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2014年1月28日火曜日

惚れた女へのセンチメンタルオマージュ

蒼白い蛍光灯のわずかな光
索然とした窓のない通路が伸びる
「なぜこのビルの廊下は
こんなにひろくわびしいのだろう」
一方の側にだけ部屋が並んでいる
女はそのひどく古ぼけたビルの一室に住んでいた
鼈鍋で有名な料理店のすぐ近く
通いだす切っ掛けはなんだったか
のは憶えていない





「今から行く」と電話で告げる
「だめだわ」とはじめは強く拒絶する
重ねて乞うと曖昧な応答になる
その声の奥には
おそらく彼女自身も気付いていない
媚がある
との錯覚に閉じこもり得た

西陣のかつての繁栄の無残な残照
うら寂れた建物に向けて
千本通を北へまっすぐ
今出川通へとめざして
車を飛ばす
いそいでも十五分はかかる

階段を駆け上がってドアをノックする
最初はドアの鎖をつけたまま
わずかの隙間から顔をのぞかせる
「だめよ」
もう何度目かなのに同じ返事をする
ときにはドアを閉ざされ
薄気味わるい廊下で
待ちぼうけの時間をもつ
部屋を二米伸ばしてもまだ余裕がある通路だ
別の用途でつくられた建物を
貸し部屋にしたに相違ない

下に降りて果物屋で苺を買う
ドアをまた強く叩く
「果物買ってきたんだ
それだけでも一緒に食べよう」




男は米国に留学している
女の狭く居心地のよい居室
そこになんとか潜り込んだあとでさえ
最初はいつものごとく貞節さの鎧
かたくなさとつつましさの殻を被る
わずかの軀の接触さえ許そうとしない
(何度も重なれば性交前の儀式のようなものだ)


だが「彼女の一つ一つの動作の継ぎ目や隙間から
生温かい性感が分泌物のように滲み出ている
彼女自身そのことに気付かないにしても
やがては溶岩のような暗い輝きをもった
一つ一つの細胞の集積が
彼女を突き動かすときが来る」(吉行淳之介『砂の上の植物群』)

軀をかさねあわせる
洗髪剤や入浴剤に贅沢な女だった
興奮した細胞を萎えさせる
安物のシャンプーのにおいはしない

「彼だって遊んでるわ、きっと」
高まると彼氏の名を叫ぶ
続けて規則正しく間歇的な
「水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く」(吉岡実)
薄い壁の向う
隣室のがさごそとした気配が伝わってくる
「よくうなりはる女や」(野坂昭如)
腰の動きをとめて
隣室に目配せする
「……かまわないわ」





あるとき彼氏が一時帰国
仕事の席で耳打ちする
「彼かわっちゃったわ」
微笑を含んだ眼で
すくい上げるように見る
その身のこなしが淑やかにもみえ
また粘り付くような
したたかなものも感じさせる
驕慢ともみえる燃えるような眼で
その眼の中に軽侮する光が走り抜けたのを
確かに見たと思った

母が死んだ
郷里の町にしばらく帰る
桂離宮の傍らの森閑とした寮に戻ってくる
と女からの分厚い手紙
綿々と悼みの言葉が連なっている
驕慢さの翳は微塵もなく
むしろ幼さが滲みでている
との印象をおぼえた

それ以後通うのをやめてしまった
のはなぜか

惚れていたのに







素足  谷川俊太郎

赤いスカートをからげて夏の夕方
小さな流れを渡ったのを知っている
そのときのひなたくさいあなたを見たかった
と思う私の気持ちは
とり返しのつかない悔いのようだ






別 の 名   高田敏子


ひとは 私を抱きながら
呼んだ
私の名ではない 別の 知らない人の名を

知らない人の名に答えながら 私は
遠いはるかな村を思っていた
そこには まだ生れないまえの私がいて
杏の花を見上げていた

ひとは いっそう強く私を抱きながら
また 知らない人の名を呼んだ

知らない人の名に――はい――と答えながら
私は 遠いはるかな村をさまよい
少年のひとみや
若者の胸や
かなしいくちづけや
生れたばかりの私を洗ってくれた
父の手を思っていた

ひとの呼ぶ 知らない人の名に
私は素直に答えつづけている

私たちは めぐり会わないまえから
会っていたのだろう
別のなにかの姿をかりて――

私たちは 愛しあうまえから
愛しあっていたのだろう
別の誰かの姿に託して――

ひとは 呼んでいる
会わないまえの私も 抱きよせるようにして
私は答えている

会わないまえの遠い時間の中をめぐりながら 


《その女を、彼は気に入っていた。気に入るということは愛するとは別のことだ。愛することは、この世の中に自分の分身を一つ待つことだ。それは、自分自身にたいしての顧慮が倍になることである。(……)

