In the 1960s and ‘70s, it was simpler to believe that another world was possible. This is why these years continue to inspire so much nostalgia. During this epoch, one could still imagine that warnings based on the present situation could influence the future in a positive way.Today, we know it, the future is not what it was.(ZIZEK『LESS THAN NOTHING』「Conclusion」より)
まずはこういうことなのだろうな、――60年代や70年代のノスタルジアというのは、当時は「思想家」や「活動家」が未来を変えることができると思っていたし、その受け手もそうだったということ。だが68年があり、そしてその後に決定的な89年があった。いまは資本主義、あるいは新自由主義しかなく、それへの抵抗は、あってもゲリラ戦だけで、だれもそんなものにはまともに期待していない。「思想家」たちもほとんど趣味の世界にひきこもるばかりだ。かりに「真摯に」抵抗のふりを示す「思想家」がいても、だれもがまともに受け止めることはない。
新自由主義、それは「成功」と「投資」、そして「負け犬」を作り出すシステム(参照:大学人の踊る音楽「新自由主義」)。そこでは、学生や本の読み手たちは、クライアントなのであり、「思想家」たちもそのクライアント向けの「成功」と「投資」の手引書を書くばかりだ。
ジジェクは、冒頭に引用された文に引き続き、ではどうするかについての一つの提案を、ジャン=ピエール・デュピュイの考え方を援用しつつ書いているけれど、これは『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』にも書かれている(「トルストイと自由の条件」の後半参照)。
ジジェクは、冒頭に引用された文に引き続き、ではどうするかについての一つの提案を、ジャン=ピエール・デュピュイの考え方を援用しつつ書いているけれど、これは『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』にも書かれている(「トルストイと自由の条件」の後半参照)。
「こんなに人材が少ないなんて思ってた?」(浅田彰)というのは時代のせいとも言えるのであり、やっぱり、資本主義とはいわないまでも「新自由主義」に抵抗していない「思想家」はどうしようもないのじゃないか(いや、抵抗してもゲリラ戦でしかないことが分かっているから、あのようであるという言い方もできるのだろうが)。
◆「悪い年」を超えて 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人 座談会(『批評空間』1996Ⅱ-9
浅田) それにしても、こんなに人材が少ないなんて思ってた? ぼくなんか、同世代にもっと優秀な人材がいるはずだとずっと思ってたし、今も多少は期待しているけど……。
柄谷) 甘い(笑)。ぼくも昔はそう思っていて、もしかして俺が勝手に威張っているだけなんじゃないかと思ったりしたけどね(笑)。中上健次ともよくそういう話をしたことがあったけど、四五歳を越えたころにやっと見極めがついた。単に、いないんだよ。
坂本) 実際、世界的に見てそうだよね。
柄谷) しかし、世界的に人材が少ないとしたら、どうなってしまうのだろう?
浅田) 人口だけは多い(笑)。
柄谷) たしかに、フランス現代思想がどうのこうの言ったって、ドゥルーズ、フーコー、デリダで尽きてしまうじゃないか? それも本質的には六〇年代の仕事だった。(……)
しかし、見方を変えれば、かれらの仕事もマルクス、ニーチェ、フロイトの延長上にあるわけだし、ああいうものはずっと古びないとも言える。いまだにマルクスを批判していればいいと思っているやつがいるけどね。
浅田) 共産主義が崩壊した以上、反共ということにはもう意味がない。資本主義が全面化した以上、資本主義をいちばん鋭く分析したマルクスの仕事が残るにきまっている。
マルクスは間違っていたなどという主張を耳にする時、私には人が何を言いたいのか理解できません。マルクスは終わったなどと聞く時はなおさらです。現在急を要する仕事は、世界市場とは何なのか、その変化は何なのかを分析することです。そのためにはマルクスにもう一度立ち返らなければなりません。(……)
次の著作は『マルクスの偉大さ』というタイトルになるでしょう。それが最後の本です。(……)私はもう文章を書きたくありません。マルクスに関する本を終えたら、筆を置くつもりでいます。そうして後は、絵を書くでしょう。
…………
言語活動に関してこの《サイクル》(エンジンのサイクルというような意味での)の機構は重要です。強力な体系(「マルクス主義」、「精神分析」)を見てみましょう。最初のサイクルでは、それらは反「愚劣さ」の(効果的な)働きをします。それらを経ることは愚劣さを脱することです。どちらかを完全に拒否する人(マルクス主義、精神分析に対して、気まぐれに、盲目的に、かたくなに、否(ノン)という人)は、自分自身のうちにあるこの拒否の片すみに、一種の愚劣さ、悲しむべき不透明性を持っています。しかし、第二サイクルでは、これらの体系が愚劣になります。凝固するや否や、愚劣が生ずるのです。そこが裏側に回ることができない所です。人はどこかよそに行きたくなります。チャオ(さよなら)、もう結構、というわけです。(ロラン・バルト「イメージ」1977初出 『テクストの出口』所収 沢崎浩平訳)
いったんチャオ、もう結構としたのだから、そろそろ戻ってもよい頃だと思うけどな、ちがうかい?
真に偉大な哲学者を前に問われるべきは、この哲学者が何をまだ教えてくれるのか、彼の哲学にどのような意味があるかではなく、逆に、われわれのいる現状がその哲学者の目にはどう映るか、この時代が彼の思想にはどう見えるか、なのである。(ジジェク『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』)