認する必要が生じる──そう、本当に素晴らしい言葉なら、正確に引用しなければならないからな。そこで、その本を探して書棚を漁り、なければ図書館に足を運び、それでも駄目なら書店を梯子したりする。そうやって苦労して見つけた本を繙き、該当箇所を確認するだけのつもりが、読み始め、思わずのめりこんでゆく。そしてようやく読み終えた頃には既に、最初に考えていた、あるいは書きつけようとしていた何かのことなど、もはやどうでもよくなっているか、すっかり忘れてしまっているのだ。しかもその書物を読んだことによって、また別の気がかりが始まったことに気付く。だがそれも当然だろう、本を一冊読むためには、それなりの時間と思考を必要とするものなのだから。ある程度時間が経てば、興味の対象がどんどん変化し移り変わってもおかしくあるまい? だがね、そうやってわれわれは人生の時間を失ってしまうものなのだよ。移り気な思考は、結局、何も考えなかったことに等しいのだ」(ボルヘス 読書について──ある年老いた男の話)

ひたすら「引用」の顕揚のように見えかねないので、次のような言い方がある、ということも付記しておこう。

……結局は、自分の言葉でどう捉えなおすということが、つまりはテキストの受容だからね。自分の頭と心とを通過させないで、唇の周りに反射的な言葉をビラビラさせたり、未消化の繰り返しだけやる連中がいるけれどーー学者に、とはいわないまでも研究者にさーー、こういう連中は、ついに一生、本当のテキストと出会うことはないんじゃないだろうか?(大江健三郎『燃え上がる緑の木』第三部「大いなる日」)

流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)
「批評」は、本質的に言い換えの作業にほかならない。翻訳とも呼べるその作業は、言い換えるべき対象としての他者の言説の中でまどろんでいるしかるべき記号に触れ、それを目覚めさせることから始まる。数ある記号のどれに触れて目覚めさせるかで、読む主体の「動体視力」が問われることにもなろうが、それは、読むことで、潜在的なものを顕在化させる作業だといってよい。その覚醒によって、他者の言説は、誰のものでもない言説へと変容する。その変容は、 “できごと” として生起し、「批評」の主体をもいくぶんか変容させずにはおくまい。言い換えれば、その二重の変容を通して、とりあえずの翻訳におさまるのだが、「批評」は、それがあくまでとりあえずのものでしかないことを知っている。また、それを知らねば、たんなる「厚顔無恥」に陥るほかはない。

決定的な翻訳にたどりつくことなく、「厚顔無恥」に陥ることも避けながら、とりあえずの翻訳にとどまるしかない「批評」は、あるとき、その宿命として、「表象の奈落」を目にする。そこには、もはや、他者の言説など存在せず、覚醒すべき記号さえ見あたらない。その視界ゼロの世界で、とりあえずのものでしかないにせよ、主体にこの不断の翻訳をうながすものは何か、どんな力に導かれて「批評」は記号の覚醒を目ざしたりするのか、それが物として生みだされるのではなく、事件として起こることを許すものは何か、等々、いくつもの声として響かぬ疑問を前にして、人は言葉を失う。「批評」が「批評」を超えた何かに触れることで陥る失語に言葉を与えるものは、もはや「批評」ではない。だかれといって、それが「哲学」かといえば、それは大いに疑わしい。(蓮實重彦『表象の奈落』)