現在の彼は、遊戯の段階からはみ出しそうな女性関係には、巻込まれまいと堅く心に鎧を着けていた。……交渉がすべて遊戯の段階にとどまると考えるのは誤算だが、……その誤算は滅多に起こらぬ気分になってしまう》(吉行淳之介『驟雨』)






◆ミレール 愛について(私意訳)より


――どうしてある人たちは愛し方を知っていて、ほかの人たちはそうでないのでしょう?

ある人たちは、他者、たとえば何人かの愛人に――男でも女でも同様にーー、愛を引き起こすやり方を知っています。彼らはどのボタンを押したら愛されるようになるのか知っているのです。けれど彼らはかならずしも愛する必要はありません。むしろ彼らは囮をつかって、猫と鼠の遊戯にふけるのです。愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。あなたはその彼なり彼女なりがいなくて淋しいのです。己が完璧だと思ったり、そうなりたいと思っているような人たちは愛し方を知りません。そしてときには、彼らはこのことを痛みをもって確かめます。彼らは操作し、糸を引っ張ります。けれども彼らが知っている愛は、危険も悦びもありません。


――自分を完璧だとするなどは、ただ男性だけの場合のように思えますが…。

まさに! ラカンはよく言いました、「愛することはあなたが持っていないものを与えることだ」と。その意味は、「愛するということは、あなたの欠如を認めて、それを他者に与える、他者のなかにその欠如を置く」ということです。あなたが持っているものーーなにかよいものを与えるのではない、それを贈り物にするのではないのです。あなたが持っていないなにか他のものを与えるのです(対象aの定義のひとつは、「あなたの中にあってあなた以上のもの」である:引用者)。そうするには、あなたは己れの欠如――フロイト曰くの「去勢」――を引き受けなくてはなりません。そしてそれは女性性の本質です。ひとは、女性のポジションからのみ本当に愛することができます。「愛する女性」 Loving feminisesとはそういうことです。男性の愛がいつもやや滑稽なのはその理由です。けれども男性がそのみっともなさに自身を委ねたら、実際のところ、己れの男らしさがさだかではなくなります。

――男にとって愛することは女より難しいということでしょうか?

まさにそうです。愛している男でさえ、愛する対象への誇りの閃きと攻撃性の破裂があります。というのはこの愛は、彼を不完全性、依存の立場に導くからです。だから男は彼が愛していない女に欲望するのです。そうすれば彼が愛しているとき中断した男らしさのポジションに戻ることができます。フロイトはこの現象を「性愛生活の(価値の)下落debasement of love life」と呼びました。すなわち愛と性欲望の分裂です。


――女性はどうなのでしょう?

女性の場合は、その現象はふつうではありません。たいていの場合、男性のパートナーとの同化共生doubling-upがあります。一方で、彼は女性に享楽を与えてくれる対象であり、女性が欲望する対象です。しかし彼はまた、余儀なく去勢され女性化した愛の男でもあります。どちらが運転席に坐るのかは肉体の構造にはかかわりません。男性のシートに坐る女性もいるでしょう。最近では「もっともっと」そうです。ひとりの男は、家庭での愛のため、そして他の男たちは享楽のために、インターネットで、街で、汽車の中で。


――どうして「もっともっと」なのですか?

社会と文化における女であることと男であることのステレオタイプが、劇的な変容の渦中だからです。男たちは情緒を自在に解放するように促されています、愛すること、そして女性化することさえも。女たちは、反対に、ある種の「男性化への圧力」に晒されています。法的な平等化の名の下に、女たちは「わたしたちも」といい続けるようにかりたてられています。同時にホモセクシャルの人たちも、ヘテロセクシャルの人たちと同様の権利とシンボルを要求しています、結婚や認知などですね。それぞれの役割のひどく不安定な状態、愛の場での広汎な変わりやすさ、それはかつての固定したあり方とは対照的です。愛は、社会学者のジグムント・バウマンが言うように「流動化liquid」しています。だれもが己れの享楽と愛の流儀を身につけるため、それぞれの「ライフスタイル」を創り出すように促されています。伝統的なシナリオはゆっくりと廃れています。従うべき社会的圧力が消滅してしまったわけではありませんが、衰えているには相違ありません。

――わたしたちは偶然に彼や彼女を見出すのではありません。どうしてあの男なのでしょう? どうしてあの女なのでしょう?

