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2014年5月11日日曜日

五月十一日 歴史にみる「戦後レジーム」 中井久夫

以下の「戦後レジーム」をめぐる中井久夫の文には、「首相(安倍)」とあるが、第一次安倍内閣(2007年)の時のことである。安倍総理は、今年の三月久しぶりのその言葉を発した。

安倍晋三首相は14日の参院予算委員会で「私は戦後レジームから脱却をして、(戦後)70年が経つなかで、今の世界の情勢に合わせて新しいみずみずしい日本を作っていきたい」と述べた。「戦後レジームからの脱却」は第1次政権で掲げたが、最近は控えていたフレーズだ。(久々に登場、「戦後レジームからの脱却」 安倍首相

さて中井久夫の随筆「歴史にみる「戦後レジーム」」は、一見たんたんと書かれているかにみえる文だが、隠し味がたくさんある。いや、わたくしはそのようにして読む。だが《総評のために辞を費さぬ》ことにする。《若し今事の伝ふべきを伝へ畢つて、言讚評に亘ることを敢てしたならば、是は想像の馳騁、主観の放肆を免れざる事となるであらう。わたくしは断乎としてこれを斥ける。》(森鷗外『伊沢蘭軒』)。

首相が脱却したい「戦後レジーム」とは何か、という問いが冒頭にあり、直接には書かれていないのにも拘わらず、戦後レジーム脱却の是非をめぐる中井久夫の思いが読めば自然に分かるように書かれている。ここで引用される文は、三ヶ月に一回「神戸新聞」に連載された「清陰星雨」の「「歴史にみる「戦後レジーム」」全文である。「清陰星雨」の連載は二〇一二年三月次のように書かれて休まれることになった。

《私はどこか日本の学者を信頼して、それが体験の基礎になっていた。官僚も、政界も、はてなと思うことはあっても、終戦の時と同じく、列車が走り、郵便が着くという初歩的なことで基盤にゆえなき信頼感があったのであろうか。私が20余年続けたこのコラムを休むのは、その代わりに考えきれない重しのようなものが頭の中にあるからである。》(中井久夫さん、最後の「清陰星雨」


歴史にみる「戦後レジーム」


年金問題の陰に隠れているが、首相(安倍)が脱却したいという「戦後レジーム」とは何か。ほとんど内容が取り上げられず、また何に変わりたいのか、誰もいわない。そこで私は射程をぐっとのばして日本史全体を眺めなおしてみようと思う。

日本史上、大陸への大規模外征は三度行なわれ、悉く失敗している。その後には必ず旧敵国の優れた制度を導入して、一時の混乱はあっても、安定した平和の時代を迎えることに成功している。「戦後レジーム」もその一例であると、私は見る。

天智天皇二年(六六三年)百済王子を擁して朝鮮半島に傀儡政権樹立を試みた倭の約四百隻の艦隊は、百隻の唐艦隊に白村江河口において短時間で全滅した。古代の「ミッドウェー海戦」である。以後、日本は専守防衛に転じて半島出兵をやめ、唐の国制を取り入れて内政を整備し、半世紀かけてようやく唐との国交回復をなしとげた。

南蛮人の世界征服に刺激されたかもしれない秀吉の朝鮮出兵も、戦争目的を果たせずに終わった。後を継いだ徳川政権は朝鮮の国学である朱子学を採用し、儒教にもとづく文治政策を打ち出し、朝鮮との修好に努めた(維新の際に徳川に援軍を送ろうという提案が朝鮮政府の中に起こっている)。

江戸幕府の基本政策はどういうものであったか。刀狩り(武装解除)、布教の禁と檀家制度(政教分離)、大家族同居の禁(核家族化)、外征放棄(鎖国)、軍事の形骸化(武士の官僚化)、領主の地方公務員化(頻繁なお国替え)である。特に家康の決めた「祖法」は変更を許されなかった。その下で、江戸期の特徴は航海術、灌漑技術、道路建設、水道建設、新田開発、手工業、流通業、金融業の発達である。江戸は人口百万の世界最大都市となり、医師数(明治二年で一万人)も国民の識字率もおそらく世界最高であった。江戸期に創立された商社と百貨店と多くの老舗は明治期も商業の中核であり、問屋、手形、為替など江戸の商業慣行は戦後も行なわれて、「いまだ江戸時代だ」と感じることがたくさんあった。

