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2014年5月10日土曜日

五月十日 フェミニストであることの「困難」

女がフェミニストの主体になるにはどうするか? 父権的ディスコースによって提供される恩恵の習慣の数々と縁を切ることを通してのみフェミニストになる。“庇護”のために男たちを当てにすることを拒絶すること、男の“女性に対する心遣い”(食事代を払う、ドアを開ける、等々)を拒絶することによってのみ。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』私意訳) 
How does a woman become a feminist subject? Only through renouncing the crumbs of enjoyment offered by the patriarchal discourse, from reliance on males for “protection” to the pleasures provided by male “gallantry” (paying the restaurant bill, opening doors, and so on).(Zizek”LESS THAN NOTHING“2012)

――で、どうしよう? 女たちは少なくとも「肉体的」には(おおむね)男たちに比べてかよわいよなあ、かよわい連中は守ってやらなくちゃあいけないよなあ、社会的「弱者」に“心遣い”をしなくちゃあいけないように。

なんだって? まったく関係のないことを唐突に囁かなくてよいよ、ニーチェさん。《女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである》(『人間的な、あまりに人間的な』)

女性に対する性的嫌がらせについて、男性が声高に批難している場合は、とくに気をつけなければならない。「親フェミニスト的」で政治的に正しい表面をちょっとでもこすれば、女はか弱い生き物であり、侵入してくる男からだけではなく究極的には女性自身からも守られなくてはならない、という古い男性優位主義的な神話があらわれる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳)

どうも女性に親切にする男はアンチ・フェミニストらしいぜ。

まあこのあたりは「常識」なのだろうな、つい最近、というか日付を見ると一ヶ月以上まえだが、「優しい男の男尊女卑〜STAP細胞・小保方さん騒動を考える」という若い研究者の記事を読んだがね。

岡田斗司夫、小林よしのり両氏が共有している前提は、「女に対する男の優しさ」の根底には「男尊女卑」があるという認識である。


ところで女というのはほんとうにかよわいのだろうか。“フェミニスト”のパーリアに訊ねてみよう。

男にとっては性交の一つ一つの行為が母親に対しての回帰であり降伏である。男にとって、セックスはアイデンティティ確立の為の闘いである。セックスにおいて、男は彼を生んだ歯の生えた力、すなわち自然という雌の竜に吸い尽くされ、放り出されるのだ。(カミール・パーリア「性のペルソナ」鈴木明他)

カミール・パーリアは、フェミニストであるが(第二世代の?)、アンチフェミニズムのフェミニストとも揶揄されたらしい。それは従来のポリティカル・コレクトネスの衣裳を着るばかりであったフェミニストたちの主張を逆撫でするものだったことから来るのだろう。

なあ、どうだいパーリアの見解は?

「歯の生えた力」ってのは“toothed power”ってらしいな
「自然という雌の竜」は“the female dragon of nature”。

すなわちヴァギナデンタータなんだよなあ
For the male, every act of intercourse is a return to the mother and a capitulation to her. For men, sex is a struggle for identity. In sex, the male is consumed and released again by the toothed power that bore him, the female dragon of nature. (Camille Paglia “Sexual Persona ”1990)

In sex, the male is consumed”ともあるなあ
消費されるんだろうなあ

女は男の種を宿すといふが
それは神話だ
男なんざ光線とかいふもんだ
蜂が風みたいなものだ 

ーー西脇順三郎 「旅人かへらず」より

ヴァギナ・デンタータというのは、ラカンによって母親の鰐の口って変奏されるんだよな

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。(「ファルス」と「享楽」をめぐって 向井雅明

で、このくらいにしておくよ、実は「フェミニスト」をめぐる下書きが八つほどあるのだが、どれも読み返すとかなりひどいこと書いていて、あれはあのまま投稿できないヤツばっかりで、修正もし兼ねるのだなあ

