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2014年5月24日土曜日

五月廿四日 『マゾヒズムの経済的問題』におけるBemächtigungstrieb

引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。フロイトの『マゾヒズムの経済的問題』1924(人文書院旧訳)より。

《破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志》(Destruktionstrieb, Bemächtigungstrieb, Wille zur Macht)の形で出て来るが、前後を含めて、すこし長く引用する。ドゥルーズのマゾッホ論におけるサディズムとマゾヒズム解釈と一見、著しく相反する箇所であるということもある。

サド=マゾヒスムは、(……)誤って捏造された名前の一つである。記号論的怪物なのだ。みかけは両者に共通するかにみえる記号と遭遇したとき、その度ごとに問題となっていたのは、還元不能の徴候へと解離しうる一つの徴候群だったのである。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』P163)

ドゥルーズが書く笑い話に、《マゾヒストが、「いためつけてくれ」という。するとサディストが「ごめんこうむる」》(P52)というものがある。これはサディストはマゾヒストを求めはしないし、逆も真なりということだが、この箇所では、フロイトとドゥルーズはまったく異なった水準でサド=マゾを語っているということも言える。フロイトの叙述には《有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない》とあるのだが、死の欲動=根源的サディズムとは、ドゥルーズによって死の欲動=反復と言い換えられ、《快感原則は、〈エス〉にあっての心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるもの》(P139)を「死の欲動」としている(これは《すべての欲動は実質的に死の欲動である》(Ec, 848)とするラカンの立場に一致する)。

エロスとタナトスは二つの相反する欲動ではない。それらは競合し、エロス化されたマゾヒズムとしての二つの力を結合させるものではない。ただ一つの欲動、リビドーがあるだけであり、そのリピドーはただひたすら享楽を追い求める。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)ーー「ドゥルーズとジジェクの死の欲動」より

さて、『マゾヒズムの経済的問題』の邦訳そのものにわたくしにはやや分かりづらい箇所があるので、今回はフロイト郵便氏の「翻訳正誤表」を参照することなく(冒頭一部正誤表案に則って訂正したが)、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)から抜粋して併記することにする。なお以前にも書いたが、この英訳の”instinct”の訳語(原語 treib)は、”drive”と読み替えなければならない。

私は、『性欲論三篇』中の一章において幼児期性愛の源泉に関してこう主張した。性的興奮は、きわめて数多くの内的事象がある量的限度を越えて強烈なものになるや否や、その副作用として発生する。いやおそらく、有機体中に生起する一切の重要なことは、かならずその構成要素を性欲動興奮のために役立たせるような性質を持っているのであろう。したがって、苦痛興奮や不快興奮もまたそのような作用をおよぼすにちがいない。苦痛・不快緊張におけるこうした随伴的リピドー興奮は後年には枯渇するところの幼児的生理的機制なのではあるまいか。この随伴的リビドー興奮は性的体質の異なるに応じて異なった発達度を持ち、いずれにせよ、のちに心理学的には性愛的マゾヒズムというものを作りあげるところの生理学的基盤をなすものではあるまいか。

In my Three Essays on the Theory of Sexuality, in the section on the sources of infantile sexuality, I put forward the proposition that ‘in the case of a great number of internal processes sexual excitation arises as a concomitant effect, as soon as the intensity of those processes passes beyond certain quantitative limits'. Indeed, ‘it may well be that nothing of considerable importance can occur in the organism without contributing some component to the excitation of the sexual instinct'. In accordance with this, the excitation of pain and unpleasure would be bound to have the same result, too. The occurrence of such a libidinal sympathetic excitation when there is tension due to pain and unpleasure would be an infantile physiological mechanism which ceases to operate later on. It would attain a varying degree of development in different sexual constitutions; but in any case it would provide the physiological foundation on which the psychical structure of erotogenic masochism would afterwards be erected.
しかし、この説明には不充分なところがあって、マゾヒズムと、欲動生活の上でその敵対者となっているところのサディズムとの規則的で緊密な関係は、このような説明では少しも明らかにはならない。さらにもう一歩遠く遡って、生物体中にはたらいていると考えられるところの二種類の欲動という仮説にまでたちもどると、われわれは上述のものと矛盾することのない、別の筋道に到達する。(多細胞)生物においてリピドーは、細胞中に支配する死あるいは破壊の欲動にぶつかる。この欲動は、細胞体を破壊し、個々一切の有機体単位を無機的静止状態(たといそれが単に相対的なものであるとしても)へ還元してしまおうとする。リピドーはこの破壊欲動を無害なものとし、その大部分を、しかもやがてある特殊な器官系、すなわち筋肉の活動の援助のもとに外部に放射し、外界の諸対象へと向わせる。それが破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志とかいうものなのであろう。この欲動の一部が直接性愛機能に奉仕させられ、そこである重要な役割を演ずることになる。これが本来のサディズムである。死の欲動の別の一部は外部へと振り向けられることなく、有機体内部に残りとどまって、上記の随伴的性愛興奮作用によってリピドーに奉仕する。これが本来の、性愛的マゾヒズムである。

