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2014年1月6日月曜日

不快事

ツイッターにて発言するのは慎んでいたのだがーーそもそもこの一年前からブラックバードという閲覧専用のアプリを使用していたのだけれど反応が遅くて苛立ち、他人のツイートを眺めるだけのアカウントを作っていたーー、昨年暮どうしても黙っていられない不快な発話に行き当たり、さる人を援護射撃するつもりでかなりの数のツイートをしてしまった。まあしかしあまり気分のよいものではないし、もう書き込むのはやめにしようとしたのだが、ツイートへのいささかの反応があり、それに応じるためにまた昨日も書いてしまう。

ツイッターというのはディスクールの場だ。ディスクール(言説)とは基本的には「書かれたこと」や「言われたこと」という意味であり、フーコーが広めた用語法の定義では、単なる言語表現ではなく、制度や権力と結びつき、現実を反映するとともに現実を創造する言語表現ということらしいが、ラカンであるならば「他者」へ向けて語られる発話という意味で「四つのディスクール」という区分けがある。そして人間の発話にどうしようもなく本来的にそなわってしまう、言表内容enonceと言表行為enonciationとの間の還元不能な落差をも指摘する。

ツイッターでは、情報を流しているだけのつもりの人もいるだろう、だが《情報ということ、それは命令》(ハイデガー)であり、《堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ》(ジル・ドゥ ルーズ)だ。あるいはまた情報とは権力でもある。

「情報とは権力である」と、あらためて感じた。課長でも教授でも、それなりの権力者は然るべき情報をバイパスされると「私は聞いていない」と怒るではないか。そして東電は、国民の代表である菅直人前首相にいちばん重要な情報を知らせていなかった。

あの時、国家の権力と世界の命運とは日本政府ではなく東電あるいは原子力ムラという国家寄生体に移っていた。菅氏は権力を奪われて孤独であった。海外はすでに恐怖していた。米国は早々に高度の警戒体制に入った。あっというまに放射性物質を含んだ雲が地球を一まわりするのはチェルノブイリで経験済みだった。菅前首相が東電本社に乗り込んだのはよくよくのこととみるべきである。(中井久夫の神戸新聞コラム(2011.9.18)「清陰星雨」から )

四つのディスクールとはもともと次のフロイトの最晩年の論文の三つの不可能な職業+愛(欲望)から導き出されたものだ。

分析治療を行なうという仕事は、その成果が不充分なものであることが最初から分り切っているような、いわゆる「不可能の職業」といわれるものの、第三番目のものに当たるといえるように思われる。その他の二つは、以前からよく知られているもので、つまり教育することと支配することである。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』)

支配者がすなわちS1であり、教育者がS2、分析家がa、愛が$ということになる(参照ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール)。

ラカン派の文章をそれなりに読み続けていると、どうしても他人の発話が気になってくる。もっとも自分の発話の言表行為の無意識はたいして気にはならない。

中井久夫の「メタ私」とはフロイトの無意識よりも広い無意識概念だが、他人のそれより自分の「メタ私」のほうが見えないことが、われわれを生かしているのだ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)とは、中井久夫のエリオット『四つの四重奏』の詩句の超訳であり、逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」だろう。われわれは自分の「メタ私」には耐えられない。


言表内容と言表行為の落差というのは別にむずかしい話ではない。たとえば、神戸在住の評論家U氏が昨年暮れから今年にかけて、しきりに、新幹線で東京に出るのがたしか昨年は八十数回で、今年は五十回ほどにしたいと語る。これが繰り返されれば、彼はなにを言いたいのかというのは「オレはこんなに忙しくて売れっ子なんだ」と言っていると邪推せざるをえない。この邪推が正しいかどうかはさておき、「新幹線で東京まで八十回行く」というのが言表内容であり、「オレは売れっ子なのだ」というのが言表行為である。ラカンの啓蒙書のようなものもあるこの書き手でさえこんな児戯に類することをしてしまっているな、と内心嘲笑することになるのは、わたくしの悪い癖だ。


……もろもろのオピニオン誌の凋落は、「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いているんだから、あんなもん読む気がしない」といういささか性急ではあるがその現実性を否定しがたい社会的な力学と無縁でない。そんな状況下で、人がなお他人のブログをあれこれ読んだりするのは、それが「あたしなんかより頭の悪い人たちが書いている」という安心感を無責任に享受しうる数少ない媒体だからにほかならず、「羞恥心」のお馬鹿さんトリオのときならぬ隆盛とオピニオン誌の凋落とはまったく矛盾しない現象なのだ。……。(蓮實重彦ーー「闇黒日記」より

