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2013年12月14日土曜日

女性の困った性質(三島由紀夫)

マコン公会議(581)における「女性は理性的存在として分類されるべきか、それとも獣として分類されるべきか、また女性は魂をもっているか」という話は「The Myth of Soulless Women」(Michael Nolan)によれば眉唾ものらしい。

もっともフロイトーラカン派では、女には超自我がない、あるいはわずかしかないというテーゼは、生き残っている。

フロイトの理論によると、両性の準拠となるシニフィアンは一つだけしかありません。ファルスがそうです。女性のシニフィアンが無いという考えは女性解放論者達を大変苛立たせました。しかしながら彼女達が、男が現実上このシニフィアンに対応するものを持っているということは男にとって有利なことだ、と考えるのは間違っています。ラカンの目には-これは確かに現実だと思えますが-それはむしろ困惑のもとなのです。それによって男は女よりもはるかに義務、そして超自我の奴隷としてしばられています。女は常に神秘であった、とフロイトは書いています。そして次のように加えます。「私は、女性は男性と同じ超自我を持っていない、そして彼女達は男よりもこの点ずっと自由で、男の行動、活動に見られるような限界が無い、という印象を持っている。(……)

女性解放主義者達のように、フロイトが女性に反対だった、と考えてはなりません。彼にとってこれは単に一つの事実なのです。大切なのはこの事実から、例えばいかに男はグループ、団体を作る傾向にあるか、首長になりたがるか、などなど、そして女には間違いなくこのような男性的習慣を越えた次元があるというのを説明することです。(……)

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。いずれにせよ女性という存在についてそれに本質などあるかどうかは、普遍的愚行connerie universelle-愚行には常に一片の真理が含まれています-によって疑問とされることですが。

このことは女性の価値を低めるものと見なされるかもしれません。しかし別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります。おそらくこれこそ女性を男性よりもはるかに興味深いものにするのでしょう。(ジャック=アラン・ミレール「エル・ピロポ」より)

…………

まったく、男というものには、女性に対してとうてい歯のたたぬ部分がある。ものの考え方に、そして、おそらく発想の根源となっている生理のぐあい自体に、女性に抵抗できぬ弱さがある。(吉行淳之介「わたくし論」)
・女はやさしい形をしているが、だからといって中身までやさしいとはかぎらない。軟らかくて力が弱くできているから、生き延びるためにはかえって内側は獰猛にできていることになるのは、理の当然と私は思っている。

・男がものごとを考える場合について、頭と心臓をふくむ円周を想定してみる。男はその円周で、思考する。ところが、女の場合には、頭と心臓の円周の部分で考えることもあるし、子宮を中心にした円周で考えることもある。(吉行淳之介『男と女をめぐる断章』)

この文が有名な格言「女は子宮で考える」の起源(のひとつ)ということになる。
これは軽蔑的に言われているのではなく、じつはこういうことでもあるだろう。

《若い女というものは誰かに見られていると知ってから窮屈になるのではない。ふいに体が固くなるので、誰かに見詰められていることがわかるのだが。》(三島由紀夫)
ただし若い女とあるが、さて若い女だけであろうか。

幼女期とか、青春期とか、中年とか、老年とか、そういう分節化は女にはない。女の一生は同じ調子のもので、女たちは男と違って、のっぺらぼうな人生を生きている。養老孟司という解剖学者はそう語って、わたしを驚かせた。その意見を伝えると、吉行淳之介という作家はほとんど襟を正すようにして、その人はじつによく女を知っていると述べた。(今週の本棚:丸谷才一・評 『きことわ』=朝吹真理子・著


ーーなどと引用してなにを言いたいのだろう、このオレは?

女性の困った性質として、芸術が自分を高めてくれる、という考えに熱中するあまり、すっかり自分が高まっちゃった、と思い込むことであります。(三島由紀夫「反貞女大学」)

いまでは、こういうことを語るのは難しい時代になった、仮にそう思っているひとがいまだいるにしろ。

ーー幸いにしてわたしには、八つ裂きにされたいという気はない。完全な女は、愛する者を引き裂くのだ ……わたしは、そういう愛らしい狂乱女〔メナーデ〕たちを知っている ……ああ、なんという危険な、足音をたてない、地中にかくれ住む、小さな猛獣だろう! しかも実にかわいい! ……ひとりの小さな女であっても、復讐の一念に駆られると、運命そのものを突き倒しかねない。 ――女は男よりはるかに邪悪である、またはるかに利口だ。女に善意が認められるなら、それはすでに、女としての退化の現われの一つである ……すべての、いわゆる「美しき魂」の所有者には、生理的欠陥がその根底にあるーーこれ以上は言うまい。話が、医学的(半ば露骨)になってしまうから。男女同権のために戦うなどとは、病気の徴候でさえある。医者なら誰でもそれを知っている。 ――女は、ほんとうに女であればあるほど、権利などもちたくないと、あらがうものだ。両性間の自然の状態、すなわち、あの永遠の戦いは、女の方に断然優位を与えているのだから。(ニーチェ『この人を見よ』)

