……また、読者の中で、いなくなった作者がたとえわずか三行ばかり生きるってことがあるでしょう。たとえば僕が高校の頃読んだ文豪の作品、当時はそんなにわからなくても、鮮明に残る数行がありました。で、後年、それに導かれて読み返すわけです。(古井由吉 「言葉の宙に迷い、カオスを渡る/大江健三郎+古井由吉」「新潮」2014年6月号)
高校の頃に初めて読んだ作品『嘔吐』の冒頭近くにある「構わなかったら靴下とらないわよ」という文の前後は忘れ難い。
私は、ひとりで、完全にひとりで暮らしている。決してだれとも話はしないし、なにも受けねばなにも与えない。(……)「鉄道員さんたちの店」のマダムのフランソワーズがいることはいる。しかし私は、彼女と話すと言えるだろうか。ときどき夕食のあとで、彼女がジョッキのビールを運んでくるとき、私はたずねる。
「今夜は暇かい」
彼女がいいえと言ったためしはない。私は、時間ぎめかあるいは日ぎめで彼女が貸している二階の大きな寝室のひとつへ、彼女のあとについて行く。私は金をやらない。私たちの色事はおあいこなのだ。彼女は歓びを味う。(彼女には一日にひとりの男が必要だ。だから私以外にも大勢の情人を持っている。)こうして、私にはその原因がわかりすぎているある種の憂鬱から解放されるのだ。しかし私たちは、せいぜい二言か三言を交すにすぎない。しゃべることがなんの訳に立つか。めいめいは勝手に生きている。それに彼女の眼から見れば、私はなによりもまずカフェのお客にすぎないのだ。彼女は服を脱ぎながら言う。
「ねえ、ブリコっていう食前酒を知ってて。今週それを注文したお客がふたりいたの。女の子が知らなかったので、あたしのところへ知らせにきたわ。旅行者だったからパリでそれを飲んだのよ、きっと。どんなものか知らずに買うのはいやだわ。構わなかったら靴下とらないわよ」(サルトル『嘔吐』白井浩司訳)
パンティストッキングも悪くはないが、やはりただのストッキング(with ガーターベルト)がいっそうエロティックであるのは、どういうわけか? ーーというのは捏造された疑問符である。
身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
あるいはストッキングをつけたままの方が、なぜひとは、ときにエロティックの感を抱くのかは、これもロラン・バルトの説明がある。
昔の中国では、夫は妻のむき出しの足を見てはいけないとされていました。《ヴォルガのトルコ女性はむき出しの足を見せることは不道徳であると考え、寝る時も靴下をはいたままなのだ。》バタイユの集めた民族学的資料はもっともっとつけ足す必要があるでしょう。アメリカの《ペッティング・パーティ》や、女たちがセックスをする時も服を脱がないあるアラブ民族の風習を想い起こす必要があるでしょう。現代のある作家が報告したことですが、服を脱いでも、靴下だけは脱がないある男娼たちの奇癖もあります。こうしたことは着衣と性行為との関係を考えさせてくれます。これはさんざん論じられたストリップの問題とは全然関係ありません。なぜなら、われわれの社会はみずから《エロティック》であると信じていますが、実際の性行為について、性行為の身体については、決して語らないからです。これこそ、われわれがおたがい同士で一番知らないことですーーおそらく、道徳的タブーからではありません。無益さのタブーによるのです。要するに、必要なのはーーこれは見かけほど月並みなことではありませんーー裸体について考え直してみることでしょう。実際、われわれにとって、裸体は造形的価値です。エロティックな造形的価値といってもいいでしょう。いいかえれば、裸体はつねに形象化の態勢にあります(ストリップがその例です)。それは、表現のイデオロギーと密接に結びついていて、典型的な形象となります。肢体〔フイギュール〕の形象〔フイギュール〕です。裸体を考え直すということは、一方えは、裸体というものを、歴史的、文化的、西欧的(ギリシャ的)概念として理解することであり、他方では、それを身体の「場景」からエロティックな好意の分野に移すことであります。ところで、裸体と表現との共犯性を垣間見始めると、それに悦楽を生む力があるかどうか怪しくなります。つまり、裸体は(おそらく快楽の分野に結びついているけれど、喪失や悦楽の分野とは結びついていない)文化的対象であり、したがって、要するに、道徳的対象ということになるでしょう。裸体は倒錯的ではないのです。(ロラン・バルト「テクストの出口」 )
これらは、「快原則の此岸/彼岸」、「欲望/欲動」、「快楽/享楽」、ストゥディウム/プンクトゥムの話にかかわってくるが、ここではそれに触れるつもりはない。(参照:ベルト付きの靴と首飾り ロラン・バルト)
…………
Méry, l'an pareil en sa course
Allume ici le même été
Mais toi, tu rajeunis la source
Où va boire ton pied fêté.