ブログでさえこんな具合であるのは、かなりの割合のひとの感じることであるのだろうから、ツイッターでの発言(それは著名な「知識人」を含め)を垣間読んで、ときに生じる「口元の綻び=歪み」、得体のしれない「秘かな喜び」の奇妙な顕れをどうして否定できよう(このブログの記事も、それら隠微な喜びの寄与に少なからず貢献をしている筈だ)。

―――すくなくとも、「あれら」著名なブロガーや評論家(一部の学者も含めて)などの言述、あるいは「囀り」を読んで、それなりの「地位」ある人物でさえ、思いつきにすぎないような見解やらときには甚だしい誤読やらを流通させているのだから、この<わたくし>も馬鹿げたことを書いていいはずだという安心感を抱いたことがない人は幸せである。そしてその「安心感」の自堕落な共有が、無償の饒舌の「無限連鎖」を誘発し、「厚顔無恥」が螺旋を描いて奈落の底に向かう様相を呈する、というのがインターネットの書き込みのある「醜悪な」側面であるには相違ない。


ほかにもさる女性は……、と書いて思い止まっておこう、下司の勘繰りと言われないうちに。何度も引用した次の文を引用するだけに留めておこう。

主体、語る主体は自分自身で言っていることの主人ではありません。彼が語るとき、彼 が言語を使用していると考えるときは、実は言語が彼を使用しているのです。彼が語ると きには常に彼自身が言う以上のことを言います。自分が欲している以上のことを言うので す。そしてそのうえ、常に他のことを言います。(ミレール『エル・ピロポ』)
誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできま す。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

簡単に言えば、《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク『ラカンはこう読め』)ということだ。

U氏の発言を児戯に類するなどとしてしまうのは失礼に当たる。そういった発言は当人は思いの外気づいていないのだ。

われわれが他人を盲目だと思うのは、われわれが自分のことを話しているときばかりではない。われわれはいつも他人が盲目であるかのようにふるまっている。われわれには、一人一人に、特別の神がついていて、その神が、われわれの欠点にかくれ蓑をかけてわれわれからかくし、他人には見えないという保証をしてくれているのであ(る)。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」Ⅱ 井上究一郎訳)

そして、それはよほど優れた人間でも、平凡な人間とあまり変わらなようなのだ。

性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」)

中井久夫はプルーストの著名な研究家吉田城氏の追悼の文のなかで吉田氏のテキスト生成研究のすばらしさに感嘆のためいきを洩らすなかで次のように書く。

……精神科医は、眼前でたえず生成するテクストのようなものの中に身をおいているといってもよいであろう。

そのテクストは必ずしも言葉ではない、言葉であっても内容以上に音調である。それはフラットであるか、抑揚に富んでいるか? はずみがあるか? 繰り返しは? いつも戻ってくるところは? そして言いよどみや、にわかに雄弁になるところは? (中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって」2007初出『日時計の影』所収)

ラカンはフロイトのテクストを分析家が分析主体(被分析者)に面するようにして読んでいるというのは有名な話だ。ジジェクもしかり。

……無意識は野蛮で無法な欲動の「貯水池」であるという通常の考え方は捨てなければならない。無意識は同時に(何よりもまず、とすら言いたくなる)、外傷的で、残酷で、気まぐれで、「理解できない」、「不合理な」、法のテクスト、すなわち一連の禁止と命令の、断片の集積でもある。いいかえれば、「正常な人間は、自分で考えているよりもはるかに反道徳的であるだけでなく、自分が知っているよりもはるかに道徳的である、という逆説的な命題を提出」しなければならないのである。これは『自我とエス』からの引用だが、この「考えている」と「知っている」の区別は、正確には何を意味しているのだろうか。まるでちょっと筆が滑っただけのように見えるし、実際、この部分に添えられた註ではこの区別は失われている。その註において、フロイトは次のように述べているーーこの命題は「たんに、人間の性質は、善に関しても悪に関しても、自分で考えているglaubtよりも、つまり自我がその意識的知覚を通して気づいているよりも、はるかに程度が大きい」ということを言っているのだ、と。ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。(ジジェク『斜めから見る』)

そもそも小説などであれば、すぐれた批評家はつねにこのようにして読んでいるのではないか。ソレルスは批評家ではなく小説家だが、彼曰く次の如し。

語りたまえ、そうすればすべてが明らかになる。出来事と諸力に対するきみたちの位置、きみたちの盲目性、きみたちの操作の範囲、きみたちの暗黙の信仰、鏡のなかの自分自身を見るきみたちの仕方が …語りたまえ、そうすればいまにもきみたちは思わず本心を洩らすだろう。叙述したまえ、そうすればきみたちは、自分の思考で考えていることよりずっと多くを言うだろう。悪と関わるきみたちのやり方。ただひとつの悪、実存することの悪だ。全能なる羨望と嫉妬のなかで。一般化された大人の稚拙さのなかで。