ニーチェのいわゆる女嫌いの表白は、じつは女を尊敬しすぎていたせいだ、というのは定説であるかどうかは知れないが、ルー・アンドレアス=サロメには翻弄されたには相違ない。





女嫌いとは、・・・人格としてではなく、単に肉塊として、脂肪として、劣情の対象としてのみ、女の存在を承諾すること。(婦人にたいしてこれほど・・・・・冒涜の思想があるだろうか)しかしながら、・・・多数の有りふれた人々が居り、同様の見解を抱いている。殆ど多くの、世間一般の男たちは、初めから異性に対してどんな精神上の要求も持っていない。

女性に対して、普通一般の男等が求めるものは、常に肉体の豊満であり、脂肪の美であり、単に性的本能の対象としての、人形への愛にすぎないのである。

しかも彼等は、この冒涜の故に「女嫌い」と呼ばれないで、逆に却って「女好き」と呼ばれている。なぜなら彼等はどんな場合に於いても、女性への毒舌や侮辱を言わないから。

(「女嫌い」と呼ばれる人々は、女にたいして)単なる脂肪以上のものを、即ち精神や人格やを、真面目に求めているからである。・・・・それ故に女嫌いとは?或る騎士的情熱の正直さから、あまりに高く女を評価し、女性を買いかぶりすぎてるものが、経験の幻滅によって導かれた、不幸な浪漫主義の破産である。

然り!すべての女嫌いの本体は、馬鹿正直なロマンチストにすぎないのである。(「女嫌いと女好き」(萩原朔太郎)

実は次の文をタンブラーで拾ったから、というわけだ、いまこうやってまた懲りずに「女」をめぐる文をメモしているのは。

「大体私は女ぎらいというよりも、古い頭で、「女子供はとるに足らぬ」と思っているにすぎない。女性は劣等であり、私は馬鹿でない女(もちろん利口馬鹿を含む)にはめったに会ったことがない。事実また私は女性を怖れているが、男でも私がもっとも怖れるのは馬鹿な男である。まことに馬鹿ほど怖いものはない。

また註釈を加えるが、馬鹿な博士もあり、教育を全くうけていない聡明な人も沢山いるから、何も私は学歴を問題にしているのではない。

こう云うと、いかにも私が、本当に聡明な女性に会ったことがない不幸な男である、という風に曲解して、私に同情を寄せてくる女性がきっと現れる。こればかりは断言してもいい。しかしそういう女性が、つまり一般論に対する個別的例外の幻想にいつも生きている女が、実は馬鹿な女の代表なのである。」 
「女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によってろくなものはできず、透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまう。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。私は湿気の高い感性的芸術のえんえんと続いてきた日本の文学史を呪わずにはいられない。」
「私は芸術家志望の女性に会うと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才というものが理論的にありえないということに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。」(三島由紀夫「女嫌い」)

だいたい、こういったことに興味があるのは、女嫌いのせいに違いない、つまりニーチェと同じく女を尊敬しすぎていたせいだ。

…………


以下、Paul Verhaeghe「ポール・ヴェルハーゲ」ーーベルギーのラカン派精神分析医ーーの、『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』から の意訳(いい加減訳)。一箇所意図して原文(英文)と変えた部分がある。英文は記事末に附す。

上に掲げたラカンの娘婿であるミレールの発言の「超自我」にかかわる箇所が、よりわかりやすく書かれている。


【男の子と女の子の愛の対象】
男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。これは次の奇妙な事実を説明してくれる。つまり結婚後しばらくすれば、多くの男たちは母に対したのと同じように妻に対するということを。

反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。最初の愛の関係の結果、女の子はいままでどおり母に同一化しており、それゆえ父が母に与えたのと同じような愛を父から期待する。これは同じように奇妙な次の事実を説明してくれる。多くの女たちは妻になり子供をもったら、女たち自身の母親のように振舞うということを。

【変換対象の相違による帰結】
この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面に囚われるのと対照的である。少女における、対象への或いはファリックな面への興味の欠如と、関係性への強調は、後年、その関係を願う相手は、(ひとりの)男とである必要はない結果を生むかもしれない。結局のところ、彼女の最初の対象は同じジェンダーであり、思春期の最初の愛はほとんどいつも他の少女に向けられることになる。