引用だけで誤魔化さなくちゃなあ、オレの見解じゃあないって具合で。

すこし引っ張りだしておくか

…………

問題となるのは死だ。世界は死である。そして彼女たちが死をもたらすのだから、世界は女たちのものだ、彼女たちは生ではなく、死をもたらす …これ以上に基本的な真実はない …これ以上に体系的に隠蔽され、認められていない明証性はない …きみたちはせいぜいこいつをぼくから書き写すがいい …空しく… なんて奇妙なことだろう …盗まれた手紙… 鏡のなかの自分の姿を見たまえ …いや、きみたちは自分を見たりはしない …いや、きみたちは自分たちの生まれながらのひきつった笑いに気づかない …きみたちにショックに耐えるチャンスがあるのは、時には夢の一番どん底にいるとき、あるいはあっという間のことだが目覚めたときなんだ …十分の三秒… それさえない …きみたちは自分に、自分の中味につまずく …虚無の唾… 諸世紀の鼻汁 …究極の糞… 時間の膿 …持続の血膿… ページの下の汚いどろどろの液 …累積… 没落…幕 …もしきみたちががつがつ詰め込んだ、腐った個人的なやり方に何の口出しもしなかったのなら、黙ってろ …沈黙あるのみだ、この荘厳な穹窿の下では、ぼくは震えながらそこにきみたちを通してやる! …(ソレルス『女たち』)
かつて教会は、《女は教会においては黙っていよ!》と宣したが、それも女に対する男の心遣いであり、欨りであった。ナポレオンが余りに能弁すぎるドゥ・スタール夫人に《女は政治においては黙っていよ!》とそれとなく言ったのも、女のためを思ったからであった。――そこで、今日では婦人がたに向かって《女は女においては黙っていよ!》と呼びかける者こそは真の女の味方なのだ、と私は思う。(ニーチェ『善悪の彼岸』木場深定訳)


 ◆浅田彰『構造と力』より

ーーソレルスがクリステヴァの旦那だってくらい知ってるだろうな

例えば、クリステヴァは、サンボリックを父の命ずる言葉の場として極めて父権的な相でとらえる一方、そこから遡行して見出されるセミオティック(過剰なサンスを孕む欲動の場:引用者)を「乳母であり母である」と性格付けている。つまるところ、サンボリックは《男》でありセミオティックは《女》である。《女》は《男》に抑圧され深層に身を潜めるが、時として抑圧をはねのけて噴出し、《男》の秩序を解体すると共に再活性化する。(……)女性は…カオスの介入の担い手の重要な一翼を占めるものと言えるだろう。カオスは、共同体の外から訪れる異人や、通過儀礼における境界状態の個人を通して入ってくる以外に、構造内に明確な位置をもたないはみ出し者や、構造内で最下層に抑圧さらた者をも、その担い手とする。記号論的に言って有徴の要素である女性は、最後に挙げた構造的劣位者(……)の典型と言えるだろう。クリスティヴァは『中国女』において女性をこうした《負》の存在としてとらえるとともに、そこに象徴秩序を転覆する潜勢力を見出している。

けれども、《女》とは本当にそのようなものだったのだろうか? むしろ、それは、《男》の側に視点を置いた上で見出された《女》の像にすぎないのではなかったか? これこそニーチェの、そして、デリダの問いである。彼らは、《男》の側から遡行して《女》を見出すといった安全策を講ずることなく、端的に《女》を直視する強さをもっている。そのとき、《女》は、抑圧を耐えしのび、時に抑圧をはねのけて反乱を起こす存在という、余りにも単純な仮面を投げ捨て、複雑怪奇な姿を現わすだろう。「女たちは、従属することによって圧倒的な利益を、のみならず支配権を確保することを心得ていたのである」(『人間的な、あまりに人間的な』)とニーチェは述べている。言いかえれば、《女》は、奪われるままになり、時に奪回に立ち上がる存在ではなく、与えることによって奪う存在なのである。「女の本質的賓概念である贈与は、自らを与える=身を委ねる/自らに対して与える=身を委ねるふりをする、与える/奪い取る、奪い取らせる/わがものにする、という決定不能な動揺のなかに現れていたものであるが、それには毒薬の価値もしくは費用=犠牲がある、パルマコンの費用=犠牲が。」(『尖筆とエクリチュール』)デリダはこう書いたあと、(……)ギフトの決定不可能性を想起しているが、ここに、「ゲルマン諸語では『ギフト』giftという言葉は、今でも、『贈り物』と『婚約』という二つの意味をもっている」(『親族の基本構造』)というレヴィ=ストロースの指摘を接木することによって、我々はhymenの決定不能性へと導かれるのである。