(…… )わかりきったことだ。そいつは前面に出てくる。哲学者は旅の逸話のなかで馬脚をあらわす。政治家は物語の色合いの秩序のなかで。さあ、耳をそばだててよく聞くがいい。ヒステリーはその後ろ、すぐ後ろにある、聴診器なんかいらない、それはどんなにささいな文章をも際立たせ、最もささいな形容詞のなかでもそれがふつふつと沸き立っているのが聞こえる。途方もない無意識の退廃、そしてぼく、ぼくが、ぼくが、ぼくが。……(ソレルス『女たち』)

ツイッターでの発話も生成するテクストなのであり、「繰り返し」やら「いつも戻ってくるところ」、「言いよどみ」、「にわかに雄弁になるところ」に注目することになる。

見るべき目と聞くべき耳をもつ者は、死すべき運命にあるもの(人間というもの)がいかなる秘密をも隠すことができないことを確信している。唇を固く閉ざしている者も指先では喋ってしまうものである。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ)P331)

実際には面と向かっていないので、音調や抑揚はわからないし、指先の動きや表情などが分るわけではない。だが、わたくしが今書いているこのブログなども継続していれば、「繰り返し」やら「いつも戻ってくるところ」は、明らかになる。その繰り返される内容は無意識に由来するとは安易にいうまいが、いちばん拘っていることであるには相違ない。他人ならいっそうよく分るのではないか。

下手に否定などしたら覿面に勘繰りを促す。

「そんなことを考えたことはありません」とか、「そういうことは考えたことが(一度も考えたことは)ありません」というような言回しで分析に反応を示すときほど、無意識的なものの見事な発見を証明するものはない。(フロイト『否定』)

あるいは誰かに対して批判的に書いてしまった場合は、これはプルーストの言葉がぐさっと来る。

……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』井上究一郎訳)

何度も引用しているが、ここではフロイトで念押ししておこう。

……他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))

ということでツイッターで他者非難をしてしまったのだが、あれは(↓)、なにに由来するのかは、ここでは書かない(要するに「メタ私」が語っている部分は、推測が正しいのかどうかは神のみぞ知る、ということもあるわけでね)。


・やむえず変なひとのひとり(「として」の誤記だな)書くがね、「洗脳」や「普通精神病」などという言葉の些事に拘っておらずに、次の対話者の根本的な齟齬への応答をすべきじゃないかい、ということだな

・《私はすでに決定的な理論事業と、公平な査読環境を手にしている。私の言うことに対し、学会で反論できないなら価値がない。というか、学問をなめている。――君が完全にアウェイの学会で説得をしないなら、自分で学問を作れ》

・だいたいこれにたいして強い反吐感をおぼえる人間がみたところ三人しかいないほうが小生には不思議だな、みなさん「根源的な悪」に染まっているんじゃないかと疑いたくなるね

・根源的な悪とは、規範を乱暴に破ることではなく、パトローギッシュな配慮(罰への恐れ、ナルシシスティックな満足、仲間からの賞讃)から規範に服従することというのが、誰かさんがしきりに褒めるジュパンチッチの『リアルの倫理――カントとラカン』だったよな

・自分の利益になるから法に従うことは、たんに法に侵犯することよりはるかに悪い、それは法を人間のパトローギッシュな利益=関心のための道具に貶めることであって法の尊厳をその内側から掘り崩すーー法の外部からの侵犯ではなく、法の自己破壊、法の自殺行為ということだ

・そこの貴君、貴君は学問の法、学会の法の自殺行為の表明をしてるんじゃないかどうか、もう一度ジュパンチッチやらラカンのアンチティゴネーの話を読み返してみたらどうだい?

批判内容の舌峰の鋭さを形式的に穏やかにするために、あるいは虚構化するつもりもあって、一人称単数代名詞をはじめて「小生」としてみたが(そして二人称単数の「貴君」もたぶん初めての使用)、もちろん読み手はそんなことに気を使うはずはないので、「このヘンなおっちゃん」と思われただろうな、このツイート。まあこれもちょっとした「真剣な」遊戯というわけだ。


…………

人皆の根底にはその人の「原則」が巨大な文字で彫りつけてある。それをいつも見つめているわけではない。一度も読んでいないことも稀ではない。だが人はそれをしっかり守り、人の内部の動きはすべて、口では何と言おうとも、書かれているところに従い、決して外れることはない。考えも行いもそれに違うことはない。心の奥のそこには傲慢、弱点、頬を染める羞恥、中核的恐怖、孤立、なべての人が持つ無知がきらめいていて、世にあるほどのバカげた行為をいつも今にもやらかしそうだ―――。

愛しているものの中にあれば弱く、愛しているもののためとあらば強い。(ヴァレリー『カイエ』Ⅳ 中井久夫訳)