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2014年5月26日月曜日

五月廿六日 フロイトの『Why War?』における愛と憎悪

前回の「『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb」の補遺であり、フロイトの『ヒトはなぜ戦争をするのかーアインシュタインとフロイトの往復書簡』(Warum Krieg? 1933)におけるBemächtigungstrieb(征服欲動)ではなく、ここでは「愛と憎悪」をめぐる。すなわち、フロイトの《エロスと破壊欲動は、愛と憎悪を言い換えたに過ぎない》という叙述をめぐって。

…………

愛と憎悪をめぐっては、最晩年のフロイトの著作『終りある分析と終りなき分析』(1937)‘Die endliche und die unendliche Analyse’にて、「Philia 愛とNeikos闘争」と言い換えている。この論文は、ラカンがフロイトの「遺言」と呼んだことでも有名である。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能(欲動;引用者)、エロスと破壊beiden Urtriebe Eros und Destruktionと同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳

ここにも『Why War?』において愛と憎悪がエロスと破壊衝動とされたのと同じように、「philia 愛とneikos闘争」が、エロスと破壊(タナトス)とされているが、注目したいのは、《その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》という表現だ。エロスがなにか大きなものへの融合の働きであり、タナトスがその融合を破壊する働きとされていること。

とすればBemächtigungstrieb(征服欲動)をタナトスに側に位置づけるのはいささか矛盾があるのではないか。征服とは、融合を破壊することというより、融合を求める側にあるといえるのではないか。もしそうなら、征服欲動はエロスの側にある。だがもちろん他者によって既に融合されている(占有されている)場に割り込んでその他者を排除しようとするのが征服なら、これはタナトスの側になる。

前回も引用した漱石の「断片」の冒頭にはこうあった、《二個の者がsame spaceヲoccupyスル訳には行かぬ。甲が乙を追い払うか、乙が甲をはき除ける二法あるのみぢや。》(夏目漱石「断片」 明治38−39年)

このあたりがフロイトが「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが殆ど常に融合して現れること)を語るひとつの大きな理由でもあるのだろう。

このように〈same space〉の占有、あるいは愛の〈対象〉との所有という観点を導入すると、たちまち二つの欲動は混じりあってしまう(そもそも「欲動」にとって対象は重要ではない、というフロイトの『性欲論三篇』の叙述はその論文のBemächtigungstriebの検討に俟つ。ここではただ目的endではなく目標aimが肝要だというラカンの欲動論だけを想起しておく)。だがエロスが、永遠の生、あるいは母なる大地との融合を目指す働きとすればどうだろう。

The loss of eternal life, which paradoxically enough is lost at the moment of birth, that is, birth as a sexed being, because of meiosis (LACAN Seminar XI).

エロスが永遠の生、あるいは母なる大地に回帰する動きであるなら、他者を排除する必要はない。ただし融合が完遂してしまえば、個としての生命は死滅する。タナトスはその死滅を忌避するため、融合から分離する働きとすれば、フロイトの叙述、《その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする》という文の説明になる。

ポール・ヴェルハーゲが、《生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す》とするのはこのことを言い表わそうとしている。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』

漱石の「〈same space〉の占有、あるいは愛の〈対象〉との所有」における「占有」、「所有」などの語彙はヴェルハーゲによれば快原則の此岸の言語の差異のシステム、象徴界における語彙群にすぎず、欲動、すくなくともエロスは、快原則の彼岸(現実界)にあるとする。

《The whole contains the not-whole, which ex-sists in this whole》.(Paul Verhaeghe "Mind your Body ")ーーすなわち象徴界の全体は非-全体を含んでいる。その非-全体は象徴界の全体の中に外-存在する。それが快原則の彼岸である。