それはフロイトがLiebesbedingungと呼んだものです、すなわち愛の条件、欲望の原因です。それは固有の特徴なのです。あるいはいくつかの特徴の組合せといってもいいでしょう。それが愛される人を選ぶ決定的な働きをするのです。これは神経科学ではまったく推し量れません。というのはそれぞれの人に特有なものだからです。彼らの風変わりな内密な個人的歴史にかかわります。この固有の特徴はときには微細なものが効果を現わします。たとえば、フロイトがある患者の欲望の原因として指摘したのは、女性の鼻のつやでした。


――そんなつまらないもので生まれる愛なんて全然信じられない!

無意識の現実はフィクションを上回ります。あなたには思いもよらないでしょう、いかに人間の生活が、特に愛にかんしては、ごく小さなもの、ピンの頭、神から授かった細部によって基礎づけられているかを。とりわけ男たちには、そのようなものが欲望の原因として見出されるのは本当なのです。フェティッシュのようなものが愛の進行を閃き促すのです。ごく小さな特異なもの、父や母の追憶、あるいは兄弟や姉妹、あるいは誰かの幼児期の追憶もまた、愛の対象としての女性の選択に役割をはたします。でも女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。関心と愛、それは彼女たちに示されたり、彼女たちが他のひとに想定する関心と愛ですが、女性の愛の引き金をひくために、それらはしばしば不可欠なものです。 


――ファンタジー(幻想)の役割はどうなのでしょう?

女性の場合、ファンタジーは、愛の対象の選択よりもジュイサンス(享楽)の立場のために決定的なものです。それは男性の場合と逆です。たとえば、こんなことさえ起りえます。女性は享楽――ここではたとえばオーガズムとしておきましょうーーその享楽に達するには、性交の最中に、打たれたり、レイプされたりすることを想像する限りにおいて、などということが。さらには、彼女は他の女だと想像したり、ほかの場所にいる、いまここにいないと想像することによってのみ、オーガズムが得られるなどということが起りえます。


――男性のファンタジーはどんな具合なのですか?

最初の一瞥で愛が見定められることがとても多いのです。ラカンがコメントした古典的な例があります。ゲーテの小説で、若いウェルテルはシャルロッテに突然の情熱に囚われます、それはウェルテルが彼女に初めて会った瞬間です。シャルロッテがまわりの子どもたちに食べ物を与えている場面です。女性の母性が彼の愛を閃かせたのです。ほかの例をあげましょう。これは私の患者の症例で次のようなものです。五十代の社長なのですが、秘書のポストの応募者に面接するのです。二十代の若い女性が入ってきます。いきなり彼は愛を表白しました。彼はなにが起こったのか不思議でなりません。それで分析に訪れたのです。そこで彼は引き金をあらわにしました。彼女のなかに彼自身が二十歳のときに最初に求職の面接をした自分を想いおこしたのです。このようにして彼は自分自身に恋に陥ったのです。このふたつの例に、フロイトが区別した二つの愛の側面を見ることができます。あなたを守ってくれるひと、それは母の場合です。そして自分のナルシシスティックなイメージを愛するということです。

ミレールの女性のファンタジーをめぐる発話は、精神分析理論に慣れていない人には若干の違和があるかもしれない。この発話は、フロイトの論文『子供が打たれる』や『マゾヒズムの経済的問題』などにある叙述がベースになっていると思われ、たとえば後者の論には女性的マゾヒスムとして次のような叙述がある(もちろんこの「女性的」というのは、受身的という意味で、生物学的なものではない。男性にも見られるのは周知の通り。たとえばプルーストの小説にはそのサンプルがふんだんにある)。

……幻想の顕在内容はこうである。すなわち、殴られ、縛られ、撲たれ、痛い目に遭い、鞭を加えられ、何らかの形で虐待され、絶対服従を強いられ、けがされ、汚辱を与えられるということである。(……)もっとも手近な、容易に下される解釈は、マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供として取り扱われることを欲しているということである。(フロイト『マゾヒスムの経済的問題』)

これは原初的な無力な存在としての乳幼児期に回帰したいファンタジーとしても捉えられるが、ここではそれには触れない(参照としては「神谷美恵子の子どもであることはメイワクなことです」にいくらかの記述がある)。