「戦後レジーム」が米国から多くを学ぼうとしたのも、過去の敗戦後の日本史の法則通りであるといえそうである。米国は、科学から政治経済を経て家庭生活までが理想とされた。気恥ずかしいほどであった(貧しくなった西欧にも類似の米国賛美はあった)。

天皇が政治に関与せず、マッカーサー元帥が将軍として君臨したのも、米軍が直接統治せず、日本の官僚制度を使ったのも、江戸期の天皇、幕府、諸侯の関係に似ている。占領軍の指令は何と「勅令第何号」として天皇の名で布告され、日本政府が実施の責任を負った。

ドイツとは全然違った。ヒトラーの自殺後、ドイツは無政府状態となって軍人も市民も出会った米英仏ソ軍に降伏した。この「流れ解散」の間に十万人のドイツ人が殺されるか行方不明になった。日本の場合は「ポツダム宣言」があり、国外の軍には「勅使」が説得にあたった。

なお、敗戦後のドイツ人虐殺を遺憾としたのは数ある米将官中マッカーサー一人で、そういうところが彼にはある。日本国憲法は、当時の日本側の提出する大日本帝国憲法の焼き直しに業を煮やして米国主導で作られたので、仮に日本側草案が行なわれていたら、戦後の日本人は民主主義を享受できなかっただろう。また、日本国憲法は先に列挙した徳川幕府の祖法にもかなり似ている。軽武装・経済中心は日本人に馴染むものである。

憲法二〇条の政教分離規定は詳細を極める。当時国内外にあったキリスト教の国教化運動の道を断つ規定であることに注目したい。マッカーサー元帥の信仰はスコットランド長老教会かと思う。勤勉、節約、清潔、貯蓄を徳目とする宗教的少数派である。キリスト教の国教化と表記のローマ字化とをしなかったのは、米占領軍の「なさざるの功績」である。

白村江の戦いの前は部族間抗争が大詰めを迎えていた。昭和の敗戦の前は、明治以後敗戦までの「レジーム」であった。半世紀だった安土桃山時代と同じく「レジーム」というよりも、本質的に不安定な「移行期」で、立役者の寿命しか持たなかった。明治維新を闘った最後の元老・西園寺公望の死と敗戦への引き返し不能点である日独伊三国同盟とは、どちらも一九四〇年である。この「移行期」は維新以後七二年で終わったということができる。(中井久夫「清陰星雨」、「神戸新聞」二〇〇七年六月――『日時計の影』所収)

見事に凝縮された文章である。《思考の単位はパラグラフである》とは中井久夫が繰り返して語る言葉だが、そのパラグラフの塊ごとの進行の具合が心地よい。読み手に私見を強いたり、ことさらの強調もない。今はそんな文章ばかり読まされるなか、爽快な読後感を抱く。

善悪智愚醇醨功過、あらゆる美刺褒貶は人々の見る所に従つて自由に下すことを得る判断である。 わたくしは果して能く此の如き余地遊隙を保留して筆を行ることを得たか。若し然りと云はゞ、わたくしは成功したのである。若し然らずして、わたくしが識らず知らずの間に、人に強ふるに自家の私見を以てし、束縛し、阻礙し、誘引し、懐柔したならば、わたくしは失敗したのである。(森鴎外『伊沢蘭軒』)

アンゲプロスがモンタージュをめぐって語る《観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさ》を示す文章が跳梁跋扈する現在である。あるいはファストフード的読者、《道義的な義憤を織り交ぜた、単純で分かりやすい定式……。人々を楽しませ、道徳的に気分を良くさせる》(ジジェク)ような文章が著名な大学の教師によってさえも書かれる現在である。