ところで、ヴェルハーゲの論には、タナトスをビオスbios欲動,そしてエロスをゾーエーZoë欲動とする叙述がみられる。

Freud's Thanatos drive ensures the continuation of individual life against its disappearance in the other. Interpreted in this way, the death drive is a bios drive, bios being the ancient Greek name for the individual life that dies but also for how an individual conducts his or her own life. Zoë, on the other hand, is eternal life itself: the thread that runs through the limited bios and is not broken when the particular perishes. Read in this way, Freud's Eros is a Zoë drive, and Thanatos is a bios drive.(Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)

ビオスとゾーエーは古代ギリシャ人が語った概念であり、フロイト派ならぬユング派のカール・ケレーニイの著作に次のように書かれている。

ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなものである。そしてこの糸はビオスとは異なり、ただ永遠のものとして考えられるのである。(カール・ケレーニイ『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像(Dionysos.Urbilddesunzerst・rbarenLebens)』1976)

『ディオニューソス.破壊されざる生の根源像』という書名にあるように、ディオニソスは、ゾーエー(破壊されざる生)、エロスの神ということになる。とすれば、ディオニソス/アポロンの対立は、エロス/タナトスの対立となるのか。無限の生(ゾーエー)/一回性の生(ビオス)と。だが前回みたように、フロイトがBemächtigungstrieb(征服欲動)と殆ど同じものとするーー(《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)ーー”Wille zur Macht”(権力の意志)はフロイトの言うようにタナトスだとしたら?

『ツァラトゥストラ』のグランフィナーレの「酔歌」を、だれがタナトスの歌として聴くことができよう。だれがビオスの歌として聴くことができよう。

――いっさいのことが、新たにあらんことを、永遠にあらんことを、鎖によって、糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんことを、おまえたちは欲したのだ。おお、おまえたちは世界をそういうものとして愛したのだ、――「悦楽(享楽)と永劫回帰」より

《糸によって、愛によってつなぎあわされてあらんこと》だって? ケレーニイの《ゾーエーはすべての個々のビオスをビーズのようにつないでいる糸のようなもの》は、ニーチェからの剽窃ではないのか? パクリではないのか? 

ーーというのはこの際どうでもよろしい。

さて、ケレーニンによって、女性はゾーエーの象徴であり、男性はビオスの象徴である、という言い方がされる。女性は「無限の生」(zoe)の体現者であり、男性は[一回的な生](bios)の体現者でしかない、と。ゾーエーとは、ひとつかぎりの真珠(ビオス)のビーズを繋げる糸なのであり、《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》であるとされる。

女たちは、生み、育て、そして老いて死ぬ。「創造→維持→破壊」の循環、「死と再生」の体現者である女性は、「無限の生命zoe」の象徴であり、男性は一回限りの「有限の生命bios」でしかないコンプレックスを持っていたなどという見解もある。《当時の男たちの「去勢」の試みは、ゾエzoeへの憧憬からなされた》と(「古代母権制社会研究の今日的視点―神話と語源からの思索・素描」松田義幸・江藤裕之ーー参照:バッハオーフェンの「母権制」と、ニーチェ、あるいはドゥルーズ=マゾッホ)。

ビオスは《タナトス(死)に対置された特徴ある一回的な生》であり、ゾーエーとは《破壊を受け容れず遺伝子のように固体を越えて連続する生》とするケレーニイに依拠するヴェルハーゲのエロスとタナトス解釈は、ジジェクにみられるタナトス(死の欲動)解釈とは一見大きく相反する。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

敢えて図式化して言えば、ヴェルハーゲの解釈ではエロス(無限の生であるゾーエー)の掌に乗って活動するのがタナトス(一回性の生ビオス)であり、ジジェクに叙述によれば、循環を超えて生き続けるタナトスの掌に乗って活動するのがエロスということになる。ジジェクは、《すべての欲動は実質的に死の欲動である》(Ec, 848)とするラカンに大きく依拠しているに相違ない。

ジジェクの考え方を、エロスはタナトスの掌に乗って(反復)活動する、としたのは、ジジェクは反復欲動に関しては、ドゥルーズの『差異と反復』の叙述を全面的に受け入れているからだ。

eros and thanatos differ in that eros has to be repeated, can be experienced only in repetition, while thanatos (as the transcendental principle) is that what gives repetition to eros, what submits eros to repetition.”ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