そもそも幻想は、われわれが生の〈現実界〉にじかに圧倒されないよう、われわれを守ってくれる遮蔽膜として機能する。たとえば母との共生への回帰が不可能であるならば、かわりのフィクションを必要とする場合があり、それが幻想のひとつの姿だ。マゾヒスム的(受動的)なファンタジーとは逆に、能動的なフィクション遊びをするということはしばしば見られる。そもそも作家たちが悲惨な恋愛を想起して書くのは、耐えがたい恋愛トラウマを能動的に飼い馴らすことよって解放感を得るためでもあるだろう。

《われわれの悲しみが協力した作品は、われわれの未来にとって、苦しみの不吉な表徴〔シーニュ〕であるとともに、なぐさめの幸福な表徴である、と解釈もできる》(プルースト

《ちょっと涙をこぼす。この涙を十七字にする。するや否いなやうれしくなる。涙を十七字に纏まとめた時には、苦しみの涙は自分から遊離して、おれは泣く事の出来る男だと云う嬉さだけの自分になる》(夏目漱石)

幼い女児が母親を洗ってやったり、着物を着せてやったり、またはお手洗いにゆくようにしたりしたがるという話を、まれには聞くことがある。女児がまた、時には「さあ遊びましょう、わたしがお母さん、あなたは子供よ」などということさえある、――しかしたいていはこのような能動的な願望を、人形を相手に、自分が母親となり人形を子供にした遊ぶという、間接的な仕方でみたしているのである。人形遊びを好むことは女児の場合、男児とは違って早くから女らしさがめばえたしるしだと考えられるのが普通である。それは不当ではないにしても、しかしここに現れているのは女児の偏愛はおそらく、父親という対象をまったく無視する一方では排他的に母親に愛着していることを証明するものであるということ、を見逃してはならない。(フロイト『女性の性愛について』 フロイト著作集5 p150)

※写真はすべて荒木経惟の作品。

…………


【附記】

車から降りたウェルテルがはじめてシャルロッテをみかける(そして夢中になる)。戸口を額縁のようにして彼女の姿が見えている(彼女は子供たちにパンを切り分けている。しばしば注釈されてきた有名な場面)。われわれが最初に愛するのは一枚のタブローなのだ。というのも、ひとめぼれにはどうしても唐突性の記号が必要だからである(それがわたしの責任を解除し、わたしを運命に委ね、運び去り、奪い去るのだ)。(……)幕が裂ける、そのときまで誰の目にも触れたことのないものが全貌をあらわすにする。たちまちに眼がこれをむさぼる。直接性は充満性の代償となりうるのである。わたしは今、秘密をあかされたのだ。画面は、やがてわたしが愛することになるものを聖別しているのである。(ロラン・バルト恋愛のディスクール』「魂を奪われる」より)


男性のファンタジーの単純さにくらべ、女性のファンタジーがいささか手強いのは、女性は幼い時期、母親ー娘の関係から、父親ー娘の関係に対象を変えているために、幻想の構造が複雑だからだと説かれることが多い。

この愛する対象の母から父への変化(女から男への変化でもある)のもっとも重要な帰結は、女たちは「関係性」により注意を払うようになることだ。それは男たちとは対照的で、男たちはファリックな側面(母の(女の)支配、あるいはフェティスト的な部分欲動)に終始する傾向にある。もっとも上のミレールの言葉にあるように、この側面は漸次かわりつつあるのだろう。このあたりのことを斎藤環は啓蒙的に『関係する女 所有する男』で書いているはずだ(わたくしは残念ならが未読だが)。

男のフェティッシュと女のエロトマニア(被愛妄想)とは、フロイトのテーゼであり、旧来の両性の幻想の構造の基本はここにある。

男の性欲の本質的なフェティシスト的、オナニスト的傾向。(澁澤龍彦『少女コレクション序説』)
どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』

現在でも、インターネットでの男女の振舞いに、これらは如実に露われている。画像やAVを見てオナニーに耽る男たち。他方、女たちはチャットで男たちの関心を惹くことにより熱中する。

…… it is wrong to contrast man and woman in an immediate way, as if man directly desires an object, while woman's desire is a “desire to desire,” the desire for the Other's desire. We are dealing here with sexual difference as real, which means that the opposite also holds, albeit in a slightly displaced way. True, a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However, a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located. Vulgari eloquentia, in order to cheat on a woman, a man needs a (real or imagined) partner, while a woman can cheat on a man even when she is alone, since her ultimate partner is solitude itself as the locus of jouissance féminine beyond the phallus. (Zizek『Less Than Nothing』)