The inadequacy of this explanation is seen, however, in the fact that it throws no light on the regular and close connections of masochism with its counterpart in instinctual life, sadism. If we go back a little further, to our hypothesis of the two classes of instincts which we regard as operative in the living organism, we arrive at another derivation of masochism, which, however, is not in contradiction with the former one. In (multicellular) organisms the libido meets the instinct of death, or destruction, which is dominant in them and which seeks to disintegrate the cellular organism and to conduct each separate unicellular organism into a state of inorganic stability (relative though this may be). The libido has the task of making the destroying instinct innocuous, and it fulfils the task by diverting that instinct to a great extent outwards - soon with the help of a special organic system, the muscular apparatus - towards objects in the external world. The instinct is then called the destructive instinct, the instinct for mastery, or the will to power. A portion of the instinct is placed directly in the service of the sexual function, where it has an important part to play. This is sadism proper. Another portion does not share in this transposition outwards; it remains inside the organism and, with the help of the accompanying sexual excitation described above, becomes libidinally bound there. It is in this portion that we have to recognize the original, erotogenic masochism.
リピドーによる死の欲動のかかる繋縛がどのような道程を経て、どのような手段で遂行されるかを生理学的に理解することは、われわれには不可能である。精神分析学的思考圏内でわれわれが推定できるのは、両種の欲動がきわめて複雑な度合でまざりあい絡みあい、その結果われわれはそもそも百パーセントに純粋な死の欲動や生の欲動というものを仮定して事を運んでゆくわけにはゆかず、それら二欲動の種々なる混合型がいつも問題にされざるをえないのだということである。同様にして、ある種の作用の下では、いったん混合した二欲動がふたたび分離することもあるらしいが、死の欲動が性愛欲動の繋縛をどの程度免れうるものであるのかは、目下のところ推察できない。

We are without any physiological understanding of the ways and means by which this taming of the death instinct by the libido may be effected. So far as the psycho-analytic field of ideas is concerned, we can only assume that a very extensive fusion and amalgamation, in varying proportions, of the two classes of instincts takes place, so that we never have to deal with pure life instincts or pure death instincts but only with mixtures of them in different amounts. Corresponding to a fusion of instincts of this kind, there may, as a result of certain influences, be a defusion of them. How large the portions of the death instincts are which refuse to be tamed in this way by being bound to admixtures of libido we cannot at present guess.
もしわれわれが若干の不正確さを気にかけなければ、有機体内で作用する死の欲動ーー根源的サディズムーーはマゾヒズムと一致するといってさしつかえない。その大部分が外界の諸対象の上に転移され終わったのち、その残余として有機体内には本来の性愛的マゾヒズムが残る。それは一方ではリピドーの一構成要素となり、他方では依然として生命体そのものを自己の対象とする。かくてこのマゾヒズムは、生命にとってきわめて重要な死の欲動とエロスとの合金化が行なわれたあの形成過程の証人であり、名残なのである。ある種の状況下では、外部に向けられた投射されたサディズム、あるいは破壊欲求がふたたび摂取され内面に向けられうるのであって、かかる方法で以前の状況に組みいれられると聞かされても驚くには当たらない。これが二次的マゾヒズムなのであって、これは本来の(一次的)マゾヒズムに合流する。(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』フロイト著作集 6 P303-304)