ジジェクは、フロイトは自らの発見の視野を誤解してしまっている、とさえ書いている、《he himself misunderstood the scope of his own discovery》


いずれにせよ「死の欲動」という言葉に騙されてはならない。それは「死」とはあまりかかわりがない。ジジェクに言わせれば「死なない欲動」なのであり、ヴェルハーゲに言わせれば、融合によって個が死滅してしまうことを忌避する分離欲動なのだ。「死の欲動」の「死」は死ぬことではないという点ではふたりの見解は一致する。

ラカン理論の精力的な紹介者でもあるヴェルハーゲは、エロスとタナトスにかんしては、フロイトに戻って考えている。ヴェルハーゲのエロス融合から分離しようとする欲動をタナトスとする考え方は、たとえば『文化への不満』におけるフロイトの叙述にもある。

文化は、最初は個々の人間を、のちには家族を、さらには部族・民族・国家などを、一つの大きな単位――すなわち人類――へと統合しようとするエロスのためのプロセスである。われわれにわかるのは、それがエロスの仕業だということだけで、なぜぜひともそうでなければならないのかの理由はわからない。これらの人間集団は、リピドーの力によってたがいに結びつけられなければならない。(……)ところが、人間に生まれつき備わっている攻撃欲動――万人がたがいに抱いている敵意――がこの文化のプログラムに反対する。この攻撃欲動は、われわれがエロスと並ぶ二大宇宙原理の一つと認めたあの死の欲動から出たもので、かつその主要代表者である。ところで、ここまでくれば、文化の発展の持つ意味はすでに明らかと言ってよいだろう。文化とは、人類を舞台にした、エロスと死のあいだの、生の欲動と死の欲動とのあいだの戦いなのだ。この戦いこそが人生一般の本質的内容であるから、文化の発展とは、一言で要約すれば、人類の生の戦いあのだ。それなのにわれわれの乳母たちはこれら両巨人のこの争いを「来世についての子守歌」(ハイネ)を歌ってなだめようとするのだ。(フロイト『文化への不満』フロイト著作集3 P477)

エロスのプロセスが、大きな単位へと統合しようとすること、攻撃欲動(敵意)がそれに反対することとある。これはまさにヴェルハーゲのエロスとタナトス解釈と同じ内容である。繰りかえせば、彼の解釈は、母なる大地へと個が統合しようとするのがエロス、その統合の完遂してしまえば個が消滅してしまうので、そこから分離しようとするのがタナトスというものであった。無限の生ゾーエーへの融合/一回性の生ビオスへの分離ということである。

この統合と分離の現象は、われわれの日常的な印象にもある。友愛と同一化の日本植民地政策は、被支配民に不分明な憎悪を生んだ。ヨーロッパ共同体が統合に向えば、分離のナショナリズムの衝動が芽生える。

もっとごく一般的に言ってしまえば、ヘーゲル流の「人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつ」があり、これも統合/分離の対比である。


さて、ここでドゥルーズのマゾッホ論における三人の女の叙述を想い起しておこう。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる 母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あ るいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳ーーエロスとゆらめく閃光

このドゥルーズの叙述はフロイトのシェイクスピア論の三人の女たち、《母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地》((フロイト『小箱選びのモティーフ』1913)にも依拠しているのだが、マゾッホ自身はニーチェの師でもあったバッハオーフェンに依拠しているはずである(ニーチェの『悲劇の誕生』の「ディオニュソス的世界観」はバッハオーフェンの「バッコス的世界観」の剽窃ーーとまでは言いたくないが、BakkhosはDionȳsosの別名である)。