ーー(引用者)少女たちの最初の愛が他の少女ではなくとも、すくなくとも非常に多くの場合、人形に向けられるだろう。

《幼い女児が母親を洗ってやったり、着物を着せてやったり、またはお手洗いにゆくようにしたりしたがるという話を、まれには聞くことがある。女児がまた、時には「さあ遊びましょう、わたしがお母さん、あなたは子供よ」などということさえある、――しかしたいていはこのような能動的な願望を、人形を相手に、自分が母親となり人形を子供にした遊ぶという、間接的な仕方でみたしているのである。人形遊びを好むことは女児の場合、男児とは違って早くから女らしさがめばえたしるしだと考えられるのが普通である。それは不当ではないにしても、しかしここに現れているのは女児の偏愛はおそらく、父親という対象をまったく無視する一方では排他的に母親に愛着していることを証明するものであるということ、を見逃してはならない。》(フロイト『女性の性愛について』 フロイト著作集5 p150)

【男性のペニス羨望】
この解釈の光のもとでは、フロイトが女性にとって重要だと信じたペニス羨望――つまり自身のファルスを持ちたいと推定された欲望――は、フロイト自身の男性的、あるいはその結果としての男根主義的な想像力の産物によるところが多いように見える。今までの経験で私が出会った有名なペニス羨望は男性のなかにしかない。その拠って来たるところは、己れのペニスの不十分さへのたえまない怖れと他の男のペニスに比してのたえまない想像的比較による。男の男根主義に対応する女性の主眼は、関係性にある。

【法への態度の相違】
それ以外の帰結は、女性たちの法に対する根本的に異なった態度である。法、すなわち、父の最初の権威に対する態度。少年たちは父をライヴァルとして怖れる理由がそこかしこにある。しかしこれは少女にはほとんどあてはまらない。反対に、父は少女へ愛を与える存在でもあり、少女が愛する存在でもある。それゆえ女たちは法と権威にたいして男たちに比べ、リラックスした関係をもつようになるのは当然であろう。これは、ポストフロイト世代の精神分析医に次のような疑問を生ませた。すなわち女にはほんとうに超自我があるのだろうか、と。それは中世の理論家たちが女たちはほんとうのところ魂をもっているのかどうかを疑わせたのと同じような問いである。

【男たちの徒党を組む傾向】
もっと実際の生活上の相違としては、家父長制の歴史のなか、男たちは階級の影響をひどく受けやすく、中央集権的な組織を作りたがるということがある。教会や軍隊は男たちの集団だ。反対に、女たちは階級を好む性向はわずかしかなく、横へのつながりを望み集団を作ることは少ない。


【英文】:『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE Paul Verhaeghe』(1999 Paul Verhaeghe English translation by Plym Peters and Tony Langham Originally Published in Dutch  1998 ) 

……the boy, as a future man, can retain his first love object in terms of gender; he merely has to exchange it for another woman. This explains the curious fact that, after a while, many men adopt the same attitude to their wife as they originally had to their mother. In contrast, the girl has to change the gender of her love object. More specifically, she has to exchange her first love object, the mother, for her father. As a result of the first loving relationship, she still identifies with the mother and therefore hopes that she will be given the same love by the father as he gives to the mother. This explains the equally curious fact that many women become like their own mother once they have become a wife, and above all a mother, themselves.

The most important effect of this change with regard to the object is that the girl will pay much more attention to the relationship itself, in contrast with the male preoccupation with the phallic aspect. The girl's lack of interest in the object and in the phallic aspect, and her emphasis on the relationship, may have the result that in later life her relationships do not have to be with a man. After all, her original object was also of the same gender, and during puberty the first love is almost always for another girl.

In this light, the penis envy that Freud believed to be important in girls—the presumed desire of girls to have their own phallus—seems more a product of his own male, and consequently phallocentric, imagination. The only place where I have ever found this famous penis envy up to now is in men. It is based on their constant fear of inadequacy and their continual imaginary comparisons with other men's penises. The female counterpart of this male phallocentrism is a focus on relationships.

Another result is the fundamentally different attitude of women to the law, that is, to the original authority of the father. While a boy has every reason to be afraid of his father as a rival, this is not the case—or hardly applies— for a girl. On the contrary, he is the one who gives her love or should give her love. Therefore it is not surprising that women have a much more relaxed relationship with law and authority This has led certain post-Freudian analysts to question whether a woman really has a superego— rather like certain mediaeval theologians who wondered whether women actually had a soul.

A more practical and less esoteric result of this difference in terms of patriarchal Oedipal history is that men are much more susceptible to hierarchies and so much more likely to establish centrally led groups. The church and the army are men's groups. In contrast, women have a much less hierarchical tendency and organise themselves more horizontally, so that they form less of a group.