モンタージュによる映画を見ていて私が苛立つのは、それは二つの画面の相互介入といった衝撃の上に成立しているのですが、そのとき、その画面を指差して、ほら、このイメージをよく見なさいといった押しつけの姿勢が感じられることです。つまり、強調という作業が行われているわけで、それは、私にとっては、観客である人間の聡明さというものに対する信頼のなさをしめすものであるような気がする。観客を、ちょっと子供のようなものとして扱い、さあ、これに注目しなさいといっているようなものです。(テオ・アンゲロプロス 蓮實重彦インタヴュー集『光をめぐって』所収)

さて、三つの歴史的事実が書かれていることだけ整理しておこう。それは旧敵国からの優れた制度の導入という視点である。

・白村江との中国(唐)との戦いの後、唐の国制の取り入れによる内政の整備
・秀吉による朝鮮出兵の失敗の後、徳川政権による朝鮮の国学である朱子学の採用
・太平洋戦争敗戦後、米国「民主主義」の受容 


ところですこし前に引用した鴎外の文は次のように続く。

史筆の選択取舎せざること能はざるは勿論である。選択取舎は批評に須つことがある。しかし此不可避の批評は事実の批評である。価値の判断では無い。二者を限劃することは、果して操觚者の能く為す所であらうか、将為すこと能はざる所であらうか。わたくしはその為し得べきものなることを信ずる。(森鴎外『伊沢蘭軒』その三百六十九)

鴎外は、史実の選択取捨は事実の批評とする。それは価値判断ではない、としているが、どの史実を選択するのかは、やはり価値判断であることを免れない。大岡昇平の森鴎外『堺事件』批判はそのことに係わっている。そうして大岡の未完の遺作である『堺港攘夷始末』が書かれることになる。

もともと大岡昇平の憤りの由来は、代表作のひとつ『レイテ戦記』の執筆に関係するようだ。

「堺事件」の作者鴎外の位置は、レイテ戦の事実を都合よく書き替える高級将校のそれになぞらえることができる。……兵士の死をイデオロギーによって美化すること、そしてそうした作者鴎外を偶像化することは、大岡には認めがたいことだった。(吉田照生「大岡昇平の人と文学」1990)

大岡昇平の『レイテ戦記』の「あとがき」には《旧職業軍人の怠慢と粉飾された物語に対する憤懣》ともある。

だがこのように大岡昇平の鴎外批判をめぐって記したところで、中井久夫の歴史認識を批判するつもりは毛頭ない。おそらくある種の人たちは批判することもあるだろう、と憶測するだけだ。いや日本の歴史における三つの大規模外征失敗後の《旧敵国からの優れた制度の導入》による日本国の成功という認識には苛立つひとたちもいるだろう、と思うだけだ。


この中井久夫のエッセイは、「「和様化」今が好機 」と題された毎日新聞の磯崎新インタヴュー記事(2010年のものだが、元記事はウェブ上からなくなっている)とともに読んでみるとまた面白いかもしれない。中井久夫は1934年生まれ、磯崎新は1931年生まれであり、少年期を太平戦争さなかに送った世代である。

……

中国とは対照的に意気消沈する日本。磯崎さんは90年に著した「見立ての手法」(鹿島出版会)に記していた。

 <数多くの先達の仕事ぶりをみていると、「日本」に激しい憎悪をもち、それとの対立と破壊によって自らの方法を組みたて、成熟していくにつれて和解や回帰がはかられた例をいくつも挙げうる。「日本」を常に異国人(他者)の眼でみることである>

 磯崎さんは、海外で仕事をする時に「日本的なものを売り出そう」などという日本人の言葉をよく耳にしていた。だから、「日本的なものとは何か」という問いに頭をめぐらせてきた。