ーー「あ、バッカス(ディオニュソス)の楽隊が通る」(古代ギリシャ・ローマ人たちは、深夜に得体の知れない物音が通過したらこのように言った)。

ドゥルーズはマゾッホ論のなかでわざわざ次のように記している、《マゾッホは、偉大な人類学者でヘーゲル派の法律学者でもある同時代人のバッハオーフェンを読んでいた。》(ゾーエーとビオスを語るユング派ケレーニイにもバッハオーフェンの臭いがしてくるのは、ユングが熱心なバッハオーフェン読みであったことから当然であろう)。

問題は、ドゥルーズの書く口唇的な母親、《ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親》に回帰しようとするのが、エロスなのか、タナトスなのか、ということだろう。フロイトやヴェルハーゲは、この大地の母に回帰しようとするのをエロスとする。ドゥルーズやジジェクならば、ここに死の欲動(タナトス)の永遠の反復運動をみる。いやタナトスの反復の隠れた力に促されたエロスの動きをみる。エロスはタナトスの掌に乗った動きでしかない。すなわち一元論なのだ。《there is only one drive, libido, striving for enjoyment》


このジジェクの欲動(死の欲動)の考え方は90年代初めから変わってはいない。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(ジジェク『斜めから見る』)

ところで、『枯木灘』の秋幸は、ある欲動に衝き動かされて大地をつるはしで掘る官能のうちに「死」を垣間見る。

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。(中上健次『枯木灘』)

これはエロスの涯の「個」の死滅の象徴なのか、それとも母なる大地との性交を果たした後の反復される「小さな死la petite mort」のひとつなのか。ここで私見を語ることは敢えて慎むが、今、束の間に過ぎないにしても、どのように考えているのかは、下記に続く叙述におそらく露顕せざるをえないだろう。

…………

フロイトには、エロスとタナトス、愛と憎悪、愛と闘争の二項対立以外にも、愛とアナンケANANKEの二項がある。

人類の共同生活は、外部からの苦難によって生まれた労働への強制と、愛の力 ――男性の側からいえば性欲の対象である女性を、そして、女性の側からいえば自分の分身である子供を、手許にとどめておこうとする愛の力 ――という二重の楔によって生まれたのだ。すなわち、エロス(愛)とアナンケ(宿命)は、人間文化の生みの親ともなったのだ。(『文化への不満』P460)
「文化過程とは、生過程が、エロスによって与えられアナンケーー現実の苦難ーーによって触発された使命の影響によって変形を蒙って生れたもので、この使命とは、個々の人間を統合し、たがいにリピドーによって結び合わされた共同体を作ることである」と。(同 P491)

ーーこう書いた後、「けれども……」と続けるフロイトがいる(「けれども」の後はここでは敢えて割愛する)。また『自我とエス』で次のように書くフロイトもいる。

完全な性的満足の後の状態と死は類似しているし、下等動物では死と交尾とが一致する。これらの生物が生殖行為の中で死ぬのは、満足によってエロスが後退してしまったのちに、死の衝動が自由になって、その目的を遂行することができるからである。(フロイト『自我とエス』)

《le chemin vers la mort n'est rien d'autre que ce qui s'appelle la jouissance》 (Lacan"Le Séminaire, livre XVII)

すなわち、《死への道は享楽と呼ばれるものに他ならない》(私訳)だが、ヴェルハーゲはこれを次のように解釈するのだ。

Eros belongs to the other jouissance, but kills the individual; Thanathos belongs to the phallic enjoyment, which ends in la petite mort (Verhaeghe, P. (2001). Subject and Body. Lacan's Struggle with the Real. )

すなわち、エロスは〈他者〉の享楽、--快原則の彼岸にある享楽(現実界の享楽)ーーであり、〈個〉を殺す。タナトスはファリックな享楽(快楽)ーー典型的には性交によるオーガズムで、快原則の此岸にある快楽(象徴界の享楽)ーーであり、小さな死la petite mortに終る。