この1998年に上梓されたヴェルハーゲの論は、男性のファリックな面、女性の「関係」を重要視する面を指摘をしており、一見、斎藤環の『関係する女 所有する男』と似たようなことを書いているようにも思われる。もっとも、わたくしはこの斎藤氏の著書を読んでいないので、詳しいことは分らない。ただしヴェルハーゲが「ファリックphallic 」とするとき、「支配」だけではなく、むしろ性的部分欲動や自体愛な面を強調している。

部分欲動という観点からは、他者はいつも「手段」であり、主体としても個人は必要としない。これは女性側、あるいは受身側からみれば「支配された」という印象を生む場合があるのだろう。

あるいはまた、エロスと享楽は女性側に属し、タナトスとファリックな快楽は男性側に属すると、とりあえずされている。もちろん女性のオーガニズムは、またファリックなものだが、女性はそれを欲求すること少なく(男性に比べて)、原初的な母と子の関係性を願う、という意味のことが書かれている。

Eros and jouissance belong on the side of the woman, Thanatos and phallic pleasure on the side of the man. Each has within itself the potential, or even the aspiration, for the other. The female orgasm is also phallic—she is even multi-orgasmic. However, she needs it less and does not feel it to be essential. Sometimes it can even diminish her potential for gaining pleasure from the other, the lasting aspect of symbiosis in which the original bond is restored. The man is all too familiar with jouissance and is constantly seeking it, though he also flees from it in the short-circuiting of his phallic pleasure, because this other enjoyment turns him into an object without a will, part of a larger whole.

ここでの女性側の特徴とされる「享楽」は「<他者>の享楽JA」であり、男性側のphallic pleasure(ファリックな快楽 )はオーガニズムとされているが、一般的には「ファルスの享楽」とされたり、後者は「射精」とされもする(仏語のjouissanceには、‘orgasm’というコノテーションがある)。

そして上の英文の、エロスとタナトスはおおよそ次のようなことを意味する。

・エロスというのは関係の薔薇色の側面を示し、それはカップルの統合・溶解であり、原初的な母との共生関係に収斂する。

・タナトスとは、ファリックの絶頂により「小さな死」が生れ、溶解関係は終わりひとりひとりに戻ること。

woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position,which any subject can adopt vis-a-vis the other.

ここにあるように重要なのは、女性的/男性的ではなくて、受動/能動ということだ。

そして上の文ではエロス/タナトスの二項を対立させているようにみえるが、実際には、ヴェルハーゲはジジェクやドゥルーズと同様に、エロスとタナトスは対立概念ではないという立場をとっている(参照:トラウマを飼い馴らす音楽)。

sadnessについては、具体的にいえばTristis post Coitum(性交後の悲しみ)である。

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。
                                    
――西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

西脇によれば、Tristis post Coitumが、詩の、美の、あるいは芸術の根本的情念であるということになる、冒頭近くの三島由紀夫などの言葉を想い出してもよいし、あらたにつけ加えればつぎの如し。

男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な文化の母胎であった。 (三島由紀夫「女ぎらいの弁」)

そのほか、ここでの文脈で頃合の寸言を抜き出しておこう。

・女が自分の本質をはっきり知った時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであろう。 -女ぎらいの弁-
  
・男は愛については専門家ではなく、概して盲目で、バカである。男は愛についてはまだお猿クラスですから、愛されるほうに廻るほかはない。そして男が愛されている姿とは、チャンチャンコを着せられた愛犬という趣がある。-第一の性-

・男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なってはいけないのが男である。-あなたは現在の恋人と結婚しますか?-

ラカンの愛の定義のひとつは、「愛とは自分のもっていないものを与えることである」(「セミネール Ⅷ」)―― その意味するところは、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」である。

自らの「欠如」を認めること、すなわち、わたしたちが「去勢」されていることを認めること、そして何よりもまず女性は「欠如」した存在であり、人が愛することためには、「女性」のポジションからでなければならない、愛する男性がいささか滑稽にみえるとしたらこのせいということになる。


女性の享楽(他者の享楽)とは、《her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy》(ZIZEK)ということであり、ようするにここでも「関係性」なのだ。


ニーチェにふたたびお出まし願うなら、
男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである。(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)


※附記
For the man, the phallic sexual act is a goal in itself. This explains the complaint often heard from women: 'he only wants to have sex, there's never any time for talking or tenderness'. For women, this phallic sexual act is more of a means for achieving a different end, namely establishing or maintaining the relationship. This explains the complaint often heard from men: once a relationship has become more or less established, the woman is no longer very interested in sex. When the relationship is threatened for one reason or another, she suddenly becomes interested again. Clearly, we are in deep trouble.(同ヴェルハーゲ)