メリよ、年はひとしく運行を続けて
いまここで、同じ夏を燃え立たせる
しかし、君は泉を若返らせて
祝福される君の足がそこへ水を飲みに行く
Méry Laurent: Manet’s and Proust’s Model
さて、サルトルの『嘔吐』に戻れば、先ほど引用した箇所の一ページ先に次の文がある。これはかつてはたいして印象に残っていなかった箇所だ。
たとえば土曜日の午後四時ごろだった。駅の工事場の板敷きの歩道端を、スカイブルーの服を着た小柄の婦人が、笑いながらハンカチを振りつつ急ぎ足であとずさりしてきた。それと、同時に、クリームいろのレインコートを着て黄いろの靴を穿き、みどりいろの帽子を冠った黒人が、口笛を吹きながら道の角を曲ってきた。たえずあとずさしていたこの婦人は、夕暮になると灯の入る、柵に吊した角灯の下でこの黒人につき当った。それでちょうどそこには、湿った材木の匂いが強くする柵と、あの角灯と、黒人の両腕にかかえられた小柄で人のよさそうな金髪の婦人とが、夕焼けの空の下に同時に存在したのである。もし四人か五人でこの衝突や、あれらの柔らかなすべての色彩や、綿毛のように見えた青いきれいな外套や、明るいレインコートや、角灯の赤い硝子などを見たと仮定してみる。私たちは、ふたりの顔に表われた子どもっぽいびっくりした様子を、きっと笑ったことだろう。(同『嘔吐』)
今読むと、ゴダールの映画のいくつかの場面のような色彩の眩暈を覚える。あるいはロラン・バルトがモロッコでの印象を寸描した『アンシダン(偶景)』のいくつかをたちまち想起する。
浅黒い若者、ミント・リキュール色のシャツ、アーモンド・グリーンのズボン、オレンジ色の靴下、見るからにしなやかな赤い靴。
みすぼらしいレインコートを着て、気違いじみた(明るい青の)帽子をかぶった黒人の少年と汚い歩道を裸足で歩いているヒッピーの娘がカフェ・サントラルの現地人の前を通る。少年は一人の娘を物にしたが、おかしな西欧性に公然と迎合しているのだ。
だがここではほかに《もし四人か五人でこの衝突》に遭遇したら《ふたりの顔に表われた子どもっぽいびっくりした様子を、きっと笑ったことだろう》と書かれる箇所のほうにも注目しよう。独りのその場面に遭遇したロカンタンは笑わなかったのだ。私たちは知り合いと一緒であれば、自らの印象の幸福感に酔うよりも仲間同士で笑うほうに傾いてしまう。
……というのは、彼といっしょにしゃべっているとーーほかの誰といっしょでもおそらくおなじであっただろうがーー自分ひとりで相手をもたずにいるときにかえって強く感じられるあの幸福を、すこしもおぼえないからであった。ひとりでいると、ときどき、なんともいえないやすらかなたのしい気持に私をさそうあの印象のあるものが、私の心の底からあふれあがるのを感じるのであった。ところが、誰かといっしょになったり、友人に話しかけたりすると、すぐ私の精神はくるりと向きを変え、思考の方向は、私自身にではなく、その話相手に移ってしまうので、思考がそんな反対の道をたどっているときは、私にはどんな快楽もえられないのであった。ひとたびサン=ルーのそばを離れると、言葉のたすけを借りて、彼といっしょに過ごした混乱の時間にたいする一種の整理をおこない、私は自分の心にささやくのだ、ぼくはいい友達をもっている、いい友達はまたとえられない、と。そして、そんなえがたい宝ものにとりまかれていることを感じるとき、私が味わうのは、自分にとって本然のものである快感とは正反対のもの、自分の薄くらがりにかくれている何かを自分自身からひきだしてそれをあかるみにひきだしたというあの快感とは正反対のものなのであった。(プルースト『花咲く乙女たちのかげにⅡ』井上究一郎訳)
さらにいえば、クンデラの『不滅』の冒頭の老女の仕草に《胸がしめつけられた》と書かれる叙述、それはひょっとしたらサルトルの《黒人の両腕にかかえられた小柄で人のよさそうな金髪の婦人》から生れたのではないかとさえ今は思う、ーーたぶんそれは思い過ごしなのだろうが。
そのご婦人は六十歳か、六十五歳くらいだったろう。ひろびろしたガラス窓を通して、パリがすっかり見えるモダンな建物の最上階にあるスポーツ・クラブのプールを前にして、長椅子に寝そべりながら、私は彼女をみつめていた。(……)
誰かに話しかけられて私の注意はそらされてしまった。そのあとすぐ、また彼女を観察したいと思ったとき、レッスンは終っていた。彼女は水着のままプール沿いに立ちさってゆくところで、水泳の先生の位置を四メートルか五メートルほど通りこすと、先生のほうをふりかえり、微笑し、手で合図した。私は胸がしめつけられた。その微笑、その仕草ははたちの女性のものだった! 彼女の手は魅惑的な軽やかさでひるがえったのだ。戯れに、色とりどりに塗りわけた風船を恋人めがけて投げたかのようだった。その微笑と仕草は魅力にみちていたが、それにたいして顔と身体にはもうそんなに魅力はなかった。それは身体の非=魅力のなかに埋もれていた魅力だった。もっとも、自分がもう美しくないと知っているにちがいなかったとしても、彼女はその瞬間にはそれを忘れていた。われわれは誰しもすべて、われわれ自身のなかのある部分によって、時間を越えて生きている。たぶんわれわれはある例外的な瞬間にしか自分の年齢を意識していないし、たいていの時間は無年齢者でいるのだ。いずれにしろ、水泳の先生のほうをふりかえり、微笑し、手を仕草をした瞬間(先生はもうこらえきらなくなり、吹きだしてしまった)、自分の年齢のことなど彼女はなにも知らなかった。その仕草のおかげで、ほんの一瞬のあいだ、時間に左右されたりするものではない彼女の魅力の本質がはっきり現われて、私を眩惑した。私は異様なほど感動した。(クンデラ『不滅』菅野昭正訳)
女は七十歳、八十歳になっても、ある仕草によってかつての少女時代を彷彿させる魅惑が現れるときがある。だがこれもその印象に眩惑されるのは、独りでいるときだけであり、多人数でその仕草に出会ったら、互いに目配して笑ってしまうだろう。