If one is prepared to overlook a little inexactitude, it may be said that the death instinct which is operative in the organism - primal sadism - is identical with masochism. After the main portion of it has been transposed outwards on to objects, there remains inside, as a residuum of it, the erotogenic masochism proper, which on the one hand has become a component of the libido and, on the other, still has the self as its object. This masochism would thus be evidence of, and a remainder from, the phase of development in which the coalescence, which is so important for life, between the death instinct and Eros took place. We shall not be surprised to hear that in certain circumstances the sadism, or instinct of destruction, which has been directed outwards, projected, can be once more introjected, turned inwards, and in this way regress to its earlier situation. If this happens, a secondary masochism is produced, which is added to the original masochism.(The Economic Problem Of Masochism)

サディズムとマゾヒズムの反転をめぐっては、ジジェクに次のような叙述がある。

……ニューヨークには「私どもは奴隷です」と呼ばれる団体があって、人のアパートの部屋を無料で掃除し、その家の主婦に乱暴に扱われたいという人を提供している。この団体は、掃除をする人を広告を通して集める(その謳い文句は「隷従そのものが報酬です」である)、応募してくる人の大半が,高い報酬を得ている重役や医者や弁護士で,彼らは動機を聞かれると,いつも責任を負っていることがいかに気分が悪いかを力説する――乱暴に命令されて仕事をし、どなりつけられることをこよなく楽しむのだ。<存在>への通路を得る手段として彼らに開かれているのはそれだけだからである。ここで見逃してならない哲学的に大事な点は、<存在>への唯一の通路であるマゾヒスムは、近代のカント的主観性、つまり、自己関係する否定性という空虚な点に帰着する主体と、厳密に相関しているということである。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)

より日常的な感覚で《自己破壊性と他者破壊性》の反転が書かれる文としては、次の中井久夫の文がよいだろう。

日常生活は安定した定常状態だろうか。大きい逸脱ではないが、あるゆらぎがあってはじめて、ほぼ健康な日常生活といえるのではないだろうか。あまりに「判でついたような」生活は、どうも健康といえないようである。聖職といわれる仕事に従事している人が、時に、使い込みや痴漢行為など、全く引き合わない犯罪を起こすのは、無理がかかっているからではないだろうか。言語研究家の外山滋比古氏は、ある女性教師が退職後、道端の蜜柑をちぎって食べてスカッとしたというのは理解できると随筆に書いておられる。外に見えない場合、家庭や職場でわずらわしい正義の人になり、DVや硬直的な子ども教育や部下いじめなどで、周囲に被害を及ぼしているおそれがある。

四季や祭りや家庭の祝いや供養などが、自然なゆらぎをもたらしていたのかもしれない。家族の位置がはっきりしていて、その役を演じているというのも重要だったのかもしれない。踏み越えは、通過儀礼という形で、社会的に導かれて与えられるということがあった。そういうものの比重が下がってきたということもあるだろう。もっとも、過去をすべて美化するつもりはない。

一般に健康を初め、生命的なものはなくなって初めてありがたみがわかるものだ。ありがたみがわかっても、取り戻せるとは限らない。また、長びくと、それ以前の「ふつう」の生活がどういうものか、わからなくなってくる。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』P322)

Bemächtigungstrieb、すなわちdrive for masteryは、フーコーの自己統治self-masteryにもかかわる。征服欲動がわずかしかない人間は、自らの欲動を征服することもすくない、というニーチェのテーマも現れる。ニーチェの次のような文は、フロイトの言うようなサディズムーマゾヒズム反転の文脈で読んでみる必要がある。

勇気にみち、泰然としており、嘲笑的で、暴力的であれーーそう知恵はわれわれに要求する。知恵はひとりの女性であって、つねに戦士だけを愛する。(『ツァラトゥストラ』(手塚富雄訳)
わたしは君があらゆる悪をなしうることを信ずる。それゆえにわたしは君から善を期待するのだ。まことに、わたしはしばしばあの虚弱者たちを笑った。かれらは、自分の手足が弱々しく萎えているので、自分を善良だと思っている。(同上)
強さに対してそれが強さとして現われ"ない"ことを要求し、暴圧欲・圧服欲・支配欲・敵対欲・抵抗欲・祝勝欲で"ない"ことを要求するのは、弱さに対してそれが弱さとして現われないことを要求するのと全く同様に不合理である。(ニーチェ『道徳の系譜』)

もちろん、このようなことは柄谷行人や浅田彰がすでにさらっと語ってしまっている。

柄谷)文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。(「「悪い年」を超えて」『批評空間』1996 Ⅱ-9 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会)