 「僕は歴史を通じて日本のオリジナルはどこにあったかを考えた。というのも、日本のオリジナルがあったとするならば、日本的と改めて言う必要はな いわけです。海外から『日本は特別だよ』と言われるから、日本が日本的なものを探していると思っていた。建築では、伊勢神宮などが日本的と言われるけれ ど、僕が調べると必ずしもそうではない。あの時代に日本的なものを作らなければならなかったから伊勢神宮もできた。一種のナショナリズムです」

 7世紀に白村江の戦いで唐・新羅に敗れた日本は、伊勢神宮を国家的な規模で祭ったとされる。12世紀には大胆な構造の東大寺南大門を再建した。 「伊勢神宮は唐・新羅による侵略の恐怖などに対し、国を誇示するものとして、東大寺南大門再建は13世紀後半の元寇の前に蒙古の侵攻を予感していた結果で す」

 16世紀に南蛮文化の外圧にさらされ、鎖国していた日本は19世紀半ばに黒船の来航により開国して、近代国家の道を歩んだ。

 「でも僕は1990年代前半には、海外から日本に戻る多くの日本人を見て、鎖国状態になっているのを実感したんです。90年代後半に、海外で大きな事業を手掛ける日本人が2人でも3人でもいたら、この島国にも少しの可能性があるのではないかと考えたのですが……」

 だが、磯崎さんが周りを見渡した時、みんなが日本国内へ内向きになっていた。磯崎さんは「今も鎖国状態は変わらない」と言い切った。

    ■

 米軍普天間飛行場移設問題などでは米国との関係に揺れ、中国には今年にもGDP(国内総生産)で追い抜かれる。政権交代はしたものの、鳩山政権は視界不良だ。

 日本は鎖国状態でやっていけますか? 「日本は鎖国状態を恐れる必要はありませんよ。今の日本は、米国から外される、中国から追い抜かれるとビクビクしている。だけど、日本はむしろ孤立した方がいいんです」。意外な答えが返ってきた。

 「僕はこの鎖国状態の期間を『和様化の時代』と呼んでいいと思います。歴史を見れば、和様化の時代は、輸入した海外の技術を徐々に日本化していく時期にあたります。今はこの和様化、つまり『日本化』を徹底する時期だと思いますね」

 磯崎さんに言わせれば伊勢神宮もしかり。漢字とひらがなが入り交じった日本語も、外国語をいかに日本化するかを考えたことから今の形となった。戦 後で言えば、自動車やカメラだ。日本が始めた産業ではないにもかかわらず、実用化、大量化、精密化して世界の群を抜く製品化に成功した。

 「どう言ったらいいんですかね」などと言葉を探しながら語る磯崎さん。

 「歴史を振り返ると、日本人は鎖国状態の時期、非常に細かい技術を駆使して、発案した人たちを脅かすものをつくり続けてきた。そして、その時期にできた日本語や自動車などの日本的なものが、日本の文化や産業の歴史的な主流になってきています」

   ■

 一昨年秋のリーマン・ショック以後、先進国である日米欧の経済は低迷を続けているにもかかわらず、新興国の中国やインドは成長を続ける。一国の力 ではどうにもならないグローバリゼーションの渦中にあるのではないだろうか。海外で日本がどれだけ評価されたか、海外で日本人がどれだけ活躍したか--。 我々の海外への関心は高い。海外の目は日本人を相対化することができる。例えば、イチローの活躍は国民を勇気づける。多くの日本人が持つ視点だろう。

 「日本には、海外でグローバルスタンダードを作ることができる外向きの人々と、国内で和様化を洗練する内向きの人々がいます。外向きの人々は企業 でも個人でも、世界の一部分としてしか動けないから、どんどん海外へ行けばいい。日本にとって意義あることは、ダブルスタンダード、つまり役割を分担して 外向きと内向きをともに推し進めることだと思います」

 磯崎さんは一気に2時間近くも語った。「細かな芸の洗練」という美学を持つ島国、ニッポン。鎖国状態を悲観することなく、強みとなる「日本化」を進めることができるだろうか。