Hymenとは何か? それは婚姻であると同時に処女膜でもある。コイトゥスによる連続と融合であると同時に、女の外と内を分かつーーただし不完全にーーことによって処女性を保護するヴェールでもある。後者が「女の外と内の間に、従って、欲望とその成就の間にある」ものだとすれば、前者はそうした分類と距離を無化することに他ならない。結合と分離、疏通と遮断、破ることと破られないことの、この決定不能性。ところで、象徴秩序とその外部、あるいは、サンボリックとセミオティックとして語ってきた二元構造は、その実、このようなhymen構造だったのではなかろうか? してみると、抑圧/被抑圧と侵犯という弁証法のロジックではなく、「hymenの、もしくはパルマコンのグラフィック」――それはもはやロジックではないーーこそが問題なのではなかったか?

ニーチェは、この立場に立つ者こそ「真の女の味方」(『善悪の彼岸』)であると言っている。しかしまた、この立場からすると、二元構造を踏まえて抑圧への反乱を説く女たち、いわば男になろうとする女たちほど、批判されるべきものはない。これがニーチェを反フェミニズムへと駆り立て、ニーチェが女性蔑視の思想家であるかのような錯覚を生んできた。しかし、「実のところ、ニーチェが大いに嘲笑を浴びせているフェミニストの女たちは男性なのだ。フェミニズムとは、女が男に、独断的な哲学者に似ようとする操作であり、それによって、女は真理を、科学を、客観性を要求する、即ち、男性的幻想のすべてをこめて、そこに結びつく去勢の効力を要求するのである。」(デリダ『尖筆とエクリチュール』)けれども、《女》とは、外見の美しさと軽やかな決定不能性によって、「物自体のーー決定可能なーー真理のエコノミー、あるいは、決定者としての去勢のディスクール(プロかアンチか)」(デリダ)の閉域を、つまりは、「真理―去勢の罠」を、やすやすと摺り抜けるものではなかったか? 「女は真理を欲しない。女にとって真理など何であろう。女にとって真理ほど疎遠で、厭わしく、憎らしいものは何もない。――女の最大の技巧は虚をつくことであり、女の最大の関心事は見せかけと美しさである。われわれ男たちは告白しよう。われわれが女がもつほかならぬこの技術とこの本能をこそ尊重し愛するのだ。われわれは重苦しいから、女という生物と附き合うことで心を軽くしたいのである。女たちの手、眼差し、優しい愚かさに接するとき、われわれの真剣さ、われわれの重苦しさや深刻さが殆んど馬鹿馬鹿しいものに見えて来るのだ。」(『善悪の彼岸』)

この浅田彰の文は、三十年ほど前だから、かなり古いところはある。今は少なくともこういった時代だからなあ

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(ジジェク『Less Than Nothing』(2012)より孫引き)

あるいは、ラカンの娘婿のミレールは、ポストフェミニストの時代っていうんだけど、日本では昔からこういうタイプがいるんじゃないか→ Sarah Palin: Operation "Castration" •......Jacques-Alain Miller

たとえば浅田彰なんて、上野千鶴子や金井美恵子に去勢されまくってるからなあ

上のミレールの論文に引用されているヒラリー・クリントンの"Obama? He's got nothing in the pants."って感じで、「浅田くん? ズボンのなかにはなんにもないんじゃないの」などの類と似たようなこと言ってるからなあ


※附記

象徴的思考が出現するためには、女性が、言葉と同じように、交換されるものになることが必要であったにちがいない。それは実際、同じ女性が二つの両立しえない視点から見られているという矛盾を克服する唯一の方策であった。すなわち、女性は、一方では、自分の欲望の客体であり、それゆえ性的本能と所有本能を刺激する。そして他方で、他者に欲望を喚起させる主体であり、まさに婚姻によって他者を繋ぎとめておく手段でもある。(レヴィ=ストロース『親族の基本構造』)