この2001年に上梓された論の叙述は、「標準的な」タナトス解釈からは、一見ひどく懸け離れているように見える。これを額面通り受け取ると、エロスが現実界サイドの欲動であり、タナトスは象徴界サイドの欲動ということになるのだから。もちろん、ここで非ー全体の論理、《象徴界の全体は非-全体を含んでいる。その非-全体は象徴界の全体の中に外-存在する。それが快原則の彼岸である。》や「欲動融合Triebmischung」(エロスとタナトスが融合して現れること)想い起こさねばならない。

だが、こうも言える。われわれは社会的存在として〈母〉との融合を拒絶する能動的なかつ自立的な、(エロスの融合欲動ではなく)タナトスの分離欲動に促された日常を送っている。それは象徴界の存在、快原則の此岸の存在である。だがその快原則の彼岸の現実界には、常に母なる大地との受動的融合を願う絶え間ないエロス欲動に囚われた衝動がある、と。

現実、それは言語(シニフィアン)の差異の体系(象徴界)によって歪められた現実界である。《現実は現実界のしかめっ面》(ラカン『テレヴィジョン』)であり、そこには《裂け目の光のなかに保留されているもの》(ラカン)の出現―消滅がある。世界の罅割れがある。《愛するという感情が不意に訪れるとしたら、それはどのようにしてなのか、とあなたは訊ねる。彼女は答える-たぶん、世界の論理の突然のひびわれから。彼女はいう-たとえば、ひとつの過ちから。彼女はいう-意志からは決して》(マルグリット・デュラス「死の病い」 )

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引きであり、邦訳は私訳

ファリックな享楽、あるいは性的享楽は象徴界の領域のものである。象徴界の彼方には、ノンファリックな享楽、〈他者〉の享楽、精神病的な享楽がある。

there is a jouissance beyond the pleasure principle; on the other hand, we have a pleasure within the pleasure principle. According to Lacan, the pleasure principle is a phallic principle, and the phallic or sexual jouissance always stays within the realm of the signifier. The phallic signifier is what introduces the dimension of gender to both sexes, and thus induces a concentration on signified parts of the body. In contrast to this, there is non-phallic jouissance, the "other" jouissance, the "psychotic jouissance", "jouissance of the being" or "jouissance of the Other". This jouissance lies outside of language and thus beyond the gender differentiation; it belongs to the body as an organism.(Paul Verhaeghe, "SUBJECT AND BODY. Lacan's Struggle with the Real.")

ヴェルハーゲのこれらの叙述には、すこし前に引用した文には《phallic or sexual jouissance》とあり、ここでは《phallic enjoyment》とあって表現の混在がある。また別に《phallic pleasure》ともある。

・Phallic pleasure is, first of all, a pleasure through the signifier

・On the one hand there is a jouissance through the signifier, meaning the pleasure principle, meaning phallic. On the other hand something has to be situated beyond this but at the same time incorporated in it, providing jouissance to the Other.

これらの表記の混在は、意図的であるのだろうがーー文脈の流れのなかでの表現なのか、あるいは非-全体の論理を念頭に置いたものなのか、あるいはまた別の理由なのかーーこのあたりは瞭然としない。

なお、このヴェルハーゲの『SUBJECT AND BODY』は、もともと『Byond Gender』(2001)の第五章であり、すこし前に掲げた『Subject and Body』は同じ書の第六章である。この第六章が、ブルース・フィンク他の編集による『Reading Seminar XX Lacan's Major Work on Love, Knowledge, and Feminine Sexuality』(Editor Suzanne Barnard& Bruce Fink 2002)にそのまま変更なしに掲載されている。他の論文の著者は、フィンクの論も含め、Colette Soler、Slavoj Zizek、Renata Saleclほか錚々たる執筆群の八人である(フィンクは、最近二十年近く前の著書『後期ラカン入門:ラカン的主体について』(1996)が漸く邦訳され、日本でも少しはその名が知られるようになったはず。かなり前に書かれたジジェクのこの書の書評を読むことができる→  Love beyond Law •Slavoj Zizek)。